千代里
2024-06-13 12:58:58
13084文字
Public ラハとエリンの話
 

星の背中を押す人

トラル大陸に向かう直前、ラハが見た夢の話

「何を読んでいるんだ?」
 自分の頭上から降ってきた声に、エリンは文字を追っていた視線を止めて、その色違いの青と緑の双眸を上へと向ける。声から予想していた通り、そこには見慣れた赤毛の青年が立っていた。
「ラハ、来てたんだね。仕事は終わったの?」
「今日の分はな。そっちこそ、随分とのんびりしているみたいだが、出発の準備は終わったのか?」
「うん。エレンヴィルさんとクルルさんに手伝ってもらって、大体は。あとは、錬金薬とか装備の修理道具の準備ぐらいかな」
 二人が話しているのは、オールドシャーレアンにあるバルデシオン分館――その中にある、団欒用に用意された談話室だ。エリンは現在、談話室内にあるソファに体を預け、のんびりと読書を楽しんでいた。
 バルデシオン分館は、本来ならクルル・バルデシオンを筆頭としたバルデシオン委員会の関係者が使う建物である。とはいえ、エリンにとってこの建物は、シャーレアン国内で活動する際の宿のようなものとして位置付けられていた。
 第二の家のようにくつろぐエリンに、ラハは思わず苦笑いをこぼす。この建物にエリンを案内したばかりの頃は、シャーレアンの人の建物を自分が使っていいのかと戸惑っていたものだ。今ではすっかり肩の力を抜いてくれているようで何よりだと、ついつい微笑ましいものを見る目を向けてしまう。
「それで、さっきの質問だけど。そんなに楽しそうに、何を読んでるんだ?」
「エレンヴィルさんに教えてもらって、大書院からトラル大陸の本を借りてきたの。これから行く所がどんな気候なのか、どんな食べ物があるのか、準備できる時間があるうち調べておこうかなと思って」
 話しつつ、エリンは自分が広げた本をずいとラハにも見せる。そこには、色鮮やかな挿絵と共に、新大陸の作物が記されていた。文字が大きく、どちらかというと子供向けの本のようだ。
(そういえば、エリンはあまり複雑な内容の本は苦手なんだったっけ)
 ラハにとっては難なく読める内容であっても、エリンは頭から煙を出していたことがあった。てっきり、エリンがこれから旅立つ先――一般的には新大陸と呼ばれている『トラル大陸』の歴史書や風土記でも読んでいるのかと思いきや、存外に平和な内容を見せられて、思わずラハは二度目の笑いをこぼしてしまう。
 それを見て、エリンは顔を赤くして、
「も、もちろん、観光のために行くんじゃないって分かってるから! 依頼された分は仕事もしてくるし、お土産もちゃんと買ってくるよ」
……本当に大丈夫なんだろうな?」
「一緒に来てくれる人がしっかりしてるから、大丈夫だと思うよ。エレンヴィルさんもウクラマトさんも、親切な人だもの。この本も、私が難しい本は読めないかもって言ったら、エレンヴィルさんが持ってきてくれたんだよ」
 エリンの頬には、珍しく興奮のためか紅がさしている。
 今までは、エオルゼアのため、世界のため、星のため、といった大きな重荷が彼女の肩にのっていた。だが、今のエリンにはそれらの重荷はない。
 彼女がしくじったところで、世界が一夜にして滅びることはない。そう思っているからこそ、これほどまでに気軽に嬉しそうに顔を綻ばせていられるのだろう。
 ラハとしても、エリンが次なる冒険に胸をときめかせているのは喜ばしいと思う。純粋に背中を後押ししてやりたい気持ちもある。
 だが、それはそれとして。
「エリン。あんた、随分とエレンヴィルと仲が良さそうだな」
 旅立つ彼女に向けて、少しだけ意地悪してやりたい気持ちがラハの中から顔を覗かせる。
 元々、ラハとエリンは双方同意の上での『少し特別な関係』だ。具体的に恋だの愛だのというわかりやすいレッテルは貼っていないものの、その意味合いがわからないほどに互いに子供でもない。
 ラハの分かりやすい意地悪を受けて、エリンはもにょもにょと唇をもごつかせた。軽い冗談のつもりだったが、予想以上にエリンが困ってしまったようなので、ラハもつい尻尾が下がってきてしまう。
(ちょっと、意地悪が過ぎたか……?)
