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きなこ湯
2024-06-09 19:58:58
2399文字
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左隣りの寝息
始発列車でフィルクレヴァートへ向かう、作戦帰りのグラースと候補生の話。
銃マスワンライのお題「読書」より。1.5周年イベストを前提としていますが、致命的なネタバレは特にないはず。
候補生の一人称は「私」で書いています。
「ああ。あの新刊の発売日、今日だったか」
車窓から外を眺めるグラースがそう呟いて、候補生は顔を上げた。列車の揺れに身を任せていると疲労が泥のように覆い被さり、つい眠ってしまいそうになる。自分がほとんど眠りかけていたことに気付き、候補生は欠伸を噛み殺して強めに瞬きをした。グラースの呟きは正真正銘独り言だったらしく、候補生の様子に気付いた素振りはない。
朝日は白く直線的で、ほぼ徹夜明けの網膜には眩しすぎる。それでも眠気が勝るあたり、候補生はひどく疲れていた。同じ作戦に同行していたグラースにもそれぐらいの疲労があるはずだが、自分と違って疲れ果てている様子ではない。外の景色を眺めるグラースの横顔をじっと見つめ、男女問わず多くの人間を魅了するのだろう綺麗なフェイスラインに視線が止まる。曇天を通した朝日に照らされる、柔らかそうなブラウンの髪の毛先がきらきらと輝いていた。長く繊細な睫毛は軽く伏せられ、遠くをぼんやりと眺める表情にどこか物憂げな雰囲気を滲ませている。
自他共に認める色男なだけあって、徹夜明けの作戦帰りでも絵になる。候補生が無遠慮にその横顔を眺めていると、さすがに視線に気付いたのか、グラースは斜め向かいを振り返ってわずかに目を見開いた。
「そんなにじっと見て、どうしたんだ? 僕に見惚れたか?」
「うん。まあ、そんなところ」
「
……
、お前な。そういうこと簡単に言うんじゃないぞ。相手が僕だったからよかったかもしれないが、冗談でも本気にするヤツが大勢いる」
冗談ではなかったんだけど、というひと言を呑み込み、候補生は曖昧に頷いた。適当な会話の細部を訂正するだけの体力も残っていない。気を抜くと、それこそ寝落ちしそうだった。
手を抓っても欠伸を噛み殺しても眠気を遠ざける大した効果は見られない。泥のような睡魔を誤魔化すために、候補生は自分を微睡みから引き上げた原因を思い出した。
「新刊って?」
「
……
新刊?」一瞬怪訝そうな表情を浮かべた後、ああ、と呟く。「気に入ってる作家の新刊の発売日だ。そう言えば、今日だったはずだと思ったんだ」
「気に入ってる作家
……
」
「お前、鸚鵡返しでしか話せないのか?
……
冗談だって、そう怒るなよ。別に、気に入ってる作家の一人や二人くらいいたっていいだろ」
それからグラースはぽつぽつとその作家の話をし始めた。曰く、職業体験で書店に派遣された時、偶然その作家の本が平積みのされているのが目に入り、ぱらぱらと読んでみたら存外面白かった
――
というのが出会いらしい。最近流行りのミステリ作家だが、特に好きなのはやや古典的な文体と堅実な心情描写だと言う。初期作品の特徴から最新作に至るまでの変遷を軽く語り、いくつか代表作を挙げる。言われてみれば、その名前もどこかで聞いたことがあるような気がした。読書家のローレンツから聞いたのか、それこそグラース自身から聞いたのかまでは思い出せないが、それなりに有名な作家なのだろうと納得する。
しばらくぽつぽつと話し続けていたグラースが、不意に黙り込んだ。不思議に思った候補生が顔を上げると、グラースはどこか釈然としない表情で彼女を見返している。
「
……
いや、こんな話をしてもお前にはつまらないだろ。無理に僕に話を合わせる必要はないんだぞ」
「え。いや、つまらないことないよ」
「気を遣わなくていい。お前、別に読書が趣味ってわけでもないだろ」
「それは、まあ、うん」
「アンデルセンとグリムの違いも曖昧だしな」
「失礼な。ヘンゼルとグレーテルはグリム童話でしょ?」
「じゃあ北風と太陽は?」
「
……
、アンデルセン?」
「イソップ寓話だな。お前、わからない作品は全部アンデルセンだと思ってないか?」
まったくその通りなので反論に窮する。生憎、文学作品には明るくない。いや、文学どころか芸術全般に疎い。
グラースは肩をすくめて嘆息した。
「だから、つまらない話を無理に聞いていなくていい」
「別に、つまらないとは思ってないよ」
「はあ?」
「グラースの好きなことの話だから」
「
――
、」黒水晶のような瞳が丸く見開かれる。「
……
お前な。そういうこと、僕以外に言うんじゃないぞ」
それきりグラースはふいと顔を背け、再び車窓から外の景色を眺め始めた。しばらくその横顔を見つめる。白い朝日に照らされる色白の肌はほんのりと赤みが差しているように見えた。
これ以上話の続きは聞けそうにないので、候補生は諦めて車内をぐるりと一瞥した。自分たち以外に乗客の姿は見えない。特に観光シーズンでもないこの時期、港街へと南下する始発列車に乗り込むような人はいないのだろう。ボックス席を広々と占領しているが、人の気配のない列車の中はどこか現実から遠い。そう言えば、以前奇妙な現象に貴銃士たちが巻き込まれたのも、こんな風に移動する列車の中だった。
ふと、列車の揺れではない軽い衝撃が座席に響いた。隣を振り返ると、グラースが難しそうな表情で両腕を組んで座っている。ついさっきまで斜め向かいに座っていたはずだ。候補生が首を傾げると、グラースは肩をすくめて短く呟いた。
「今は、お前の傍に僕しかいないからな」
「
……
」
「あんなことが二度も三度も起きるとは思えないが、まあ、万が一ってこともあるだろ。だから
……
その」
「
……
、うん。ありがとう」
フィルクレヴァートを目指す始発列車は、朝日を浴びて、静かに揺れている。命を危険に晒す戦場も、好きな本のページを捲る日常も、同じ線路の延長線上にある。息を潜めて銃を構えていた夜の空気から、一本ずつ緊張の糸をほぐすように、朝日は柔らかく差し込んでいる。
フィルクレヴァートへ帰ったら、まずはグラースが話してくれた作家の本を探しに書店へ行こう。再び微睡み始めた意識の中で、候補生はそう決めた。
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