あさかわ
2024-06-14 23:17:36
12944文字
Public 粉砕鬼水シリーズ
 

宵闇ゆく愚者(粉砕鬼水6)

一夜要求オヤジを粉砕する連れ合い鬼水です。

「猿神さん、閨の一夜がよろしいって」
 大禿の言葉を鬼太郎は一瞬飲み込めなかった。頭上の目玉が髪の毛を引っ張ったが、鬼太郎はなけなしの愛想が吹き飛んでいた。
「今、なんて」
「鬼太郎さんの連れ合いの人間がおるでしょう。あれを一晩寄越してくれれば助力をおしまんと、そういう話です」
 大禿はちらりと鬼太郎を見て、左手に持った吹き戻しをゆらゆらと揺らす。
 大禿の住処には様々な物が置かれている。食品サンプルのナポリタン、空の駄菓子の瓶や扇風機の羽の部分。現代の品物が多いせいで、床の間に飾られた扇と三味線が浮いている。大禿は帳簿机の前で脇息に寄りかかっていた。大禿は古くからこの地に住み、人に近い姿を生かして周囲の妖怪に頼まれ、人の作ったものを取り寄せる商いをしている。
「水木はモノじゃない」
 猿神と交渉はするが売買をするつもりはない。ましてや大切な連れ合いを誰ぞの閨に放り込むはずがない。大禿は吹き戻しで遊びながら、鬼太郎の怒気を無視している。
「鬼太郎さん、勘違いせんで。わっちが猿神に話を付けてやったのは、目玉の親父さんに恩義があるから。倅のアンタには一欠けらの恩も情も義理もない。あの気難しい猿神相手にこれだけ破格の条件を引き出してやったんだから、お礼の一つでも欲しいわ」
 鬼太郎が猿神に協力して貰いたいのは湖の向かいにある犬神のことだ。

 人間が不法投棄した薬品が山にしみ込み、犬神の精神を狂わせた。妖怪に病気はないが、未知の薬が毒のように作用したのだ。犬神は山中をがむしゃらに走り回り狂ったように鳴いて暴れる。鬼太郎はどうにか犬神を捕らえて住処に縛り付けた。犬神は時折正気に戻るが、ひどく衰弱しており早く体から毒を抜かなければならない。
 薬品を捨てた人間を探り出して、山から回収させたが犬神の身体にしみ込んだ毒は抜けない。目玉が犬神の様子を見て猿神の助力があれば毒消しを作れるのではないかと見立てた。

「鬼太郎さん、アンタも知っての通り猿神と犬神は言葉通り犬猿の仲。いくら人間のせいと言ってもただで相手を助けるなんてありゃしません。アンタが欲しがる、猿神の牙の欠片……猿神にとっちゃあ力の証。それが一晩で手に入るなんて夢のような話や。だいたい人間の不始末を、人間に償わせて何が悪い」
 悪意を持って傷つけることをためらわない人間と水木を一緒にするな、と言葉が出そうになる。鬼太郎はぐっと奥歯を噛みしめてそれを耐えた。大禿は言い返さない鬼太郎向かって更に畳みかける。
「連れ合いの水木とかいう人間、エラい口が達者で煙に巻くのが上手いとか。猿神は口やかましいんは好かんから、一晩、声は預けて貰いましょうか。朝日が昇れば返したる。それと猿神のところに行くための身支度はここでして貰いましょ。人間のすることや。毒なり武器なり仕込まれたらたまらん。睦言なしでもアンタを骨抜きにしてる身体さえあれば、猿神も満足するやろ」
「鬼太郎」
「っ……分かっています。大丈夫ですよ、父さん」
 目玉が宥めるように鬼太郎の頭を叩く。大禿はわざと鬼太郎が怒りそうな言葉を選んでいるのだ。妖怪として年若い鬼太郎をどの程度の器なのか量ろうとしている。ここで相手の思惑に乗ってはいけない。
「大禿。猿神と交渉してくれたことは感謝する。でもこの条件は僕一人じゃ決められない。一度水木と相談を」
「それは困る。猿神には今日の昼までに文を出すと連絡してありますのや。人間やったら店の外に待たせているやないの。わっちは人間が大嫌いや。今日は特別に、敷居手前までは許したる」
 大禿が吹き戻しで脇息を叩く。軽いプラスチックの音が響き、鬼太郎はちらりと店の外をみやる。交渉事だからと付いてきた水木が店の外で待っている。
「ちょっと待ってくれないか。僕が呼んでくるから」
「でしたら、目玉の親父さんに行かせてくれや。人間との交渉はわっちがします。くれぐれも余計なことを言わんように」
「分かっておる。鬼太郎、少し待っておれ。良いか、くれぐれも」
「大丈夫ですよ。僕の力量では難しいと分かっています」
 土間に降りて心配そうにこちらを見上げる父に苦笑いする。交渉の手腕は大禿に水一つあけられている。不利を分かった上で立ち回ると伝えれば目玉が満足そうに頷いた。
「ならばよい。水木の教育の賜物かのう」
 折衝の仕方という点では水木ほどの師匠はいない。目玉は小さな体で店の外に走って行った。



