千代里
2024-06-11 08:18:50
12971文字
Public リーブラ13話
 

リーブラの針は問う・13話・その16


 夜の間に天気が崩れ、雪が降ったのだろうか。まだ少しばかり柔らかさの残る雪を踏み締め、ノエは建物の外へと出た。
 グリダニアの緑を忘れてしまいほどに、街は冬が一足早くきたかのようなので寒さと、それを一瞬忘れるほどの美しい銀世界に包まれていた。皇都のように思わず辟易するほどの積雪量でもなく、優しく粉砂糖を振りかけたたような白を載せた街は、薄曇りの向こうからほんのりと差し込む日差しにより、淡く光っているようにすら見える。
 昨日、街にたどり着いたときには既に雪かきが進んでいたために、これほどまで統制のとれた美しさはなかった。故に、積雪後の朝の光景は、ノエに全く知らない世界に辿り着いたかのような錯覚を与えた。
「今日は、少し冷えるかもな」
 ほう、と漏れ出た吐息は白く煙り、空の向こうへと消えていく。
 冷えてこそいるものの、街の全てを雪が完全に覆い隠すほどではない。確かに雪自体は積もっているものの、石畳が露出しているところも僅かに残っている。
 皇都の圧倒的な積雪と比較すれば、ノエの故郷でもあるこの領地は、寒冷化の難から逃れられた方なのだろう。
 朝早い時間にも拘らず、ノエは部屋を抜け出て、通りをふらりと歩いていた。中には、一足早く開業の準備をしている店もあるものの、家のほとんどはまだ眠りに沈んでいる。
 人通りがほぼない街を歩くのは、世界中に自分ひとりきりになったような気持ちを与える。だが、考えることが多すぎる今は、自分一人だけが息をしているような空間も居心地がいいと思う。
 高台へと視線をやれば、昨日自分が赴いた屋敷が、茫漠とした朝日の中に浮かび上がっている。雪で飾られた屋敷は、遠目から見ると上等な砂糖菓子のように浮世離れしていた。
…………
 感慨に耽るというほどに前向きな気持ちにもなれず。
 かといって、闇雲に背を向けたくなるほどの嫌悪も抱けず。
 相変わらず二つに揺れる己の感情を自覚し、それでも昨日のように無様に崩れ落ちずに済んだのは、オデットの励ましのおかげでもあるのだろう。
 無理に、今す結論を出さなくていい。そう開き直ったおかげで、ノエはここでこうして己の平静を保っていられる。
……もし、また十年ほど経った後なら、あなたに再会したいと思う日が来るのだろうか」
 少なくとも、今は全くそんな気持ちにはならない。けれどもまだ予想すらできない未来の自分なら、そのような気持ちを抱く日も来るのかもしれない。
 ふいっと視線を逸らし、ノエは教会へと進路を切り替える。歩き回って得た疲労感を癒すため、食堂で火の番でもしていようか。
 寝直すというほどの眠気もなく、思った以上に余った朝の時間をどう使うか思案していたノエは、
「あれ、今のは……
 自分の視界の端に、素早く動く黄色の残滓に思わず足を止めた。
 ノエの進行方向には、自分が借りている教会の施設がある。その隣には、同じく教会が管理している孤児院が並んでいる。昨日も、向かい側から響いてくる子供たちの声を何度も耳にしていた。
 その孤児院の勝手口から、帽子を被った少年が姿を見せていた。ノエの目に留まったのは、その少年の帽子から漏れ出た金髪だ。
 こんな朝早くに、あの子供は一体何をしているのだろう。そう思った矢先、ノエは気がつく。
「あれは……グレンさん?」
 よく見れば、勝手口から姿を見せたのは、オデットを突き飛ばして財布を盗んだ少年――グレンだ。
 袖丈の合っていない上着は昨日のままだったが、足を覆っているのは昨日のような踝が剥き出しになったズボンではなく、今度は長すぎて丈を合わせるために何度も裾を折ったものだった。
 まだ、日は十分に昇っておらず、孤児院の管理をしている大人はグレンの様子には気がついていないらしい。ならば、大人として自分が彼の動向を見守るべきかと、ノエは視線でグレンを追う。
 ただでさえ、グレンはアラン司祭を困らせるようなことを何度もしていると聞いている。また同じようなことをしでかすのではないか、とノエの中に懸念が生まれる。
