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ユコ
2024-06-14 01:37:36
9223文字
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溺れる孔雀
お題:ナイトプール
人前で肌を晒せないアベンチュリンが、教授の優しさに溺れないように必死で堪えている話。
無数の街の輝きを階下に、闇夜を照らす青や黄色やピンク色のネオンの光を反射して、宝石のように煌めく水面が静かに揺蕩う。
ホテル・レバリーの最上階、許された客のみが踏み入れることができるその階に用意されているのはそんな幻想的な夜の社交場、所謂ナイトプールだ。
星穹列車の活躍で締め括られたピノコニーの顛末後、後処理のためジェイドたちがピアポイントからピノコニーにやってくるまで、僕には数日間の短い休暇が与えられた。
休暇と言ってもジェイドたちが訪れるまではピノコニーから離れることもできないため、退屈な休暇だ。まだまだ慌ただしいピノコニーで満足な娯楽もなく、とはいえあの忌々しい夢境へ続くドリームプールで休む気にもなれない。結果、現実のホテル・レバリーのバーで連日飲み明かすのにも飽きてしまい、休暇の最後はスイートルームの客人たちのために解放されたプールサイドぐらいにしか足を運ぶ場所がなかった。
「まだピノコニーにいたのか。てっきりピアポイントに帰ったのかと」
君の仕事は終わったはずだろう。
そんな暇潰しでプールサイドに置かれたデッキチェアで寝転んでいると、聞き馴染んだ男の声がした。僕はサングラスをあげて視界を見上げる。
さっきまでプールに浸かっていたのがわかる、均整の取れた美しい彫刻像のような健康的な肉体に、艶めいた藍色の髪。髪の切っ先から滴る水を排除するように、右手でかき揚げた男の赤銅色の瞳が僕を見下ろしていた。夜の艶めかしい照明に当てられた瑞々しく濡れた体は、いつもの彼から健全さを奪っているようにも見える。
これだけで濡れちゃう女も男も、世の中にはたくさんいるだろうな。
なんて、今すぐこの目の前にいる教授様に物理チョークを投げつけられて脳震盪でも起こしそうな下衆なことを頭の中で思いながら、僕はサングラスを外し、レイシオに微笑んだ。
「やぁ、教授。相変わらず学者でいるのが勿体無い体をしてるな」
そういえば、ひたすらプールを爆速で泳ぐ客がいたような気がする。そういえば教授様は、真理の追求のためには頭脳だけではなく健康的な肉体も必要だと豪語する、糞真面目が服を着て歩いているような男だった。僕は呆れて口を開く。
「このナイトプールで競泳し出す真面目な客が誰かと思えば、君だったとはね」
「プールは泳ぐためにある。君は君で何故プールに来たんだと言う格好をしているな」
レイシオの言う通り、僕の格好はプールサイドに相応しい人間の格好とは言えない。
下はかろうじて水着を身につけているが、上半身はスポーツブランドのロゴが入った長袖のパーカーを身につけ、腕にはいつもの宝石が埋め込まれた腕時計をしたままだし、耳にもしっかりといつものピアスがついている。つまり、プールの中には入るつもりはないと宣言したような格好だ。レイシオの指摘に僕は肩を竦める。
「だって、ナイトプールだよ? こんな場所で本気で泳ぎ出すのは君ぐらいだよ、雰囲気を楽しめれば十分だろう?」
そう言って、僕はサイドテーブルに置かれた美しい夕焼け色をしたカクテルを右手に掲げた。
僕の言葉に、教授はつまらなさそうに小さく嘆息をつく。
「泳ぎもしないなら、大人しく部屋に帰って休んでいたらどうだ。まだ本調子ではないんだろう。くだらん娯楽にうつつを抜かしている時間があるなら、早くピアポイントに帰れ」
