「紫陽花っちのは、ほんまに弱々しい小さな花の集合体なんやね。でっかいひとつの花やと思っとったわ」
霧雨の振る日。斑の借りたマンションのオートロックは締まり、リビングダイニングのソファに二人して腰を下ろして三十分。『雨の日に聴きたいプレイリスト』と題されたストリーミングを流し、少しだけ胸の中に爪を立てられるような
……要するにセンチメンタルなそれを感じながら、二人は窓を眺めていた。視線は合わない。カーテンを閉めるタイミングを逸したまま、雨粒を目で追う。
「どうしたあ?」
こはくの目を見るでもなく窓と霧雨を見やる斑の口が少しだけ動いた。
「ここ来る時に見た。空中庭園にも手入れされて咲いとったし」
風に煽られた霧雨が窓を濡らす。
「
……そうかあ」
「最近まで見ることもなかったし、ちっと珍しいもの見た気分やわ」
こはくの声が部屋に溶ける。頷く斑。
「
……絶対馬鹿にしとるやろ」
「馬鹿になんてしてないぞお?君が感傷に浸るのも珍しいと思ってなあ」
斑からの少しの皮肉に小さな舌打ちを返し、こはくはソファから下ろしていた足を胸に抱えて座り直した。
「
……おんもにな、〝怖いものがぎょうさんあるから座敷の中から出たらあかんよ〟っち一点張りで」
続く沈黙。
斑が流していたストリーミングが次の曲へランダムで変わる。かかり始めたのは、あまり馴染みのないジャズだった。スイングというのだろうか。独特のリズムで音を運ばれ、少しだけ耳がくすぐったい。
「こんな曲も知らんで、だいぶあとにネットで聴いたんじゃ。いつまで経ってもなんも知らん赤ん坊のままおって」
「〝それは君が愛されていたからだ〟
――なんて耳障りの好い言葉を並べるつもりはないが」
「
……」
「少なくとも今、
……この世界を好きでいてくれるだろうか」
「
…………なんや、急に」
斑がぽつりと漏らす声に、こはくは心底驚いた。斑も同類、同族。この世に執着しながらも汚い俗なものを斜めに切り捨てて見る男だと思っていたから。その男は今、鮮やかな世界に生き始めているのだろうか。こはくの手を離れて?浮かんだ景色が、少しだけこはくの胸を痛ませる。
霧雨はやがて大きな雨粒に変わり、ざあざあと音を立てて窓を流れ続けた。
「
……まぁ、悪くない、っち思うとるよ。夢に見とった景色とは違うけど、それ以上に、鮮やかで煩わしくて賑やかで、案外ええんとちゃうか
……って」
「そうかあ」
こはくの言の葉に微笑みながら頷いた斑は、そっとソファの隣に座る左手を取って右手を重ねた。それ以上の言葉はない。
「
……なんや?したいん?」
「いつも思うが、随分あけすけだよなあ君も」
「斑はんに気を使う必要もないやろ。今更や」
「それもそうだ」
たわいない言葉を交わしながら、少しづつ深く絡まる指と指。ほぅ、と斑のため息が部屋の中を昇る。今日は一段と湿度が高いこの部屋で、少し息苦しいほどのなにかを感じる。
「
……紫陽花も」
「ああ」
「集まっとるから生きとるんかな。昆虫と同じ。雨と同じ。ちっぽけなひとつの花じゃなんにもできんのに」
誰に言うでもなくこはくの独白は続く。少しだけ耳を傾ける斑。湿り気に負けた斑の襟足がくるくるひらひら、いつもと違う形を作るから。こはくはその様を一瞥し、また視線を窓に戻した。
「雨粒も同じじゃ。たくさんの中の一粒やったらなんにもできん。ぶつかって、こうやってひとつになって、大地も潤すし、いつか洪水やって起こす」
こはくの目は、窓にぶつかっては流れて繋がる、ひとつになる小さな無数の雨粒たちを追い、然るのちに斑の瞳を捉える。鮮やかな緑眼を。
「
……わしも」
独白と思われたその言葉は、
「みんなと、
……斑はんとおるから、こうして立っていられるんかな」
「そうだなあ、
……きっと」
斑を巻き込んで部屋の空気の中を泳ぐ。ずんと重い、湿気った空気の中を。大嫌いだった、嫌悪していた自分と世の中を鮮やかに変えていった面々を思い浮かべたのだろう。こはくの口元が、穏やかにだがきゅっと上がる。
同じく窓を見ていた斑の瞳もやがてこはくを捉え、ふと、微笑んだ気がした。
「紫陽花」
「ん?」
「見に行くかあ?紫陽花は土壌によって咲く花の色も変わるから、何ヶ所も回れば写真も記憶も鮮やかで賑やかになる」
「ほぉん?ええね」
「少し走れば、いくつか紫陽花の綺麗な場所も知っているし。雨の日も晴れの日も違った趣きもある」
「
……連れてってくれるんや?」
「もちろん」
にっかり自信ありげに笑った斑の存在が何故だか心強くて憎たらしくて、思わず畳んだ足を伸ばして脛を蹴る。
「いたいいたい!暴力反対」
「どの口が」
「君こそ」
そうして軽口を叩き合いながら、
「
……変わってくんやろな」
「
……ああ」
少しづつ変わる声色が昇る。
「少しずつ、ほんの少しずつ形を変えて、わしも、斑はんも」
斑の返事はない。しかし強く握る指の温かさが答えだ。
ほろりと、窓についた雨粒がひとつになってガラスを伝い落ちる。
重なる影と甘い吐息が、湿気った部屋にぐるぐる昇る。ひとつになって、やがてふたつに戻る。
「
……斑はん」
「
……ん?」
「斑はんのこと、好きになってよかったわ」
「どうしたあ?急に。もうとっくに知ってるぞお?」
「喧しい、茶化すな」
繋いだ手の湿度がすべてだった。
fin.
こは斑ワンドロワンライ
【紫陽花】
60min
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