 グレンは勝手口のすぐ近くにある柵に手をかけ、弾みをつけてその細身の体をぐいと引き上げた。孤児院の柵の向こうには、遊び場である広場が広がっている。
 わざわざ柵を乗り越えずとも、孤児院の通用門を潜り抜けて一度通りに出てから広場に入ればいいのに、グレンはその手間を惜しんだようだ。
 グレンは難なく広場に着地すると、ノエが今いる場所からは死角となる位置に走っていってしまった。
 こんな朝早くから、一体何をするつもりなのか。まさかスリに行くところではないだろうが、そうでなかったとしても、あの年頃の子供が一人きりでいると、ノエの中のお節介が疼き始める。
「皆が起きるまで、僕が様子を見ておくか」
 誰に頼まれたわけでもないが、自然とノエはそのような結論を出す。
 朝の冷えを頬で感じつつ、ノエは広場へと足を踏み入れた。もちろん、グレンのように柵を乗り越えるような真似はしていない。
 広場は、街と同じように真っ白の布をかけたように雪に覆われていた。街と異なるのは、一足早く起きた人々の足跡はなく、どこまでも白が続いていることくらいか。
 かつては、教会が管理してる公園として公開されていたのだろう。ところどころに植えられている草木がありし日の姿を思わせて、寒冷化の影響をここでも感じさせられた。
 グレンはどこにいるかと探すまでもなく、人の気配のない真っ白の広場の中、少年の姿はすぐに見つかった。彼は腰にさしていたと思しき木製の剣を抜き放ち、不恰好ではあったが確かに素振りと思しき行動を繰り返していた。それを見て、ノエもグレンが朝の稽古のために孤児院を抜け出したのだと察した。
 剣を構え、振るう。その繰り返し。子供の遊びにしては凄みすら感じられる素振りに、ノエも少年の動きを目で追い続けてしまう。
 もっとも、体はまだ子供のため、剣を振るたびに重心のぶれが目立つ。構え方も騎士がとるべき構えとずれている部分もある。
 それでも、グレンの気構えは本物だ。彼と出会ってまだ一日も経っていないノエですらそう思うほどに、少年の纏う気配は触れたら弾けそうな緊張感に覆われていた。
 ノエが広場に踏み入ったことにすら気づかず、グレンの振るう切っ先が何度も空を切る。まるで、そこにいる何か見えない敵を斬りつけようとしているかのように。
 だが、気迫だけがあっても技術が追いつかなければ、失敗も生じやすい。
 勢いをつけすぎたのか、持つところが悪かったのか。あるいは、この寒さの中、襟巻きひとつしか身につけていないために体が悴んでしまったのか。不意に、グレンの手から木剣が抜け落ち、地面に転がってしまう。
 雪の上に落ちた剣を拾い上げようと屈みかけたグレンは、そこでようやく広場に入ってきたノエを目に留めて、ぴたりと動きを止めた。それは、不審な存在を目にしたときの猫の動きによく似ていた。
 じっとこちらを観察する瞳に気圧されることもなく、ノエは何気ない調子で手をあげる。
「おはようございます、グレンさん。朝から稽古ですか」
…………
 グレンが口をきけないのは、ノエも承知済みだ。それでも声をかけたのは、返事を求めたからではなく、自分は警戒しなくてもいい対象だと伝えるためだった。
 果たして、グレンは剣を拾い上げながらも、逃げ出そうとはせずにノエを見つめ続けている。彼の瞳を見る限り、そこにあるのは――疑念、だろうか。
 なぜ、この前のスリの被害者がこんなところにいるのか。瞳は、雄弁にそう問いかけていた。
「僕がここにいる理由は、教会が管理している宿を借りて一晩過ごしていたからです。この街の宿は、今はどこもいっぱいということでしたから」
…………
「一泊した後に、目が覚めてしまったので朝の散歩をしていたら、偶然あなたが勝手口から出ていくのが見えたので、何をしていたか気になって様子を見にきたんです」
 グレンの瞳が、一度ゆっくりと瞬く。その瞬きを、ノエは肯定の意味で受けとった。
 ノエはグレンのすぐそばまでやってきて、小柄な彼に合わせるために膝をつく。そうすると、グレンの表情がノエからもよく見えた。