 ちょっとした揶揄いではあったが、言葉の内容そのものに嘘はない。
 自分の特別な相手が、違う男とことさらに仲良くしていたら嫌な気持ちにもなる。ラハとしては、やきもち半分といったところだった。
 とはいえ、いかにもわかりやすい嫉妬にラハ自身も大人気ないと思い始めた頃、
「え、エレンヴィルさんは、私が初めて行くところだから、気を遣ってくれているだけで、そういう関係じゃないよ。それに、ラハに頼むと、また寝る間も惜しんで探しそうだし」
「うぐっ」
「この前だって、地図を買うために全財産投げ打ってしまったところじゃない」
「あれは、あんたの旅に必要だと思って」
「でも、ラハの生活にも必要なお金でもあったんだよね?」
 思いがけない形で指摘を受けて、ラハの目線がつつーと横にずれていく。
 自分の憧れであり、一番であり、最も大事にしたいと思う相手のためなら、ラハにとっては全財産など惜しくない。などと言った暁には、今晩は説教コースになりそうなので、ラハは都合のいい沈黙を選択した。
「ラハが頑張り過ぎなくても、私はちゃんと行って帰ってくるから。最近も何だかんだで色々忙しかったんだから、あまり無理しないでね」
……何だか、うまく丸め込まれている気がするんだが、オレの気のせいか?」
 ラハとしては、『頑張りすぎるのはお互い様だろ』という気持ちからの発言だったが、エリンはエレンヴィルとの関係を再度指摘されたと思ったらしい。急に耳を立てて、尻尾を落ち着きなく振ったあと、
「あ、その、エレンヴィルさんのことは、その……ラハと一緒といる時とは違って、何だか落ち着くところはあるけど、本当にそれだけだよ」
「言われてみれば、落ち着くってのはあるかもしれないな。ヤ・シュトラと一緒にいる時の感覚に近いような……
「そう、そうなの! だから、例えるなら……エレンヴィルさんは、お父さん、みたいな?」
 エリンがそう言った瞬間、ラハは思わず吹き出してしまった。まさか、あの冷静沈着で泰然とした神秘的な青年を捕まえて、父親のようだと言うとは思わなかったからだ。
 だが、それもまたエリンらしい発言だとも思う。彼女にとって、エレンヴィルも、新たに姿を見せたウクラマトも、等しく家族のような存在なのだろう。
「うん、分かってる。さっきのオレの発言は、あまり気にしなくていいからな。その……オレも一緒に行けたらって気持ちのせいで、魔がさしたようなものだから」
「そうなの? でも、本当に一緒に行けたらよかったのにね」
「さすがに、呼ばれてもいないのに顔を出すわけにもな」
 頷きを返しつつ、ラハは手に持っていた資料の束を抱え直す。はずみで、一枚の資料がひらりと落ちたのを見つけ、エリンはすかさずそれを拾い上げた。
「この資料もお仕事に必要なの?」
「ああ、いや。これはどっちかと言うとあんたのためのものだ」
「私のため?」
 エリンは落ちた資料に視線を落としたが、紙いっぱいにびっしり書かれた文字にすぐ眉を寄せてしまった。迅速な読解を早々に諦めて、エリンは視線でラハに助けを求める。
「ピュシス生命院から、新大陸に行くなら念のためにもう一度、エリンの体の検査をしておきたいって頼まれたんだ。それで、あんたの前の検査結果を持ってきてくれって言われて、資料庫からこいつを出してきたんだよ」
「検査……たしか、宇宙の果てから帰ってきた後のこと?」
「ああ。あの時のあんたは、本当に酷い怪我だったんだ。ほとんど死にかけていたと言ってもいいぐらいだった。だから、ちゃんと治ったかって検査しただろ。それの続きみたいなものだ」