「お気遣いどうも。まぁ確かにまだ気怠さは残っているけれど、ジェイドがそろそろピノコニー入りするし、しがない駒の僕は彼女たちが訪れるまでに、場を温めておく必要はあるからね」
「接待か」
「察しが良くて助かるよ」
僕はプールサイドの奥で水着を着た女性たちに囲まれている僕たちの顧客のだらけきった顔をサングラス越しに捉える。僕がピノコニーから離れられない理由の一つは、ファミリーが弱っている間にカンパニーの息がかかった人間たちを今のうちにピノコニーの事情に巻き込むためだった。使える
手札
フレンド
は多ければ多いほどいい。あの分なら僕が入る必要もなく、彼女たちのおもてなしで十分彼らは満足するだろう。僕の代わりに仕事をしてくれる彼女たちには、後でチップは弾まないと。
ナイトプールにふさわしいだらしない光景を目の端に入れたレイシオは、僕の視線の意図に気づき、眉を顰めた。
「目が腐りそうな光景で不愉快だ。鈍らないように体を動かしたかっただけだったが、場所を間違えたな」
「まぁまぁ。もしよかったらプライベートプールの方を紹介しようか? この件では君には世話になったからね。カンパニーの僕の名前につけておいてくれれば、自由に貸し切ってもらって構わないよ」
「ふむ。それなら使わせてもらおうか。君も多少鍛えたほうがいいぞ、星たちにぼこぼこにされたんだろう、鍛え方が足りない」
「あれは鍛えるとかの次元が違うでしょ
……
、一対四とか不公平すぎる。そもそも僕泳げないし」
しまった、口が滑った。
別に言わなくてもいい情報を、ビジネスパートナーである男に自分から漏らしたことに気づいたが、もう遅い。僕の弱点に、にやりと不敵な笑みを浮かべたレイシオが僕を見下ろす。
「ほう。意外だな」
「泳げないというか、泳ぐという経験をしたことがないってだけだから。砂漠出の人間には、こんな水で満たされた場所で遊ぶって発想自体が信じられないんだよ」
僕はデッキチェアから立ち上がり、目の前のきらきらと煌めく水で満たされたプールの水を、足先で蹴り上げる。
ホテル・レバリーのプールは普通のプールとは違って、博識学会が提唱した反重力システムを基に技術開発部が生み出した反重力装置を使って宙に浮かんでいる巨大な水泡のようなものだ。つまり底がない。突き抜ければ真っ逆さま。こんなところに飛び込んではしゃげる客たちはどうかしていると僕は思う。
「そりゃあ、君たち博識学会の技術に関しては信用はしているけどさ。何かがあって反重力装置が切れたら、僕たちは遥か地上に真っ逆さまだろ? 正気じゃない」
「君は確率というものを学んだほうがいい、反重力装置が壊れることなど億分の一の確率だし、そもそも壊れた時に安全装置が作動する設計だ」
「君たちの技術も理論も信じてるけど、僕は
幸運
イレギュラー
だからね
……
、僕がこのプールに飛び込んだ結果、僕だけが助かってみんなが落下するなんて事故が起こりかねないじゃない? 第一、大体足がつかない場所で泳ぐとか正気じゃないよ」
「人間の体は浮くようにできている。後ここで満たしている水の成分は海水と同様の成分にプラスして海洋生物の憶質も混ぜてるから普通の水よりも浮きやすく、人間が溺れることもない」
「ええ
……
、でも泳げる君がいっても信憑性なくない?」
「では実験してみようか」
「え?」
僕が振り返る隙もなかった。
背中がとんと押される。いや、蹴飛ばされるの間違いか。
僕の体は瞬間、無重力を味わい──、見事、着水。