「グレンさんは、朝から剣の稽古ですか」
 グレンは人形のように微動だにしない表情のまま、ゆっくりと首を縦に振った。
 彼の瞳には、子供らしい感情の大きな変化が見られない。しかし、静かな湖面のように凪いだ瞳の奥に、小さな心の揺らぎが見える。じっとその揺れを観察していれば、グレンが何を言わずとも、彼が伝えたがっているものが見える気がした。
「グレンさんは、大きくなったら騎士になりたいのですか」
 イシュガルドの子供――とりわけ少年なら、一度は騎士を志すものだ。
 わかりやすい力の象徴であり、自分の大事なものを守る存在。騎士は子供たちにとって、目に見える憧れの形をしている。
 グレンもそうなのかと思いきや、彼は首を横に振った。小さくではあるが、何度も。
「違うのですか?」
…………
 今度は首肯。どうやら、グレンは騎士に対しての憧れは抱いていないらしい。
 グレンは自分が振っていた木製の剣に視線を落とし、続けてノエの腰のあたりをじっと見据える。彼が何を見ているか、ノエはすぐに気がつき、己の腰に吊るしてあるもの――コートの下に隠した剣に手を添える。
 街の中を歩くためとはいえ、流石に徒手空拳で出歩くほどノエも愚かではない。コートの裾からは、彼が吊るしている剣の鞘がのぞいていた。グレンはそれに気がついたのだ。
「僕の剣が気になるのですか」
 今度は、グレンは素早く首を縦に振った。
 子供にとって、本物の金属を鍛えて作られた剣など、近くで見る機会はそうそうない。グレンの頼みは、まさに子供らしい純粋な憧れから生じたものだだろう。
(そういえば、僕も師匠に剣を見せてほしいって何度も頼んだっけ)
 だが、まだ七つの子供に近くで剣を見せるのは危ないと判断したのか、フィリベールがノエに己の武器を見せることは殆どなかった。
 だが、グレンはあの頃のノエに比べれば年も上だ。ならば構わないだろうと、ノエは腰の剣に手を添える。
「よかったら、もっと近くで見てみますか」
 いいのか、とグレンの目が尋ねている。ノエは頷き、コートの裾を持ち上げると、露わになった剣を剣帯から外した。
 まずは鞘に入れたまま、自身の手の上に剣を乗せて、目顔でノエに近寄っていいと促す。
「鞘の上からなら触っても構いませんよ。ただし、絶対に鞘と持ち手の継ぎ目に指を入れないように」
 ノエの注意に深く頷き、グレンは鞘の上から指を滑らせる。丈のあっていない上着から伸びた指は、恐る恐るといった様子で、触れただけでも重みを感じさせる鞘を撫でていく。
 グレンは十分に鞘に触れたあと、何やら物欲しげにノエを見つめた。その視線の意味は、ノエにも十分に伝わっている。
「じゃあ、剣を抜いてみますね。少し離れていてくれますか」
 グレンは素早く頷き、立ち上がってノエから二フルムは距離を置いた。
 グレンにも見えやすいように、ノエは半ば膝を折ったまま、剣の鞘からゆっくりと刃を抜いていく。
…………!」
 グレンの瞳に宿った輝きは、抜き放たれた剣を目にした興奮から生じたものだろう。微かに開いた唇から漏れ出た吐息が、少年の中に湧き立った熱を示していた。
「実戦でも使う本物の剣ですから、刃の部分は触れないでください。指が切れて、怪我をしてしまいます。遠目から見る分は、どれだけ見ても構いませんよ」
 ノエはそう言って、小柄なグレンでも剣が見えやすいように地面に剣を突き立てた。
 グレンは一歩二歩と距離をつ詰めて、ノエの突き刺した剣をまじまじと見つめていた。もし剣がものを言っていたなら、見つめられすぎて恥ずかしいと思うほどに、彼は真剣に刃を観察していた。
…………
 グレンはしばし剣を見つめていたあと、何か言いたげにノエを見つめ、その後に街を囲む城壁を見上げた。いったい何を伝えようとしているのかと、ノエも彼の視線をなぞってみる。グレンが見上げている城壁には、何か小さなものが動いていた。おそらくは、夜からずっと警備に務めている騎士だろう。
(僕の剣を見て、続けて僕を見ている。その次に騎士を見ている……?)