 エリンはふんふんと素直に頷き、再び自分の治療状況が記されていると思しき用紙に視線を落とす。もっとも、彼女では医師向けに纏められた内容の全て読み解くことは不可能で、またぞろ頭から煙を出し始めた。ラハも、彼女に倣って紙に記された内容に視線を落とす。
……本当に、よく無事に戻ってきてくれたよ。今でも夢じゃないかって思うぐらいだ)
 だが、夢ではない証拠に、エリンは体をソファに預け、新大陸の本をたくさん広げ、次なる冒険に目を輝かせている。ラハにとっては、この上なく幸せな英雄の形がそこにはある。
「多分、遠からず生命院側から連絡があるはずだ。しばらくは、まだこっちにいるんだろ?」
「うん。そういうことなら、お話があったら検査を受けてくるね。……できれば、検査の時に飲む薬がもっと美味しかったらよかったんだけど」
「はは、薬は口に苦いものだろ。そこは我慢してもらうしかないな」
「ラハの場合、まずい薬に耐性がつきすぎなんだよ。シャーレアンの人は、ラストスタンドの皆さんを見習うべきだと思う」
 研究に邁進するあまり、味や食べやすさなどを二の次とした食品ばかり生み出しているシャーレアン人に対して、エリンは厳しい評価をつける。彼女が唯一シャーレアン国内で認められる食事は、食の最終防壁とも言われている店――ラストスタンドで出されるものだけだ。
「味の改善については、オレも伝えておくよ。……聞き入れてもらえるかは、分からないけれど」
 資料を探しておいてほしいと頼みに来た生命院の研究員は、かの有名な光の戦士の健康状態を記録できると思ってか、大層興奮しているようだった。
 実験動物のような扱いはしないだろうが、彼らにとって光の戦士の身体情報は大いに興味がそそられるもののようだ。そんな相手に薬の味の改善を願ったところで、無視されるのが目に見えている。
「じゃあ、オレはこいつを纏めてから片付けるよ。エリンもほどほどにな」
「うん。この本を読み終わったら寝るね」
「ああ。おやすみ」
 エリンから資料を返してもらい、ラハは何気なく一足早い就寝の挨拶を告げる。
 すると、エリンはパッと顔に笑顔を散らせると、
「おやすみ、ラハ」
 噛み締めるように、そう返した。
 何気ない日常の挨拶も、ただの雑談も、二人にとっては代え難い宝物だ。そう思えるのは、お互いが『少し特別』であると意識しているからこそだろう。
 程よいむず痒さを噛み締めながら、ラハはバルデシオン分館内にある自分の部屋に向かった。
 
 ***
 
 体を包む柔らかな布団の感触と、程よい倦怠感。そして瞼の上に滞留する眠気。ここ数日、あちこち走り回っていた影響か、意識の半分は覚醒しているのにラハの体はなかなか覚醒に至らない。
(最近忙しかったものな……。エリンには言えないけれど、ギルも稼がないといけなかったし……
 シャーレアン国内であっても、人手がたりない所は山ほどある。それらの依頼を片端から受けていたため、いくらまだ年若いラハであっても体に限界を感じてはいた。
 布団の中は暖かく、いくらでも微睡んでいたくなる。だが、外からは小鳥の囀りがきこえている。さすがに、これはそろそろ起きなければまずい時刻だろう。
 布団に潜っていたせいで寝乱れた赤毛を掻きつつ、ラハはもぞもぞと布団の中から這い出る。くあっと大きな欠伸をして、バルデシオン分館の自分の部屋をぼんやりと見渡す。
 寝巻きがわりに着ていた薄手の服を脱ぎ、いつもの赤いジャケットに袖を通し、頑丈な作りのブーツに足を通した頃には、ラハの頭もようやく覚醒を迎えてくれた。
「よし、行くか。まずは、生命院に資料を届けに……
 そこまで言って、ラハは自分が机の上に置いていたはずの資料がないことに気がつく。確かに寝る前に置いておいたはずだが、寝ぼけて違う所に置いたのだろうか。
「まずいな……。なるべく早く持ってきてくれって頼まれてたのに、一体どこに置いたんだ?」
