Privatter+
Font
Serif
Sans Serif
Color
Light
Dark
auto
Font size
Large
Medium
Small
Language
Japanese
English
Sign in with Google
Sign in with ID and password
Account ID
Password
Sign in
Forgot password?
Create account
かずわや
2019-03-15 22:25:35
41664文字
Public
Clear cache
『藍』は『青』より
卒業制作で書いた、複雑な関係を紡ぐ父と息子の小説です。モデルは結城秀康と徳川家康です(暴露)
そんな風に趣味のすべてを込めて書いた拙い文章でございますので、頭を空っぽにして読んでいただければ幸いです。
『藍』は『青』より
冷えた風がスーツの隙間から肌を刺す。まばらな街頭が照らす人気のない道を、ゆっくり息を吸ったり、吐いたりしながら歩いていくと、酔って多少は浮かれていた気分が徐々に落ち着いてゆくように思えた。成人式後の飲み会は一次会で切り上げたため、そこまで深酒をしたわけではないものの、火照った頬に冷たい風が気持ちいい。
真新しいブラックのスーツに袖を通し、法的にもやっと飲酒が許されるようになり、未来のことも少しながら頭のどこかに引っ掛かるようになってきた。しかし、成人を迎えたところで、急に頭がよくなるわけでも、社会の仕組みのすべてを理解できるようになったわけでもない。学校もまだ冬休みで、バイトしている店と家家の往復以外に出かける予定も特になかった。同窓会で久しぶりに会った中学時代の同級生は相変わらず同じバンドの話をして盛り上がっていたし、クラスメイトの彼女たちは教室にいた頃より大げさに再会を喜び合い、自分の人生が他人よりも優れているかどうか、探り合うように当たり障りのない会話をする。そして、自分が彼らと話す話題を何も持ち合わせていなかったことも、あの頃と何も変わらなかった。
「誰か藍一と一緒に帰ってやれよ」
同級生の、夜の繁華街に馬鹿みたいに大きく響いた声が、まだ耳の奥にこびりついている。周りが笑うのに合わせて、「大丈夫だから」と返した自分の声色は、昔のように落ち着いて笑えていた。
「大丈夫か藍一、帰れるか?」
「お前みたいにがぶがぶ飲んだわけじゃないから平気だよ」
叩いた軽口に周囲の笑いが重なって、溶け込めている、とふと思う。既に出来上がって上機嫌な友人を気遣いながら、二次会へ向かうかたまりの背に、おざなりに手を振りながら帰路につく。
人の話を聞いたり、誰かと共にいるのは基本的に嫌いではない。だが、他人が自分の中を探ってくるような感覚が苦手だった。表面上の会話から突然プライベートに踏み込まれると、喉がかわいて、心が急いて、逃げ出したくなる。早く会話をそらそうとして不審になってしまう。そんな性格だから、中学でも高校でも深く仲のいい友人というものができず、大きな声で騒ぎ立てて迷惑をかけることのない代わりに、ただ教室の隅で静かに話を聞いているだけの、影法師のような存在になっていた。卒業アルバムも男子は肩を組んで映っていたのが大多数だったが、藍一は集合写真の端でひとり下手な笑顔を浮かべていただけだった。そんな青春だった。
(じゃあ、なんで同窓会なんかに参加したんだよ)
夜道に笑みがこぼれた。昔食べた青春が苦かったから、今食べたらどんな味がするのだろうと、ただ興味を抱いた。歳を重ねて少しは成長した、だから取り戻せるとも思ったかもしれない。だが、結果はどうだ。そもそも、青春なんかこの人生にあるはずもなかっただろう。
成人を迎えたところで、環境が変わったり、自分がワンランク上の人間になれたりするわけではないのだ。何も変わらない。味のしない人生が、ずっと続いていくだけだ。
けれど、変わらなければと思った。
藍一は俯いた。電燈の明かりに、真新しい革靴の先端が照らされる。
変わりたいと思ったのだ。二十歳になって、初めて新しいスーツを着たときに。十八のとき、高卒で働くと言ったのを母に懇々と止められたときに。十二のとき、自分の暮らしのなかには当たり前のものがなく、その当たり前のものがないまま、今まで暮らしていたと気づいたときに。
だが変わることは難しい。目的もなく、具体的な方法も持たず、ただぼんやりとした興味と願いと焦りのために、同窓会参加の欄に丸を書いた。そうして手に入ったものは、このひとりきりの夜道。
そうして白い塀に囲まれた、可愛らしい屋根の家にたどりつき、錆びたポストを覗くと、企業説明会のチラシと共に、一通の白い手紙が入っていた。成人式を迎えたばかりなのに、ずいぶん性急な人が会社にいるものだ。手紙は母宛てだろうか。そう思いながら封筒の裏を見ると、細いペン字で「真堂 青介」と書かれていた。
「しんどう、あお、すけ?」
心がざわついた。呟きながら、違う、と頭の中で強く叫んだ。これは『青』と書いて『ショウ』と読むのだ。
シンドウ ショウスケ。
昔よく口ずさんだ歌詞のように、その言葉がすらすらと浮かび上がってくる。跳ねるように顔を上げ、荒々しくドアを開けて玄関へ飛び込んだ。今すぐ手紙をちりぢりに引き千切ってやりたい気持ちがおさえられなかった。
「母さん!」
その言葉にまつわる記憶も鮮明に。
父親の記憶はわずかにしか残っていない。大柄な体に、短く切り揃えられた黒い髪。どんな声だったかは忘れたが、確かクォーターらしい彫りの深い顔立ちに見合ったブルーグレーの瞳は、いつでも強く周りを見据えていて、藍一はその目で見られるのを怖がった。ただ、罫線にきっちりと沿い、まるでパソコンで打たれたフォントのように大きさも揃えて書かれた細い字を見たときに、父はかなり几帳面な人なのだという印象を抱いた覚えがある。
「母さん」
手紙を受け取りながら、久しぶりの連絡ね、と母は呟いた。
「最後に来たのは藍一が高校を卒業したときだったかしら」
「どういうことだよ、今までも手紙なんか送ってきてたの」
「不定期にね。三ヶ月空けないこともあれば、一年越しに来ることもあったわ」
こともなげにそう言う母に、藍一はただ息を詰めて母と手紙とを見つめることしかできなかった。母の落ち着きが羨ましく思えた。
父が家の中にいた記憶は、幼い頃に途切れている。もとから毎日家に帰ってくる父ではなかったけれど、いつの間にかぱったりと姿を見せなくなった。当時は長い出張に行ったのだと思っていたから、捨てられたのだとやっと分かったのは小学六年生の時だった。
抜けるような青空と残暑が続く晩夏の頃。小学校最後の運動会が着々と近づいてきていて、ランドセルを背負った幼い藍一は日々浮かれていた。
お父さんは、来てくれるかな。
去年も一昨年も父は来なかった。仕事が忙しいのだろうと言った母の言葉を、藍一は素直に信じていた。けれど今年は小学校最後の運動会だ。今年はクラス対抗リレーの走者を任されたし、親子で参加する大綱引きや大玉転がしもある。一度はそれに参加してみたかった。それに、来ないとお父さんのほうが後悔するんじゃないだろうか、と藍一は鼻の穴を膨らませて母に頼んだ。
「お父さんに手紙書いてよ、運動会来てくださいって。一緒に参加しようよ」
「藍一、」
絡みついた藍一の腕を、母は穏やかに剥がしながら言った。
「今日の晩ごはんは何が食べたい?」
「お父さんは
……
?」
「今日もお仕事忙しくて、帰ってこられないって」
「そうじゃ
……
そうじゃなくて
……
」
母はひどく落ち着いていて、だから藍一も真意に気づかなかった。はぐらかされた不安をごまかすために、そうか、今年も運動会には来られないのかと、ただそれだけを残念に思った。授業参観も合唱コンクールも卒業式も、当たり前のように父は来ず、幼い藍一はそれを「当たり前」だとすっかり思いこんだ。
その「当たり前」を享受し続けるうちに、母に連れられて来た駅前で、動物たちの里親探しをしている団体を見た。レジャーシートの上にいくつかのケージが置かれ、隣には大きなゴールデンレトリバーが寝そべっている。そのゴールデンレトリバーのそばに立てかけられていたプラカードに、藍一はハッと足を止めた。
『ペットたちに当たり前の幸せを!』
当たり前って、なんだ?
母の背中が徐々に遠ざかる。夕方の駅前は、商店街が近いこともあって家族連れでにぎわい、立ちすくんだまま動けない藍一のすぐそばを、両親と共に笑顔を浮かべた幼い子どもが黄色い声をあげて通り過ぎていく。ゴールデンレトリバーが頭をもたげ、大きくあくびをした。自分の境遇がわかっていなさそうなその黒い瞳が、藍一の漠然とした不安を余計に浮き立たせた。
掲げられたその文字に、自分にはその「当たり前」がなかったのだと幼心に理解した。
二階建てマイホームの暮らしに不便はなかった。立地も治安もよく、学校も楽しくて、周りの人も日々声をかけてくれる。父が家に帰ってこなくても何不自由なく暮らしていけた。そもそも父はあまり家に帰ってこない人だったのだから、遊んでもらった記憶も、特別優しくしてもらった記憶もない。「父」という枠組みにはまっている男性がいる、ただそれだけのことだった。父がいないことは当たり前のことだと思っていたのに、世間にとっては、そしてきっと母にとってはそうではなかったのかもしれない。
「藍一」
自室の扉が細く開いて、母のちいさな声が滑り込んできた。机に突っ伏していた藍一の隣に、父からの白い封筒がそっと置かれる。
「あなた宛てなの」
母は静かに言った。
文面はブルーブラックのインクで細やかに書かれていた。イメージのなかの几帳面な父の性格とぴったり合って、これが自分の父親だと、どこか逆らいたかった気持ちにすんなりと諦めがつく。
『成人おめでとう。身体の調子は如何だろうか。何かスポーツやバイト等、打ち込んでいることがあるのなら、応援しています。これからも同じように。
君に宛てて筆を執ったのはこれが最初だから、非常に戸惑ったかと思う。百合江が話しているとも限らないし、もしかしたら君は私の事を知らないかもしれない。そのときはすまなく思う。だが、安心してほしい。私は今更君の父親に戻りたいわけではない。この手紙は、そう思って書かれたものではないのだから。君の成人の期に、ただ祝福を。その祝福が形に残るようにと、筆を尽くした次第です。
ただもし、君が百合江の話や、記憶の中で私を覚えていて、私に言いたいことがあるのなら、連絡をください。そのためならいくらでも時間を作ろう。電話でもメールでもいい。また、無かったことにしてもいい。大人になった君の望む通りに。 真堂 青介』
藍一は息を吐いた。読んでいる前に感じていた体中の緊張の糸が、末端に向けてゆるゆると解かれていくのを感じた。それと同時に体の内から強い衝撃がゆっくりとのぼってくる。激しく柔らかく身を包む怒気が、便せんを持つ指に必要以上に伝わっていく。
なんだ、今更。
強い怒りではなかった。失望にも似た、どこか遠い感覚。それが嫌にもたもたと藍一の胸のなかで渦巻いた。
父親に戻りたいわけではない、なんて。こっちだって、今更父親顔されるのはお断りだ。
文句を書いた紙を百枚束ねて送りつけたい気分だった。電話して一言怒鳴ってやったっていい。もう遅い時間だが嫌がらせになるなら尚更よかった。手紙にもある通り無かったことにしたって良い。父親のことなど歯牙にもかけていないのだとわからせてやれば良い。
だが。
ふと、視界の端に、ハンガーにかかったブラックのスーツが入った。
今日の同窓会。適当に人と距離を取り、適当に話を合わせて、中学時代となにひとつ変わらなかった時間を過ごした自分。
変えたいと思ったのは、確かなのだ。
「なんだよ、こんな時に
……
」
再び机に額をつける。どうして捨てたのだと、手紙を送るくらいなら何故直接会いに来なかったのだと、長い間のうちに溜めこんだ鬱憤を放ってやれる滅多にないチャンスだった。便せんには父のメールアドレスと電話番号が記されていて、封筒には住所が書かれている。しようと思えば、今までのことをすべてこめて家へ殴り込みだってできる。
なのに、父に直接会う勇気がなかった。
無視するのも癪だ。なんでもいい、彼に一泡吹かせてやるだけなら電話でもメールでも構わないだろう。自分の声がどこか遠くで聞こえる。笑ってしまう。何故会いに来なかったと憤りながら、自分だって父を目の前にしてどうしたらいいか分からなくなっている。父親の顔をして来れるものなら来てみればいい。会いに来てくれたらよかったのに。今まで忘れないでいたのなら。
自分を笑う声を打ち消そうとするように、
(怖い)
目を閉じたまま開くことができなかった。
・
オルゴール調にアレンジされた人気曲が店内をゆったりと彩る。夜十時以降のファミレスは、騒がしかった高校生の集団が消えて徐々に落ち着き始めていた。しかし、金曜の夜だからか、二人組の大学生らしき若者や家族連れ、会社帰りかスーツを着た中年の男性など、他の平日に比べればまだざわめきに溢れている。
接客は、マニュアル通りの文句とすこしばかりの気遣い、そしてちょっとした会話さえしていれば時間が過ぎていくから基本的に楽だ。深入りする必要もなく、ファミレスの店員とそんなに深い話をしたがる客もいない。流れるオルゴールと柔らかな人のざわめきが重なり合うような、そんな深夜の落ち着いた店内の雰囲気を藍一は好んでもいた。
食器を裏へ片付けながらふと顔を上げる。入口近くのテーブルに、頬にまだ幼いまるみを残した少年が一人座り、本を読んでいるのが見えた。一時間前に来店した客だ。誰かと待ち合わせかと思い店内に入れたが、まだ待ち人は現れていないようだった。一人分のグラスはすっかり氷が溶け、暇そうにテーブルの上に鎮座している。
店の決まりで、夜十時以降の入店は禁止されている。皿を片付けるふりをしながらさりげなく寄り、お客様、失礼ですがと説明すると、驚いたように顔を上げた少年は困ったように俯いた。やはりまだ中学生のように見える。柔らかい目元は気弱な性格を感じさせ、不良ではないだろうという印象を抱かせた。
「待ってる人がいるから、その人が来るまでは
……
」
彼は下を向きながらそう言った。保護者連れなら問題はない。藍一は「失礼しました」と一言言って、それ以上は何も言わなかった。
待ち合わせにしてもずいぶんと遅い時間だ。少年が早く来すぎただけか、それとも待ち人のほうがひどく遅れているのだろうか。気がかりを残しながらも、別のテーブルのベルが鳴らされた瞬間に藍一は再びテーブルとキッチンを往復する仕事へ没入していった。
ふと時計を見れば午後十一時近くなっていた。
にわかに静寂を取り戻しつつある店内で、藍一は同じテーブルにまだ少年が座っていることに気づいた。待ち人は未だ来ないらしい。コーラをストローですする横顔が急にさびしく見え、藍一はあわてて目をそらした。
心臓が早鐘を打ち始める。嫌な予感が頭をよぎる。
まさか。しかし、そんなことがそう頻繁に起こるわけがない。だが事態は必ずしも分かりやすい形で劇的に起こるとは限らない。藍一が気が付かないうちに父は父親の役目を放棄した。気が付かないうちに、自分は捨て子になっていた。あの少年だけが違うと言い切れるのか?