「お初にお目にかかります。水木、と申します」
「挨拶は結構。わっちは人間が嫌いや。特に口がよう回る狡賢いのは一等嫌い。アンタは諾か否かだけ喋りや」
 敷居の向こうに立った水木を大禿が一瞥した。
「猿神が牙の欠片を渡す条件はたったの一つだけ。アンタが猿神の閨で一晩過ごすこと。身支度はうちの店でしていき。足袋はいらん。素足でええ。その一晩の間、アンタの声は封じさせて貰う……その口で、狐の棟梁をひどい目に合わせたらしいな。ほんに、上手いこと騙くらかす」
 さすがに水木も驚いたのだろう、ぽかんと口を開けた後に鬼太郎と目玉を見る。
「その……浅学にして存じ上げないのですが、猿神様は人と交わるものなのですか?」
 水木の問いに目玉が腕を組んで答えた。
「猿神は人との関りが深い妖怪じゃ。近くの里から嫁や生贄を求める奴もおる。その条件はまあ……おかしくはない」
 大禿が水木に吹き戻しの先端を向けた。
「この山の猿神はあまり人と関わる性格ではないが、食指が動いたんやろ。幽霊族が入れあげる人間ならつまみ食いしても面白かろうと。ましてや、あっちこっちで減らず口叩いては打ち負かす生意気な気性。乗りこなしてみたいんが男心や」
 大禿がにっと目を細める。
「水木サン。年下の連れ合いの面倒見ているアンタなら、年寄りの相手くらい訳ないやろ。一晩たっぷり猿神を満足させてやってや」
 鬼太郎が唇を噛みしている向こうで水木が腕を組んだ。大禿に貶められるような言葉をどれほど投げかけられても顔色一つ変えない。その様子に鬼太郎は深呼吸をしてざわつく気持ちを押えようとする。

「一晩……一晩でよろしいんですね」
 水木の言葉に大禿が吹き戻しを拭いた。ひょろりと伸びて、放屁に似た間抜けな音がする。
「そうや、たったの一晩。朝日が昇ればお役御免」
 鬼太郎は息を飲んで、成り行きを見守った。水木ならきっと大丈夫だ。水木は顎の下を人差し指で撫でてから、一つ頷いた。
「分かりました。お引き受けしましょう。鬼太郎、構わないな」
「構います」
「ふっは、即答や! ああ、面白いわぁ」
 大禿が吹き出して、ふるふる震えている。土間に立った目玉は鬼太郎と水木の間でだらだらと冷や汗を流し、それを見た大禿が更に声を上げて笑った。
「ダメです。嫌です……そもそも伴侶を貸し出すなんて考え方が嫌いです」
「一晩くらいでケチケチすんな」
「一晩だって、一刻だって嫌です」
 正直に言うのなら一秒だって嫌だ。鬼太郎は水木の伴侶であるが、彼の自由意思を縛ることはできない。水木が自分の為に仕方なく他人と夜を過ごすのを了承した以上、否定する権利はない。それでも嫌なものは嫌だ。水木はすっと目を細め鬼太郎から視線を外した。
「鬼太郎……お、落ち着くのじゃ。大禿が笑い死にしてしまう」
 目玉に下駄の鼻緒を引かれ、ようやく我に返った。交渉する相手の前で本音を晒すなと注意されていたのに、自分は馬鹿みたな駄々をこねなかったか。
……すみません、取り乱しました」
 大禿の挑発に水木も目玉も乗らなかったのに、自分だけが無様を晒してしまった。
 ようやく笑いが落ち着いた大禿が腹をさすりながら戸口を指さす。
「ああ、危ないとこやった。痴話喧嘩は外でやってや。閨の件は諾と猿神には伝えておきますわ。お勤めは次の満月の夜。大人しく来るか、逃げ出すか。わっちはどっちでも構わん。よぉく考えてから来るとええ」
「分かった……
 鬼太郎は苦々しい気持ちがせり上がってくるのを堪えて店から出る。
「すまなかった、僕の我慢が足りなかった」
 鬼太郎が小声で水木に謝る。彼は教え子の失敗を励ますように鬼太郎の肩を叩いた。
「分かっているならいい。さて、一度森まで帰ろう」