 首を傾げるも、答えはすぐに出てこない。とはいえ、流石に資料を外に出してはいないだろう。ならば建物の中のどこかだろうかと目星をつけて、ラハは部屋の外に出た。
 幸い、廊下の外に出た瞬間、ラハは見慣れた小さな影を目にする。
「ああ、ちょうどよかった。クルル、生命院の資料を見てないか? エリンが検査を受けたときのものなんだが」
 たまたま廊下を歩いていたらしいクルルを呼び止め、ラハは問いかける。
 しかし、なぜだろうか。クルルはひどく驚いたような顔をして、ラハへと走ってきた。
「ど、どうしたんだよ。そんな顔をして」
「ラハくん、どうしたの? 急にそんなことを言って……
 クルルのその応対は、何気ない心配の言葉とは一線を画していた。まるで、ラハが重病に侵されでもしているかのような物言いに、狼狽えたのはらラハの方だ。
「どうしたも何も……特に、変わった所はないと思うんだが。それよりも、エリンの検査の結果をどこかに置き忘れてきてしまったみたいなんだ。今度、エリンの検査をもう一度しなきゃって、生命院の研究者に頼まれててさ。クルルは見てないか?」
 ラハとしてはもう一度同じ問いをしただけだというのに、クルルはまるで痛ましいものを見たかのように顔を歪める。その様子を見て、どうやらただ事ではない何が起きているらしいと、遅まきながらもラハも理解する。
……クルル? 何かあったのか」
「そうよね。まだ気持ちの整理が追いついてないのね。……無理もないわ。私だって」
「いったい、何の話をしているんだ? オレは、エリンの――
「落ち着いて聞いて、ラハくん。エリンは、もういないのよ」
 ラハは、一瞬呼吸を止める。思わず、数度瞬きをして、まじまじとクルルを見つめる。
「あ、ああ……。そうか。もしかして、誰かに呼ばれてシャーレアンを出発してしまったのか?」
 一番あり得そうな可能性を口にしたはずなのに、そういうことではない、と頭のどこかでわかっていた。クルルがそれだけのことで、こんな目でラハを見るわけないと、ラハは誰よりも知っている。これはもっと、どうしようもない悲しみを感じているときの瞳だ。
「ラハくん、エリンはどこにも行かないし、どこにも行けないわ。だって、彼女は……
 
 ――宙の果てから帰ってくる途中で、息を引き取ったのだもの。
 
 瞬きを何度も繰り返す。
 嘘だろ、と喉の奥で湧き出した言葉は、形になる前に虚空に消えた。
 なんて悪い冗談だと笑い飛ばそうとした口元は、不出来な笑みを作ったまま凍りついていた。
「ラハくん、あなたが教えてくれたのよ。あなたの腕の中で、彼女が最期を……迎えた……って」
 クルルは深刻な顔でそう告げる。だが、ラハはすぐさま首を横に振り、出来損ないの苦笑いと共に否定しようとした。
「な……何を、言ってるんだよ。いくら冗談でも、そんな」
「あなたが認められなくなってしまうのも、仕方ないわ。でも、あの場にいた全員が確かめたのよ。もう、どんな奇跡が起きても彼女が目覚めることはないって」
 頭がハンマーで殴られたような衝撃が、ラハの全身を駆け巡る。
 ソファでくつろいでいるエリンに別れの挨拶をして、寝床に戻ったのは昨日のことだ。新大陸に行くと胸を躍らせていた彼女に、小さなヤキモチを妬いた自分の気持ちを、ラハははっきりと覚えている。
 だったら、クルルが今言っているこの言葉は何なのか。
「あ、ああ……そうか。これは、夢なんだな」
「ラハくん、お願い。あなたが受け入れられないと思うのは仕方ないことだけれど、あなたがそうやって足踏みをしていることを、彼女は決して望まないはずよ」
