つなみ正登/ぱるこ
2024-06-15 08:02:47
4369文字
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きみ呼ばう星 中編(途中まで


 警戒区域を抜けたあたりで水上と別れた王子が帰宅すると、玄関の沓脱に男物の革靴があることに気づいた。この時間に来客者となると、もしかして、という王子の予想は応接間を覗いてすぐに当たったのが分かった。
「真島先生、いらっしゃい」
 来客は父の高校以来の友人で、三門市内で内科と整形外科を扱っているクリニックの院長でもあった。そのテーブルの上には彼が来る時だけに出されるウィスキーが置かれている。
 子どもの頃から色々と世話になっていることもあって事情をそれなりに聞いている彼は、王子の顔を見ると、遅かったけど任務かい?と尋ねてくる。
「いえ、ライバルチームのランク戦を観戦してました。絶対に首を獲ってやりたい相手がいるので」
「例の『みずかみんぐ』くんかな」
「彼だけじゃないですけどね」
 その物騒な言い草は誰に似たのやら、と父親が苦笑いする。
「この前はわざわざ本を届けてくれて助かったよ。おかげで商工会議所主催の将棋大会でいいところまでいけた。もう少しで、例の彼と指せたんだけどな。我ながら残念だ」
「あ、先生も商店街でやってたイベント出たんだ」
「患者さんに教えてもらってね。診療所が休みの日だったから、買い物ついでに参加してみたんだ。まさか水上初段が飛び入りしてくるとは思わなかったけど」
「強かった?」
 言わずもがなの質問に、友人と息子のやりとりを眺めていた王子の父が元奨なんだから当然だろう、と口をはさむ。
「盤は挟めなかったから横で見ていたけど、なかなか意地の悪い指し方だったね。すぐにねじ伏せるわけではなくて、最初はのらりくらりしてるくせに、ある程度相手の手が伸びたあたりであれよあれよと追いつめて音を上げさせてたよ」
「はじめてみずかみんぐと指した時もそんな感じだったな」
「すぐに詰まされるのも悔しいけど、遊ばれてたって分かったら悔しいだろうね。たぶん、それも気づかない相手にだけ、そうしてたっぽいけど」
「ぼくは気づきましたよ」
「きみは優秀な指揮官《コマンダー》だからね。活躍は聞いてるよ」
「どういたしまして。それもこれも仲間のおかげです」
「如才ない答えができるようになったものだね。しょっちゅう怪我してうちの病院にお母さんに連れてこられたあの子が」
「それは母が大げさなんです。たいした怪我でもないのに」
 人当たりの良い笑顔を浮かべて、王子はウィスキーボトルの傍らに置かれたドライフルーツをひとつ摘まんで口に放り込んだ。
「美味しい」
「こういうところはまだまだ子どもで」
 と父親が苦笑する。
「十八なんてまだそんなもんだろう。自分の時のことを考えてみろ。一彰くんも聞きたいだろう? こいつが高校に入った時なんて隣町の」
「それ以上言ったら、おまえが修学旅行でやらかしたことを奥さんと息子さんに全部バラすぞ」
「それとこれとじゃ釣り合いが取れないだろう? 一彰くん、きみのお父さんは加減ができないと思わないか?」
「手加減していい相手としなくていい相手っていうのはあるからな」
「なんでぼくがこう育ったか、分かりやすいや」
 王子はくすくすと笑う。
 王子は父親とその人の関係が好きだった。彼らだけに通じる長い時間と思い出を共有し、それでいて他者を排斥することがない。彼らのそういうところは少し生駒と似ているような気がする。癖のある水上が彼の下に就いているのも、彼のそういう懐の広さのゆえではないかと思っている。
 でも、例えば同世代で隊長をしている荒船の下で動いてもそれなりに役割をこなすだろうというところも想像ができる。影浦隊だったとしても、きっと上手く奔放な彼の動きも想定して、上手くさばくというところも。
(ぼくとはそういう意味では相性は悪そうだろうけど)
 彼を好ましいとは思っているけれど、それとこれとは別だし、それを冷静に判定できる自分を王子は嫌いではなかった。
「なあ、一彰くん、確か、その水上くんは御勅使八段の弟子だっけ」
「ええ」
「だったら、これを書いたのはその水上くんの師匠の師匠だった人だよ。この人自身は七段で棋士としては引退はしたけど名伯楽で有名でね、その水上くんのお師匠さん以外にも何人かプロ棋士を育ててる人なんだ。御勅使八段自身も弟子にプロ棋士と女流棋士がひとりいるよ」
「そうなんだ」
 興味本位というと好奇心に過ぎるが、彼とその周囲について少し検索はしたけれど、そこまで王子はたどっていなかった。
「もしかしたらこれもお師匠さんからいただいた本なのかもしれない。確かに奨励会まで行った子にはもう必要ないんだろうけど、やっぱり返したほうがいいだろうね」
 十分勉強になったから、と男は左から3筋に飛車が置かれた盤が写った本の表紙を撫でた。
(三間飛車、かな)
 表紙のタイトルを確認しなくても、その盤面を見ただけでそうと分かるほどに水上と仮想空間だけではなく時間を過ごした自分に少しだけ笑いを浮かべそうになりながら、王子はその古びたけれど丁寧に、しかし熱心に使われた気配の残る本を手に取る。すると、その本の真ん中にあたりに紙片がはさまっていた。
「あれ、先生、栞が入ってるけどこれはいいの」