「君、」
なんで首を突っ込むんだ、と呆れた自分の声がどこかで聞こえた。仕方ないだろう、未成年は深夜に入店してはいけない店の決まりなんだから。少年に声をかけながら、苛ついたような視線を送る脳内の自分をごまかした。少年はまた驚いて藍一を見上げ、居心地が悪そうに周りを見渡した。周りは談笑しているテーブルが多いものの、耳の早い人はちらちらとこちらを窺っている。
「ごめん、あまりに一人でいるものだから。本当に待ち合わせかどうか確認しても
……
?」
そう訊いた瞬間、少年はサッと顔色を変えた。跳ねるように立ち上がって店外へ向かって駆け出していく。
「あっ」
突然のことで、止めようとした声も腕も少年を捕まえきれなかった。これ以上はいい、自分の声が聞こえる。だめだ、代金もまだ払ってないんだぞ。子どもを犯罪者にする気か。
店に入りかけていた女性客にあやうくぶつかりそうになりながら、少年は転がるように外へ出た。
「捕まえてきます!」
慌てて顔をのぞかせた店長にそう一言告げながら、藍一も既に走り出していた。入口のベルが、カランカランと乾いた音を立てる。
少年は足が速かった。なにかスポーツを習っているのかもしれない。しかし、所詮は子どもと大人の足の長さである。店の前の駐車場を通り抜け、大通りに出たところで、藍一は少年の背中に追いつき、暴れまわる体を腕の中に閉じ込めた。
一度捕まると、彼は打って変わったようにおとなしくなった。ファミレス店員と子どもがもつれ合うようにして道端に転がっているのを、行き交う人々が何事かと不思議そうに覗き込んでいる。人混みの中にスマートフォンをかざす人の姿が見え、藍一は素早く「行こう」と少年の腕を引いた。
痩せすぎない柔らかい腕だった。それなりに鍛えてもいるようだし見えるところには虐待の痕もない。『普通』の子どもに見える。どうか、置いて行かれた子じゃありませんように。祈る気持ちで彼を見た。
「お金なら、あるから、なんも言わないで。親に連絡とかしないで
……
」
藍一に手を引かれながら、少年は消え入りそうな声でそう言った。
「誰か来るんだよな? 待ち合わせだったんだろ」
「
……
ううん。誰も来ない」
俯いた少年の幼い顔には不貞腐れたような表情が浮かび、その子どもらしいふくれっ面に、最悪の展開ではないかもしれない、と藍一は内心胸を撫で下ろした。じゃあ家出とかだろうか。家庭の問題だとしたらまさに面倒なことを持ち込んでしまったことになる。藍一は静かに後悔し始めた。
「じゃあどうして走って逃げたりしたんだ? 確かに店の決まりだけど、理由を言ってくれたら怒ることもなかったのに」
「
……
家に帰りたくなかったんだ」
藍一の後ろをおとなしく歩きながら彼は言った。そのしずんだ声に、藍一の胸中にまた嫌な風が吹く。
「家に誰もいないのか?」
「あはは、誰もいないなら喜んで帰るよ。そうじゃないんだ、ずっと親がいるから嫌なんだよ」
急にはしゃいだ声をあげた少年に藍一は面食らう。彼は皆川歩と名乗った。
「俺、養子なんだ」
「
……
え?」
歩を家まで送り届けることになり、ファミレスから住宅街へ向けて歩き始めた夜道で、彼は突然、何でもないことのようにそう言った。なぜ急にそんなことを。一瞬のことでどう受け止めればいいか分からずに、ただ藍一の胸がずん、と重くなる。その顔色を読み取ったのか、歩はすこし怒った顔をして、「気にしないでよ、アイイチには関係ないだろ」と愚痴るような口ぶりで言った。
「みんなそうなんだよな。俺が養子なのは俺の母さんと父さんが悪いせいなのに、全然関係ない人がつらそうな顔をして、『かわいそう』とか『よく頑張ったね』とか言うんだ。俺は親の顔なんて知らないからつらいと思ったこともないし、俺がサッカーとかベンキョーとか頑張ってきたことは、俺が養子だってことと関係ないじゃん」
「でも、大抵の人は驚くだろ、急にそんなこと言われたら
……
」
「嘘ついてるみたいで嫌なんだ。今の
……
母さんと、父さんも、俺が養子なのを気にしてるのか、すごく構ってくるし。本当の子どもです、って周りに言いふらしたいみたいに。そういうの嫌だから、家に帰りたくないんだ」
夜道に沈黙が落ち、藍一も歩もしばらく黙ったままで歩いた。
俺とは悩みが正反対だな。
歩の話をゆっくり整理していくうちにそう自嘲する。方や親に構われすぎる、方や親に捨てられている。だが、それで歩に対して怒りが湧いてくるということは別になかった。むしろ家を飛び出すという選択ができる歩の強さと自由を羨ましく思った。
「アイイチってひとりぐらし?」
「いや、母さんと二人で住んでるよ」
「へえ、お父さんは?」
藍一は一瞬口をつぐむ。自分ももう少し投げやりになってもいいのかもしれない。自分が養子だとあっさり言い放った歩自身の生意気そうな口ぶりは、藍一にそう思わせた。どうせ歩には関係ないのだから。そう、自分に父親がいないことなど、多くの人間にとってはどうでもいいことだ。
「父さんはいないよ。捨てられたんだ」
「ふうん、ありがちだね」
藍一は声を出して笑った。歩なら深く考えずにそう返してくれると思っていた。なんて無頓着な子なんだろう。そう思ったけれども、今はそのあっけらかんとした何も気にしないような態度がありがたかった。
「ふたりならさあ、家に泊めてくれない? やっぱり帰りたくないからさあ」
「だめだ。歩が家に帰りたくないって言っても、親御さんは心配してるんだぞ。しかもこのまま許可を取らずに歩を泊めたら誘拐扱いにもなりかねないし」
そうかという顔をして、歩はつまらなさそうに唇をとがらせた。街頭が心もとなく照らす静かな住宅街の道を歩いていくと、そろそろ歩の家に近いコンビニに着く頃だった。その瞬間、「あっ」と言って歩が立ち止まった。
コンビニの前に一組の男女がいる。小柄な女性は顔を覆い、男性はその女性の肩を抱きながら、落ち着かないようにきょろきょろとあたりを見回している。その男性の視線が、道を歩く藍一にふと注がれ、そして隣にいる歩を見た。
「歩くん」
男性の声に、女性が弾かれたように顔を上げた。目元に刻まれた皴から三十代過ぎだと思われるものの、ウエーブがかった長い黒髪が小柄な女性に可愛らしく似合っている。「歩くん!」駆け寄ってきた二人からは柔軟剤のいい香りがした。人のよさそうな、清潔感のある夫婦だった。だが慌てて出てきたのか、女性のブラウスは第二ボタンと第三ボタンがかけ違えられており、男性のほうはシャツが片方スラックスからはみ出ていた。歩は何も言わず、暴れることもなく、二人の腕のなかに抱きしめられた。いい家族のように見える。藍一は、それを一歩離れたところから見守っていた。
「あの、歩を見つけてくれて、ありがとうございました
……
」
「いえ、偶然見つけただけで」
「いえいえ、昨今は事故や変質者も多いですし、親切な人に見つけていただいて私たちも安心です。特に、最近歩は帰りが遅くて
……
危ないから門限の十七時までには帰ってくるようにと繰り返し言っているんですが」
視線をやると、歩はつんとそっぽを向いた。母親はずっと歩の手首を握っている。心配なのはわかるが、十七時は男子中学生からしたら確かに早いだろうし、そこまで過保護にされたら反抗だってしたくもなるだろう。
仕方ないですよ、中学生だし。僕にも覚えがありますから。
頭を下げる歩の母親にそんな当たり障りのないことを告げながら、そういえば自分にはあまり母親に対して反抗した記憶はないな、と思い返す。母は冷徹ではなかったが、どこか感情を落としてきてしまったかのように物静かなひとで、藍一に対しても必要以上に関わっては来なかった。父と母が喧嘩しているところを見たこともない。彼らが話すときは、淡々としていて静かで、藍一には決して会話の内容を聞かせなかった。
母が、夫に捨てられたことをどう受け止めていたのかわからない。しかし藍一が父の不在を「当たり前のこと」と受け止められたのは、捨てられたのだとわかった後も、母親が何も変わらずに落ち着いて藍一と接してくれていたからだった。
高卒で働くと言ったのも、母親の手助けができたらと考えた結果だったのだが、「やりたいことをきちんと見つけてからにしなさい」と冷静に諭されてしまった。もともと母は社長を務めていた父の秘書だったらしい。母はあまり自分のことを話さないので、教えてくれたのは幼い頃家に遊びに来ていた父の部下だったが。
「ともかく、今日は遅いのでまた後日お礼を」
「いや、そんな
……
」
「ならさ、アイイチ、また会ってもいい?」
歩は藍一の服の袖をつかみながら、まるい目を大きく見開かせて言った。一瞬戸惑って言葉に詰まる。それを拒否と受け取ったのか、歩の母親が「迷惑でしょう」と引き留めようとした瞬間に、
「いいよ」
声が出ていた。
誰かと深く関わるのは苦手だった。それを避けて、影法師のように生きてきた。だが、歩ならば気負うこともなく、歳は離れていても仲のいい友人のように接することができるような気がした。歩が目を輝かせる。
明日はバイトが休みだから、駅前で。そう言うと歩は嬉しそうに頷いた。駅前ならゲームセンターもフードコートも充実しているし、遊べるところが多いだろう。頭を下げる母親に手を引かれながら、歩の背中が遠ざかっていく。
「あの子が人に懐くの、珍しいんですよ」
離れていく歩の背中をゆっくり追いながら、歩の父親が恥ずかしそうに藍一へ告げた。背が高く痩せていて、針金のような印象を受ける。気が弱そうだが、眼鏡の奥の瞳は優しげに細められ、自分の父親とは真反対のような人柄だ、と藍一は思った。
「僕達も、歩くんのことをもっとよく分かってあげられたらいいんですけど。なかなかうまく行かなくて。もう五年も一緒に暮らしているのに」
気弱な顔に更に疲れ切ったような影をにじませて、歩の父親は肩を落とした。
「毎晩あの子は帰りが遅いんです。中学生だから、友達と遊んでいるんだろうと思ってもやっぱり心配だから、探しに出てきちゃうんですよね。それでまたあの子に煩わしく思われて。僕達二人とも、結局のところ、歩くんを持て余してしまってるんでしょうね
……
」
「なんで歩を引き取ろうと思ったんですか」
訊いてから、しまったと思った。こんな家庭のことに突っ込んだ話をするべきではなかった。なにを告げられてもうまく返せない自信があるし、責任も背負えない。それでも、幸せそうな家族に見えるのに、という疑問から生まれた好奇心と、落ちた言葉を取り返すことはできなかった。
「見栄、ですね」
藍一は息を呑んで、歩の父親を見つめた。訊いたのは自分だけれども、そんなことを他人に話してしまってもいいのだろうか。街路の途中で立ち止まった彼は、街頭の光の加減もあるのか、ひどくやつれて見えた。
「僕達夫婦の間には子どもができなくて。幸せの定型って、子どもがいてこそってところあるじゃないですか。その強迫観念に、僕も妻もやられていたんです」
歩くんは被害者なんです。僕達の夢と、理想の。
藍一を見下ろして自虐気味に続いた言葉に、黙って藍一は俯いた。胸の真ん中を大きな杭で突き刺されたような気がした。思った通り何もかける言葉は見つからなかったし、僕の家庭も似たようなものですから、大丈夫ですよ。そんな言葉は言えなかった。
ご迷惑をおかけしました、ありがとう。歩の父親は長い身体を折り曲げて、先に行った二人を追いかけていった。やがて三人はとても仲のいい家族のように、角を曲がっていなくなった。
藍一は詰めていたため息をようやく吐き出す。
幸せそうな自分はどうなのだろう。嫌な風が、杭で貫かれて空いた胸の穴を吹き通っていった。互いに会話も少なく、自分を取り繕うこともしない父と母が、そんな理想の家庭、幸せのかたちにこだわっていたようには思えないが。時には口も出しながら、ただ見守ってくれた母のことを、信じたいと思う。
どちらが幸せかなんて考えるだけ無駄だ。
・
「俺、行きたいところがあるんだ」
平日の午前八時の駅前は、人でごった返している。姿を現した歩が開口一番に見せてきたのは、黄ばんでところどころ掠れている一枚のメモだった。住所が書いてある。電車で一時間半ほどかかる場所だ。
「そこに何があるんだ?」
「俺の、本当の父さんと母さんの家」
思わず叫んでしまうところだった。度肝を抜かれるとはこういうことか。本当なのかと問うた言葉に、歩はこくんと頷いて手元のメモを縋るように見下ろした。施設にいたときから何故だかずっと持っていたもので、最後の手がかりだと歩は言う。本物の両親につながる、最後の手がかり。
「なんだよ、アイイチがビビることないじゃん」
「ビビるだろ! どうして急に、というか俺を連れていって、会ったら何を話すつもりなんだよ」
「別に。アイイチはいるだけでいいよ」
わずかに唇をとがらせる。
「会って聞きたいだけ。なんで俺を置いていったのか。何があって、俺を捨てたのか。怒ってるわけじゃなくて、ただ理由を知りたいだけなんだ」
理由を知りたい? 自分を捨てた理由を?