……彼女なら、そう言うだろうな。でも、ごめん、クルル。でも、オレは信じられないんだ。だって、昨日までオレは確かに、エリンのそばにいたんだから」
 これは夢だと言い聞かせて、ラハは夢の中のクルルにどうにか笑顔を見せる。
 自分でもそのように意識して行動しなければ、ともすればどちらが夢か分からなくなってしまいそうだった。
「きっと、これはとても悲しい夢だ。でも、夢は夢だ。だから、ちゃんとオレは目を覚まして、彼女に『おはよう』を言うよ」
 自身の気持ちを奮い立たせるために、ラハはあえてきっぱりとそう告げる。
 しかし、クルルはゆっくりとかぶりを振り、
……ラハくん。そこまで言うのなら、生命院の最下層に行くといいわ。そこに安置されている彼女を見れば、きっとあなたも……思い出せるでしょうから」
 クルルの言葉にひとまず頷き返して、ラハは走り出した。
 クルルに言われるがままに行動しても、これは夢に過ぎない。なら、エリンの眠る場所に行ったところで何の意味もないと分かっているはずなのに、それでもラハは走らずにはいられなかった。
 クルルにはああ言ったものの、ラハの心には一滴の黒い染みの如き懸念がこびりついていた。
 もし、自分がエリンと共にいたというあの記憶自体が、とても長い夢なのだったとしたら。宇宙の果てから帰ってきた彼女と共に過ごした時間こそが、全て幻だったとしたら。
 共にいたいと願い、彼女のために何かしたいと奔走した日々。共に、お互いを特別な人として受け入れたいと気持ちを確かめ合った瞬間。
 あれすらも全て夢で、今出会ったクルルが告げたことこそが真実だったなら。
(エリンが死んだことが認められないオレが、ずっと長い夢を見ていただけなのか……? そんな馬鹿なこと、あってたまるか!)
 自分でわざと強い言葉を選び、己を鼓舞する。しかし、それこそが自身の不安の表れなのだとラハも知っていた。
 見知ったシャーレアンの街並みを駆け抜け、エリンが眠っているとクルルが告げた建物に向かう。道中、飛ぶようにすぎていく街並みたちは全て馴染みのあるもののはずなのに、なぜだろうか。ラハの目には、建物の一つ一つが沈黙しているように感じられた。
 奇妙なまでの静けさに包まれた街を駆け抜け、生命院の扉をこじ開ける。数日前に手伝いで通った階段を通り抜け、ラハは誘われるように最下層へと駆け抜けた。
 どこにエリンがいるか、知っているはずないのに何故か手に取るようにわかった。まるで、最初からその知識がラハの中にあったかのように。
 地下であるためか、それとも貴重な薬品や素材を管理するためか。生命院の地下はしんとした冷えに包まれていた。その中でも、一際冷たさを感じる扉に手をかけ、ゆっくりと開く。
……エリン」
 部屋は、体が震えるほどの冷気に覆われていた。寒さに臆することなく、ラハは部屋の中へ一歩足を踏み入れる。
 部屋の周囲には、何かの数値を計測するための機械がいくつか並べられていた。他にも薬棚や作業用の机なども置かれており、それだけを見れば研究所の一角としか見えない。
 だが、部屋の中央部に置かれている細長い装置を無視することはできなかった。それは、どこからどう見ても、あるものをラハに彷彿させる。
 亡くなったものが最後に横たわる寝台――棺に似た装置に近づき、ラハはその場に縫い止められたように棒立ちになった。
「は、はは……本当に、オレの頭は随分、手の込んだ夢を見てるんだな……
 夢と現実の境で揺れている自分を支えるためにも、ラハは必死に眼前のものを否定する言葉を吐く。
 白い冷気を吐き出し続けている機械の中、一人の少女が眠っていた。元々淡い色味だった肌には、血の気が完全に失せている。触れずとも、そこにもう命が通っていないとラハにはわかってしまう。
