月がやわく地を照らす夜だった。木々の間から、遠くそびえる岡崎城の影がぼんやりと見え、いくつか灯が忙しそうにうごめいているのも見える。あの灯は、岡崎城に詰めている部隊からの「遡行軍が現れた」という合図だった。住処としていた廃寺を出て、素早く森の中を進む。極力城には近づかないよう、しかし敵を城に近づかせないよう、距離をとって城の周りを駆ける。
「!」
藪を駆け抜ける音。一瞬の静寂のあと、草陰に鈍く赤く光る瞳が見え、瞬時に手が動いていた。
おどろおどろしい、低い声をあげながら遡行軍が倒れる。しかしこんな少ない数ではないはずだ。草陰に身を隠しながら城の方を伺うと、まぶしいほどの松明の火が堀の水面に輝き、まわりは昼のようだった。蜻蛉切らしき大柄な影が飛び出していく。塀の上に飛び上がり、屋根に飛び移りながら次々と遡行軍を狩っているようだ。
負けていられない。勝負事ではないのだが、いくさになれば気が高ぶるのが刀剣男士の——否、刀の本能である。大倶利伽羅は暗闇に身を翻し、今か今かと城を、そのなかにいる御仁を殺そうと待ち構えている遡行軍を斬り捨てていった。
守るためではない。誰に聞かせるわけでもなく、ひとり言い訳をしてみる。刀に飛んだ血を振り捨て、城を見上げる。本来いくさになるはずのない遠征で、遡行軍と人間のいくさに巻き込まれ、厄介なものを押し付けられてしまった。ふくふくと柔らかく、無害なもので包まれているそれは、いくさにおいては有害なものでしかなかった。
だから、守るためではないのだ。
歴史に必要だから生かすだけ。自分と同じ外から城に近く輩を倒す道を選んだもうひとりの刀剣男士も、きっとそう思っているだろう。
だいぶ月の傾いた頃だった。粗方敵を片付けたと見え、廃寺にもどろうと城に背を向けたところで、がさがさと木々が不自然にこすれる音が聞こえた。
生き残りか。
柄に手をかけ、低い体勢をとり、じりじりと音のした方へにじり寄る。
「待て!」
逃げようとでもしているのか、うごめく影に後ろから刀を振り上げると、「ヒャッ!」と甲高い声がして大倶利伽羅は思わず足を止めた。
月が柔らかな色の髪を照らす。暗闇で淡くゆらめく視界のなか、薄汚れた格好の千子村正が、驚いた目をこちらに向けていた。
「……何をしている。お前は城の東側を回っているんじゃなかったか?」
「そんな取り決めしてませんよ、ワタシがここにいてはおかしいデスか?」
「……………」
確かにそんなことは決めていない。大倶利伽羅がずっと西側で巡回を繰り返しているため、千子村正が東側を担当していると思いこんでいただけだ。縄張りも特に決まっておらず、故に村正が西側に来てもおかしいところは何もなかった。言葉に詰まった大倶利伽羅だが、ふと村正が目線だけは不敵に笑いながら地面に座り込んだまま動かないことに気づく。
「お前」
「なんデス? それより早く離れた方がよいのではありませんか? 城侍に見られては嫌でショウ」
「それはお前も一緒だろう」
大倶利伽羅の言葉に、千子村正は形のよい眉をぐっと寄せて、ぷいと横を向いた。
「ワタシは大丈夫デス」
「大丈夫なら何故立たないんだ」
村正の顔が先ほどより強張った。面倒なことに顔を突っ込んでいる、という自覚はあったが気になっては仕方がない。
「怪我したんだろう、足を」
大倶利伽羅がそう突き放すように言うと、村正は肩をいからせ何かを叫ぼうとしたが、結局呆れたように薄くわらって、弱々しく頷いた。