「怖いと思わないのか?」
わずかに語気が強くなったのを恥ずかしく思った。だが、すこし想像すれば、存在を否定されるようなひどいことも言われる可能性がある。幼い子どもを捨てるような人たちだ、ろくなものじゃないだろう。自分の現実と直面しそうで、藍一は怯えた。
むしろ、俺は知りたくない。
自分のことに置き換えて考えてみる。父が何を思い、家から出ていったのか。それでも手紙を送ってきていたのはなぜなのか。激しい言葉をかけられても、優しい言葉でごまかされても、自分は傷つく自信がある。それなのに、歩は電車が走り去っていく方向を遠く見つめながら、こともなげに言った。
「もう他人だし、全然気にならないよ。俺のこと、忘れてたりしたら流石に怒るかもしれないけど
……
ちょっとでも覚えているなら、俺に俺のことを教えてほしい、」
そして、きっぱり『さよなら』したいんだ。
「さよなら?」
「うん。聞きたいことを聞けたら、俺は自分が養子だとか俺を捨てた親のこととかは、もう考えない。すっきりして、せいせいしたいんだよな。いつまでも知らない奴のことで悩んでいたくないしさ」
そう言うと、歩は照れ臭そうに頭をかきながら笑った。
『さよなら』か。自分もそうはっきりと口にできたらと思う。ただ、降り積もった思いをすべてぶつけても足りないような人を目の前にして、そう言うだけですべてを忘れられるだろうか。まだ、あまりにも未練があった。顔立ちが、声が、几帳面に書かれた文字が、あの手紙を読んで思い出した父のこと全部が、ただ一言だけぶつけて忘れるには、あまりにも記憶の中で鮮やかに憧れとして染み付いていた。
往復分の代金は財布のなかになんとかある。それを確認し、覚悟を乗せた電車はゆっくりと走り出した。
地元の駅から三十分電車に乗り続け、あらゆる路線の集まる都心の駅に着くと、そこから乗り換えて一時間、北のほうへ運ばれてゆくことになる。二十分に一本出る北行きの電車は、最初こそ座席に人が満杯に座っていたものの、窓の外に穏やかな色合いの家々と、山の裾が見え始めてからは、人はまばらにしかいなくなっていた。歩は黙りこくったままじっと窓の外を見つめている。
「着いたら、どこかで飯でも食おうか」
「うん」
振り向くことなく、窓の外を見つめたまま歩はどこか上の空のように頷いた。口数が少なくなっている。当たり前だ、気にしていないと言っても緊張しないわけがない。静かな空間に、レールを削る鋼の音がよく響き、それを無心に聞いていると自分まで歩の緊張が移ってくるような気がしてくる。
長く走り続けた電車は、閑静なホームに大きく揺れながら滑り込んだ。
藍一達の暮らしていた町よりも、ここは静かで落ち着いた空気が流れているように思える。時間が穏やかにたゆたっているようだ。目玉として売り出しているらしい、「まめだいふく」「いちごだいふく」と書かれたちいさな土産物屋のほかに、立ち食いそば、定食屋、居酒屋などの食事処と、一軒だけあるコンビニ、バスが一台入ればいいぐらいの狭いロータリー。バス停のベンチに老人がひとり腰かけているだけで、あとは人影は見えなかった。
歩が大きく息を吸う。
まだ昼にはすこし早い時間だったが、ロータリーそばの定食屋に入って食事をとることにした。店の中は、奥のテーブルに数組がついて談笑しているだけで広々としていた。厨房から大きな「いらっしゃいませ」という声が聞こえる。席につき、メニュー表を広げた歩は、みるみる目を輝かせた。
「すげえ、天ぷらそばとかうな丼とかもある! カツ丼もカレーライスも!」
「そんなに珍しがるものか?」
「俺、あんまりこういうところ連れていってもらったことないからさ。行くとしたらファミレスとか、デパートのレストランとかだし」
清潔そうな歩の両親を思い出し、納得する。あの夫婦は確かに、下町の定食屋より小綺麗なレストランに慣れている類だろう。楽しそうにメニューをめくる歩を見て微笑ましさが募り、思わず「おごるよ」と声に出ていた。
「マジ? いいの? 俺払えるよ、お小遣いだけはいつもたくさん貰ってるし」
「気にすんなよ。何が食べたい?」
「んー、天ぷらそば! 年越しでしか食べたことないし!」
店員を呼びながら、こうして家族三人で外食したことが、過去に一度だけあったと思い至った。小学校に上がったばかりのとき、父と母に連れられて来たのが、大手デパートの最上階にあった中華料理専門の高級レストランだ。父が、ほぼ漢字だらけのメニューを指でなぞりながら、低くよく通る声でどんな料理なのかを説明してくれた記憶をおぼろげながらに思い出す。教えて貰ったことはほとんど忘れてしまったが、あの頃の父はまだ『父親』だった。
「アイイチは、お父さんと外食とかしたことある?」
「まあ。昔、一度だけ」
「なんだよー。楽しかった?」
楽しかったのだろうな、と思い浮かんだあの日の情景を俯瞰した。あのときは捨てられるのだと思ってもいなかったし、父と母は喧嘩もせず仲がいい親だと思っていて、どちらのことも愛していた。
嫌な思い出ではなかったのに、頭のどこかに置いたまま今までずっと忘れてしまっていた。きっと今思い出したあの日のことも、あの父はすっかり忘れているのだろう。
ほどなくして、歩の天ぷらそばと、藍一が頼んだカツ丼が運ばれてくる。つゆの香りに目を輝かせた歩は、いただきますと言う前に既に天ぷらにかぶりついていた。
美味しい。花の咲くような声に、自然に頰が緩む。
記憶に残る限りの、あの数々の中華料理も美味しかった。一度きりの経験だったからかもしれない。友人と食事をしたことは流石にないわけではなかったものの、こんなことを思い出しながら食べるのは初めてだった。幼い自分は、床に届かない足をぶらぶらさせながら回る円卓にはしゃいでいた。高層デパートの上から見える景色に、目を輝かせていた。あの頃の自分も、歩のように笑っていただろうか。父は、それを微笑ましく見守ってくれていたのだろうか。
「歩は強いよな。しっかりしてる。自分がちゃんと生きていくために、すっぱり忘れるために、会いに行くって言えるの偉いよ。羨ましいと思う」
羨ましいと思い、心の底から褒めたつもりだったのに、思ったよりも嫌味っぽい言葉になってしまって藍一は慌てた。だが歩は気にしなかったようで、そばをすすりながら、
「そうかな。でも、俺はアイイチがいなかったらいつまでも行けなかったよ。どうせ『父さんと母さん』は絶対連れていってくれないし、一人で行くのも、なんかちょっと心細いし」
となんとなしに言う。それから何を思ったか、「アイイチはお父さんのこと邪魔だと思う?」と続けた。
「いや、それは
……
」
「俺は、なんかいつも気にされてる、監視されてる気がしてさ。居場所がないんだ。家族なんてただ邪魔なだけ」
吐き捨てるような歩の言葉に動揺して、藍一は食べようとした手を思わず止めてしまった。箸の先からトンカツがぽろりと落ちる。喉奥から絞り出してきたような、戸惑いを前面に押し出した声が出た。歩は至ってまじめに、そして無邪気に、藍一を見つめていた。
家族が邪魔? 母は違う、これまで育ててくれた。邪魔だなんて思うはずがない。父はどうだ?