 唇も、血の気が失せるを通り越して、血そのものが通っていない作り物のような色合いになっている。触れたときに感じた熱も、きっととうの昔に失われてしまったのだろう。
 何故、遺体が埋葬されずにこんな場所で冷凍保存されているのか。その理由は、ラハにもすぐ予想がついた。
 何せ、ラハの中には第八霊災を乗り越えてきた己の記憶がある。そこには、英雄の遺体にまつわる話もいくつかあった。
 そのころは、混乱の最中だったために英雄の具体的な埋葬場所は分からなかったようだ。
 だが、英雄ならばこの異変を何とかしてくれると願う者たちは、英雄が眠る墓を血眼になって探したらしい。英雄を敵とする者も、同様に墓を暴こうとしたと聞いている。中には、彼女を慕うあまり、蛮神として召喚しようという話も浮上していたようだ。
 蛮神を降ろすのに必要なのは信仰だが、そこに具体的な物が存在すれば、より信仰は深くなる。墓を荒らされた挙句、遺骨が持ち出されて聖遺物として扱われでもしたらたまったものではない。
 だからこそ、彼女の遺体はこうして誰の目にも入らない場所に安置されているのだろう。
 遺体の扱い方が決まるまで、不要に傷つけることもできず、かといってその場に放っておくこともできないが故に。
「これは、本当に夢……なんだよな」
 思わず、手を伸ばす。眠る英雄の顔に触れる前に、棺の意味も兼ね備えた透明な天井部分が、ラハの指を遮った。それが、まるでラハがエリンに関わることを世界そのものが拒んでいるように思えて、咄嗟にラハは蓋の継ぎ目に手をかけていた。
 力を込めて横に動かせば、蓋はあっさりと開いた。
 溢れ出た冷気に全身が震えるものの、構わずにラハは今度こそ手を伸ばす。
 どんな処理を加えられたのか、動かなくなって何日経ったのか不明ではあるものの、彼女は生きたときと変わらない姿で横たわっていた。
 ラハの指が、微動だにしない少女の頬に触れる。
――――っ」
 瞬間、彼は息を止めた。肌の感覚はそのままなのに、そこあるべき熱が全くない。その感覚は、ラハもよく知る、命を失った人特有のものだった。
 ちょうど、それと似た感覚を彼女から感じかけたことがある。宙の果てから帰ってきた、血に濡れた少女に必死の治療を施したときのことだ。
 体の熱が血という形でどんどん流れ出ていて、死に物狂いで命を繋ぎ止めようとした。幸い、ラハの知るエリンは、再び熱を取り戻してくれた。
 だが、もし。彼女の中から温もりが全て流れ落ちてしまったら。
 その行き着く果てが、ここにある。
「もしかしたら、本当に……そう、なのか」
 自分の記憶には、急死に一生を得た彼女との日々しかない。
 目を覚ましたエリンと共に、各地を見て回ったことや、石の家で語らったこと。
 思わず胸がくすぐったくなるような日々を過ごしたこと。
 他にも、ヴォイドの調査のために頭を突き合わせて悩んだ日々や、エオルゼアを見守っていた神々と共に秘蹟を巡った思い出も、確かにそこにある。
……それも、全部、オレが見ていた夢なのか。あんたが、こんな風になったって認められなくて、オレはずっと夢を見てしまっていたのか?」
 冷たい無機質な棺の中、眠り続けている少女の手をとる。恐ろしいほどにリアルな感触に、ラハの胸の奥まで凍りついてしまったかのようだった。
 もはや物としての重みしかない彼女の手を握り、ラハは祈るように目を閉じる。
「起きてくれよ、エリン。また、いつもみたいに、あんたに『おはよう』って言わせてくれ――!」
 彼はただ祈る。
 今までの暖かな日々が虚構ではないことを。
 今目にしている冷たさが現実ではないことを。
 もし、そうであったのなら、自分は二度目の取り返しようのない喪失に、きっと耐えられないだろうから――
 
