かずわや
2017-09-24 18:36:56
8278文字
Public 刀剣乱舞
 

漬けサーモン丼が食べたい御手杵

槍村正が仲良しです。自本丸設定あり
漬けサーモン丼むり……食べる……

 漬けサーモン丼。
 ごくりと無意識に鳴った喉に、俺はある種恐怖を感じていた。
 サーモンは前に食べたことがある。ある日大安売りされていたのを大量に買い込んで来た陸奥守吉行の勧めもあって大盛りのサーモンの刺身が夕餉に並んだときがあり、そのときに俺はこの世には魚を切るだけでこんなに美味いものが出来上がるのかと感動したものだった。
 瑞々しく明るい橙の身は肉厚で、ほどよく脂が乗ってきらきらと光り、醤油につけてほかほかの白米と一緒にかきこんだ瞬間はたまらない極上の時間だった。美味すぎてため息を吐くなんて初めての経験だったし、今思い出すだけでもよだれが出そうになって締まらない顔になること請け合いだ。現にあのときも「締まらない顔になっているぞ」と隣の蜻蛉切に笑われたし。
 けれど厨組が作るものはなんでも美味くて、日が経つうちにその日味わったサーモンの美味しさもいくつかの美味しい食べ物の記憶の中に埋もれていった。
 だが、今日、思い出してしまった。あの美味しさを、あの心のときめきを、あの極上の時間を!
 漬けサーモン丼という言葉が光り輝きながら俺の視界に飛び込んでくる。漬けサーモン丼ってアレだろ? あの夕餉のときは刺身をちょろっと醤油につけてご飯と一緒にかきこんだだけだが、醤油にひたひたに浸かったサーモンがほっかほかの白いご飯にもう乗っかっているのが漬けサーモン丼だろ? さも共に食べてくださいと言わんばかりのフォーメーションを、脂が乗った上に醤油の味が染みた肉厚のサーモンと暖かでほんのり湯気を揺らしてサーモンと自身の甘みも引き立てる白米がとってるんだろ?
 ああ、そんなの絶対美味いに決まってる……
 俺の目と頭はもう漬けサーモン丼のことしか考えられなくなって、遠征中だっていうのに任務のこともすっかり頭から抜けてしまっていた。
「どうした御手杵」
 遠征先の2017年の街並みに合わせ、ワインレッドのパーカーに黒のジーンズですっきりときめた蜻蛉切が、海鮮丼屋の前で立ち止まった俺に近づいてくる。サングラスで隠された目が(どうでも良いが今の蜻蛉切はあまり一般人のようには見えない。ちょっと怖いお兄さんだ)俺の見つめる品書きを見て、ほうと感心したように一息吐いた。
「サーモンか、前に夕餉で食べたきりだな。あれは美味かった」
「なあ、そうだよなあ~! もう一度食べたいよなあ」
「うむ、機会があるなら自分も食べたいが」
「今はそんな時間ありませんよ? 分かっていますよね?」
 キン、と涼やかに冷えた声が落ちて俺は背筋を伸ばした。白くつばの広い女優帽を目深に被り、薄桃色の薄手のセーターと白いスキニーパンツ、濃い紫のストールを羽織った、どこのランウェイを歩くモデルだよと突っ込みたくなる洋装の宗三が、サングラスの奥の目で俺たちを睨みつけている。
 怖いのはこれだ。
「分かってるさ! 分かってるけどお!」
 俺はもう任務を遂行できる身体じゃないんだ、そっちも分かってくれよ!
 なんて言っても分かってもらえるはずもなく。
 籠の鳥とは名ばかりの腕力であえなく俺は海鮮丼屋から引きずり離され(関係ないけど左文字ってみんな見ためより乱暴だよな)、漬けサーモン丼に後ろ指を引かれながらも俺はなんとか任務を遂行して本丸に戻ったのだった。