幼い頃から父は家にいなかった。記憶もわずかしか残っていない。家族で出かけた記憶も、残っている限りではあの中華料理レストランに連れて行ってもらった時だけだ。邪魔だと断ずるには存在が希薄すぎる。だが、この胸をかき乱す衝動はいかにも『邪魔』だと言えるのではないだろうか。
それでも。
そうだよな、と口にしようとした肯定が、すぐに出てこなかった。何故かあの夜に読んだ手紙のことがずっと頭にちらついて離れない。
「手紙が、」
「手紙?」
歩の、箸を置きかける音がやけに大きく響いた。
「応援している、これからも同じように。何かあったら連絡してきても良いと、書かれていて。でも言いたいことなんてそんなないし、だけど今までのことを考えたら一言くらい言っておくべきじゃないかって、ずっと悩んでるんだ
……
」
藍一はただ俯いて呟くことしかできなかった。慕ってはいないし、かといって、嫌いだと一言で片付けることもできない。俯く藍一に、歩が言う。
「アイイチの父さんは、アイイチのこと覚えてたんだね」
「
……
ムカつくよな、今更」
歩は、藍一の子供じみた言葉に笑ったようだった。
定食屋を出ると、ちょうど高く太陽がのぼりつめたところで、人の行き交いもさっきより活発になっていた。駅前の交番で尋ねると、歩のメモに書かれた住所はここから二十分ほど歩く場所らしい。「バスも通ってないなんて不便なところに住んでるんだなあ」最初はそう悪態をついて笑っていた歩も、歩いていくたびに、電車のときのようにまた口数が少なくなっていった。
少しずつ住宅街から離れていき、景色の中に広い駐車場や空き地、小規模の畑が徐々に増えてくる。遠くになだらかに続く山並みが見え、車もほぼ通らない土の道をぽつぽつ歩いていると、誰も知らないところにひとりで放り込まれてしまったような孤独感があった。
歩の歩く速度がわずかに速くなる。落ち着け、と声をかけてやりたくなったが、自分も偉そうにそう言えるほど落ち着いているわけではなかった。常よりも心臓が強く鼓動を打っている気がする。スマホのマップ上で指し示された印に近づくごとに、なにか言ってあげたほうがいいのだろうか、いや、どんな言葉をかけても、今は歩の耳を通り抜けるだけだろうと思えて、結局口をつぐんでしまう。
徐々に道は勾配をつくり、小高い丘になっている場所に、その家はあった。塀に囲まれた古い瓦屋根の家で、そばにビニールハウスと、古ぼけた軽トラックが停められている。庭の雑草は好き放題に伸びていて、まるで手入れがされていないようだった。歩の息を呑む音が藍一にも聞こえた。もしくは、息を呑んだのは藍一のほうだったかもしれない。
玄関には表札も押しベルもなにもなかった。窓も閉め切られ、昼だというのにカーテンまで引かれている。家の周りを一周してきた歩が、「なんか、誰もいないみたい。玄関も窓も閉まってるから中に入れないし」と途方に暮れたように呟いた。ここではなかったのだろうか。だが、歩のメモは住所は確かにここの位置を示していたはずだった。そもそもそのメモに書かれていたのも、本当に歩の両親の住所だったのだろうか。
「ん? あんたたちどこから来たんだい」
どうにもできずにただ立ちすくんでいると、隣の家から妙齢の男性が顔をのぞかせた。
「そこはもう随分前から人は住んでいないよ。十年くらい前に空野さんという夫婦とその娘夫婦で暮らしていたけど、娘夫婦がいなくなってからは、空野さんも施設に入所したからねえ」
「そ、空野って、空野翔さんとふみさん?」
「うん? ああそうだよ。施設に入ってからは顔も見なくなっちまったなあ。君たちは
……
空野さんの親戚かい?」
「あ、あの、この家に男の子がいませんでしたか」
名前を聞いて言葉を詰まらせた歩の代わりに、藍一はそう尋ねた。その瞬間、背中の服の裾を掴まれる。ちいさく震えていた。
「男の子? そうさねえ
……
そういえば娘夫婦のほうが一回赤ん坊を連れて帰ってきたことがあったなあ。そのあとすぐその夫婦は喧嘩して出て行っちゃってね、その子は児童養護施設に入れられたそうだよ。空野さん達とはずいぶん揉めたそうだけどね、あの人たちももう体が強くないし、娘夫婦が出て行ってからすぐ施設に入ったから
……
」
「そう、ですか」
藍一の頬をぬるい風が撫でていく。己を知ろうにも知れなかったちいさな五指は、まだ服の裾にしがみついたままだった。
男性が去り、その場に二人で取り残されてからも、藍一と歩はしばらく動けないでいた。藍一は周りをゆっくりと見渡す。古ぼけた瓦屋根の家、汚れたビニールハウスの畑、使い捨てられたような軽トラック、自然に帰りつつあるちいさな庭。天気は憎たらしいほどに晴れていて、心地いいぬるさの風に吹かれている。なだらかに続く山峰が青い空を切り取る景色は、こんな空気のなかでも雄大に見えた。
歩は、やっと大きく息を吐いた。
「あーあ。こんなもんか」
「
……
あゆむ、」
「いーよ、帰ろう。ほんとはさ、本当は、会えるなんて思ってなかったんだ。俺、すごい強がってた。父さんと母さんに会えても、ちゃんと喋れるか不安だったし」
歯をむいて笑った歩は、さっと踵を返すと、元来た道を悠々と戻っていく。
藍一はその背を追いかけようとして、もう一度、取り残された家とその周りを見つめ返した。
「空野翔とふみってさ、俺のじいちゃんとばあちゃんの名前なんだよね。施設にいたとき職員から訊いたんだ」
時が止まったように黙りこんでいる、表札のない家。
「メモもじいちゃんが書いて寄越してくれたんだって。俺、ほんと、てっきりじいちゃんが父さんと母さんに会わせてくれようとして書いたメモだと思ってたけど、じいちゃんたちの家だったんだなあ。こんな何もない家に来させて、何がしたかったんだろう」
何もなくとも、藍一には、それら全部が歩の帰りを待っていたように見えた。
黒ずんだ壁や屋根も、汚れたビニールハウスも、捨てられた軽トラックも、手入れのされていない庭も、残されたものはあまりに拙いがらくたばかりだけれども、そこには決して悪意のようなものは感じられなかったのだ。都合のいい感傷かもしれない。勝手なノスタルジーを押し付けているだけかもしれない。
「なんもない、マジ田舎。ま、父さんと母さんがいたところが分かっただけマシかー」
「でも、ここが歩の故郷なんだな」
ゆきかけていた歩の足が止まる。黒い大きな瞳が振り向き、家屋を見返して、そして遠くの山々を眺めるように見やった。
「ここに帰ってきていい、って言いたかったんじゃないか。もしかしたら」
「
……
じいちゃんが?」
「ああ。いつかここに戻ってきて、歩を迎えようと思っていたのかもしれない。ちゃんと準備して、歩のために残そうと思っていたのかもしれない、だろ?」
たかが残されたぼろの生家を『愛』と呼べば、派手に呆れられるか、不機嫌にさせると思った。だが、それでも伝えずにはいられなかった。歩の両親のことは結局分からずじまいだったが、残された歩のことを気にかけていた人が、少なくともここにいて、ここのことを教えてくれたのだ。歩の祖父母が、もう二度と会えないであろう孫に残していったもの。
歩が藍一のそばに帰ってくる。
「こんなとこ、田舎じゃん」
そう生意気に吐き捨てた口が、ほんのすこしだけ笑みを結んだ。
「勇気、出してよかった。来てくれてありがとう、アイイチ」
「それが歩の勇気なら、すごい勇気だよ。尊敬する」
「へへ。十四年生きてきて、一番の勇気使った!」
「確かにそうかもしれないな」
帰り道を跳ねるように駆ける歩に、ほっと安心する。解決はしなかったことに悔しさがないわけではないものの、藍一はこれでよかったのだろうと思った。
十四の少年を深く傷つける結果でなくてよかった。今は、そう思うしかない。ほんのすこし傾き始めた陽のなかを、また二十分かけて並んで戻っていくのに、苦は感じなかった。
「アイイチ、俺、本当に来れてよかったよ。俺ができること、いっぱいやったと思うし」
「うん」
「でも父さんと母さんのことはまだむかつく。全然すっきりしてないし、絶対許さない。でも、それでいいよね。許さない勇気ってのも、あると思うしさ」
「ああ」
「勇気のかたちって、一人ひとり違うけど、でも共通していることもある。『いつもの自分らしくないことをやってみる』ってことだと思うんだ」
「
……
自分らしくないことをやる、勇気か」
「うん。俺、だいたいのことはどうでもいいって思うし、周りにも許してやれって言われることがあるけど、父さんと母さんのことは誰になんと言われようと許さない。ずっと、許さない勇気をもっていくよ」
振り仰いだ瞳は目元が赤くなって、まばたきのたびに、星がまたたくようにしずくが散った。藍一は、自分を抱きしめるように、歩を抱きしめたくなった。
ただただ、その強さに感嘆した。
「あ、最後にちょっと寄っていっていい?」
駅前の土産物屋に寄り、歩は名物の「まめだいふく」と「いちごだいふく」を買った。父さんと母さんにやるんだと言って、気恥ずかしいのを隠そうとしてか歯を見せて笑う。藍一もそれにならい、それぞれをふたつずつ購入しようとして、「
……
もうひとつずつください」この町育ちに見える、地味な化粧を施した店員は、三つずつの和菓子を丁寧に同じ箱の中に入れてくれた。
いつもの自分らしくないことをやってみる。
帰りの電車で、歩に言われたことが頭の中で何度も浮き沈みした。
変わることは、怖い。なにか変えようとして、何も変えられず、ただ昔の自分をそのままなぞっただけの同窓会。父の手紙に対して、怖がったまま何の反応も返せなかった自分。思い返せば、情けないことばかりだった。
勇気のかたちって、一人ひとり違うけど、でも共通していることもある。『いつもの自分らしくないことをやってみる』ってことだと思うんだ。
自分の中の、なにかを変えたいと思ったときに、大それたことはしなくていい。進むだけなら一歩だけ。たった一歩でも、それがいつもの自分がやらないようなことならば、その行為を『勇気』と呼んでもいいのだ。藍一は、三つずつ入った和菓子の箱を、膝の上で大事に抱き寄せた。眠りこける歩の首が舟をこぎ、たよりなく揺れて、藍一の右肩の上に着地した。眠りながらも彼もまた、「まめだいふく」と「いちごだいふく」が入った箱を、大切そうに膝の上で抱きかかえていた。
地元の駅に到着した頃は、もう陽が暮れかけ、駅前の白い壁面のビルを黄金いろの光が染め上げていた。帰りがけの高校生の集団と、近くにある大学から帰っていくのだろう大学生たちの声で駅はざわめき、すっかり地元に帰ってきたのだという感慨があった。今日起こったことがなんだか夢のように思える。ちょうど十七時を報せるチャイムが、町中にたゆたうように響き渡り、そばを通りがかった二、三歳の女の子がからすといっしょにかえりましょお、とメロディに乗せて歌うのを、藍一は目を細めて聞いていた。
「たまには早めに帰ってやろうかな」
門限の午後五時、ちょっとすぎちゃったけど、と歩が冗談めかして言う。
「それも勇気か?」
「これも勇気!」
そうだ、もともと人と関わりを持つことを嫌がっていた自分が、昨日会ったばかりの、それも年下と一緒に小旅行のようなものに行けていること自体が、自分にとっては驚くべき進歩だ。歩の心を覗く代わりに、自分の心も覗かれている。でもそれが心地いい。嫌な気持ちがしない。それはやはり、歩と自分の心境に、近しいものがあるからだろう。だが、歩の決断と結末を見届けようと決意したことは、自分にとって確かに『勇気』を出した証だった。
そんなことを思いながら歩と並んで帰路につき、昨日と同じコンビニに差し掛かると、歩が「げ」という顔をした。見れば、コンビニの前で歩の両親が並んで立っている。昨日のように乱れた格好ではなく、緊張した面持ちで、じっと二人を見つめていた。
どれだけ心配性なんだろう。さすがの藍一も呆れて声が出なかった。誰かと同伴でも息子がちゃんと帰ってくるのかどうか恐ろしいのだろうか。確かに藍一は昨日会ったばかりで、夫婦からしたらまだ知人というほどでもないレベルで信頼に値しないのはわかるけれど。
夫婦は昨夜と同じように藍一に一礼したが、駆け寄ってきたりはしなかった。歩が近づくのを、まるで野生動物が人に慣れる様子を見守るように立ちすくんでいる。歩はしばらく逡巡していたが、意を決したように藍一から離れていく。
「ちゃんと帰るって、言ってるじゃん」
「歩くん」
「俺の帰らなきゃいけないところは、あんな田舎じゃなくて、ここなんだから」
夫婦は、なにがあったのだろうと言いたげな目で顔を見合わせ、しかし触れるように歩を抱きしめた。
「お父さんたちも昨日から考え直したんだ。歩が初対面の人にあんなに懐いたり、朝早くから出かけることなんてあまりなかったから」