大倶利伽羅はしゃがみ込み彼の身体を検分する。いまは本丸に戻れないため、本格的な手入れができない。よく見れば、足の他にも装飾のついた装束が破れていたり、腕には切り傷。斬られたのか紐がゆるまり、いつもは整えられたたっぷりした髪もばらばらとあちこちに引っかかって鬱陶しそうだった。応急処置が必要だ。
「huhuhu、今日は積極的デスね、大倶利伽羅?」
「うるさい」
常なら見かけた瞬間お前のほうから構いに来るのに、おかしいと思った。ただそれだけだ。吐き捨てるように呟くと、村正が勢いよく咳き込み、じっとりした目で大倶利伽羅を睨みあげた。
「なるほど……伊達に気をつけろというのはこういう……」
「何を言っているんだ、行くぞ」
「どこにデスか?」
「……癪だが、俺の寝ぐらだ」
「おや、お呼ばれデスか。このまま一緒に暮らしちゃってもワタシは構いませんよ?」
「断る!」
動けるようになったら即刻放り出すからな。
村正のたくましい筋肉のついた身体を引き上げながら、大倶利伽羅は城に背を向け、月がやわく照らす森の奥へ歩いていく。敵もいない静かな夜だった。
そういえば村正は顕現されてすぐこの任務に割り当てられたのだった。
切り傷に消毒液をあてながら大倶利伽羅はそんなことを思い出した。こんな世話を焼くのは自分の担当ではない、本当なら千子村正自身がやるか彼の家族である蜻蛉切がすればいいことだが、蜻蛉切はここにはいないし、村正はまだ経験の浅い、何も知らない子どもと同じようなものなのだ。戦い方も粗があるし、勿論手当の仕方も知っているわけがない。厄介ごとを引き込んでしまったと思いつつも、やってしまったことはやらなかったことにはできないだろう。痛い、痛いデス、もっと優しく! と嫌がる村正にこれでもかと消毒液をあててやって、鬱憤を晴らすことにする。
「酷い目に遭いました……」
凌辱された生娘のようにめそめそと泣く村正に、大倶利伽羅はふんと鼻を鳴らす。
「酷い目に遭ったと思うなら城にいればいい。蜻蛉切が守ってくれるだろう」
「ワタシがそばにいていいはずないでショウ」
暗闇のなか、村正の低い声がぽとりと落ちる。冷え切った声だった。
「ワタシは『村正』、妖刀のなかの妖刀。白蓮子の信仰を名に謳っても、人間に真っ赤な血を塗りたくられた忌むべきモノなのデスよ。大倶利伽羅はいじわるデスね。……あっ分かりました、好きな子ほどいじめたいってやつデスか? そうすると、かつての人間たちもきっとそうだったのでショウ。あの頃は村正派の刀を気に入っていた好きモノが、それはそれはいましたからね、huhuhu……」
目尻をすこし腫らした村正がムッとした顔で大倶利伽羅を見たあと、その顔を『してやったり』という表情に変えてにやにやと頷いた。とんだ前向き思考だ、怒りを通り越して大倶利伽羅は呆れ返る。
いじわるとか、好きな子ほどいじめたいとか、そんな感情や理屈など大倶利伽羅には一切ない。一本の刀、戦うための武器として今まで生きてきたのだ、村正のような人間じみた考えに至るはずもなかった。確かに、怪我をした仲間を連れ帰って手当するということや、腹いせに手酷くしてやるということはしたことがなかったが。
村正がまだ痛そうに顔をしかめながら両腕の傷を見下ろしている。その頰と肩、腕に細い髪がいくつもまとわりついている。留め紐が外れた村正の髪は、好き放題に荒れた廃寺の木床へ散らばり、とても動きにくそうだった。
髪は普段の身だしなみの基本だよ!
馴染みの伊達男の声が自動再生される。身に染みるほど聞いた声だ、思い出そうとしなくても自然に声が聞こえてくる。大倶利伽羅は大きく息を吸い、吐いた。
髪もかっこよく決めないとね!