「はぁ……
 あの遠征から3日経ったがあれからため息が止まらない。厨の全指揮権を握るとされている光忠にも直談判してみたものの、もう全員に振る舞うことができる量のサーモンは買い込めないと言われてしまった。本当の誠意で、困った顔して言われてしまえば俺も引き下がるしかない。そう、忘れられない俺が悪いんだからな。
 でも止まらないため息は許してほしい。
「漬けサーモン丼……漬けサーモン丼……
 魔法の言葉みたいに俺を縛り付ける魅惑の響き。魔法というよりもこんなの呪いみたいなものだ。自分の理性を保てなくなりそうで恐ろしい。現に何度か意味もなく厨に足を運んでしまって歌仙に怪訝な目で見られたし、はっと気がつくと厨に足が向いている。今日もその例に漏れず、手合わせをしていたはずの俺は、気がつくと厨の目の前にいた。休憩中だったのが幸いした。というか休憩中だったから無意識に稽古場を出てきてしまったんだろう。相手の同田貫には悪いことをした、きっといきなりいなくなって呆れてるよな。
 なかを覗くと珍しく誰もいなかった。ふらふらと夢遊病者みたいに歩み寄り、冷蔵庫を開ける。60人分の食料を備蓄するために冷蔵庫は2台設置されており、そのどちらも俺より縦も横も大きかった。なかを物色するもサーモンなんてあるはずがなく、自分でも驚くほど大きなため息がこぼれ出る。
 あー、俺ほんとうにダメだ。
 漬けサーモン丼が恋しすぎて何もかも手につかないなんてみっともなくて情けない。三名槍が聞いて呆れる。仕方ないから水のペットボトルを取り出して、コップに開けてぐびぐびとやる。これですこしでも空腹と漬けサーモン丼への執着が紛れたらと思ったのだが、やっぱり水でさえもこの渇きが癒されることはなかった。
「御手杵」
 ふと声がかけられてヒャンと肩が跳ねる。いや、恐れることはない。歌仙や光忠だったら何をしてるのかと問われて答えに詰まっただろうけれど、この声は勝手知ったる朋輩の声だ。
 振り返れば、タレ目の奥の藤色の目が愉快そうに歪んだ。
「なに探してンだか知らねーが、面白そうなことしてんじゃねーか」
「面白いことなんて全然してないだろ、日本号……
 漬けサーモン丼への執着が祟ってもはや夢遊病者のようになっているなんて全く面白いことじゃない。それに日本号はこういうときからかってくるからあんまりバレたくもないのだ、まあ別に俺もあいつもお互いのことを弁えているから別にバレても良いんだが。面白がって蜻蛉切に言いつけるような奴でもなし、付き合いやすいと言えば付き合いやすい。
 バレたくないのは三名槍と対の槍だからという俺のちっぽけな矜持のためである。
「蜻蛉切から聞いたぞ。漬けサーモン丼が食いたいんだってな?」
「うええ、聞いたのかよ……
「ま、最近あんたおかしかったしな。それで気になって蜻蛉切に問い質したってだけだ。恨むなら自分の分かりやすさを恨むんだな」
「分かってるよ、俺が分かりやすい奴だってことぐらい……。でもこればっかりはなあ、止められねえんだよなあ」
「取引をしようぜ、手杵の槍」
そう言って日本号は一歩ずつ俺に歩み寄ってくる。藤色の目が爛々と輝き、これはろくでもないことを考えている顔だ。
「取引? 俺に取引を持ちかけるって?」
 だがあえて乗ってやる。先にも言った通り、日本号は俺の朋輩なのだ。なんていうか思考回路が似てるってやつ。日本号の言いたいことが俺にはなんとなくわかるから、俺は歩み寄ってくる日本号を正面から見据えて受け止める。その口がお互い笑っていることなどもはや言わずとも知れている。
「冷蔵庫の共有スペースの酒はひとりで飲んじゃいけねえルールは知ってるよな?」
「ああ、そりゃ独り占めはよくないもんな。それがどうかしたか?」
「あの中にとっておきの酒がある。極上の酒だ。俺はそれが飲みたい。で、あんたは漬けサーモン丼が食いたい」
 ごくりと喉が鳴った。似たような恐怖心を、俺は高鳴る期待に覚えた。日本号がにやりと笑う。
「俺が漬けサーモン丼を作ってやる、その代わりに俺とその酒を飲め。独り占めじゃないしな、悪い話じゃないだろう?」
……あんたに作れるのか?」
「刺身は肴に打ってつけだからな、扱いには慣れてる。それより手杵。お前には断る選択肢などありはしない、そうだろ?」
 そうだ。
 再び喉が鳴った。