家庭の会話を部外者の自分が聞いていても良いのだろうかと思うが、コンビニの駐車場は広く、今更隠れられる場所もない。ここで離れるのもみっともないようで気が引けた。藍一のそんな胸中など知らず、歩の父親が言う。
「門限は取り下げることにしたよ。でも、さすがに日付が変わる時間帯は危ないから、寄り道したり遊んだりしても二十時までには家に戻っていてほしい。できる限りで構わない。友達の家に泊まるのも、相手の親御さんに迷惑をかけたりしなければ良い。そのときは、泊めさせていただく友達の名前を、お父さんとお母さんに教えてほしいかな」
「お母さんたち、歩くんのこと大事にしようとして、から回ってた。他の家庭だとうまく行ってるのに、自分たちの家庭がうまく行ってないことが我慢ならなかったの
……
。それを必死に取り繕おうとして、歩くんにいろいろな制限を押し付けてしまった。当たり前よね、まだ一緒に暮らし始めてから五年しか経ってないんだもの。歩くんと同じ歳の子どもがいる家庭とは、九年の差がある。それに、十四年一緒にいたって分からないことはたくさんあるものね。歩くんは、ずっと教えてくれていたのにね。私たちがどんなに取り繕っても、最初から最高に幸せな家族になれないことを。『違う、本当の子どもじゃない』って、ずっと
……
」
「父さん、母さん
……
」
「初めから普通と違う家族なら、普通のやり方じゃだめなことは一目瞭然だ。そもそも『普通の幸せ』を享受できている家族だって多くない。僕たちは僕たちのやり方で、いつもとは違うやり方で、お互いうまく行く方法を探していこう。そう決めたんだ」
うん、とかすかに歩がうなずくのが見えた。
彼らも勇気を振り絞ったのだ、と分かった。藍一はその場からそっと離れた。歩の家庭はもう大丈夫だろう。足並みをそろえようと無理にルールを設けるのではなく、これからは、ぎこちなくとも合わない足並みを楽しんでいくことができるようになるはずだ。彼らが、歩の買ってきた大福を見て顔をほころばせるのを想像し、藍一はまるで自分のことのように嬉しくなった。
そして、自分はどうだろう、とふと上を見上げた。
東からすこしずつ迫る夜の色と、西に陽が沈む一瞬の、猛烈に空が赤くなる瞬間が混ぜ合わさって、雲は不思議な紫色に彩られていた。細くたなびく雲は頼りなさげに見えるが、はっと目を引くほど空は美しい。
次は、俺が勇気を出す番だ。
藍一は静かにそう思った。
・
仕事人間の母親はいつも帰りが遅くなることが多い。日付が変わるか変わらないかぐらいのことが多いが、今日は日付が変わってから大幅に時間をかけて帰ってきた。
「おかえり。風呂、沸いてるよ」
「あら
……
ありがとう」
玄関で待ち構えていたような藍一に、その鉄面皮のような顔をほんのすこし驚きに見開かせながら、母はいそいそと着替えのために自室へ戻っていった。長年共に暮らしているからわかるが、あれは帰ってきてすぐに入浴できるのを喜んでいる後姿だ。
夜更けになってテレビを消した。母はあまりテレビの
――
バラエティの喧噪を好まない。ニュース番組は一通り目を通しているようだが、お笑い芸人たちやタレントが多く登場して面白おかしく盛り上げる番組を、笑いながら観ている姿は今まで見たことがない。クイズ番組は時々食い入るように観ていたが。
遅い食事を済ませた母が、箸を置いたのと同時に「どうしたの」と向かいに座る藍一の目を見た。直球に投げつけられた、有無を言わさぬその目線と声色の強さに、覚悟はしていたものの心と身体が思わず怖気づいてしまう。それでも伝えなければと思った。勇気を出すのだ、一歩ずつ。
「母さんは、どうして今まで真堂青介から手紙が来ていたことを黙ってたんだ?」
「あなたには関係ないままでいてほしかったから」
こぼれた言葉はあくまでも無感情で、母親ながらその真意をはかることは難しかった。
「でも、手紙の内容には俺のことも書いてあったりしたんだろ?」
「
……
少しだけね。たいしたことじゃない。近況を話すばかりだから」
「
……
なんで母さんたちは離婚したんだ?」
緊張しながらそう問うと、母親は初めて口元にうっすらとした微笑みを浮かべた。いやな笑みではない。どうしようもないことを笑って諦めるような、そんな悲しげな笑みだった。
「そもそも結婚していないのよ、私たち」
「え、」
世界が一回転したような衝撃だった。事実に頭の処理が追い付かない。固まってしまった藍一を見やり、ごめんなさい、と母は頭を下げた。
「言わないつもりだったのだけど」
言いたいことが次から次へと頭に浮かんでくるのに、それが喉まで下りてきて声に出すことができなかった。では、父は、真堂青介は、ただ一致する遺伝子を持つというだけの、他人と似たようなものではないか。手紙の内容が次から次へと思い出される。
私は今更君の父親に戻りたいわけではない。この手紙は、そう思って書いたものではないのだから。君の成人の期に、ただ祝福を。その祝福が形に残るようにと、筆を尽くした次第です。
「な
……
なんだよ」
最初から父親じゃなかったくせに。
「どの面下げて、こんな、今までずっと悩まされてきたっていうのに」
「藍一」
爪が食い込むほど強く握られた藍一のこぶしを、母の細い指が包んだ。常よりも穏やかな声で、母が言う。
「私だって似たようなものよ。私だってあなたに遺伝子をあげた他人に過ぎない。でも、そんな私のことを『母』と呼ぶなら、あの人も間違いなくあなたの『父親』なのよ。それは、あなたが二十年前に私たちの間に生まれてきた以上、逃れられないことなの」
「母さん」
「確かにあの人は、あなたの父親にしては希薄かもしれない。自分勝手で、頭がかたくて、人を振り回すことになんの憂慮もしない人だった。でも、そのくせに何故か記憶に残るのは悪い印象ばかりじゃなかった」
藍一は頷いた。憎みきることもできず、怒りぬくこともできないのは、父の記憶が穏やかな時間のなかで構成されていたからだった。父の低い声、うすい色素の瞳は、どこか人の寄せ付けない威厳があって親しむことはできなかったが、その貫禄には品があり、畏れと共に憧れがあった。価値のつけられない芸術作品を目の前にしているかのような。そんな静謐で、何にも代えがたい記憶のなかの人物に触れることが、藍一を戸惑わせている。
「
……
父さんに、会いたい」
「会ってどうするの?」
「話したい。どうして誕生日にも連絡をくれなかった人が、今更成人したからなんて理由で俺宛てに手紙を送ってきたのか。困らせるとか無視されるとか思わなかったのか。ちゃんと会って話さなきゃと思うんだ、俺はあの人のこと何も知らないから」
そう言うだけのことでも勇気だと、藍一は自分に言い聞かせた。
そう言うだけのことが、今までずっとできなかった。
母は、先ほどとは違う微笑みを浮かべた。仕方のない子どもを笑って見守るようにされ、藍一は気恥ずかしさから思わず俯いた。母にそうやって見つめられたのは初めてだった。母は、そうね、と呟いた。
「あなたはもう子どもではないのだから」
言われた瞬間にどきりと心臓が高鳴った。誕生日に連絡もくれなかった人が、どうして今更成人したからなんて理由で手紙を送ってきたのか。もしくは、成人したからなんて言うそんな理由だったのかもしれない。そして母は静かに席を立ち、おやすみなさいと言ってリビングから出て行った。
藍一も自室に戻り、部屋の中を見渡す。成人式と同窓会に着ていったブラックのスーツはまだ壁にかかったままだ。大福が入った包装箱も机に置かれたまま息をひそめている。その隣には、父からの手紙。強く握った痕がついて、便せんはよれよれになっているのが見ていて痛々しい。
便せんに書かれた電話番号とメールアドレスを見るたびに、心が震え、訳のわからない怒りと苦しさに頭が痛むような気がしてくる。時計を見た。午前三時。明日は昼からバイトがある。今から眠れば十分睡眠時間が取れるが、この状況ではあまり眠れそうになかった。
(電話でもしてみようか)
そんな、手紙を受け取った初めの夜と似たような悪戯心が湧いた。
ここまで頭を悩ませてくれる相手だ、深夜に携帯を鳴らしたところで、どこかにおわすかもしれない神様も激怒することはないだろう。いっそのこと寝不足で困ればいいと仕返しを企む子どものように思い、スマホを手に取り、記載された電話番号を打ち込んだ。
胸が痛いくらい心臓が激しく拍打ち、口から飛び出そうだった。耳まで熱いと思ったら額の髪の生え際に汗がにじんできている。番号に間違いがないか、過剰と思えるくらい何度も確認し、震える指で受話器のマークをタップした。
ツー、ツー
……
モールス信号の長音のような音が、無感情に、機械的に、いつまでも流れ続けている。藍一は身体の熱が急激に冷めていくのを感じた。ばちがあたったのだ。神様は藍一の勇気を勇気とは認めなかった。
「まあ、そうだよな
……
」
悪戯心のままに行動を起こした自分の浅慮を、藍一は恥ずかしく思った。
浮足立った気持ちだけが先走ってしまって空回りしている。悔しさが募り、藍一は身体を布団に叩きつけるようにしながら、そのまま眠りについた。
再び藍一は電車に乗った。
あれから、父に会おうと思っていることを歩に伝えると、彼は一言「気楽にいこう」と言った。
「サッカーの試合の時も、『頑張れ』って言われるのも嬉しいけど、『気楽にいこうぜ』って背中を叩かれるほうが安心しない? 今アイイチの背中は叩いてやれないけどさ、アイイチならできるよ。俺の勇気にも付き合ってくれたんだし」
通話口から聞こえる歩の声はあたたかく、無邪気で、それでひどく安心した。
「今日会うの? 何時から?」
「いや、それがまだ連絡できていなくて
……
。とりあえず住んでるところまで行ってみようかと」
「どういうこと? 電話が繋がらないの?」
「そうなんだよ。朝にかけてもずっと話し中なのか電話に出ないんだ」
プラットホームは朝冷えがひどく、口元のマフラーを押し上げながら藍一はため息をついた。大福を入れた箱もこごえてしまいそうだ。深夜のあの電話から、昨日のバイトの休憩中、帰り道にも何度かかけてみたが、ずっとあの機械的な長音が続いていて、その翌日の朝になっても一向に繋がる気配がないのだった。こうなったらいっそ直接行って、改めて会う約束を取り付けようとはるばる向かうことにしたのである。
昨夜にそう思い立ってからなかなか寝付けず、思ったよりも早い出発になった。駅は人でそこそこ溢れ、誰もがみなコートを羽織って寒そうに背中を丸めている。電車を待つ列で、藍一の前に立っていたのは、黒いステンカラーコートを羽織った初老の男性だった。髪にいくつか白髪が交じり、寒そうに身を縮めているので藍一よりもちいさく見える。
(体調を崩していて会えない、とかだったらお笑い種だな)
ここまでしようと思った自分が馬鹿みたいだ。藍一は笑った。だが、ここで引き返したらそれこそ本物の馬鹿になるだけだ。
「出たとこ勝負、俺は良いと思う! 気楽にいこう、アイイチ」
「ああ」
電車がホームにすべりこんでくる。
何もないままで戻れない。戻りたくない。子どものような意地を握りしめて、藍一は電車に乗り込んだ。そう思うことこそまた勇気のひとつなのだと言い聞かせ。
父の住む住所は高級住宅街の集まる駅の近くで、都心の駅からまた乗り換え、もうひとつ乗り換えを経て県をまたいでたどりつくところだ。今まで、すこし時間をかければ会えるところに父親が住んでいるなど想像だにしていなかった。電車に乗っている間にメールでも打とうかと思ったが、結局文面に悩んでスマホをコートのポケットに仕舞ってしまった。他人行儀なのも照れくさいし、かと言ってフランクにできるほど心臓は鋼でできていない。
父は、手紙を書いた日から俺が来るのを待っていただろうか、とふと思った。厳格な父ばかりだと思っていたが、思い出した幼い記憶と手紙の文面から、そこまで恐ろしい人間ではないのかもしれないと感じ始めていた。幼い自分が過剰に怖がりだっただけだったのかもしれない。
俺から連絡が来るのを、どんな気持ちで待っているのだろう。くすぐったいような気持ちでそう思った。
電車が途中の駅に止まったタイミングで、はやる指でもう一度電話をかけてみた。しかし、相変わらず機械的な音が流れ出しているだけだった。
目的地。降りた駅は、歩道が真っ白なアスファルトで作られており、陽の光に反射してまぶしく清潔に見えた。景観は地元より落ち着いた雰囲気で、家と家がひしめき合うように建っていたり、大衆食堂のような趣の食事処がないところが品のいい住宅街というイメージを受ける。住宅の形も景観を損なわないように規定が設けられているのだろう、クリーム色の壁と焦げ茶色の屋根、白を基調とした窓枠やドア枠をはめこんだ家々が可愛らしく立ち並んでいる。そうして見ると、通りすがる人もみなブランドものの靴やコートを着て全身をくまなく飾っているようで、自分が場違いなところにいるのではないかと尻込みしそうになった。
(気後れするな、俺!)