 ***
 
 いったい、自分は何をしていたのだろうか。柔らかな何かに包まれながら、ぼんやりとラハは疑問を抱く。
(ああ、そうだった。エリンが、もう死んでいるって……クルルがそんなことを言っていて……
 瞬間、自分の指が触れた彼女の肌の冷たさを思い出し、ラハの背筋に寒気が走る。暖かな場所――恐らくは寝床の中いるはずなのに、極寒に薄着で放り出されたかのように指の先まで冷えていた。
 いつの間に、自分はベッドに戻って来たのだろうか。あのまま、消沈した自分が戻るときの記憶すら忘れて部屋に戻り、そのまま眠りに落ちたのか。
 だとしたら、これはまだ夢の続きなのだろうか。
「いや、そんなわけがない! そんな、わけが――――
 布団を跳ね飛ばし、ラハは飛び起きる。起きた瞬間、何気なくシーツの上に置いた手が、何かにぶつかったのに気がついた。
 思わず振り返って、自分がぶつかった何かを確かめようとしたラハは、そこで大きく目を見開く。
「エリン……?」
 ベッドの上には、見慣れた淡い栗毛の少女が体を丸めて寝ていた。ラハが布団を跳ね飛ばしたせいで寒くなったのか、体に半ばかかったままだった布団を無意識のうちに手でまさぐり、自分の元へと引き寄せている。その仕草は、生きた人だけが見せるものだ。
――――
 これが夢ではないかと、ラハは思い切り自分の頬をつねってみる。
……痛い、な」
 じんじんと痺れるような痛みは、間違いなく己の体が感じるものだ。ならばと、今度はエリンの頬に手を伸ばす。触れた肌からは、生きた者だけが持つ柔らかさがあった。
 当たり前のように指先から伝わってくる熱に、ラハはようやく体を縛っていた緊張を解く。
「は、はは……。なんだ、やっぱり、夢……だったのか」
 極度の緊張状態から一転して安堵の反動から、ラハの口から乾いた笑いがこぼれ出る。
 きっと、宙の果てから帰ってきた直後のエリンの容体をまとめた資料を見過ぎたせいだ。
 あの時、彼女がもしもっと深い傷を負っていたら。
 もし、自分たちの治癒魔法が少しでも足りなかったら。
 そんな、不安に駆られるような可能性ばかりを無意識に考えていたせいで、夢に見てしまったのだろう。
(だけど、あれは全く可能性がない話じゃない。今回はただの夢だったかもしれないが、未来永劫あんたが壮健でいられる保証もないんだから)
 だからこそ、検査はちゃんと受けてほしい。冒険に行くのなら、彼女を守れる力を持つ者が共にいてほしい。
 それでも、エリンにずっと安全なところにいてほしいと言えないのは、ラハが彼女に魅せられてしまったからだろう。未知に胸を輝かせ、どこまでも駆けていく星の輝きに。
 エリンの頬から手を離し、寝乱れた髪の毛を撫でてやる。絹のように細い髪を撫でながら、規則正しい寝息にほっと安堵し、
「ともあれ、あんたが側にいてくれてよかった。もし、目覚めて一人だったら、オレは夢の中か現実にいるのか分からなくなっていただろうし――……
 そこまで言いかけて、ラハは「ん?」と疑問の声を漏らす。
 ラハの傍らで、すやすやと幸せそうに眠っている少女。彼女の睡眠が健やかであるのは非常に好ましいが、それはそれとして。
……どうして、あんたがここにいるんだ?」
 ここは、ラハの部屋だ。エリンの部屋は別にある。
 そもそも、ラハは資料を片付けた後、部屋のベッドで一人で眠ったはずだ。なのに、起きたらエリンが隣で寝ている。
 つまり一晩自分は、エリンと一緒に寝ていたというわけになる――と、ラハの思考がそこまで行き着いた瞬間、彼の顔は髪の毛と同じくらい急速に真っ赤になった。
(本当に、いつの間にこんなことになっていたんだ!?)