 しばらく、ノエはグレンの視線の辿る軌跡を何度も頭の中で繰り返してみる。やがて、グレンの視線は剣と騎士のみを行き来するようになり、そこでようやくノエも気がつく。
「僕の剣が、騎士の剣と違うことが気になるのですか?」
 果たして、グレンは首肯を返した。
 言われてみれば、グレンの指摘通り、ノエの剣は騎士が携帯している剣とは異なる部分がある。
 イシュガルドの騎士が身につけている剣は、おそらくは騎士団の規格に沿って作られたものだ。ノエが身につけている剣よりも刀身は幅広で、装飾は少ない。竜の分厚い鱗すらも断ち割れるように、硬度と鋭さを両立させた剣だ。
 一方で、ノエの剣は騎士の剣に比べると細身だ。それもそのはず、ノエは竜を専門として戦う剣士ではない。
 ノエの剣は、時に杖として彼の魔法を補助する役目も持っている。魔法に対する指向性を持たせるためにも、ノエの得意とする身軽な立ち回りを可能とするためにも、剣からは重々しさが削ぎ落とされていた。
「竜を専門として戦う騎士団の人たちと、冒険者としていろんな魔物と戦う僕とでは、扱う武具にも違いが生まれるんですよ。形や長さ一つとっても、騎士の皆さんと僕では適切な武具が異なるんです」
 そうして、ノエはできる限り平易な言葉を選んで、自分と騎士の剣の間に生まれた違いを説明する。グレンにとっては難しい話かもしれないと思ったが、彼はノエの言葉に真剣に耳を傾けていた。
 一通り、ノエの説明が終わった頃合いを見計らい、グレンは地面に突き立てられたノエの剣と、自分を交互に指さす。
「すみませんが、グレンさんにこれを持たせてあげることはできません。いくら騎士の剣より軽いといっても、君にはこれは重すぎます。構えることすら、今の君には難しいでしょう」
 ノエがそう説明すると、今度はグレンは自分が手に持っていた剣をじっと見つめる。それを一度軽く振ってみせてから、再びノエの剣の間と視線を往復させた。
 ならば、こちらの武器と比較したらどうなのかと問いたいのだろう。
「グレンさんが持っている剣は木で出来ているので、決して軽くはないのでしょうが、やはり金属で作られた武器は重く、鋭くなります。その分、扱いは慎重になるべきです」
 グレンは何も言わなかったが、彼の瞳には不満が宿っていた。
 焦りのようなものがのぞいているのは、自分が未来永劫剣を握れないのではないかと思ったからだろうか。それもまた、子供特有の『早く成長したい』という願望から生まれる焦燥だ。ノエにも、覚えはある。
「あくまで、今はの話ですよ。グレンさんが大きくなるまでにちゃんと稽古をしていれば、もう五年もすればこれぐらいの剣は楽々振るえるようになるはずです」
 それでも、グレンの不満は消えなかったようだ。今も、木剣とノエの剣を何度も凝視し、比較しているように見える。まるで、今すぐ自分はこのような武器を振るえるほど強くなりたいと願っているような。
 そして、その姿はノエにとってありし日の己を思わせた。
 父から拒絶され、今まで当然のようにあった生活があっという間に瓦解するときがあると、幼いノエはおもいしらされた。自身に力がなければ、大事なものはおろか、自分自身の生活すら守れない。それを思い知らされたノエは、自身の苦難を乗り越えるための力を求めるようになった。
 闇雲に修行をしたところでどうにもならないことは、ウヴィルトータにすぐ教えてもらったものの、心のどこかに焦りがあったのは確かだ。
 グレンは、異端者として竜に変じた母を失ったと聞いている。彼もまた、自身の日常があっけなく崩壊するさまを直視させられた側の人だ。
 ゆえに、ノエはグレンの焦燥感に気持ちを寄せて、