こんなところで立ち止まってはいられない。『気楽にいこう』歩の声が脳裏をよぎった。遊歩道を、なるべくまっすぐ顔を上げながら悠々と見えるように歩いていく。
むき出しの頬をつめたい風が刺し、またマフラーを口元まで押し上げる。この間の快晴から一転、空は重たい灰色の雲に覆われており、そのせいで昼になっても気温はあまり上がらないだろうと気象予報士が言っていたのを思い出した。和菓子を入れた箱を持つ指の先がひどくつめたい。これを無事に渡せればいいが。三つ分の和菓子を入れた箱の袋がなぜか重く思えた。
記されていた住所には、駅から歩いて十分ほどでたどりついた。ここまで来ると家の外観は景色の邪魔にならない具合にカラーチェンジが行われて、先ほどよりも様々な色合いの家が多くなってくる。父の住処は、そのなかでも広い敷地を持つ黒い屋根の家だった。小さいがよく手入れされた庭は芝生が短く刈り込まれ、駐車場はガレージ付きだ。そこに父のものであろう車が停められているところを見ると、徒歩で出かけているのか、もしくは家にいるのか。しかしどこの家も閉め切られていて、まるで人がいる気配を感じなかった。
嫌な予感がする。歩の両親の家を訪れたときのことを思い出した。しかし、歩と違ってあの住所は父自身がつい最近送ってきたものだ、この数日で引っ越しなんてするだろうか。ましてや夜逃げなどもあり得ない。藍一は一歩茶色の門に近づいた。表札には『真堂』の苗字がローマ字で掘られ、ここが間違いなく真堂青介の家なのだということを伝えていた。
空気がぐん、と冷えた気がして、藍一は身体を大きく震わせた。
どこにいるんだ。あんな手紙を送ってきて、このまま会わないなんて許さない。
だが本人がいなければどうしようもなかった。電話も繋がらない。出ないだけではない、繋がらないのだ。携帯をそばに持っているかどうかわからないし、そうなるとメールも無事に届くかどうかわからない。
唇を噛み締めたとき、コートのポケットのスマホが軽快な音楽を流して震え出した。慌てて画面を見れば、この二日何度もかけ続けては玉砕していた番号が表示されている。大きく息を吸って吐いたあと、
「っ、もしもしっ」
思わず声がひるがえった。しかし、恥ずかしく思う間もなく、通話口から聞こえた声に、息を止めた。
「どちら様です。申し訳ありません、最近携帯を没収されていたもので」
笑いを含んだ波のように揺れる声。砂のようにしわがれた声。聞いたことのない男の声だ、だが記憶の底では確かに聞いた声だった。
「あ、藍一です」
「藍一?
……
あぁ、藍一か
……
」
向こうからも、一度大きく息を吸って吐いた動きを感じた。緊張しているのか? スマホを大事に耳にあてる指に力がこもる。すこしして、今どこにいる、と低い声が漏れ聞こえた。
「家の前です、あなたの
……
」
「もうそこまで来ていたのか」
すこし驚いたような声に、藍一は喉の奥で笑いそうになった。外でなければガッツポーズもしていたかもしれない。あの父の驚きを帯びた声を聞いたのは初めてだった。
「詳細は会ってから訊こう。ここまで来られるか」
そう言って父から告げられたのは、この町の大きな総合病院の名前だった。
七階の個室。部屋の中はホテルのように調度品が揃えられていて、よくドラマなどで見るような、壁も床も真っ白といった無機質感を感じさせる部屋ではなかった。父は窓際に面した白いベッドの上で手元の文庫本に目を落としながら、看護師の世話を受けていた。反射的に壁に身をつけてしまう。ぼそぼそとした喋り声だけが聞こえてくる。いろいろと話をする看護師に、父は本を読み進めたまま適当な相槌を打っているだけだ。やがて検査が終わったのか、看護師が道具を入れた台車を押して部屋から出てきた。藍一はそっと部屋の中を、ベッドに上体を起こした形で休んでいる父を見守った。父の横顔は、記憶よりもだいぶ皴が増えたように見え、
(痩せたような気がする)
十五年以上も経っているのだから変わっていて当たり前だろうと思うものの、いくらか頬がこけたように見え、首も肉の皮が余ったように垂れさがっているのが、彼と自分の間にはもう取り戻せないほど長い時間が横たわっているのだと感じた。
藍一が入ってきたことに気がついていないのか、父は顔を上げる様子がない。もしくは初めから人の存在を気にしていないのだろうか。先ほどの看護師とのやり取りもそうだ。父は一切本から顔を上げることなく、検査中も看護師の顔を一度も見ることはなかった。
この男は、おそらくそうやって生きてきたのだろう。
家族のことを、子どもがおもちゃをどこかに置き忘れてしまったみたいに捨てたのも、初めから他社の存在を必要としていなかったからだ。
「真堂、青介」
そう思うと、呼びかける声が嫌に小さくなって震えた。聞こえなかったかもしれない、改めて深呼吸をし、また名を呼ぼうとすると、父は癖のようにすぐに顔を上げて扉を見た。
「藍一か」
藍一の姿を見止めてほんのすこしだけ目を驚きに見開かせた表情は、どこか母に似たところがあった。喉の奥から絞り出された声は、記憶よりもしわがれ、低く穏やかであるものの覇気がなくなっている。しかし、ブルーグレーの瞳は思い出のなかそのままで、まっすぐに藍一を射抜いていた。
だからこそ藍一は戸惑った。怒りを持った捨て子として詰め寄るか、会いに来た息子として歩み寄るか。
「まさか、こんなに早く会うことになるとは思わなかったな」
父が本を閉じた。それでようやく近づく決心がついた。
「元気にやっていたのか」
「まあ
……
」
「百合江は」
「元気だよ。変わらない」
「そうか。息災で何よりだ」
そして父は口を閉ざした。言いたいことがあるのではないのか。凪いだブルーグレーの瞳が、藍一にそう告げている。藍一はうろたえた。今日はただ電話が繋がらないから会いに来ただけで、まさか病院に来て話すことになるとは思わなかった、と心臓がどくどく鳴る中で伝えると、そうだな、と父も口元をゆるめながら答えた。
「実は、手紙を送ったあと家で倒れてしまってな。気が付いたら病院にいた。さっきも言ったが、昨日まで検査続きだったもので携帯を触る時間がなかったんだ。手紙にはいくらでも時間を作ると書いたが、こんな形で申し訳なく思うよ」
「た、倒れたって、平気なのか
……
?」
「うん、まあ大事はない」
「病気なのか? 母さんは知ってる?」
「藍一が気にすることじゃあない」
父は目を細め、それからその話はもう終わりだとでも言うように藍一から目をそらした。は、と言葉にならない言葉が口からこぼれ落ちる。握りしめた拳が無意識に震えた。
「気にするだろ! これであんたが意識のない状態のままだったら話もできなかったじゃないか! 会いにこいって言ったのはあんただろ!」
血が逆流しそうだった。手紙を読んだときよりも、父がただの「血を分けた他人」と知ったときよりも強い衝撃が、藍一の胸中に吹き荒れた。わざわざ会いに来た息子に向かって何も伝える気はないのか。労いの言葉も、人を振り回したことへの謝罪の言葉もなしで、これですべてを終わらせようというのか。
「父親顔をするつもりはないと言っただろう」
それでも冷ややかに彼は言い放った。そらした目が、毅然としてもう一度藍一を見据えた。
「お前に私と会う意志があり、実際にこうしてまみえ、そして言葉を交わした。私がとった態度によって、お前が私に対してどのような印象を抱いたか、それで答えが出ただろう? 子どもじゃあないのだから、身の振り方は自分で決めなさい」
「なっ、勝手なこと言うなよ!」
「どうしたいか決めろと言っているんだ。言いたいことがあるなら言え」
藍一は一瞬口をつぐんだ。言いたいことは溢れるほどあるのに、いざ目の前にすると喉の奥にひっついたようになって上手く言葉が出てこない。だが、やがて絞り出すように呟いた。
「俺達を捨ててから、ここに、ずっと住んでいたのか? 捨てたくせに、どうして手紙を送り続けていたんだ?」
「最初の一年ほどは転々としたが、まあ十年くらいだな。手紙は近況報告だ。まめな百合江からの、唯一の条件だった。期間は定めない、何か月空いてもいい。だが、自分の動向を知らせられる範囲でいいから知らせてほしい。そして、私のことを微量でも心の片隅に置いておいてほしいと。百合江は私の優秀な秘書でスケジュール調整を任せていたから、その癖が抜けないのだろう」
父は驚くほど淡々とそう言ってのけた。あの何事も涼しい顔をして済ませてしまう母が、そんな風に少女のような頼みごとをするなんて相当なことだ。藍一は常に表情を崩さない母のことを思い浮かべた。父が自分たちを捨てたときも母は平然としていたけれど、そのほとんどは虚栄だったのだろう。
そこまで気にかけていた母すらも、この男は簡単に捨ててしまえるのだ。
母のことを思うと、悔しさで唇を噛み締めることしかできなかった。そしてどうしようもなく苛立ちが募った。長い間こんなことで頭を悩ませていたなんて。
(今まで俺は、)
「まめだいふく」と「いちごだいふく」を入れた箱を、大事にかかえている自分に、ひどい気持ち悪さを覚えた。和菓子を一緒に買ったときの歩の笑顔と、あのとき確かに感じていたはずの、父への情を思い出す。
(歩ならこんな終わり方にしない)
冷静な自分の咎める声が脳内に響いた。歩ならここで踏み込んでいく。自分がすっきりするまで相手に言葉をぶつけ続けていくだろう。しかし、踵を返した足を止めることは既にできなかった。
「二度と会うもんか!」
一切顔を見ずにそう吐き捨て、藍一は暴れる感情のままにスライド式のドアを乱暴に開けた。「藍一くん?」部屋から出た瞬間、今まさに部屋に入ろうとしていた誰かに呼び止められたような気がしたが、かまう余裕もなかった。
何も考えられない。
怒りが頭を支配している。落ち着いて考えたい。だが濁流のように流れ出す困惑と失望がそれを許さない。
(あんな奴だったなんて)
そうだ、これは失望だ。記憶のなかの、穏やかで優しい日常にとらわれて、父の本当の姿が見えなくなっていた。飽きたおもちゃを捨てるように家族を置いていく奴だったではないか。人のことなど意に介さず、恨まれても憎まれても我を通していく、厚顔で傲慢な男ではないか。あの手紙だってそうだ。こちらの都合など一切考えず、送るだけ送っていざ会いに来たら「こんなに早く来ると思わなかった」などと。嗤われている。藍一は廊下を小走りでゆきながら、目尻をぬぐった。こんなところで子どもみたいに泣きたくはなかった。できるだけ俯いて顔を合わせないようにしながら病院を出た。
雲の色が濃さを増している。一雨来そうな天気だった。
「帰ろう」
言い聞かせるようにそう呟いたとき、ぽつりと肩にしずくが当たった。白いアスファルトに、ぽつぽつと黒いしみができる。
藍一は和菓子を入れた箱を抱えなおして、かばうように駅へと急いだ。あのときの勇気を道端に捨てるような真似はできなかった。
・
「そっか、上手くいかなかったんだね」
「思いこんでたんだ、本当は悪い人じゃないのかもしれないって。でも会ってみたらわかったさ。あの人は確かに家族を捨てるような男だった」
降り出した雨は夜を越えてもまだ止まず、朝だというのに部屋のなかは薄暗くシンと静まり返っている。藍一は布団にうもれ、歩のメッセージを見ながら、スマホの画面に映し出された十一桁の数字の列をじっと見つめていた。もうかけようとは思えない。しかし、逃げるように飛び出してしまったのを情けなく、心残りに思う自分もいた。最後に父の顔を見なかったのも悔しかった。結局、彼の威圧感に気圧されて何も見返すことができなかった。「気楽にいこう」歩の応援も水の泡にしてしまったのだ。
昨晩、父に会い、抱いた反発と失望を伝えたとき、母はわずかに顔を曇らせていた。
「手紙を書くように言ったのは母さんだったんだね」
「あの人は、ひとつのことに集中し始めると周りが見えなくなる人だから。仕事の整理や報告のつもりで書いてくれたらいいと思っただけよ」
「
……
あんな人だと思わなかった。俺達を置いていったことなんか謝りもしないで、突然『身の振り方は自分で決めろ』なんてさ。それに
……
病気のことも。母さんは知ってた?」
母は頷いた。
「前から体を悪くしているらしいことは手紙にも書いてあったから聞いていたわ。でも、入院していたのは初耳。急なことだから仕方ないけど」
「それのこともお前には関係ないって。関係ないわけないだろ、少なくとも俺達はさ
……
」
……
本当に、あの人にとって関係ない人なのかな、俺達。
食卓の上に言葉がさびしく落ちる。母はしばらく言葉を探すように黙っていた。
「不器用なのね」
「不器用? 誰が?」
「父さんも、あなたも」
切れ長で一重の、一見すると悪い目つきに見える母の目が、柔らかく崩れた。
「俺もあの人も不器用?」
「ただ、あの人は輪をかけて酷いわ。それを直すためにも手紙を書くように言ったんだけれどね」
伝えていないことが、まだ互いにたくさんあるんじゃないの?
