君がため、春の野に出でて


 子供にしては虚ろな眼で、空を見つめるヤマトタケルの姿に、どうしたものかと伊織は頬を掻いた。
 昨夜は別段特別なこともなく、己よりも小さい身体がまるで抱きしめるかのように熱を与え、交じり合い、先に気をやったように思う。食べたものも、行動も、思い返せど己と同じであったから原因はそれらではないようだ。
 ――これが、噂に聞く霊基異常とやらか。
 伊織は夜更けのような眼を細め、小さくなったタケルを見つめる。噂程度に聞いていた、カルデアに集まった頭脳を持ってしても解明できぬ現象。直接的な害はなく、数日、長くとも一月もかからず元に戻るからと究明を後回しにしたらしい。人理最後の砦となるカルデアで、害がないならリソースを割いてまで解明する必要無しと取られるのは、仕方の無いことだろう。マスターならばいざ知らず、サーヴァントであれば〝替え〟がきく。勿論それをあの優しいマスターは良しとしないことも承知の上だが。
「セイバー、俺の事は解るか」
……せい、ばー?」
 辿々しく呼称を繰り返した。成程記憶もないのだなと伊織は理解し、難しい顔を隠さず小さなまあるい頭を見つめた。
 座した伊織に抱えられるようにして座る子供は、腕から逃れようとせず、ただ呼吸を繰り返すばかりで、その心は計り知れない。生前の、盈月の儀に参加していた〝ヤマトタケルのマスター宮本伊織〟ならば、まるで生きた人形のような小さな彼を理解することができるのだろうか。
 ――考えても、詮無き事か。
「俺は伊織と言う。……オウス、と呼んでもよいだろうか?」
 伊織の言葉はまるで幼子に接するように柔らかい。記憶さえ有ればタケルはその声音に、伊織の妹、カヤを思い起こしただろう。
 伊織が有する知識でも、カルデアのデータベースで確認した記紀神話でもここまで小さいならば〝小碓〟だろうとふんでの呼び名であったが、振り向き伊織を見上げ遠慮がちに、頷かれた。ほ、と息を吐く。小さくとも、子供であっても、彼は為政者たる産まれである。気安いと拒絶されては困りものであったが、どうもその自覚は薄いようであった。
「腹は空いているか? 食堂……厨から何か持ってこよう」
 伊織の提案に、戸惑うように揺れた夕日の眼。直ぐにその表情を隠すようには前を向いて、ゆっくり頷いた。
 さてこれはどちらだろうか。頷いてみせたは良いが、それにしては随分と狼狽した眼が気がかりである。これも、思案しようと答えは出ぬものだ。もう少しばかり様子見でもするかと思い直し、立ち上がるために子供を畳に降ろす。ぺたりと座り込んだままの小碓の手を、伊織がそっと握った。
「ここで暫し待てるな?」
 握られた手が随分と冷たい。こどもはやはり、ゆっくりと頷いた。
「良い子だ。すぐに戻る」
 がらりと建付けの悪い音を響かせて長屋を後にする。そこではたと、己の言動思い返して、顔を手で覆った。
「いくらあの姿とはいえ、大英雄へ幼子のように接するか……
 妹がいる故の無意識であろうと結論付けて、伊織は慣れた道を歩んで行く。すれ違う職員に、
「あれ? 皇子様は?」
 と何度か聞かれるのも、慣れたものだった。
 そも、伊織とタケルは、いつも側にいるわけではない。此度はどちらも人類最後のマスターである少年に使役される身である。特異点ならば兎も角、リソース確保の戦闘は敵の情報を元に赴くサーヴァントが決められた。その状況下で二人が最適解となる場面は少ない。
 しかし互いの用が無ければ共に過ごす事が多いため、職員の認識も強ち間違いではなかった。
……ダ・ヴィンチ殿案件で、な」
 伊織は仔細を語らずに、それだけ紡いだ。霊基異常時の記憶が無くなる場合が多いとて、子供の姿になったなど吹聴すべきものでもない。