 目玉が茶碗風呂に浸かり、鬼太郎は水木とちゃぶ台の前で向き合う。水木は腕を組んで、うんと唸った。
「何か無茶を言われると思っていたが、閨の一夜とは予想外だったな。その場で返事を求めて急かすのは主導権を取るための常套手段だ。大禿は口が上手い」
「はい」
 鬼太郎は正座をしている。口調もなんとなく改まってしまう。自分は今水木の生徒だ。水木に交渉のイロハを教わっているので、そうすべきだと思う。
「あれだけ煽られてよく堪えた。最後に本音が漏れたのは仕方ないが、もっと人の話に耳を傾けて考えを巡らせられるようになれ。猿神の望みは閨での一晩。いいか、一晩だ」
 水木が一晩と強調する。普段の彼であればのらりくらりと躱しきることが出来るだろう。しかし、大禿に先手を打たれている。
「大禿は水木から声を取り上げるつもりです。そうなったら、猿神と言葉を交わすことは出来ない。日が昇るまで無言でしのぎ切るというのは……
「夜ってのは朝日が昇ったら終わりなんだよ」
「そんな、当たり前のことを……いや、」
 当たり前だからこそ、大禿も気が付いていない。夜さえ明ければよい、と随分な無茶にも聞こえるが糸口はありそうだ。
「な、どうにか出来そうじゃないか」
「少しだけ希望の光が見えてきました。しかし、猿神はなんで水木を欲しがったのでしょう。冷静になると違和感があります」
 猿神に協力を仰ぐと決めてから周囲の妖怪に聞き込みはしている。千年山に住む猿神は偏屈で他者との交流をあまり望まない。大禿とは古い付き合いらしいが、本人は領地を増やすことも人間を襲うこともせず暮らしてきた。それでも、猿神は人間を閨に引きずり込もうと思う程度の関心がある。

「気難しいの猿神が、いきなり他人のものを欲しがるってのは妙だ。それに大禿のあの態度。あからさまに人嫌いを強調するのも気になる」
 大禿は大々的に人間が嫌いだと触れ回っている。そのくせ、人間社会に詳しく人間の品物を商うのだから、態度と行動がちぐはぐだ。
 水木の言葉に徐々に思考が透き通っていく。連れ合いを閨に乞われた衝撃で考えが回らなかったが、冷静になると大禿と猿神は鬼太郎たちに何かを隠しているのかもしれない。
「その……一つ考えがあるんですが、いいでしょうか」
「よし、言ってみろ。目玉もちゃんと聞けよ」
「分かっておるわい」
 鬼太郎は一夜をしのぐ策を口にした。時折、目玉の父に矛盾がないか確認しながら、ぽつぽつ話すと水木が嬉しそうに目尻を下げる。
「有望な案じゃないか。交渉というのは屁理屈をこねて押し通した方の勝ちだからな。猿神にこっちの理屈をねじ込んでやれ」
「むう……違うと言いたいところじゃが、返す言葉が見つからん」
 及第点を貰った鬼太郎は根回しの為に動くことにした。次の満月は明後日。早く牙の欠片を手に入れて犬神の毒を楽にしてやりたい。
「父さん、少し出かけてきます。猿神の件で助力を得たい者がいますから」
「そうか、気を付けて行ってくるのじゃよ」
 茶碗風呂から小さな手を振る目玉に軽く手を振り返す。
「水木、満月の前の夜は僕に時間をくれないか」
「ああ、他にも策があるのか?」
「いや、あなたが欲しい」
 伴侶を他者の元に送り出すのは腹の底がぐるぐると落ち着かない。水木は中途半端に首を傾けた姿勢で固まっている。