ばしゃん、と水飛沫をあげて僕の体は生温いプールの水泡の中に放り投げられた。底のないプールに投げ入れられた体は一度深く、深く、水の内部へと沈んでいく。生温い水と共に、濡れた服が身体にまとわりついて重い。人間の体は浮くようにできている。そう言った高尚な教授様の言葉を一応信用して、もがきたくなる四肢を抑えて、僕はゆっくりと光る水面へ向かって体を浮上させる。頭上が水面に到達すると同時に、ぷは、と肺の底に溜まったわずかな息を吐き出し、僕は怒鳴った。
「
……
この野郎
……
! おい、レイシオ!」
プールサイドで笑いを噛み殺すように、僕から顔を背ける男に僕は声を荒げる。けれど僕の怒鳴り声を意にも介さずレイシオは口を淡々と開いた。
「どうだ? 金槌でもこのプールであれば浮く、という実証ができたな」
「僕のお気に入りの腕時計は泳ぐつもりはなかったって泣いてるよ。どうしてくれるんだ」
「安心しろ、君のそのご自慢の時計が耐水性なのは知っていて蹴飛ばしている」
「尚更たち悪いんだけど」
プールサイド側から伸ばされる手を信用してなるものか、と思うが、近くに上がれる梯子もない。僕は渋々、僕をここに蹴落とした張本人である男の手を掴んだ。同じくプールの中へと引きずり落としてやりたいが、水泳が得意な彼には嫌がらせというよりはご褒美にしかならないだろう。
とんだ濡れ鼠のようになった僕をプールから引っ張り上げて、戦犯のレイシオは笑う。
「先程の君の顔は記録しておくべきだった。他の十の石心たちに見せてやりたいな。総監とは思えない間抜けな顔をしていたぞ」
「やめてくれよ、絶対ネタにされるし、今度は惑星ブルーの水質調査だとか面倒な仕事をふられかねない」
「やはり泳げたほうがいいんじゃないか? 訓練なら付き合うが」
「君、教鞭を取る以外にスポーツトレーナーも請け負うつもり? 流石に手広すぎるよ」
絶え間ない会話の応酬を続けながら、不思議だな、と思う。
何故かレイシオといるとただのビジネスパートナーのはずなのに、こんな軽口が平気で叩けてしまう。プールに突き落としたり、遠慮なく怒鳴りつけたり、笑ったりしている僕たちを見て、ただのビジネスパートナーだと誰が思うだろう。こんな風に笑い合っているだけならば、僕たちは誰から見ても普通の『友人』だ。もしかして、ピノコニーの夢はまだ続いているのかもしれない。そう勘違いしてしまいたくなるような。
けれど、もうあの夢は終わったのだ。
僕を現実へ引き戻す声が、冷水のように僕の背中に掛けられた。
「あぁ、見つけたよ。アベンチュリン総監」
──ああ、なんで僕はさっきサングラスを外してしまったんだろう。
その声の主を思って、僕はうんざりした。
できることなら
顧客
クライアント
に、今までレイシオに見せていた自分の無防備な表情を見せたくはなかった。
でも、レイシオより僕はずっと器用な人間だ。石膏頭なんて持ち込まなくても、サングラスなんてなくても、取り繕える。──取り繕えるはずだ、『アベンチュリン』。
僕は自分に呪文のように名を言い聞かせ、いつもの薄い笑みを浮かべて、後ろを振り返る。
そこには予想通り、女の子を側につけた僕の顧客の一人である投資家の男が、女の子の腰を抱きながら立っていた。
「素敵な場を用意してくれたお礼を伝えねばと思ってね。ピノコニーは不安定な状況になっていると聞いていたが、予想以上にカンパニーがうまく掌握したようだね。ファミリーたちが仕切っていた頃よりずっと滞在しやすいよ。前向きに出資を検討したい」
「お気に召していただいたようで何より」
「噂で聞いているより、君は随分と面白い男のようだ」
そう言って、男は目を細めて濡れた僕の体を頭のてっぺんから爪先まで嬲るように見つめる。