うるさい光忠。施してやる義務はない。ないのだ。ないのだが。
「お前、髪は」
「は?」
「留め紐はどうした」
「あ、ああ…拾ってありマスが、切れてしまったのでもう結べないかと……」
「貸せ」
懐から出した、鈍い山吹色の紐を奪うように取る。慌てふためく村正の騒ぐ声も聞かず(とにかく生活の一部のようにあの声が聞こえてくるのだ)、背中に回り、たっぷりとした淡い色の髪を手櫛で梳き始めた。
柔らかい。
指をいれた瞬間、あまりの柔らかさに動きが止まるが、気を入れなおして再開する。梳きながら、遥か昔のこと、まだひとが刀や槍を持って争い合い、己にとって尊いお方の佩刀だったときのことを思い出す。
出番のない日は、春風が穏やかにそよぐ屋敷の一室で、よく髪を整えてやっていた。誰に似たのか、見栄えを気にしていつも小綺麗な姿でいたがる明朗な短刀だった。
(あの髪はかたくて、形を作るのに苦労したな)
ふっと笑みが零れる。その息がかかったのに気づいたのか、村正が身じろいだ。
「動くな」
「ハイ」
さっきの抵抗はどこへやら、存外素直に村正は従った。
崩れかけた壁の隙間から月光が射し、どこにいるのかころころと虫の声がちいさく聞こえてくる。夜更けだが吹き込む風は冷えたものではなく、穏やかな夜だった。
いつもと違うと気づいたのは、その昔の癖でつい髪を高めに結い上げてしまってからだった。
「……やり直す」
「いいデス、このままで」
村正が振り返る。淡い色の髪の先が肩のあたりでさらりと揺れた。そうして見ると、髪を下ろしている時よりいくらか幼く見える。己よりも逞しい身体つきの男に幼いもなにもないのだが、やや気恥ずかしげに目を細めて笑んだ男は確かにあどけない幼子のようで、大倶利伽羅は虚を突かれる思いがした。常の艶やかで妖しい姿とは打って変わり、どこか嬉しそうに、幼い素振りで、村正は髪の先を指でいじる。
「意外に慣れているんデスね、髪の梳き方や結い方。蜻蛉切は人のをやるのは慣れてないのか痛くていけまセン。でも大倶利伽羅のは全然痛くありませんでした」
「慣れて……いるのは確かかもしれないが」
「おや。どなたか好い人でも?」
「そんなわけないだろう。髪型を気にする短刀と昔共に暮らしていただけだ」
「そうデスか。安心しました」
「は?」
月の光のせいかもしれなかった。血行のいい彼の肌、目尻がほんのり赤く染まっているように見えたのも、いつものように挑戦的な微笑みが妙に「かわいらしく」見えたのも。
夜だからだ。それに、月が明るいから。
そう思いながら首を振り、再び目線を合わせても、言い訳虚しく大倶利伽羅は内心頭を抱えた。
「それではワタシはこれで」
「待て」
「? もう傷も痛みませんし大丈夫デスよ? ありがとうございました。もしかして闇夜を心配してくれているのデスか? きゃっ、大倶利伽羅は優しいデスねえー!」
「待てと言っている」
もはやヤケだ。そもそも気のあるような言い方をした向こうが悪い。
そのままするりと廃寺を出てしまいそうな村正の腕を捕まえ、勢いよく自分の方へ引き寄せた。村正の身体が吸い込まれるように大倶利伽羅の腕のなかへ収まる。いざ背に腕を回してみると、見た目通りの引き締まった筋肉をもっていることがわかったが、だからと言って離す気は起きなかった。
ボンッとなにかが破裂した音がしたので顔を上げてみる。
「と、とんぼきり…」
真っ赤になった村正が、くちびるをわなわなと震わせて蚊の鳴くような声で保護者の名を呼んだ。
「助けてクダサイとんぼきりー!」
「うるさい、騒ぐな」
何やら腹の底が沸騰しそうな苛立ちを感じたが、説明がつくはずもなく。ただこのまま彼を困らせたいという衝動が募る。もたつく村正をいっそう強く抱き込むと、村正は息を止めたように固まって、ただのちいさな子うさぎになった。子うさぎは森のなかを駆けたいくさの臭いがする。
背に回した手で柔らかな髪を梳く。気に入ってしまったのだと残った理性でわかっていた。それに村正もどんどん落ち着いてくるような気がして、大倶利伽羅は淡い色の髪を撫でるをやめなかった。
「あの……今日はここにいても」
村正がか細い声を出す。
「居ろ。そして明日、出ていけ」
「……。……ハイ」
心臓が伝えるように鳴っている。どちらのものか答えを出すまでもなく、何を言いたいのかも言葉にするまでもない。
見上げた双眸は燃える夕闇を溶かし込み、強く光っている。うるんでいるように見えた。村正の傷ついた両手がこわごわと大倶利伽羅の頰へ添えられた。まるでひとをなぞるようなぎこちない動き。そうか、と大倶利伽羅は目をしばたたかせた。千子村正は、ほんとうに何も知らないのだ。この行為が何を示すのかも、高鳴る心臓とうるんだ瞳がなにを言うべきなのかも。顕現したばかりで、ひとの言葉に振り回されて、ひとの動きをなぞることしか知らない彼の、ほんとうに幼い心をものにしたのだと思った。
夜がふたりを覆っている。彼はなにも言えないし、大倶利伽羅も多くを言葉にする方ではない。ならば、誰も知らないことだ。理性を手放した衝動のままに、大倶利伽羅は高い位置のくちびるへ、秘めるように口付けた。
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