「そ……うか」
「いい、だろうか」
 確認事項は曖昧にしてはならない、とは水木の教えだ。鬼太郎がじっと見据えると、水木が唸り声上げて小さく頷いた。
「良かった。嬉しい」
 茶碗風呂に浸かる目玉は身じろぎ一つせず、なぜが眼球が渇き始めている。
 鬼太郎は下駄をつっかけると二人に向かって小さく笑った。
「では、いってきます」
「おう……
「気を付けてのう……
 心なしが元気ない父と連れ合いに見送られ、鬼太郎は東の山に向かった。



 残された目玉と水木はしばらく黙り込んでいた。
……水木よ。儂を茶碗ごと外の池に入れてはくれんかの。あまりの熱で湯あたりしそうじゃ」
「そりゃいい。俺も一緒に足でも付けて逆上せを冷ましてえや。とんでもねえ息子だな、お舅さんよ」
「誰に似たんじゃろうな……
 水木と目玉はふらふらと家を出て池のふちで一時間は呆けていた。



「お世話になります、水木です。約束通り参りました」
 水木はにこにこと笑いながら大禿に挨拶する。大禿は眉を寄せ、苛立しそうに指で机を叩いている。
「ホントに来たんか……!」
「言いつけ通り、ちゃんと素足ですよ。ほら、」
 水木は足元を見せて、敷居を跨いでも良いか尋ねた。
「はあ……、入り」
 一礼してから、水木は店内に入った。妖怪が好む人間の品は多岐にわたり、見飽きることがない。
「店の裏に湯があるから、そこで体を清めてきいや。服はわっちが見立ててやるから、今着ているのは預かる」
「分かりました。お手数おかけします」
 大禿について裏口に回ると、石積の露天風呂があった。乳白色の湯の色の水木が目を輝かせる。

「すごいですね! この山から沸いているんですか」
「上流から源泉を引いとる」
「源泉そのままとは豪華だ。実は温泉には目がない質でして、妖怪の秘湯に入れるとは運がいい」
「アンタ、呑気にしとる場合か。猿神のところにいくんやで。ご自慢の口はきっちり塞がせて貰う。猿神は六尺はある大柄で力も強い。逃げようとしても無駄や」
「逃げませんよ」
 敵前逃亡などと言う悪手は打たない。水木の行動に大禿は辟易している。会話の主導権を握るのは重要なことだ。水木はしゃがんで湯船に手を入れて丁度良い湯加減ですよと呼びかけた。
「能天気なのか演技なのか……さっさと身を清めたらこれに着替え」
 大禿が籠に用意した衣服を水木に見せる。鶯色や薄桃など淡い色合いで統一されており、素人目に見てもどれも上等な布だ。
「分かりました。しかし、こんな上等なものをお借りしてよろしいのですか」
「適当な服で猿神のところに送る訳にいかん。アンタは貢物。中身が多少見劣りしても包みは上等にしておかんと」
「分かりました。では、お湯の方失礼しますね」
 水木は羽織を籠に入れて単衣の帯を緩める。するりと襟首を緩めて肩口が露わになると、大禿が額を手で押えた。
「はぁ……ええ趣味しとる。まさかそれが猿神を躱す策なんて言わんやろうな」
「お褒めに預かり光栄です。策と言われると答えられませんが、可愛い伴侶のお願いでしたから。無碍にするのも可哀想じゃありませんか」
「褒めておらんわ。まったく、猿神といい鬼太郎といい、人間に入れあげる奴は馬鹿や」
 大禿はべっと舌を出して裏口に引っ込んだ。水木は構わず服を脱いで、身体を洗う。
「仕事が済んだら、湯を少し目玉にも持って行ってやるかな」
 水木は上機嫌で湯につかると両手ですくった。つるりとした湯あたりが心地よく燗を持ち込んで一杯やりたい気分になる。
「湯あたりしない内に出て来るんやよ!」
 何だか母親の小言のようだ。水木は愛想よく返事をすると、ちゃんと肩までつかり! と声が返って来た。



 用意された服を着て戻ると、大禿が何かを用意している。
「水木サン、ええか。この紅を引いたら声が出なくなる。日の光に当たると解けるようになっとるから夜にお誂え向きなのや」
 手に持った小さな貝殻の中に紅が刷いてある。外側には撫子の花の柄が描かれていて華やかだ。
「へえ……すごいですね。差支えなければ自分でやっても構いませんか」
「男なのに紅なんて塗るんか」
「ええ、時々塗っていましたよ。昔、人と交渉をする仕事をしていたので顔色を整えるのも大切でしたから」
 貝を受け取って水木は紅を小指で少量取る。