前々からこの男からはカジノでの接待でも、こう言った視線を投げつけられた記憶がある。唯一無二の芸術品を収集することを趣味とする男は、世界に唯一の生き残りとなったエヴィキン人である僕にも興味津々だった。サングラスの奥にある僕の瞳を睨めつけるように見つめ、酒に酔った振りで女性に間違えたと言い訳で僕の腰を抱いたこともある。ぼうやなら彼とはもっといい契約が結べそうね、とはジェイドの談。
「ところで、先ほどホテルの支配人からプライベートプールの案内を受けてね。どうだい、君も一緒にひと泳ぎ」
「光栄ですね。ただ僕はご存知の通り、砂漠の民の出自で泳ぐのはこのように得意ではなく。ただの濡れ鼠になるだけですよ」
「何、それも一興だよ。君が僕を楽しませてくれるなら、君たちの希望通りピノコニーの不良債権に対しての出資をここで約束するよ。それとも、君は服を着て泳ぐ理由があるのかな?」
その彼の指摘に、僕は崩さず笑みを浮かべ続ける。
つまり、彼は見たいだけなのだ。
この首に刻まれた商品コードだけでは飽き足らず、体に直接刻まれてきた僕の奴隷として虐げられ、灼かれてきた証を。哀れなエヴィキン人を手元で鑑賞したいだけ。そんな下衆な欲望を隠さない顧客は、僕に懇々と話しかける。
「流石に君にも矜持があるだろうから、ここで脱げとは言わないさ。だから、どうだい。僕のプライベートプールなら、君のその濡れ鼠の服も乾かせるだろう?」
「はは。相変わらず、いい趣味をお持ちだ」
この下衆野郎。
カンパニーの目もある僕の
領域
テリトリー
であるカジノや交渉の場では、こんな風に明け透けに誘うことはできない。監視も薄いこのナイトプールの開放的な場を機会と男は捉えたらしい。
糞野郎と罵って、今すぐプールの中に蹴落としてやりたいけれど、戦略投資部の中でも惑星一つは買えると言われている資産を持った投資家である彼を無碍にするわけにもいかない。ジェイドが来るまでは無意味に事を荒立てたくない。この醜い体ぐらいで済むなら、命よりも軽くて安く済むチップか。
笑みを崩さず、僕が返事を返そうとしたその瞬間だった。
ふわり、と白く羽のように柔らかい何かが僕の頭に降りてきた。
──なんだ、これは。タオル?
このナイトプールの不健全な場には不釣り合いな、清潔な洗い立てのシャボンと陽の匂いが鼻先を擽る。
「濡れたアティニークジャクには、必要かと思ってな」
「
……
レイシオ」
その汚れひとつもない清潔なタオルを僕に投げた男の名前を呼ぶ。僕と顧客の間に躊躇う事なく割入ったレイシオは、用意していたようにすらすらと口上を口にした。
「すまないが彼は、このあと今後のピノコニーの技術管理に関して博識学会との会議が入っている。そうだな、アベンチュリン」
有無を言わせぬ同意を求める教授の低い圧を感じる声に、僕はタオルの下でこくりと頷くしかなかった。
「
……
あぁ、そうだったね、教授。忘れていたよ、君の貴重な時間を無碍にするところだった。申し訳ない。近々、他の十の石心もピノコニーにやってくる。その時は必ずあなたを歓ばせる宴に招待する事を約束するよ。今日の投資の話は、是非そこで聞かせてほしい」
「仕方ない。何、ここで博識学会のベリタス・レイシオを前にできたのは光栄だよ。またの機会を楽しみにすることにしよう」
「ええ。ではまた」
タオルの下で微笑む自分の笑みが、いつもと変わり映えのないことを祈るしかなかった。
*
「ねえ。これって信用ポイントで足りる? それともカンパニー自体への貸し?」
僕はプールサイドを出て、僕の方を振り返ることもなくシャワールームへとすたすたと歩いていくレイシオの逞しい背中に声をかけた。
もうピノコニーでのレイシオと僕の役割は終わったのだから、もちろん会議なんて嘘だ。明らかに、僕があの顧客に対して笑顔の裏で不愉快を感じていた事を察しての助け舟だった。