藍一は瞠目した。確かに、いざ目の前にすれば感情が先走って冷静になれず、何も言葉にできなかった自覚がある。それが父にもあるというのだろうか。
「母さんは、父さんが病気のことを関係ないからって黙っていたこと、怒らないのかよ」
「怒っていないわけではないわ。でも、ただ、言いたくないのはあの人の見栄だろうから」
ご馳走さま、美味しかったわ、と言って母は席を立った。藍一は椅子から動けずに、言いたいことがあるのかと尋ねるように射抜いた父の瞳を思い出していた。
あの男が何を考えているのか、何もわからない。家族を捨ててからの十五年をどのように過ごしてきたのかも知らない。繋がりを捨ててまでやりたいことがあったのか、それともやらなければならないことがあったのか。
「判断するにはまだ早いかもってこと?」
「
……
そんな風には見えないけどな
……
」
深く刻まれた皴のひとつひとつに、年齢相応の威厳と聡明さが垣間見え、弁舌で人を丸め込んで言い負かすのが得意そうに見える。しかしあの母が嘘をつくはずもない。母はとかく人を見る目がある。
「まあまだ一回しか会ってないしね」
アイイチがしたいようにすればいいと思うよ。
「したいようにってなあ」
藍一は枕に顔をつっぷした。本音を言えば二度と会いたくない。本人に向かってそう怒鳴ってしまったし、会うにしてもどんな顔をしていけばいいのだろう。小ばかにされた顔で見られて相手にされなかったら立ち直れそうになかった。
ぽこん。メッセージが届いた音がして顔を上げる。
アイイチはまた会うの嫌かもしれないけど、会えなかった俺の分まで思う存分文句を言ってきてほしい。
歩のメッセージは生意気そうな顔文字と共にそう続いていた。
そうだな、とひとりごちる。歩が望みをかけた手がかりは全くの不発に終わってしまった。得られたものもあったかもしれないが、本当にほしかった結果ではない。それに引き換え自分にはまだチャンスが残されている。父のいる場所もわかっているし、それも会いにいけるのだ。
(このまま会わない道を選べば、)
この先もうあんな思いはせずに、これまでと変わらない生活に戻っていけるだろう。だが確実にこの胸の内に燻る他念は消えない。藍一は枕のにおいを肺いっぱいに吸った。
一歩ずつ、勇気を。
藍一はベッドから起き上がった。
再び訪れた病室はもぬけの殻だった。ベッドのそばのチェストに、しおりが挟まれた読みかけの文庫本(昨日見た表紙とは違っている)と、見舞品だろうか、花瓶に生けられた花が増えている。ひまわりを小さくしたような鮮やかな黄色の花だ。近づいて見るとそれは造花だった。よく見れば花瓶には水も入っていない。
「ガーベラって言うんですよ」
「わっ」
突然背後から声をかけられ、藍一は飛びのいた。振り返れば、黒いフォーマルなスーツを身に着けた三十代過ぎほどの男性が、柔和な笑顔を浮かべて立っていた。きりっとした眉毛が快活そうな印象を与えるが、笑ったときに目尻に寄る皴のせいか、ひょうきんに見えて親しみを感じさせる男性だった。
「藍一くんですよね?」
「そうですけど、あなたは
……
?」
「私は社長の部下兼秘書を務めさせていただいております、高倉誠也と申します。あなたのお母様
――
百合江さんの後任ですね」
「父さんの
……
?」
「はい」
高倉誠也と名乗ったその男は、思い出の宝物を眺めるように目を細めて、藍一を見た。
「昔はよくご自宅までお供させていただいていたんですが、社長と百合江さんが別居なされてからは、全く訪問の機会がなく
……
。昨日も声をかけたのですがお急ぎだったようで、ご挨拶ができませんでした。申し訳ありません。改めましてお久しぶりです、藍一くん。大きくなりましたね」
藍一の頭のなかで記憶がフラッシュバックした。小学三、四年生だった頃、家によく遊びに来ていた父の部下を名乗る青年がいた。母が父の秘書であることを教えてくれたのも彼だ。そして、昨日病室から逃げ出したとき、背中にかけられた声の主も彼だったことに今初めて思い至った。初めましてと言うには懐かしく、かといって久しぶりですと言うほど彼についての記憶は色濃いわけではない。言うべき言葉に迷い、そして気づいたはずの声に知らないふりをして走り去ってしまったことにうしろめたさを感じて、藍一は思わず後ずさった。
「社長なら今は検査中です。お戻りは三十分後ごろになるかと」
「
……
よく俺だとわかりましたね」
「ええ、それはもちろん。お父様ゆずりの、すこし青みがかった目がよく似ておられますから」
似ている? 藍一は驚いた。自分の虹彩の色など気にしたこともなかった。
「俺とあの人は似ているんですか?」
「ああ、お顔立ちは瓜二つと言うわけではありませんが、そうですね、目の形や顎のラインは社長に似ていると思いますよ。鼻筋はお母様でしょうか。でも特に、ええ、その青みがかった瞳が、よくお父様に似ていらっしゃいます」
高倉さんは腕時計をちらりと見て、時間があればすこしお話しませんか、と穏やかに言った。
知らなかったことが増えていく。一度来ただけでは知り得ようもなかったことが、今まで全く知ることのなかった父のことが、自分の中に蓄積されていく。それを素直に「嬉しい」と思った。
(来てよかった)
勇気が導いてくれたに違いない。
「俺も、父について訊きたいことがたくさんあるんです」
それを聞くと高倉さんはまじめな顔をして頷き、病院にしつらえられている食堂へ連れて行ってくれた。
患者の家族や病院を訪れた人が食事を摂れるように、学生食堂のような空間と、カフェスペースが用意されている。昼のピークを過ぎた食堂は、食事の終わった家族連れやグループが和やかに会話していて、その間を縫うように窓際の二人がけのテーブルに腰を下ろした。
高倉さんは「何故来たのか」ということは尋ねてこなかった。コーヒーを飲みながら、最初は今も同じところに住んでいるのか、学校はどうかという他愛もない話をした。今は冬休みでバイトばかりしている。最近奇妙なつながりの年下の友達ができた、と冗談めかして言うと、高倉さんは目尻に皺をよせて声をあげて笑った。
「まだ、将来やりたいことは見つかっていなくて。でも何か一つだけでもこの状況や、自分を変えたいと思っていたところにそいつが現れて、いろんな場面で勇気をもらっているんです」
「勇気か
……
それはなかなかできることじゃありませんよ。尊敬します。社長も頭でわからなかったら行動だとよく仰っていますからね」
「
……
父が、どうして成人式に合わせて俺に手紙を送ったのか、高倉さんはご存知ですか?」
ああ、と高倉さんはなにか納得したような顔をした。
「百合江さんへの手紙、藍一くんにも書いていたんですね」
「この間届いた一通だけなんです。言いたいことがあるなら連絡しろと書かれていて。電話が通じなかったから直接行ったら、全く相手にされなかったものだから昨日あんなことを言ってしまって。母は、俺も父さんも不器用だからと言うんですけど」
「社長
……
」
コーヒーカップをことりと置き、高倉さんは笑いだしそうな呆れたような表情をした。父の秘書なんて務める人間は、みんな母のようにあまり表情の動かない人だと思っていたのが、子どものように屈託なく顔に出る人のようだ。母との違いに藍一はいちいち戸惑ってしまう。しかし、高倉さんはすぐに困ったような顔をして、コーヒーカップに目線を落とした。
「藍一くんが怒るのもごもっともです。でも社長は、藍一くんのことを邪魔にしてはいないとは思います。百合江さんは近況報告と一緒に藍一くんのこともよく手紙に書いてくださっていますし、社長も熱心にそこを読まれていて、たまに話してくださいますから。ただ、社長は百合江さんの言うように、ひとつのものに集中し始めると周りが見えなくなってしまう人なんです」
母が自分のことを手紙に書いて送っていたことに藍一は驚いた。それを父が目を通していたということにも。だが、高倉さんのようすから、それを素直に受け止めて喜ぶような雰囲気ではないことが感じ取れた。
「社長には時間が無いんです」
高倉さんは絞り出すようにそう言った。力なくこぼれた言葉がコーヒーカップに落ちる。
時間が無い?
嫌な予感が藍一の脳内をかけめぐった。父の痩せた頬、肉が垂れさがった喉元を思い出す。そしておそるおそる言った。
「父は、長くないんですか」
「
……
はい。これはまだお母様にもお知らせしていないことですが、お父様は癌を患われております。余命は一年半と
……
」
「なっ」
短すぎませんか、と大声で叫びかけた声を瞬時に飲み込み、藍一は呆然と高倉さんの顔を見つめた。高倉さんは申し訳なさそうに頭を垂れ、体調管理を怠った私のミスです、すみません、とちいさな声で言った。
「当時、弊社は多大な経営不振に陥っていまして
……
。その経営を立て直すために、社長はいろんなところを駆けまわって精一杯尽力されていたのです。社長が苦節して守ってくれなかったら私たち皆路頭に迷うところでした」
今もそのことを思い出すのが辛いと言うように、高倉さんは眉を寄せ、テーブルに目線を落とした。
「言い訳をするつもりはありませんが、私も自分のことを省みられないほど忙しいときでした。そのとき起こった社長の体調の変化にも気づけずに
……
。それが八年ほど前のことになります」
「五年間も、このままで
……
?」
「会社が持ちこたえたタイミングで検査のための通院を続けていましたが、弊社も社長も厳しい状況なのは今も変わりません。それを解消するため、社長は入院した今でも業務を続けていらっしゃいます。そこに集中しすぎて藍一くんに心を割く余裕がない、という可能性が
……
」
「そんなに大変なら今連絡してこなくたって
……
」
言いかけたところでハッと口をつぐんだ。時間が無い。高倉さんの言葉を思い出した。自分の体が確実に悪くなっていることを理解した父は、会社を立て直さなければいけないこと以外に、まだ自分が自由でいられる間に片付けておかなければならないことがあると思い至った。自分たちのことが気がかりだったからこそなのか、それとも戯れのように思い出しただけなのかどうかは分からない。だが、自分の体を圧してまでこうして機会を設けようとしたということは、父にも、藍一に対してなにか伝えたいことがあるという何よりの証拠なのではないだろうか。
癌。その言葉を繰り返し反芻する。あの母でさえも、その病名と余命一年半と聞けば、取り乱して病院へ向かおうとするだろう。目にもとまらぬ速さで病院の近くのホテルをおさえ、毎日のように病室を訪れて顔色を確認してくるかもしれない。そのことが容易に想像できて、そんな場合ではないのに藍一はちいさく噴き出してしまった。
「藍一くん?」
「いえ
……
わかりました。今度は逃げずに、真正面から、父さんの真意を聞きたいと思います」
「そうですね。こちらとしても、そうして頂けるとありがたいです」
藍一のこぼした笑みにつられたのか、高倉さんも表情を崩した。カップに残っていたコーヒーを最後の一滴まで飲み干し、「そろそろ社長が戻られているかもしれません。行きましょうか」と腕時計を見ながら言った。
藍一も慌ててコーヒーを飲み干して席を立つ。午後二時を回ったあたりで、射しこむ陽が既に傾き始めているのをカップの影の長さで知る。
「あっ、そういえば言い忘れていました」
廊下を歩きながら、高倉さんは藍一のほうを振り返った。
「成人、おめでとうございます。多くの人が、成人したところで何も変わらないと思っているかもしれませんが、私はこの歳になってすこし思うんです。この世界は思ったよりも広く広く選択肢が枝分かれしていて、若い頃はそれが全く見えていなかったのだと。セオリー通りに大学を卒業して、みんなやっているからと就活をして、一度入社した会社を辞め、藍一くんのお父様に会ってやっと気づきました。社長は外国人の血が流れているからか、私が想像するようなどの枠にも当てはまらないことをするんです。勿論無茶もたくさんするし、私も百合江さんもそれに振り回されてきたんですけどね。けれど、そうやってかまわず走っていくような社長を見たときに、ああ、一歩だけでも道から逸れるだけで、それまでとは違った世界が見えるんだと、目が覚めるような心地がしました」
確かにあの人は、あなたの父親にしては希薄かもしれない。自分勝手で、頭がかたくて、人を振り回すことになんの憂慮もしない人だった。でも、そのくせに何故か記憶に残るのは悪い印象ばかりじゃなかった。
とつとつと語る母の声が脳裏に蘇った。ああ、その通りだ。一度目の出会いで失望が生まれても、嫌悪がはびこることはなかった。記憶までが汚れていくことはなかった。
「だから、変わるために一歩でも足を踏み出していく藍一くんは、とても素晴らしいと思います。この道は一本道じゃない。そして、他人の考える幸せが、藍一くんの幸せであるとも限りません」
「俺の、幸せ」
「そう。きっとお父様がいなくても、今まで藍一くんは幸せだったはずです」
「は、はい」
手紙が来るまで父のことはすっかり忘れていた。苦い思い出はあったものの、母と二人暮らしでも十分幸せだった。
俺は、また三人で一緒に暮らしたいと思っているだろうか。
そう自分に問うてみる。母のことを考えたら父に打診してみるのも良い手だと思った。父は病気に罹っているし、改めて三人で支えあって暮らしていけるかもしれない。そして幼い頃には得られなかった、父、母、息子という家庭の幸せの形を、今改めて得ることができるかもしれない。
「藍一くんの思うとおりに進んだり、止まったりしてください。他人がそれをとやかく言う資格はありませんから」
そう言って微笑んだ高倉さんに、藍一はちいさな声で「はい」と返した。
気づけば父の病室の前にたどり着いていた。ネームプレートに書かれた「真堂青介」という字に、なぜか言いようのない懐かしさを感じた。
ドアが開き、高倉さんが失礼しますと言って腰を曲げる。父は緩慢に顔をあげ、そして藍一を見、それから高倉さんに視線を戻し「進捗はどうだ」と枯れた低い声で問うた。
「社長、本日の業務はこちらで滞りなく進めておりますので、今日はもうおやすみになられて構いません」
「しかし交渉の案件は」
「そちらも段取りはついています」
「ほう。だとすると
……
」
「社長」
高倉さんの声がぴしゃりと病室に響き渡った。父はゆっくりとまばたきをし、それから張りつめた糸がハサミで断たれたかのように、ベッドの背もたれに体をあずけた。その視線が藍一に向く。この日本にルーツのない外人の血が混じった瞳が、同じ血を含んでいる瞳を、そのなかに同類を探すように見つめている。
「今日はもう仕事は無しか」
「ええその通りです」
「
……
わかった。高倉、ありがとう」
高倉さんは口元に笑みをつくり、それでは、と深く腰を曲げて病室から去っていった。すれ違う瞬間、藍一には最後に言葉もそぶりもなかった。だが、それが逆に藍一の緊張をほぐしてくれた。
『頑張れ』って言われるのも嬉しいけど、『気楽にいこう』って言われたほうが安心しない?