「人間は緊張すると唇が青ざめるでしょう。商談相手に見られたら、こちらの状態が手に取るように分かってしまう。そういう時に薄く紅を差して青みを誤魔化すんです。紅がなければ唇を強く噛むだけでも効果はあります。顔色なんていくらでも変えられる。あとは友好的な笑顔を浮かべてやれば、なんとでもなります」
 にこりと人懐っこく見れるように口角を引き上げる。相手になめられたらお終いだ。その場限りの取り繕いだとしても、生き残るために大切な武器だった。
……そうか。人間は面倒やな」
 大禿はちらりと床の間を見て深く息を吐き出した。おそらく水木の言葉が彼女の琴線に触れたのだろう。風呂場で漏らした言葉といい、大禿には人間に対して嫌悪以外の何かがありそうだ。水木は気が付かぬ振りをして指で唇に紅を差す。
 この位でいいか、と聞こうとしたが声が出ない。妖怪の術とはすごいものだ。水木が自身の唇を指さして口を開閉させると、大禿が貝紅をひったくった。
「ああ、もう分かった! 声が出ないのに口やかましいのはどうなってんのや」
 大禿は戸口の近くに掛けて置いた提灯を手に取る。彼女が指を鳴らすと青白い火がともり、ぼんやりと明るくなった。

「この提灯の光が強くなる方に迎えば猿神の住処がある。そこまで行ったら猿神の求めるまま、たぁんと奉仕すればええ。わかったな」
 水木はこくりと頷くと、大禿が猫を追い払うように手を振る。
「さっさと行き」
 提灯を受け取って水木が頭を下げる。ありがとうございました、と唇だけ動かせば大禿がそっぽを向いた。



 店に残った大禿は遠ざかる提灯の光を長いこと眺めていた。それからため息を一つ吐いて振り返ると、床の間の扇と三味線が目に入る。
「ああ、嫌や嫌や」
 嫌だと言う言葉は嫌悪よりも哀愁を強く含んでいる。水木と言う男が残していった言葉があんまりにも似ていたものだから、どうしても思い出してしまう。

 ――大禿、よう見ときぃ。人間何てもんは、紅一つ白粉一つで騙せる。紅買う金がなけりゃ唇を噛んで赤みを差せばええの。にぃと笑ってやりや!

 そう言って、すきっ腹を抱えてケラケラ笑っていた。
「嫌いや、人間なんて。あいつらはすぐに……
 眺めるだけにしておけばよいのに、毎日手に取ってしまう。大禿は三味線と手に取り、慰めるようにつま弾いた。



 水木は提灯の明かりが示す方に向かっていく。山中難儀するかと思ったが、山道が整えられており、人の足でも苦労はない。木々の間に差し込む月の光が道を照らす。
 ぺたぺたと雪駄の音を友にして水木は山を登っていく。少し汗ばむと着物から花のような匂いが立ち上がる。鶯色の羽織に、薄墨の単衣。帯は艶やかな淡い桃の色。仮止めの伊達締めは男物では珍しい撫子色。用意された雪駄の鼻緒は紅色で、鬼太郎の下駄とおそろいだな、などと考える。

 猿神の住処は天然の洞窟だった。水木が入ると中は人間の山小屋程度に整えられていた。ゲゲゲの森の鬼太郎の住まいと同じようなものだ。隅に置かれた長火鉢は随分年季が入っている。人間の町ではすっかり電化製品が普及したが、猿神の住まいは大正あたりで止まっているようだ。

 水木が足を踏み出すと、ぽつりぽつりと行灯に火が灯る。並んだ行灯にそって、ござが敷かれて歌舞伎の花道のようになっている。その奥に動く人影が見えた。
「逃げ出すかと思ったが、存外肝が据わっている」
 しゃがれた声の主はかなりの長身。大禿の言った六尺と委細相違ない。天井に空いた穴から差し込む月明かりで姿が露わになる。外見は猿に似ているが、眼光鋭く牙が目立つ。浴衣を一枚ひっかけた姿で水木を手招いた。