「もし、グレンさんが今すぐ金属の武器を振るいたいと思っているのなら、もっと刀身が短くて軽いものを選ぶべきでしょう。もっとも、扱い方はそちらの木剣と異なるため、今の練習方法を変えることになってしまいますし、金属の武器は容易く人を傷つけます。なので、簡単にはお勧めできません」
 この街にいる限り、今のグレンが危ない目に遭うことはあるまい。
 だが、目の前で竜に変じた母親を見た経験があるのなら、彼はいつ襲いくるかもしれない己を蹂躙する力の存在に怯えているのかもしれない。
 だったら、心のお守りがわりとして、現状の自分でも苦難に立ち向かえる力があると知っておくのは悪いことではあるまい。
 果たして、グレンはようやく視線の応酬をやめて、小さく一息をついた。続けて、自分の木剣を手に取り、素振りの構えをとる。グレンの練習の邪魔にならないように、ノエは自分の剣を地面から抜き、土を払ってから鞘へと収めた。
 グレンはノエに当たらないように少し距離を置き、ぶんと勢いよく木剣を振るっている。
 相変わらず切っ先がぶれているし、体が剣の勢いに引きずられている部分もある。だが、全くの素人に比べれば型として整っている方だ。
「グレンさん。よかったら、剣の練習につき合わせてもらえますか」
 ノエの申し出に、グレンは驚きを顔に浮かべる。それでも彼は首を横に振らず、代わりにノエと木剣を交互に見比べてから、小さな頷きを返した。
「ありがとうございます。グレンさんの構え方について、僕が気がついたことを言ってもいいでしょうか」
 再びの頷き。それを確認してから、ノエはグレンのそばに近づき、彼の構えを直してやる。
(直すところはあるけれど、基本はきちんと押さえてある。アラン司祭が教えたのだろうか。それとも、騎士の人たちの鍛錬を見ていたのだろうか)
 見よう見まねでやっていたとしたら、グレンはかなり観察力が優れた少年だ。自分ではない者の体の動きを目で把握し、己の挙動に落とし込むのは楽なことではない。
 ノエに言われるがままに姿勢を直し、グレンは改めて剣を振るう。やや上にあった重心があるべき所に落ち着いたために、今度は切先のブレが少ない。
「!」
 グレンは何か言いたげに、ノエを見つめている。先ほどまでは静かに凪いでいた紫水晶のような瞳は、驚きと歓喜に満ちていた。
「今掴んだ感覚を忘れないように。そこまでできれば、あとは繰り返すのみですよ。君は筋がいいから、もう少し体がしっかりしたら一人前の剣士になれると思います」
 ノエの励ましを聞いて、グレンはますますやる気を燃やしたらしい。それでいて焦って動きが雑になることもなく、呼吸を整えて再び素振りを始めている。リズムに変化はなくとも、その動きを見ればノエに注意されたところを意識しているのがよくわかった。
 懸命に木剣を振い続ける少年を見守っていると、ノエの口角にもついつい笑みが滲む。
(師匠も、こんな気持ちで僕のことを見守ってくれていたんだろうか)
 己の指導を懸命に理解しようとする少年の姿勢を見ていると、自分も生徒にとって模範とならねばと自然と背筋が伸びる。
 それでいて、この少年が大人になって、いつか自分と手合わせをする日が来たら、などと早くもそんな未来に思いを馳せそうにもなる。
 期待と、程よい緊張。指導するとはこういうことなのだろうと、ノエはしみじみと噛み締めていた。
 朝日を浴びながら、懸命に素振りを続けるグレン。彼の鍛錬を静かに見守るノエ。
 やがて、朝日が山間から半分以上姿を見せた頃、グレンは素振りを中断した。すっかり息が上がっていたものの、不思議と少年は満足そうな表情をしていた。
「グレンさん、流石に疲れたでしょう。そろそろ、孤児院に戻りましょうか」