 飢えた喉が衝動を抑えきれずに渇き出す。これはよくないことだと囁く声も確かに聞こえた。冷蔵庫の共有スペースに入っている酒は宴会の時だったり新しい仲間を迎えた歓迎会のときに開けられる特別なもので、こんな晩酌のときに開けて良いものじゃない。しかも日本号は槍部屋の自分のスペースにちいさな冷蔵庫を置いていて、自分で買い込んだ酒をそこに仕舞っているのだ。それでは足りないと言うのか、正三位は禁断の酒に手を出そうと言うのか。
 咎める声は矢の如く降ったが、あの日から漬けサーモン丼を求める俺の声、内なる俺の声が全て覆いかき消してしまった。
 俺には抗う術なんてない。漬けサーモン丼が食べたい。その思いのために数日廃人のようになっていたのだ、日本号からの取引は願ってもないことだった。俺はおもむろに右手を差し出す。日本号も右手を上げ、その両手はがっしりと協定の儀を結んだ。
「だが、作戦決行は明後日だ」
「あさってえ!? 今じゃないのかよぉ……
「アホ、漬けサーモン丼には準備が要るんだよ。この正三位が完璧に美味しく作ってやるからおとなしく待ってろ」
 漬けサーモン丼が食べられるなら我慢するけど。不服だが完璧に美味しく作ってやると言うのなら2日くらい我慢できる。日本号は有言実行の男でああ見えて完璧主義なところもあるから、自分で言ったのなら信頼が置ける奴だ。
「じゃあ明後日、丑の刻に」
日本号は耳元でそう囁き、満足そうに悪い笑みを見せると、そのまま厨を出て行った。
「あ、御手杵ようやく見つけましたよ」
「ん?」
 入れ違いに村正が入ってくる。この間本丸に来たばかりだが、蜻蛉切が出ていく形じゃなく村正が槍部屋に入ってくる形になったために俺たちの部屋は「槍村正部屋」となった。俺にとっては蜻蛉切の身内なら俺の身内に近いものがあるだろうという感じで接しているからか、村正は思ったより早く本丸に馴染んで、個性の強い打刀のなかでも仲良くやっているようだった。捉えどころのない不思議な奴だけど面白い奴だ。
 俺と蜻蛉切と日本号は家族じゃないが身内のようなもので、槍は距離感がおかしいってよく言われるのはそうなのかもしれない。けれどそうならば違和感なく俺たち槍の中に溶け込んでいる千子村正もおかしいし、結局のところ距離感がおかしいのは槍と村正だからなのでは? という結論が俺のなかで密かに出ている。
「同田貫が探してましたよ、ここで何をしてるんデス? 日本号が出て来たところも見ましたが」
「何でもない。休憩中水を飲みに来て、日本号とちょっと立ち話しただけだ。すぐ戻るよ、わざわざ探しに来てくれてごめんな」
「そこは有り難うと言うところデスよ、御手杵?」
 そして多分、なんだかんだ言ってこいつは人間のことが好きなのだと思う。昼に広間のテレビで乱と一緒にひるどらなるものを観てることもあるし、蜻蛉切から借りた書物もわりと読んでいるようだし。俺よりもよっぽど人間が出来ている。そうやって人間みたいな言い回しをしたあとで、村正は楽しそうににこっと笑った。
「ああ、そうだなぁ。有り難う」
「どういたしまして。……最近なにか悩みがあるようだと蜻蛉切が言ってましたが、悩みは晴れましたか?」
「うええ、あんたにも言ってるのか」
「深くは訊いてまセンよ。ワタシは村正のファミリーデスが槍のファミリーではありまセンからね、huhuhu……。まあ、槍に言いづらいことがあったらワタシに言っても良いんデスよ」
 不思議な奴で面白い奴だけど、こいつも基本的には本当に良い奴なのだ。うん、悪い奴じゃないって蜻蛉切が言うのも分かる。
「有り難う、大丈夫だぜ。さ、手合わせに戻るかあ」
「次はワタシとも脱いだり脱がされたりしまショウ!」
「ん、んー、おー、いいぜ」
 悪癖はあるけどな! あんまり深い意味があって発言しているわけじゃないのは青江との付き合いで慣れている。要するに青江が増えたと思えばいいのだ。
 さて、そろそろ戻らないと本格的に同田貫が怒ってしまう。他人に踏み入るべからずがモットーの同田貫だから基本的に俺の自由にしてくれるけど、自由が過ぎたらそりゃ怒られるってもんだよな。気分を切り替えて厨を出ると妙に晴れ晴れしい気持ちになって、日本号と村正のおかげで、漬けサーモン丼に対する俺のどうしようもない執念はすこしだけ薄れたように思えた。