「水木と言ったか。ほれ、そこの行灯が置かれたところで一枚ずつ脱いでこっちに来い」
 ちらちら揺らぐ行灯が四つ。水木は猿神に向かって軽く礼をしてから雪駄を脱いだ。
 一つ目。羽織の紐を解いて肩から落とす。借り物ゆえに衣紋かけが欲しいのだが、あいにく口から声が出ない。少し悩んだ後に畳んでからござの上に置いた。
 二つ目。博多帯を緩めて足元に落とす。こちらも丁寧に畳んでいると、からかうような声が聞こえた。
「几帳面だな」
 借り物ですから、と水木は口を動かし、帯と単衣を指さした。
「大禿とは古なじみだ。別に貸した着物に多少皺が寄っても気にするな。あいつは俺が何をしなくても眉に皺を寄せて文句ばっかり寄越す。残りは適当に放っておけばいい」
 水木は眉を下げて首を横に振った。そう言われても、物が良いのに雑な扱いはしたくないのだ。
……まあいい。腹が決めるまでゆっくりやればいいさ。夜は長いんだ」
 水木は帯の下の伊達締めも解くと、そちらも丁寧に折りたたんだ。
 三つ目。襟に手をかけて単衣を肩から落とす。下に着ている長襦袢と擦れてしゅるしゅると衣擦れの音がする。肌馴染みのよい布は擦れる音も上等なのだと感心した。こちらも畳んで行灯の横に置くと猿神が笑った。
「なぁに、無体はしない。天井がないから数えるシミもないが、夜空が良く見える。寝っ転がって星の数でも数えてりゃいいさ」
 頭上には明り取りになる穴が空いていた。町が遠いため星が良く見える。水木は単衣を置いて立ち上がると残りの行灯の数は一つ。身に付けているのは長襦袢と襦袢の伊達締めだけだが、果たしてどちらも脱いで良いものか。
「そこの行灯で腰紐を解くだけでいい。なあに、襦袢は閨で落として貰う」
 四つ目。水木は小さく頷いて最後の行灯に近寄った。伊達締めを緩めて落とす。着物を仮止めするだけの紐だが、大禿が用意したものは上等だ。座って行灯の明かりの下で軽く皺を伸ばしてから畳んだ。
 水木が着ているものは長襦袢一つきりとなった。はだけないように襟を両手で押えたまま猿神を見上げる。

「上等だ。上がってこい」
 猿神の閨は一段高い所に作られている。大きめの綿布団が敷かれているので、寝違えることはなさそうだ。水木が一歩踏み出す。あえてゆっくりと、恐る恐る進む。そう、見えるように近づいていく。
「ほら、もう一歩」
 水木はあえて半歩だけ進み出る。猿神は水木を見下ろして、唇をまくり上げる。
「じらすねえ。あと、一歩。自分の足で来るんだ」
 水木は表情を見られないよう顔を伏せて足を踏み出した。段差を踏み越えて布団の上で猿神と向き合う。
 水木はそのまま裾が捲れぬよう整えて正座をした。襟を持っていた手を離して両手を揃えて頭を下げる。首裏に猿神の視線を感じて身じろぎする。
「約束通り閨での一晩を貰おうか。……どれ、」
 猿神が襟足に手をかけた瞬間、けたたましい鳴き声が聞こえた。それは朝を告げる鳥の声だ。
「っな!」
 猿神が片膝を付いて周囲を警戒する。大音声が響き渡り、星空がするすると消えていく。
 夜の帳が忙しなく取り払われ、無遠慮な光が差し込み始める。穴の縁に立つ姿を見つけたのだろう。猿神が逆光に立つ人影と、腕に乗る鳥を見つけた。嘴を天に向け大音声を発する鳥の長い尾が垂れさがり、穴の縁でゆらゆらと揺れていた。
……は? 鬼太郎?」
 戸惑う猿神の声に顔を伏せたまま水木は笑った。



 腕から鶏が飛び立つ瞬間、ちらりと鬼太郎を見た。
「ありがとう。助かりました」
 鶏は答えるように小さく鳴く。鬼太郎は明かり取りの穴の縁を蹴って中へと入り込んだ。人なら怪我をするような高さでも、鬼太郎にとっては階段を二段ほど飛ばすようなものだ。下駄が地面に触れると高い音が反響する。
 猿神の元まで素早く近寄って、呆けている相手の前にいる水木を抱き上げる。襦袢の襟を押えたままの水木は鬼太郎に笑いかけた。
「猿神、夜が明けた。閨での一晩は済んだだろう。水木は返して貰う」
 外から差し込む朝日に洞窟の中が明るくなる。もはや行灯の光は陽光に負けてないようなものだ。閨の縁に差し込む明かりを一瞥し、猿神がだらりと腕を下ろした。鬼太郎はいつでも離れられるよう足に力を籠める。猿神はぶるぶると震えだし、腕を上げて床を叩いた。