 孤児院の人たちも、グレンの不在に気がついたら驚くことだろう。そう思って促してみるものの、グレンはゆっくりと首を横に振っている。疲れていないと言わんばかりに、再び剣を振るおうとする彼に近づき、ノエは木剣の刃にあたる部分を掴んで中断させる。
「グレンさん。このまま帰らないと、孤児院の方が心配しますよ」
 今度はやや頑なな様子で首を横に振る少年に、さてどうしたものかとノエが思った時だった。
「グレン、こんな所にいたのかっ!」
 朝の静寂に包まれた広場に、やや年を経た女性の声が響く。
 驚いて広場の反対側を見やると、コートを肩に引っ掛けた女性がこちらに向かって走ってくるところだった。コートを羽織るものもどかしかったのか、羽織っただけとなった上着がばたばたと靡いて、そのまま落ちてしまいそうだった。
「あの女性は、孤児院の方でしょうか?」
 ノエがグレンに言葉少なに尋ねると、グレンはゆっくりと頷き返した。肯定はしているものの、どこか不満げな首肯だった。今は孤児院にいる大人には会いたくないと思っているのが、透けて見えるような首肯だった。
 そうこうしている間にも、女性は一直線にノエたちに向かって走ってくる。近づくにつれ、ノエの目にも女性の装いがよりはっきりと見えた。
 コートの隙間から見える質素な灰色のワンピースには無駄な装飾が一才なく、ハルオーネ神に祈りを捧げる者に相応しい簡素な装いだった。今の様子を見る限り、女性は孤児院に住み込みで働いているようだが、ただの手伝いではなく彼女自身も教会の関係者なのだろう。短く切られた白髪混じりの淡い髪は、寝起きのまま飛び出してきたのか、やや乱れていた。
 ようやくグレンの元に辿り着いた女性は、肩で息をしながらも、グレンを厳しい目つきで見下ろす。
「朝起きたら、コーディが君がいないと探し回って大変だったんだぞ。グレン、朝一に出かけるときは、せめて私たちに一言言うようにと……
 そこまで言って、女性は気がつく。グレンは女性の方を見ようともせず、その代わりに自分の隣を見上げていることに。少年の視線をたどった先にノエがいると気がつくまで、女性は十秒と必要としなかった。
……あなたは、どなたでしょうか」
 女性の声には、早朝から子供のそばにいる不審なエレゼン族の男に向ける疑念が込められていた。子供を守る母親のように、警戒心をあらわにした姿勢に、ノエにも彼女がグレンを心底案じていたのだと分かった。
「名乗りもせずに失礼しました。僕は、教会が管理している宿に泊めてもらっている者です。グレンさんが朝早くから剣を振っているのを見て、どうしたのかと思って声をかけたんです」
「あなたは、どうしてグレンの名前を知っているのでしょうか」
「アラン司祭に教えていただいたんです。実は、昨日グレンさんと街で……その、色々ありまして、そのお詫びにと教会に案内してもらったんです」
 流石にスリの被害者であると大っぴらに言うのは気が引けて、ノエは言葉を濁した。もっとも、女性にも例のスリ騒動は伝わっていたらしい。何か得心した顔で、彼女は「ああ、あのときの」と呟いていた。
 二人が話をしている間にも、グレンが女性から距離をとり、不満を隠そうともせずに彼女を睨みつけている。
 グレンは孤児院にいる人物――特に大人に対して心を開いていないようだ。それどころか、自分のやりたいことを妨害する邪魔者のように感じているのが、現状の態度からひしひしと感じられる。
 本来ならば、ノエは大人として、グレンに集団生活の規範を説くべきなのだろう。けれども、グレンの場合は事情が事情だ。望まぬ形で孤児院に入れられて、不満を抱くなという方が無理な話である。
「すみません。本来ならば、グレンさんに帰るように促すべきだったのでしょうが、彼があまりに一心に剣に向かっていたので、僕の方からもあれこれと声をかけてしまったのです。できれば、彼を叱らないでやってもらえますか」