 が流石、ここまで人理を保たせてきた職員たちだけあり、その言葉のみで「あー、今度はヤマトタケルかぁ」と苦笑いを零しつつも状況を把握する。そんなスタッフの中には、
「マスターとダ・ヴィンチには伝えとくな」
 と、申し出てくれる者もいた。「忝い」と頭を下げつつ暫くすれば、伊織は食堂へとたどり着く。
 切り盛りする複数人のサーヴァントに混じり、手早くおむすびと、御御御付を作っていく伊織。
 キッチンでよく顔を合わせるサーヴァント達がタケルの姿を見渡す様が、横目に見えた。
「セイバーは今、部屋で休んでいる」
「そうか。ダ・ヴィンチ案件か。必要があれば手を貸そう、呼んでくれ」
 伊織が綺麗な三角のおむすびを拵えながら告げれば、的確に理解した返答を貰いわずかに目を細める。マスターの人柄ゆえか、こうして新参者にも気に掛けてくれるサーヴァントが、有り難いことに多い。
「その時は頼りにさせてもらおう。では、これにて」
 おむすびと御御御付を盆に乗せて、足早に、己の部屋で一人待っているであろうタケルの元へ戻った。帰りの道中では数人のサーヴァントに出会うものの、何かを察したのか特に世間話の一つもなく、伊織は真っ直ぐに長屋を模した己の部屋へ足を踏み入れる。
 畳の上の片隅、普段なら布団が畳まれたそこに、己の小さな身体を抱くようにしてこどもはいた。部屋に侵入した気配には素早く気付き、ばっ、と顔を上げると剣呑な瞳を伊織に向ける。
 ――まるで、手負いの獣のようだな。
 失礼極まりない、しかし遠くない感想を抱きながら、伊織は微笑む。
「ただいま、オウス。良い子で留守番していたようで何よりだ」
 ぱちぱちと、夕日の眼を大きく見開いて、繰り返される瞬き。そうして視線は、盆の上のおにぎりと御御御付に注がれた。熱心に、じぃ、と見つめる夕日が、心なしか輝いて見える。初めて目にした食べ物に、見ず知らずの場所と人に警戒の色はあるが、好奇心もあるようで恐る恐る、四つん這いのまま、近寄ってきた。
「食べられそうか?」
 どこまでも弟に接するような声音に背を押され、真白なおにぎりを掴む小さなタケル。力加減が分からず、ぐしゃりと掌で潰れてしまうそれに、夕日の瞳から雨のようにぽたりぽたりと雫が垂れた。
「泣かずとも大丈夫だ。そら」
 小さな手から崩れたおにぎりを取ると、握り直す。忽ちに三角の形になったそれを今度は掌に乗せるようにして、ぱくりと齧り付いた。むぐむぐと、小さな口が懸命に動いている。涙の跡が残る頬が僅かに上がって、お気に召したと伊織に伝えた。
「お……
「お?」
「美味い……
 ぼそりと、俯いたままそう言った。音を零した後、タケルは夢中でおにぎりを頬張る。飢えたように食べる様が、随分と見窄らしく、痛ましい。
「ゆっくり食べると良い。おかわりと、御御御付もあるぞ」
 この様子では熱いままに飲み干しそうだと、息を吹きかけ冷ましてから、こどもの前に椀を置く。傍らの匙を掴んで掬うと、喉に流し込んだ。おにぎりはお世辞にもきれいな食べ方では無かったというのに、匙の使い方は随分と上手く、為政者の教育は幼い頃からなのだと行動が語る。
「っ!」
「どうしたオウス? 熱かったか?」
 息を呑んだタケルを気遣わしげに聞けば、勢いよく伊織を見上げたタケル。拍子に椀の御御御付が揺蕩う。
「っ……!」
 言の葉を探すように唇は開いたり結んだりと忙しない。そうしてようやく、タケルはしみじみと、呟くように音に乗せた。
「美味いっ」
 食事の感想などついぞ抱いたことのない伊織に、そのたった一言、ただの質素な感想が、胸に響いた。
「そうか、美味いか。それは良かったよ」
 大きくなった彼と同じ様な眼で食するタケルに、変わらぬのだなとその薄い唇が、弧を描く。
 きっかり一月、小さなタケルにあれが食べたい、これが食べたいと強請られる日々が始まるとは、つゆほども知らない伊織だった。