「っふ、はははっ! こいつはいい! 晨鶏とは考えたものだ。しかし、ガキの言い訳だってこれほどの無茶はあるまいよ」
 鬼太郎が連れて来たものを猿神が言い当てた。
 晨鶏とは朝を告げる鶏のことである。朝が来るから鶏が鳴く。しかし力の強い鶏であれば、鳴くことで朝を連れてくることが出来る。鬼太郎は狐の棟梁の細君に頼み込んで、晨鶏に化けて貰った。勿論、日ノ本全てに朝を巡らせるには膨大な力が必要だ。しかし古狐の妖力を巡らせた一声であれば、猿神の洞窟程度なら朝を連れてくることは出来る。
「一夜は一夜だろう」
 鬼太郎の言い分に猿神がひっくり返った。仰向けになって腹を抱えて転がり回る。
「ひひひっ! 確かに一夜は一夜だな。何か屁理屈をこねるだろうと思ったが、これほどとは……ああ、可笑しい。腹が捻じれて死んじまう!」
「死ぬのは牙を一欠けら寄越してからにしてくれないか」
 猿神に敵意はない。鬼太郎は水木を下ろして、肩にちゃんちゃんこを掛けた。するすると布が広がって単衣くらいの大きさになる。陽光が水木の顔に当たると、うっすら色づいていた紅が煙のように消えて行った。
「ん……声が戻ったな。鬼太郎、別に襦袢は着ているから、こいつは掛けなくたって」
「下着姿だろう。他人に見せるものじゃない」
 本当は羽織一つ脱いで欲しくなかった。閨の一夜という約束を違えないために、水木が寝所に入るのを我慢しただけだ。

「っひひひ、……惚気るねえ。お熱いこったなあ」
 目元の涙を拭った猿神が身体を起こす。胡坐をかいて寄り添う連れ合いを眺めている。
 水木は立ち上がると猿神に向かって口角を引き上げてみせた。
「襦袢の下を見ずに済んでよかったな。愛染明王も投げ出す有様だぜ。爺さんには刺激が強すぎる」
 水木は袖を指でつまむ。その下にある沢山の痕跡を残したのは鬼太郎だが、猿神に見せてやるのは嫌なので水木の手を押えた。
「やめろ、やめろ。袖を捲ろうとするな。押さえるな。ったく、本当にとんでもねえ奴だ」
「猿神、約束通り牙の欠片をくれないか」
「約束は約束だ。ただし一つ条件がある」
「こちらは約束を守っている。後付けとは度胸があるな」
 むっと口をとがらせると水木が鬼太郎の肩を叩く。
「まあ、聞くだけ聞いてやれ。ついさっきも笑い死にの危機だったんだ。年寄りは大切にしてやらねえと」
「口の悪い人間だな。……俺はお前と同じかそれ以上に口が悪くて、騒がしくて、とんでもない、はねっ返りを知っているんだ。水木さん、そいつの墓を参っちゃくれねえか」
 猿神が目を細め、鬼太郎と水木を眺めている。その瞳に在りし日を懐かしむ色が浮かんでいる。