僕の信用ポイントで解決できるのならそれに越したことはないが、僕への助け舟を出したことを条件にカンパニーと交渉されるのなら、ジェイドに渋い顔をされそうだ。
僕の声にレイシオがぴたりと足を止めて振り返る。その表情は僕の想像以上の顰め面をしていた。
「そんなものは必要ない。これは僕の個人的感情で、勝手に君達のやりとりに割り入っただけだ」
「何それ。君らしくもない。じゃあ君は、何もメリットがないのに僕のフォローをしたってこと?」
まるで、それでは本当に『友人』じゃないか。
僕は溜息混じりに、さっきからプールの水で張り付いて気持ち悪くて仕方なかったパーカーのジップをおろし、シャワールームに置いてあるベンチの上に脱ぎ捨てた。
水着一枚でプールサイドにいるに相応しい格好に今更になった僕。パーカーの下から顕になった僕の薄い貧相な裸を前にしても、レイシオは目を背けることも、動じることはなかった。
十の石心の一席、最高級幹部の座を手に入れてから、僕はこの素肌を人に晒したことなんてない。
だって、ここには誰もが目を背けたくなる、奴隷としての証がわかりやすい証が、首の商品コードよりも多く刻まれているから。
焼け爛れた煙草を押し付けられた跡。早く歩けと砂漠の中で鞭を打たれた背中の腫れた跡。砂漠で磔にされた縄の跡に、決闘で受けたナイフの刺し傷。どれも僕の命は奪わなかったけれど、この体に商品コードと同じように、僕から尊厳を奪った烙印だ。
その僕の忌むべき人生が刻まれた体を見ても、レイシオは表情を一ミリたりと動かすことはなかった。
僕はそのレイシオの態度に、思わず唇を歪ませる。
「ああ、なるほどね。これも賢い君にとっては予想通りってわけ? 僕はプールに突き落とされただけで間抜け面を晒したのに、君を驚かすには一筋縄じゃいかないね。こんな僕に貸しを作りたかったわけでもないなら、同情? 憐れみ?」
それなら、いらないんだけど。
そう言って、僕は貸された陽の匂いがたっぷりと染み込まれたタオルを僕は投げつける。
彼にはエヴェキン人の話を、故郷の話を、調子に乗ってしすぎたかもしれない。
真理を重要視し、同情や感傷という感情を持たない男だからと思って、ほいほいと話すぎた。
煽るような僕の質問に、重い溜息をつきながらレイシオは僕が投げつけたタオルを手に、僕に近づく。
「どれも違う。言ったろう、僕の個人的感情だと。僕が君をあの愚鈍の前で無意味に晒者にしたくなかっただけだ」
「
……
何それ」
僕たちはお互いに利があるから、一緒にいれる。
それがなくなればすぐに別れられる、ただの気軽なビジネスパートナーだったはずだ。
そう言い聞かせるのに、僕の醜い体から目を背けず、まっすぐに見つめてくる男の真摯な瞳にその冷たさはない。手にしたタオルをもう一度レイシオは僕の肩にまるで抱きしめるように優しく掛け直した。
タオルの端を握りしめるレイシオの手は、まるで怒りを堪えるように固く握られていた。振り下ろす先もない鉄槌を何度も握り、諦めた。幼い頃の僕と同じ、怒りの拳。
──どうして君は、同情でも愉悦でも憐憫でもなく、この体を見て怒りを讃えることができるんだ。
その怒りは、僕のもののはずなのに。
もう僕はとっくにそれを他者に向ける事を、諦めてきたのに。
戸惑う僕に言い聞かせるように、レイシオの低い声が静かに響く。
「いいか。真理を知ろうともしない愚鈍たちの前で無意味に君の人生を晒し、君の尊厳を傷つける必要はない」
「それは普通の人間の場合だろ。カンパニーの所有物である僕にそもそも傷つくような尊厳なんて
……
」
「うるさい、黙ってろ。君が犯罪者であるだとかはこの場合、関係ない。人間には種族や性別に関わらず尊厳というものが保証されるべきなんだ。それは銃の