 グレンと女性の間に生まれた刺々しい空気を払拭するためならばと、ノエは自ら憎まれ役を勝って出る。
 果たして、女性もノエの意図を汲んだのか。小さくため息を挟むと、
……そうでしたか。この子にはよくあることですが、次がありましたら、せめて私か司祭様を起こしてもらえると助かります」
「分かりました。この街に滞在している間に同じことがあったら、監督者の皆さんに声がけするようにします」
 ノエがすぐさま礼儀正しく応じたので、女性は張り詰めていた表情をふっと緩めた。
「取り乱した所を見せてしまい、申し訳ありません。そういえば、自己紹介がまだでしたね。私は、プリシラ・クロックフォードといいます。あなたは?」
「僕はノエと申します。短い間ですが、どうぞよろしくお願いします」
 ノエは、握手を求めて何気なく手を差し出した。だが、プリシラはその手をとろうとしなかった。それどころか、彼女は翡翠色の瞳を見開き、
……ノエ? 本当に、あなたはノエという名前なのですか?」
「え、ええ。そう……ですが」
 ノエとしては、なぜ自身の名前を疑われなければならないのかと、頭に疑問符を浮かべる。しかし、ノエの疑問をよそに、プリシラは唇を震えさせ、ノエの全身をまじまじと見つめていた。まるで、自分の中の記憶に眠る何かとノエを照らし合わせているかのような。
……不躾な質問をお許しください、ノエさん。あなたのお母様の名前は……もしかして、メリュジアヌではありませんでしたか」
……どうして、あなたが僕の母の名を知っているんですか」
 その問いかけを聞いた瞬間、ノエは息を呑んだ。
 昨日、すでに一度剥き出しになった傷跡は、当然ながらまだ塞がっていない。薄くできた瘡蓋が剥がされ、突然爪が突き立てられたような痛みが、彼の心に走る。
 ノエの動揺と、お世辞にも喜んでいるとは言えない表情をプリシラも目にしたのだろう。彼女はひどく申し訳なさそうな顔をしていたが、それでもノエへと距離を詰めた。
 動揺から動けないノエの手をとり、ぎゅうと握りしめる。狼狽えるノエは、自身を見上げるプリシラの顔を見てますますぎょっとした。
「プリシラ、さん……?」
 プリシラは、瞳に涙を浮かべ、唇を戦慄かせてノエを見つめていた。
「やはり、そうなのですね……! ああ、ノエ様、私です。あの屋敷で、メリュジアヌ様に任されて、赤子の頃からあなたの面倒を見ていたメイドのプリシラです! まさか、こんなことがあるなんて……これは一体どのような運命の巡り合わせなのか……
 突如投げかけられた言葉の数々に、ノエは目を白黒とさせることしかできなかった。
 プリシラの言葉が正しければ、目の前の女性はノエが生まれて八年間過ごしてきた屋敷にて、共に生活していた人となる。
 だが、当時のノエの記憶はすでに酷くあやふやだ。
 両親のことは衝撃的な事件もあっために、比較的はっきり覚えている。しかし、使用人一人一人の顔までは流石に覚えていない。
 それに、屋敷にいた使用人のほとんどは、例の事件の際に母と共に亡くなったと聞かされていた。てっきり、生き残りなどほぼいないと思い込んでいたが、どうやら奇跡的に一命を取り留めた人物もいたようだ。
「あなたが、僕の面倒を見ていた……?」
 ノエは言葉に詰まり、ただただ目の前の女性の言葉に圧倒されていた。与えられた情報をどう処理すればいいか分からず、思考が完全に凍りついてしまっていた。
 動揺と混乱で停滞してしまった空気を動かしたのは、そばで二人の邂逅を見守っていたグレンだった。
 彼は、大人二人の対面に全く関係ない自分がいなくなっても問題ないと結論づけたのだろう。木剣を手にとると、すたすたと二人の脇を通って孤児院に隣接する広場の柵――先ほど広場に入るときによじ登った柵に向かおうとした。