 微かな虫の声がからんころんと聞こえてくる、虫は眠らない午前3時。日本号と約束した丑の刻だ。
 昨日、日本号は万屋から何か買ってきて厨でなにやら細工をしていた。もちろん漬けサーモン丼の準備をしてくれていたのだ。燭台切に「なに作ってるの?」と言われた時はドキッとしたものだが、「つまみ作ってんだ、あんたらの材料には手出してないぜ。自分でちゃーんと買ってきたからな」と冗談めかした日本号のおかげでどうにか怪しまれずに切り抜けることができた。
 隣でぐっすり寝入っている蜻蛉切と村正を起こさないように布団を抜け出し(恐らくこれがいちばん難しい)、青白い月の光が陽炎のように揺れながら照らす縁側を、音を立てないように歩く。槍は夜目が効かないが、今夜は明るい月のおかげで難なく厨まで辿り着くことが出来た。
 日本号は次郎と宴会だと言って部屋に戻ってこなかったため、厨で落ち合うことになっている。案の定厨には明かりが灯っていて、白いタンクトップの広い背中が見えた。
「よう」
 息を潜めて囁くと日本号が口の端を上げながら振り返る。「そこに座っときな、今から仕上げだ」
 日本号は電子レンジから温めた夕餉の残りの白米を取り出し、丼ぶりにこれでもかと山のように盛り付けた。これだけでもよだれが出そうなのに、ここで真打ち登場。冷蔵庫の奥から出てきたのはサーモンがたっぷりと浸っているタッパーだ。見つからないように奥に隠しておいたらしい、器用なことができる奴だ。
 蓋を開けるとふわん、と香ばしい香りが漂った。あれ、これって……
「麺つゆとごま油? 醤油じゃないのか?」
「麺つゆは出汁が効いているからな、もっと香りよく出来る」
「へえ、そうなのか……
 顕現したのは俺の方が先なのに、どこでそういう知識を得てくるんだか。持って生まれた知識なら俺ってからっぽすぎじゃないか?忘れてるにしても酷いレベルだ、ちょっと落ち込む。
 そうこうしてるうちにほかほかの白ご飯にサーモンがでん!と乗ったどんぶりができて、そわそわと椅子に座って待つ俺の前に運ばれてきた。
 麺つゆとごま油の香りが厨いっぱいに広がって、香ばしいその香りがスッと鼻に通っていくのが心地いい。うう、そうだよこれがずっと食べたかったんだよなあ! 思い描いていた姿に感動して反射的に箸を取った俺を、「待て」と言葉ひとつで日本号が止める。
「な、なんだよ……
「まだ仕上げは終わってねえぞ」
 そう言って取りだしたのはネギと白胡麻だ。軽く洗ったネギを日本号は軽快に小口切りにしていく。なるほどつまみを作り慣れてるだけあって包丁さばきも様になっている。羨ましい……俺は刺すしかできないからなあ……
「なに遠い目をしてるんだよ、ほら」
 俺は目を見開く。
 日本号が笑いながら、仕上げとばかりにネギと白胡麻を振りかけた。きらきらと光るサーモンの身を飾るように落ちていくネギの鮮やかな緑、そして白胡麻のかすかな風味たっぷりの香りも広がって——なんて罪深いことをするんだ、日本号!!
「そして忘れちゃいけねえこいつだな」
 冷蔵庫から引っ張り出してきた豪華な飾りのついた一升瓶と2つのお猪口を持って、日本号が向かいに座る。ほかほかのご飯に秘められた極上の酒。酒が注がれるその間すらももう待てなくて、俺の顔は締まらないどころかトロトロに蕩けていたに違いない。
 日本号が箸を取って手を合わせる。
 もう、もういいよな?
 目で訴える俺に日本号はにやりと笑って返した。
——いただきます」
 その瞬間、俺は意識がどこかへ飛んでいた。
 口いっぱいに広がる麺つゆの奥深い味とごま油、そしてサーモンと白米の甘み、そのアクセントをもっと引き出すように添えられたネギの新鮮な噛み応えと白胡麻の風味——
「美味い……
「おいおい、泣くほどかよ」
「だ、だってっ、ずっと食べたかったんだ……! こんな、しかもこんな、俺の想像以上に美味く作りやがって! 日本号の馬鹿野郎! 料理上手っ!」
「褒めても漬けサーモン丼しか出ねえぞ」
「十分だぁ!」
 もりもりご飯をかきこむ手と涙が止まらない。日本号は俺を見て笑いながら酒を含み、「お、美味えな」と十分すぎるほどに満足そうな顔をした。もちろん酒も頭が痺れるくらいに美味くて、一気にお猪口が空になるほどだった。
「そんな呑み方したらもったいねえだろ」
「悪いなあ、本当に止まらなくて……
「ま、そこまで喜んでもらえたら何でも構わね、え、が……