……それは誰の墓だ」
 鬼太郎の問いに猿神が答えた。
「この年寄りの連れ合いだよ。何百年も昔の話だ。まだ青かった頃、人間と連れ合った。親に捨てられた哀れな女だったが、捨てられたんなら構う事ないと山の中でやりたい放題したはねっ返りさ。六十年ぽっちで死んじまったが、死ぬ間際まで本当にうるさい女だった」
 しゃがれて優しい声音で過去を紡ぐ。
「時々人間の銭がいるっていうと、大禿とつるんで里に下りて唄いと踊りで稼いでいた。大禿はあいつの舞が大好きだった……好きで堪らねえから、人間が嫌いなのさ」
 楽しくて、愛おしくて、大好きなのにあっという間に死んでしまう。そんなお前が憎らしい。
「大禿の店にあった扇と三味線は、もしかして」
 水木の言葉に猿神がああと声を漏らす。
「あいつの名残だ。もうそれしか残ってねえ」
 種族を越えた親友だったのだろう。猿神の妻のことなど、人間は誰も覚えてはいない。大禿は思い出の品を眺めては、人間なんてと恨み言をこぼす。そうやってやるせなさを吐き出して何てこのない振りを続ける。
 水木は鬼太郎から離れて落とした服を拾い始めた。
「いいぜ。あんたの条件飲もうじゃないか。身支度を整えるからちょっと待ってくれ」
「水木」
 出来ればちゃんちゃんこを羽織ったままでいて欲しい。鬼太郎の呼びかけに水木が拾い集めた服を持って振り返る。
「これは、大禿から大親友への手向けだろう。俺は縁もゆかりもない人間だが、きっとその人の墓前に寄越すのに丁度いいんだ」
「仕方ないな」
 鬼太郎自身が納得できるかと言われたら否だ。水木が抱えている布地がどれも上物なのは分かるし、それが大禿の想いならば無下にはできない。鬼太郎は仕方なくちゃんちゃんを受け取って猿神に向かって呼びかける。
「猿神。水木が着替えるから、外で待っていてくれ」
「あのなあ。家主が俺なのを忘れちゃいないか? しかも徹夜の爺だぞ」
「僕の伴侶の着替えを見るなと言っているんだ。家主かどうかなんて関係ない」
 鬼太郎がきっぱり言い切ると、猿神は呆れた顔でのそのそ出て行き、水木は苦い薬でも飲んだ顔をしていた。鬼太郎は一人、察しの悪い猿神に腹を立てていた。



 猿神の妻の墓は山が一望できる丘にあった。下の方に大禿の店の板葺屋根が見える。水木は猿神が用意した線香を墓前に供えて両手を合わせた。
 猿神が手入れしているのだろう。墓の周りには季節の撫子の花が咲いている。鬼太郎は洞窟から墓まで出来た山道を振り返った。猿神が一人で何十年も何百年も往復して出来た道だ。
「水木を閨にと言ったのは妻の思い出を話すためか」
 熱心に祈る水木の後姿を眺めながら、鬼太郎が猿神に声を掛ける。
「気が向けば手を出しても良かったが……おい殺気を収めろクソガキ。牙を貰う態度じゃねえだろ」
「水木の貞操の危機に黙っていられるか」
 猿神が鬼太郎の横から一歩離れる。あえて苛立ちを隠さずにいると、猿神がばりばりと頭を掻く。

「お前と連れ合いの噂話を聞いて、もしやと思ったのさ。妻に似た人間なら、とんでもないことをしてくれるんじゃないかと。はねっ返りのやりたい放題が懐かしくて、無茶な条件を付けた」
「少しは慰めになったのか」
 猿神は眉を下げ口元を引き上げ、泣き笑いのような顔をした。
「どうだろうな……懐かしい気分にはなった。あいつは逝っちまった。世界中引っ掻きまわそうが替わりはいない。そう分かったのは……幸せなことだろうな」
 幸せと言いながら、猿神は口元を覆って嗚咽と笑い声が混じった音を漏らした。
「鬼太郎、お前も馬鹿だなあ。あの男はお前をおいて逝っちまう。分かっているのにどうして惚れた」
「理屈じゃない。……知っているくせに」
「年寄りのおせっかいだよ。そうだな、惚れたらそれまで。人間ってのはどうして眩しいのかね。無様で弱くて醜いくせに、時々一瞬の朝焼けみたいな光が混じってやがる。そいつに囚われたらおしまいだ。光を大事に抱えてもあっと言う間に消えて、俺たちは宵闇を歩き続けるんだ」
 いずれお前が辿る道だと猿神が告げる。鬼太郎はしらみ始めた空と、水木の姿を見る。
「もう二度と朝日が拝めなくとも……その目で見た陽光に偽りはないだろう」
 鬼太郎の言葉に猿神がにっと牙をむき出しに笑った。懐に入れた匕首で牙を削ると懐紙に包んで差し出してくる。鬼太郎が受け取ると、猿神は妻の眠る墓と手を合わせる人間を眩しそうに見つめる。
「本当に馬鹿だよ。俺もお前もな」
 水木が立ち上がり、こちらを振り返った。
 鬼太郎、と招く声はあと何回聞けるのだろう。怯えて数え始めてはいけない。だけれども、一つだって聞き逃したくない。鬼太郎は水木に応えて足を踏み出した。