「それは借りた時から挟まってたやつ。栞じゃないけど栞代わりにしてたんじゃないかな」
「レシートとか?」
「いや」
 それは三門で生まれ育った王子にはまったく馴染みのない、でも片方は知っている駅名の入った乗車券だった。
(環)福島。
 関西将棋会館から一番近い駅だった。


 話の尽きない父と友人に辞去し、部屋に戻った王子は窓際に置いてあったアジアンタムを部屋の奥へと移動する。温かい場所を好むこの観葉植物はこの季節、日中は日が当たる場所に置いて、気温が下がる夜は窓際から離してやる必要がある。
 任務などで一日帰れない時などは母に頼んで移動してもらっているが、一人暮らしになったらちゃんと枯らさずに済ませられるかな、と少しだけ心配だった。ちょっとした乾燥でも葉がカラカラになってしまって、一度失敗してしまったこともある。その時は何とか応急手当が間に合ったが。
(でも、きみを連れて行かない理由はないよね)
『なんでアジアンタムなん?』
 何度目の対局と、その後の行為の後だったか。水上は窓際の緑を見てそう訊ねてきた。
『観葉植物の中でも育てるん難しいほうやん』
『よく知ってるねえ』
 身支度を整えていた王子は、おや、とその日の空みたいな色の瞳を輝かせた。
『もしかして調べてくれたとか?』
『まあなんとなく、な』
 気のない口調だったけれど、そこから少しばかりの照れくささみたいなものは感じ取れるくらいには繋がっていると自負できる王子は、彼には悟られないようにひっそりと、まだ彼と重ねた温度の気配すらとどめた唇をほころばせた。
『緑育てるの初めて言うとらんかったか。初心者向けのとかあるんちゃうん?』
『まあね。パキラとかモンストラとか……でもこれは一目惚れだったからね』
『一目惚れ?』
『そ』
 みずかみんぐに似てると思ったから。と、王子はみっしりと繁った観葉植物の緑に指を指し入れ、一枚一枚瑞々しい葉を撫でた。
『そもそも色がちゃうやん。……ってその手つきやめえ』
『えっちだね、みずかみんぐは。もう一度する?』
 水上が指摘した通り、わざと今しがたまでの愛撫をなぞるようにしてみせた王子がけらけらと笑うと、どこまで本気なのか読めん、ほんまに読めん、と水上は少し赤くなった渋い顔で自分の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
……本気だなんて、言ったらきみは困るだろう」
 それがこの関係に巻き込んだ王子のせめてもの責任のようなものだった。
 この感情に名前をつけたくない、と思ったのはいつからだったろうか。
 最初は純粋な興味だった。生駒の剣術や隠岐のトリオンや細井の並列処理能力と比す程度には、スカウト組が彼に何を認めたのか。パラメータ自体は平凡と言っても良かった。けれど、特記事項として書かれた元奨励会員(初段退会)の文字が目を引いた。
(中学生で初段なら有望じゃないか。なのに、どうして)
 気になって調べてみたけれど、例えば現名人だって初段に入品したのは中学一年の秋だ。
 最初の関と言われる二十一歳までに初段という条件を中学生でクリアして、次の山である三段リーグの二十六歳までまだ十年近くも残っているのに。おそらくは優秀なのだろう。名前を検索してみたら幾つか記事がヒットしたくらいだ。
 俊英と期待された棋士志望の少年が、その世界から身を引き、選んだ新たな道。その道の先にあるのは、なんの縁もゆかりもない、こんないつ終わるかもしれない防衛戦が続く街。まったく理解しがたかった。
 そして、今だって分からない。ただの友人やライバルとは違う時間と熱をこれだけ共有しても。
(でもね、みずかみんぐ)
 だが、もしきみが乗ってくれるならそれは別の話さ、と王子はひっそりと、本に挟まれていたキップを天井にかざすようにしてみた。
 その時にはきっと王子のこの感情ももう少し明確な輪郭を取ってしまうのかもしれない。少し楽しみで、少し怖い。
 ふたりの間にあるものをまだ曖昧にしておきたいという、贅沢な猶予。
 切符に印刷されている駅名。関西将棋会館最寄りの駅名でもあるその地名を聞いた時はなんで「関西」の会館が東北にと思ってしまったことを思い出す。
 あの、古い将棋雑誌で見た、せっかく優勝したのにむっつりと不本意そうな面構えの、十二歳の黒い髪をした敏志くんも使っていた駅なんだ、と王子はその様を想像するように目を閉じた。
『そう言えば御勅使八段といえば、水上くんは何か言ってなかったかな』
 応接間を去り際に尋ねられた質問が脳裏を過る。
 きっと彼のことだ。それ《・・》を知らないはずはなくて、でも彼の口から聞かせてもらえなかったことに鬱屈を感じるとしたら、きっと傲慢なことだろう。
「いつか、みずかみんぐが帰るかもしれない場所、なのかな」
 そう口にしてしまうとちくりと胸が痛む。望んでいるわけではない。でも、もし彼がそれを選択するなら止める権利だって今はない。
(今は、ね)
 先に進むのはおっかないなんていつまでも言わせないよ、みずかみんぐ。どういう「先」であれ。
 ここにいない、黄昏に染まったアジアンタムの葉みたいな髪に向かって告げる。くしゃみのひとつもしたまえよ、と悪戯めいて思いながら。
……ん?」
 ゆっくりと瞼を押し上げた王子は軽く柳眉をひそめた。天井の照明に透かしたものの、掲げた切符からは木漏れ日のように光が漏れては来なかったことに気づいて。