安全装置
セーフティー
のようなもので、だから人間は引き金を引く前に行動を選べる理性がある。君にはそれが外れてる」
「つまり、僕には常識がないってこと?」
「違う。君の人生は、君のものだと言っているんだ」
燃えるような赤銅色の瞳が、真っ直ぐと僕へと注がれる。
その熱のある眼差しは、夢境の宵闇を切り裂く流星よりも、眩い光だった。その光を前にすると、眩しくて、焼きれてしまいそうな。
誰かのものに所有され続けたこの体の傷を見ても、この男は迷わず僕の人生は僕のものだと言う。
きっと、彼はこの醜い体を見ても、明日も変わらず、僕を平気でプールへと突き飛ばすし、泳げない僕に迷わず手を伸ばす。そうして呆れた顔で笑い、僕を美しい羽を広げる喧しいアティニークジャクと皮肉る。何も変わらず、真っ当に。
それが、君の正しさだから。
縋るように僕は教授がかけてくれたタオルをぎゅっと掴む。こうやって力を入れて縋っていないと、自分の内側から何かが溢れ出してきてしまいそうになる。このカンパニーの所有物となった日から蓋をし続けてきた何かが。
──堪えろ、『アベンチュリン』。
僕は言い聞かせる。誰にも、僕の心を明け渡す訳にはいかない。この計略が滞りなく終えるまで。僕は誰にも心を許すことなんてできない。僕に必要なのは、この命ひとつだ。理解者も、友人も本当の意味では必要なんかじゃない。
そんな僕の心も知らずに、レイシオは僕からゆっくりと手を離す。
「君のパフォーマンスやらが愚鈍たちにとっては効果があるのは確かに認めざるを得ないが、ほどほどにしろ」
体が冷える前に暖かいシャワーをきちんと浴びてから着替えるように。
そう医者のように僕に適切なアドバイスをかけてレイシオはシャワールームの扉の中へと去っていった。
*
シャワールームの個室の一つに飛び込み、僕は蛇口のコックを捻った。もちろん、青色の冷水が出てくる方に向けて。あんな医者の診断なんて、僕は知らない。
大嫌いな雨のように細やかな水滴が、僕の体に降り注ぐ。震えるような冷たさに、僕の体がどんどん萎縮していく。その冷たさに、ほっと息をついた。僕に必要なのは僕の体を焼き尽くすような熱ではなく、僕の心を凍らせる冷蔑だ。冷たければ冷たいほどいい。
「
……
本当に嫌いだなぁ、真っ当で、知性のある凡人って」
逃げ道を用意してくれない。正しさが人を救うと本気で思っている馬鹿。彼は僕を愚鈍と罵るが、僕だって尽きぬほど彼を罵る言葉は出てくる。それぐらい他の連中と同じように上っ面だけの微笑みの表情でいさせてくれない、僕を揺さぶる男。その真実が憎たらしかった。
ねえ、レイシオ。
君のそばにいるのは自分の運命を忘れるぐらい無邪気で楽しくて、でも時々、水の中にいるよりも、息が苦しくなるときがあるんだ。
泳ぎ方も知らない、砂漠で孤独に生きてきた孔雀にとっては、君の誠実と正しさは乾いた砂漠では見たことがないプールに湛えられた生暖かい水のようで。
──そんなものに飛び込んだら、きっと、溺れて息ができなくなる。
急に自分の肌に刻まれた傷が疼いて痛むような感覚に、僕は思わず二の腕を抱く。
今更、痛むはずはないんだ。
痛みも尊厳も、何もかもを置いてきた。
カカワのオーロラの下で再会するその日まで、僕に必要なのは、
賭け事
ベット
のために必要なこの命一つだけなのだから。
頬を伝う雫がなんだかしょっぱいような気がしたけれど、僕は気づかないふりをする。
暫くの間、そうやってシャワーの冷たい雨に打たれ続けることしかできなかった。
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