 だが、この状況は良くない。自分たちの関係を思えばそこまで大きな問題ではないのかもしれないが、ラハの心境としてはやはり平静を保っていられない。
 そして、そうこうしているうちに、傍らで慌てふためているラハの心境が伝わったのか、エリンの体がモゾモゾと動く。
「ううん……もう朝……?」
 ごろりと寝返りを打ち、手を使って猫が顔を洗うような仕草で目をこすると、エリンの色違いの瞳がパチリと開いた。
 目を覚ました彼女の眼前にいたのは、真っ赤な髪の青年。唖然とした様子で自分を見ている者が誰なのか、ゆっくりとエリンの頭の中にも染み込んでいく様子が、ラハにも手に取るように分かった。
…………ラハ?」
「あ……えっと、その」
「起こしにきてくれたの?」
「いや、そういうわけじゃ……
 妙に口篭っているラハと、今起きたばかりといった様子の彼の寝乱れた赤毛。そして、自分へと視線を落とせば、そこには同じようにやや乱れた寝巻き姿の服。
 ぱちぱちと、エリンの瞳が二、三度瞬きする。
 視線が、自分とラハを三度は行き交い、直後、エリンの顔はラハの髪の毛と同じような赤に染まった。
「な、な、なんで、ラハが私のベッドで寝てるの!?」
「誤解だ! そもそも、ここはオレの部屋で、なんであんたがベッドで寝てるかは、オレが聞きたいぐらいなんだからな!」
 自分でも言い訳めいた発言だと思うが、嘘は言っていない。
 エリンは、さらに高速で瞬きをしたと思いきや、今度は周囲の部屋を見渡す。
 エリンの部屋もラハの部屋も、元は仮眠室として使われていたものなので、作り自体はよく似ている。それでも、細かい掲示物や荷物に違いは見られる。
 ここが正真正銘ラハの部屋だと気がついた瞬間、エリンは自分の顔を掌で覆って蹲ってしまった。
「私、入る部屋を間違えたみたい……
「あー……まあ、この辺りの部屋の扉は似ているものな」
……本を読むのに夢中になってたら、夜遅くなっちゃって。すごく眠くなって来たから、部屋に入ったらそのまま布団に潜って、すぐ寝ちゃったの。……ごめんなさい、ラハの部屋と間違えたなんて思わなくて」
 蹲ったまま動かなくなってしまったのは、羞恥によるものだろう。今ここで子猫のように丸まっている少女は、夢の中でラハが目にした冷たい遺体とは似ても似つかない。
 その違いがあまりに極端で、なんだかおかしくなってきてしまい、ラハは引っ込みかけていた笑いを再びこぼした。それは小さな笑いから、いつのまにか大笑いへと変わっていた。
「ラハ、そんなに笑わなくてもいいじゃない!」
「いや、違うんだ。あんたが元気で良かったなって、そう思ったら何だか笑えてきてしまって」
「私は、昨日も今日も元気だよ?」
「ああ、本当に。全くその通りだよな」
 それでも笑い続けるラハに、エリンは一体何がそんなに彼の琴線に触れたのかと首を傾げる。それでいいと、笑いの発作を必死に抑えながら、ラハは思う。
(あの時感じた不安は、これから冒険に出かけるあんたには相応しくないものな)
 だから、今は自分の中に抱えておこう。こうやって、まだ一人で笑い飛ばしてしまえるうちは。
 だが、もし耐えきれなくなったときは、その時こそ目の前の彼女の隣へと駆けつけよう。手を伸ばして抱え込み、引き留めるのではなく。彼女の前に立ち、守れるように。
 きょとんとしているエリンに「何でもないさ」と言って、ようやく溢れ出る笑いが収まりかけたときだった。
「ラハくん、もう起きてる? ちょっといいかしら。エリンと話をしておきたいことがあるのだけれど、彼女がどこにいるか知らない?」
「あ、私ならここにいるよ、クルルさん。どうしたの?」
「えっ、ちょ、待ってくれ……!」
 扉の向こうからノックと共に響いたクルルの声に、エリンはすぐさま応じる。ラハの制止の声も虚しく、扉の向こうから嫌な沈黙が流れて来ていた。
……エリン、朝食が終わってからでいいから、談話室まで来てくれる? ラハくんは、その後に少し話をしましょう」
 とってつけたような朗らかさな声と共に、クルルの気配が遠ざかる。
 そろそろ起きようとのびをしているエリンとは裏腹に、ラハは寝起きのときとは違う意味で体がどんどん冷えていくのを感じていた。
「どうしたの、ラハ」
「ああ、いや……何でもない……。そろそろ、起きないとな。はは……
 これは、朝食後に説教をもらうことになりそうだと、苦笑いをこぼし、改めてラハはエリンと対峙する。
 布団の温もりがまだ残った、寝起きらしい紅色の頬。癖の少ない髪の毛も、さすがに寝起きとあっては寝癖も残っている。その乱れた様子こそが、今は彼女が生きている証でもある。
「エリン」
「うん?」
「おはよう。今日も、忙しくなりそうだな」
 何気なくラハが口にした朝の挨拶に、少女もパッと顔を輝かせて、太陽のような笑顔で言う。
 
――おはよう、ラハ!」