歩の屈託のない無邪気な声が聞こえてくるようだ。それに背を押されるように、藍一は吸った息を吐き出した。
「父さん」
声はよどみなく喉から滑り出て、今度は何の気負いもせずにベッドのそばに近づくことができた。
「二度と会うものかと言われた気がしたんだが」
「気のせいだったんだろ」
藍一の言葉に、父はくっと喉の奥で笑いをこぼした。何をしにきた、と枯れた声が問えば、藍一も立ち向かうように答える。
「あんたの話を聞きに来たんだ」
言いたいことがあるんだろ?
今度はこの目から、ブルーグレーの瞳に向かって言ってやった。父は、深いため息を吐いたあと、本を探そうとしたのだろうか、チェストに向かっておもむろに手を伸ばしたが、その手は空を掴んであきらめたように布団の上へ戻った。
「
……
大きくなったな」
そして出てきたのが父にしては月並みな言葉で、藍一は思わず恰好を崩してしまった。しかし、そういえば昨日は、そんな成長を見てくれるような言葉すらもかけられないまま去ってしまったのだった。
茶も出せないが、と呟きながらベッド側から簡易椅子を寄越してくれる。そこに座るともう父は本当に目の前で、改めてまじまじと顔を見ると、記憶の中の忘れてしまって穴の空いた部分にぷつぷつとピースがはまってゆくような心地がした。そうだ、父はいつもこんな顔をしていた。佇まいから、所作から、どこか相手を委縮させるような風格がひしひしと伝わってくるのに、その目にはあたたかみすら感じられて、優しく見守られているように思えてやまないのだった。それがあるから、彼を憎みきることができない原因でもあった。
(もう、逃げない)
藍一と青介は同じ目をして互いを見ていた。
「高倉さんから聞いたよ、病気のことも余命のことも、全部。だからもう隠し事はなしだぞ」
「隠してたわけじゃあない。藍一の『これから』に必要のないことだと思っただけだ」
「だからどうして俺のことをあんたが勝手に決めるんだよ! 関係ないわけないだろ、俺も母さんもあんたの家族なんだから」
「お前は私のことを父親だと思えるのか?」
挑むように投げかけられた問いに、藍一は一瞬口をつぐんだ。
それは散々自分のなかで何度も問いを重ねたことだ。籍もいれておらず、ただ自分に同じ血とすこしの遺伝子を分けただけの男を、父親と呼べるのだろうかと。父と呼ぶには記憶のなかの影形はうすく、しかし他人と割り切るには情がある。だが。
不器用なのね、あなたもあの人も。
母の言葉が蘇った。
お父様ゆずりの、すこし青みがかった目がよく似ておられますから。
高倉さんの穏やかな声も。
どう目をそらそうとしたところで、目の前にいる男が確かに自分の親なのだと、そしてこの男の息子が間違いなく自分なのだと、周りに、自分の血に自覚させられる。なら、目に見えた事実を否定し続けるより受け入れてしまったほうが気楽でいい。
「もちろん嫌だよ、こんな人が父親なんて。でもあんた、それでも、あんたが俺の父さんってことからは逃げられないだろ」
「
……
たいした父親じゃあない。だが、たいしたことなくても父親にはなれてしまう」
父はしわがれた手で白髪の混じった髪をかいた。
「自分のことで精いっぱいで、家族のことなど省みもしなかった。愛してやれると信じたこともあったが、自分の中にそんな情緒はあげられるほどなかったと気づいた。親には向いていなかったんだ。百合江には迷惑をかけたと思っているよ。お前にあげられるものも、何もない」
「邪魔だから捨てたんじゃないのか」
父は勢いよく顔を上げた。そんなこと、乾いた唇が震えたが、「そう思われても仕方がないな」眉を下げた。
「守ることに必死だった」
「家族以外のことを」
「
……
そうだ」
言い訳に過ぎない。だが、肩を落としてうなだれる父を見ればそれ以上責めるのはためらわれた。守らなければ、生きていけなかった。父が置かれていた状況はきっとそんなところだったのだろう。
社長が苦節して守ってくれなかったら、私たち皆路頭に迷うところでした。
顔を歪めてそう呟いた高倉さんの言葉を思い出す。
父がいなければ生きられなかった人たちがいた。自分は、父がいなくても十分幸せに生きていけた。その違いだけだ。
「わかった。仕方ないよな」
憎まれていたわけではなかったのだと、深い安心から息を吐いた。ようやく張りつめていた緊張が心の底からほぐれた気がして椅子に座りなおす。
「手紙は? なんで成人式に合わせて?」
「今まで何もできない父親だったからな。
……
そうだ、お前が『大人』になったからだ」
「大人に」
どきりと心臓が高鳴った。
何をもってして「大人」と呼ばうのだろう。高卒で働くことを母に止められ、「やりたいことをさがしなさい」と大学へ進んだものの、やりたいことも見つかっていない。スーツに袖を通してもなお自分の将来が明確に見えていない。そんな自分がどうして大人と呼べるのだろうか。
「俺はまだ、大人じゃないと思う」
「二十歳になったんだろう」
「そういうことじゃなくてさ」
父は目を細めた。
「だが、私の眼にはもうお前は子どもでないように見えるよ」
「気休めなんか言うなよ」
「私は気休めなど言わんさ」
どういうことだよ、と藍一は眉をしかめて訊いた。
まず体つきがもう子どものものではないだろう。喉仏も出ているし声も低い。髭も否応なく伸びるようになっただろう? 父は指をひとつふたつと立てながら滔々と語った。
「だからそういうことじゃなくて!」
「だが、そういうところからだ、藍一。まず身体から大人になっていく」
父は立てた指をゆらゆらと動かしてみせた。
「精神はあとからついてくる、それもすこしずつな。何事も劇的に変わるということはない。すこしずつ、一歩ずつ、何かに向かって進んでいく。しかし難しいのは、精神はそうしようと思わなければ変わらないことだ。だが、一歩ずつでも進むことができるなら、それはもうお前が『大人』だという証拠なんだ、藍一」
俺が。
それでいいのか、と落ちた言葉に、「良いんだ」と低く穏やかな声が重なった。
「偉そうなことを言ったが、ここまで長く生きてきて私もまだ立ち止まることがある。誰しもそうだ。だから、そう気負うな」
窓から滲み入る黄金いろの光が、一瞬強く藍一の顔を照らし、そしてビルと住宅の隙間に暮れてゆく。藍一はしばらく耐えるように目を閉じ、息を大きく吸った。鼻の奥がつんとする。それでも涙の粒がこぼれるまでは耐えきったが、再び見た父の顔が大きく滲んでいて、藍一は思わず笑った。
バイトはやっているのかと訊かれ、ファミレスで働いていると答えると、そうか、私はやったことがないからアドバイスはできないが、ともごもごと言う。学校はどうだ。まあまあ。そうか。
幼い頃の感触と時間を取り戻すように、それからいろいろなことを話したが、生活のことになると途端に話し方がぎこちなくなる。特に母の話をするときなどは全く藍一の目を見ない。確かに父は部下を牽引する敏腕社長には向いているのかもしれないが、父親にはとんと向いていないように見えた。高倉さんが聞いたら苦笑いをしていたかもしれない。それは家族の会話と言うより、家族をなぞるような会話だった。
(輪をかけて不器用、か)
幼い頃の自分は、やはり過剰に怖がっていただけなのかもしれない。間近で見る父は、息子に対してこんなにも伝うるべき言葉に迷う老人だった。
いつのまにか時刻は午後五時を指していた。面会時間は二十時までに設定されているが、そこまで長居する理由もない。
藍一が立ち上がると、父は「勝手を言うが、」と呟いた。
「私はやはり父親には向かない。もう一度家族をやり直すこともできるだろうかと思ったが、お前たちに迷惑をかけるだけだろうと、話して思ったよ。藍一、すまない。そしてありがとう、来てくれて」
わかっていたのか。
ベッドに座りこちらを見る老父に、藍一はゆっくりと頷いた。父は穏和に笑っていた。それは間違いなく父の意思だ。それでいいと思うなら、こちらもそれでいいのだろう。
「俺の友達が、『自分らしくないことをしてみるのが勇気だ』と言ってたから、俺も、勇気を出して父さんに会いに来たんだ。それでわかったことがある。俺もちょっとはやり直せるかもしれないと思ってた。でも、もう父さんのことを考えて悩むのは、やめたいんだ」
父はどこまでも穏やかに頷いた。
「父さんが俺と母さんにしたことを俺はずっと許さない。俺と父さんはこれからも一緒に暮らすことはできない。だけどあなたは俺の父親だ。それはずっと変わらない。俺とあなたはもう、家族には戻れないけど」
父から手紙が届き、変わりたいと悩みながら願った自分。歩に出会い、進む勇気をわけてもらった自分。両親が籍も入れていなかったことに激しい怒りを感じた自分。その今まで自身を襲った嵐のような感情を思い出し、これを言うことが勇気だったのだと、そのすべての自分たちに告げたくなった。
「俺はあなたのことを憎まないし、また誰かと幸せになってほしいと思うよ」
陽はとうに沈んだ。父はゆっくりと目を閉じ、頷いた。その動作が長く思えたのは感傷に過ぎなかったらしい。
「さよなら、父さん」
「さよなら、藍一」
そして藍一は病室を出た。こんなに優しい気持ちでさよならを言ったのは初めてだった。
・
父の余命が一年半であることを伝えると、案の定母はものすごい勢いで荷物をまとめ、「二日泊まってくるわ」と朝突然藍一に告げた。
「父さんはもう家族をやり直す気はないらしいけど」
「これは職務です。私情ではないわ」
見舞いに私情を持ち込まないのもどうかと思ったが、母のその割り切りの良さを藍一は好んでもいたので何も言わなかった。母は息子の藍一に対しても顧客と接しているような話し方を突然するときがある。
「あ、そうだ。これ持っていって」
見舞いの品は何にしようか迷っている母に、藍一は冷蔵庫から白い箱を取り出した。「まめだいふく」と「いちごだいふく」が三つずつ入っているほのかな重み。これは?という顔をする母に、「俺からの気持ち」と藍一は買ったときのことを思い出しながら言う。
「三つずつ入っているから高倉さんと三人で食べて。世話になったから」
「ちょうどよくあるものね。あなたはいいの?」
「大丈夫」
ありがとうと言って、母は慌ただしく家から駆けて出て行った。その背を見送りながら、藍一は歩に電話をしようと思った。歩なら、今感じているこの奇妙なさびしさを受け止めて、笑い飛ばしてくれるだろう。ありがちだよ、なんて言って。
わかりあえない。俺とあなたはわかりあえない。共には行けない。
それでもあなたを、最後まで憎むことはしない。
俺はあなたの健康を願うし、あなたの幸せを祈っている。
Reaction
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.
Custom color
Reset color
広告非表示プランのご案内