 しかし、それを黙って見逃すほど二人も耄碌していない。
「グレンさん、そこの柵を乗り越えて移動するのはおすすめしません。着地に失敗したら、足を挫いてしまいますよ」
「グレン、君はそんなところから出入りをしていたのか。どうりで、足跡が玄関になかったわけだ」
 プリシラはずんずんとグレンに近寄ると、彼の手をしっかと握った。
 これ以上勝手な行動は許さないと言わんばかりの迫力に、流石のノエも圧倒されたようだ。グレンはまだ不満げな顔をしていたが、先だってアランに捕まった時のように遮二無二逃げだすような真似はしていなかった。
 プリシラは、まだ何か言いたげにノエを見やるものの、自分がグレンを探しにきたことまでは忘れていなかったらしい。それでも、ノエへの想いを振り解けずにいる彼女を前にして、
「プリシラさん。僕は、しばらくこの街に滞在するつもりです。先ほどの件について、もし僕と話したいことがあるようでしたら、宿泊施設の管理者の方に空いている時間を言伝しておいてもらえますか」
……ありがとうございます。ですが、よろしいのですか」
 プリシラの質問は、時間を取らせることへの遠慮から生じたものではない。
 プリシラの言葉が真実なら、彼女はノエが幼い頃に直面した事件の全てを知っている。それは、そのときにノエが何を感じたかも、容易に想像できる立場でもあるということだ。
 だが、彼女の気遣いにあえてノエは首を縦に振る。
「急ぎの旅というわけではありませんから。僕としても、あなたがもし許してくれるなら……当時のことを聞きたいと思っているんです」
 過去から目を逸らし、自分の信じる世界だけを真実と思い込んでいた。そのしっぺ返しは、昨日父親から受けたばかりだ。
 だったら、これを機に、自分にまつわる人物のことや己自身の過去と向き合いたい。それが、たとえ自分にとって都合の悪い真実だったとしても。
 最初のショックを乗り越え、ノエは素直に心の底からそう思うようになっていた。
「それでは、手が空きそうな時間が分かりましたら、言伝いたします。それと、グレンの面倒を見ていただき、ありがとうございました」
「たいしたことではありませんから、お気になさらず」
 そこで一度言葉を区切り、ノエは苦笑をまじえながら言う。
……僕は、もうあなたの雇い主の息子でもなければ、あなたを雇用する立場でもありません。僕は、ただの冒険者です。できるなら、もっと砕けた話し方をしてもらえませんか」
 ノエがかつて仕えた主人の子供と分かった瞬間、プリシラはまるでこの場所が当時の屋敷に戻ったかのように言葉遣いを切り替えた。しかし、それはやはりノエにとっては、馴染めない分不相応の扱いとしか思えなかったのだ。
 だが、プリシラはゆっくりと首を横に振る。
「私の主人は、今も変わらずメリュジアヌ様とノエ様だけです。どうか、頭の硬い年寄りのわがままをお許しください」
 彼女は一礼をしてから、グレンの手を引いて広場の入口と向かい始めた。後を追うのも何やら間が悪いように思い、ノエが立ち尽くしていると、
……グレンさん?」
 ふと、グレンがノエへと視線を送り、小さく手を振ったのが見えた。
 それは、肩ほどの高さにあげた手が二、三度揺れる程度の細やかなものだったが、物言えぬ子供の気持ちが確かにそこにあった。
 ありがとう、とも。
 さようなら、とも。
 またね、とも。
 そのどれもを含むような小さな手の振りに、ノエもまたふ、と相好を崩す。
「グレンさん。今度は、僕と一緒に鍛錬をしましょうか」
 聞こえていなくとも思いは届くと信じて、ノエは少年に小さく手を振り返した。
 いつしか、一日の始まりを告げる朝日が、街の全てを包むように降り注いでいた。