「見つけたぞ」

 厨に大きな影が落ちる。酒を注いでいた日本号の手も、どんぶりをかきこんでいた俺の手も、瞬間冷凍されたみたいに止まっておそるおそる入り口に目を向けた。
 血を吸い込んだように鈍く輝く赤い髪。いつもは穏やかな夕暮れ色の目が噴火のごとく燃え上がり、般若をそのまま受肉させたような男が仁王立ちしている。
「一昨日昨日今日と何やらこそこそしているかと思えば……!」
「夜の逢瀬ならワタシも是非呼んでほしかったデスね」
「うおっ!?」
 いつの間にか村正が日本号の隣に着席していた。むふふ、と楽しそうに笑んだ顔だが勿論俺たちを逃がすことはしない。隣の村正、入り口の蜻蛉切。完全に俺たちは逃げ場を失ってしまったのだ。
「槍の隠蔽が打刀の偵察に勝ると思いましたか? くわえて闇の中、アナタ達の衣摺れの音とひそやかな息遣いはちゃーんと聞こえていましたよ、huhuhu……
「村正、すこし黙っていろ」
「とんぼきりっ、これには理由が」
「蜻蛉切」
 俺の言葉を遮るように日本号が立ち上がる。こんな大窮地なのにいつものように軽く笑っている日本号に俺はつばを飲み込んだ。一体何を言うつもりだ、この状態の蜻蛉切に言い訳なんか通用しないことは長い付き合いの中であんたも分かっているはずなのに。村正もおやという顔をして、楽しそうに、だが緊張気味に二人の行く末を見守っている。
 日本号が口を開く。

「お前も漬けサーモン丼、食いたいんだろう」

 蜻蛉切の目が驚きに見開かれた。聞いていた俺もえ、と声がこぼれ落ちる。途端に誂えたかのように大きな音が厨中に響いて俺は更に仰天した。
 今のは腹の音だ。
 誰の?
 蜻蛉切が肩をすくめてぷるぷると震えている。見ていて可哀想なくらい、誰が腹の虫を鳴かせたのかは一目瞭然だった。
「そこ座りな」
「なっ、自分は食べたいなどと……!」
 俺の隣を日本号が顎でしゃくる。村正がにんまりと目を細めた。
「おや、ワタシを起こしてまで厨に行きたいと言ったのはどこのとんぼでしたっけ?」
「村正ッッッ!」
「その代わりあんたも共犯だ。村正、あんたもな」
「おや?」
「は?」
 机に開けられた黒瓶と2つのお猪口。もちろんそれが開けてはいけない禁断の酒だと気づかない蜻蛉切ではない。それを見とめて夕暮れ色の目が目一杯に見開かれ、今度は恥からではない震え方をした蜻蛉切が一発怒号を叫ぼうとした瞬間、日本号がタッパーを開けた。
 ぶわっと広がる麺つゆとごま油の香ばしい香り。そしてきらめく肉厚のサーモン。蜻蛉切がぐっと口を閉じ、村正は椅子から飛び上がった。視界の暴力とでも言うべきその光景と、判断力を失わせるその香りには逆らえないことを、この場にいる誰もが本能的に理解する。


「お、怒られマス……光忠と歌仙は怖いんデス……大倶利伽羅から聞きました、怖いんデスよ……
「自分が、こんな屈するとは……ウッ、美味い……!」
 そんなことを言いながら二人の手は止まらない。ぽろぽろ泣いているのは可哀想だが漬けサーモン丼は泣くほど美味いもんな、分かるぜ。俺たちは日本号の罠に捕まったんだ……
 向かいで日本号がけらけらと笑っている。本当に食えない正三位だ。
 そして俺たちは仲良く漬けサーモン丼を完食し、一升瓶を飲み干し(飲んだのはほぼ日本号だったが)、翌日、4人揃って歌仙と光忠に思いっきりしこたまひとひらの慈悲も無く叱られたのだった。