時間の速さは絶対的に決められているものだから、これは僕の錯覚にすぎない。と理解はしていても、待ち遠しさで構築された時間は、どれだけ理屈立てて考えようとどうしたって、遅く感じてしまう。
つまるところ、早く帰ってこないかな、と。時計の針の進み具合を調べる、というもう何度目かになるのかも覚えていない確認作業をして、もうあと五分もすれば……と希望的観測で待ち時間を算出したそのときだった。
「たァだいまァ!」
「お帰りなさい、兄さん!」
姿を確認しなくたって、声を聞けばわかる。
振り向いて駆け寄って、兄さんの顔をちゃんと見る間もなく兄さんにぎゅっと抱きしめられて、びっくりして少しテンポが乱れてしまったけれど。でも、全身で兄さんの熱や呼吸、匂いなんかを感じていたら、すぐに元に戻った……嬉しいからか、いつもよりちょっとだけ、早いかな?
「あれ、椎名さんは?」
「ニキはいいだろ」
「でも椎名さんからのメールに、お土産を持って兄さんと一緒に帰る、とあったよ? ほら……」
とスマホの画面を見せようと思ったけれど、あいにくスマホはベッドの上だ。取りに行くなら、兄さんから離れないといけなくなる。
それは嫌だな……。
なんて、自分勝手なことを考えたしまったことを反省していると、兄さんの後ろから聞き慣れた声がもうひとつ、響いた。
「燐音くん、さっさと入ってくれません? 後ろがつかえてるんすけど」
「お帰りなさい、椎名さん!」
「ただいまっす〜。はい、弟さん、あーん♪」
言われるままに口を開くと、白くて甘くてもっちりとしたものが口の中にむにゅっと入ってくる。
「……! おいひい!!」
「でしょ? スタジオの近くに美味しいクリーム大福を売ってるお店があるって聞いてたんで、楽しみにしてたんすよね〜!」
「んっ……」
「なはは〜。僕の指、そんなに美味しいっすかね」
「……あっ! 椎名さんの指だったんだね! あんことクリームだとばかり……はしたなかったね。ごめんなさい」
「いえいえ。ここまでちゃんと食べてもらえて、大福もきっと喜んでるっすよ」
非礼を詫びた僕に、椎名さんは嫌な顔ひとつしないでにこりと笑ってくれる。
だから。
「椎名さん!」
「何すか?」
「好きだよ!」
「えっ?」
「一彩!?」
「迷惑をかけたのは僕なのに、僕の気持ちを軽くする言葉を使ってくれる、椎名さんのそういうところがとても好きだよ! いつもありがとう!」
改めて椎名さんに感謝を伝えると、兄さんと椎名さんが小さく笑った。
「…………おォ、うん。そっか。いや、そういうことだよな、はは……」
「なはは……よくわかんないですけどありがとうございます。でも、それくらいにしといてくださいね」
あとが面倒なんで。
という椎名さんの、僕には今ひとつ要領を得ない言葉に、兄さんの眩しいほど大きな声がかぶる。
目の前には、兄さんの人差し指。
「一彩ォ、お兄ちゃんの指も舐めていいンだぞ。ほらほら♪」
「何もついてないのに舐めるのはどうかと思うよ?」
ついていたら舐めるのか、と言われたらそれも何だか違うような気もするけど。
「エエー? 弟くん、お兄ちゃんに冷たくねェ? さっきもお兄ちゃんとの感動の再会もそこそこに、ニキのことばっか気にしてたし、いきなりニキに告るしよォ」
「普通に好意を示されただけじゃないすか。それに感動の再会って、大袈裟っすよ」
「ニキおめェは黙ってろ」
「はいはい」
「弟くんだって、お兄ちゃんと離れ離れで寂しかったよなァ?」
「昼に行ってらっしゃいの挨拶をしてから兄さんたちが帰ってくるまで五、六時間程度だから、待ち遠しくはあったけど、さほど寂しくはなかったよ」
兄さんたちのテンポ良く行ったり来たりする会話が楽しくて、少し夢中になりかけてはいたけれど。意識を蚊帳の外に置くほどではなかったからちゃんとすぐに答えられた僕に、兄さんは今度はあからさまにがっかりした顔をする。
「そこは嘘でも『寂しかったよ兄さん♡』って言えよ」
「嘘は良くないよ?」
「一彩ォ……」
なぜかがっくりと肩を落とした兄さんが気の毒にでも見えたんだろうか。いつの間にか着替えてエプロンをつけていた椎名さんが、少し困っているような、でも柔らかくて優しい顔で笑った。
「でも弟さん、燐音くんが仕事で数日帰ってこない時なんかはよく、寂しいって言ってますよね」
「ンだとォ……!?」
「何で僕を睨むんすか!? 恩を仇で返すなんて酷いっす!!」
「何でお兄ちゃんがいる時に言わねェんだ、一彩ォ!」
「兄さんがいる時は寂しくないから」
「そうじゃなくてよォ!」
ぎゅうっ、と強く抱きしめられて、兄さんの顔は見えなくなってしまったけれど、兄さんの匂いは強くなる。
小さな頃から変わらず安心する……のに、最近は少しだけ、落ち着かなくて身じろぎしたくなるような、頭の奥がぼうっとしてしまうような、大好きな匂いが。
「『お兄ちゃんがいないと寂しいよぉ♡ もっと一緒にいてくれないと嫌だよぉ♡』とかよォ、言えばいいだろォ!」
「僕、兄さんのことを『お兄ちゃん』とは呼ばないよ?」
「呼んでいいんだぞ?」
「ていうか燐音くん、いつまでここにいるつもりっすか」
「燐音くんが満足するまでに決まってンだろ!」
椎名さんは目を細くして兄さんを見つめていたけれど、やがて深くため息をついた。
「……じゃあ、燐音くんも一緒に夕飯、食べます?」
「兄さんと一緒に!? ……あっ、問われたのは兄さんなのに、嬉しくてつい僕が返事をしてしまったよ。ごめんね、兄さ」
兄さんの綺麗な顔が僕の顔にくっつきそうなほど近づいて、息を呑んでしまう。驚いたから……だけではないような気もする。よくわからないけれど。
「お兄ちゃんと一緒だと嬉しいのか?」
「もちろんだよ。……ええと、今は寂しくないけど、いない時は寂しいのは本当だし、今は、大好きな兄さんと一緒にいられて嬉しいし、もう少し一緒にいられるなら、もっと嬉しいから」
嘘をつくのは良くないから。
兄さんが言って欲しがったことを、本当のことをたくさん並べて伝えると、兄さんは今日帰ってきてから初めて、心から嬉しそうに笑ってくれた。
僕はなぜか、みぞおちのあたりがきゅうっと痛くなってしまって、首を傾げてしまった。
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