海を泳ぐ夢

さとう・しおさん宅の子、オユンくんがある日見た夢の話。
オユンくんのコンプレックスと、それを知らずに救うオルカくんです。

 どこまでも続く青の中を、オレは泳いでいた。
 サーディンの群れを突っ切り、ゆったりと漂うクラゲを押し流し、岩肌を掠め、マグロを追い越して、自由に。
 オレは大きなサメだった。口の中に生えそろった牙はどんな魚だって引き裂けたし、ざらざらした肌は水を掻きわける時に役立って、大きな尾びれを振ればどこまででも行けた。
 そしてそんなオレの隣には、やっぱりオルカがいた。あいつはシャチらしく白と黒の体で泳ぎ、いいことがあるとオレの隣でくるりと宙返りをしてみせた。
 種類こそ違ったが、オレたちはいつも一緒に行動していた。水面すれすれを泳いでカモメをからかい、どこまで深く潜れるかを試し、大きなヒラマサは二人で分けた。どこでも一緒に行き、どこでも一緒に食事をした。
 いつまでもずっとこうしていられると思っていた。オルカの体が日に日に大きくなり、たっぷりとした筋肉を蓄えた、大人のシャチになるまでは。
 ある日、オレとオルカはどこまで遠くに行けるか試していた。海は広く、果てはない。ならどこまでも行ってやろうというのがオレたちの共通した目的だった。ひれを動かして水を掻き、流れ去っていく景色を見る。見たことのない場所がなくなるまで止まるつもりはなかった。
「おれ、もっといけそう!」
 ふいにオルカがひときわ強く水を掻き、オレより前に出た。すでに体の大きさはあいつの方が大きい。厚い胸ひれが、むっちりとした尾びれが、どんどん水を押しのけていく。
「おい!」
 気付いて声を上げた時には、もうオルカの姿はずいぶん遠くなっていた。遠くからあいつがオレを呼ぶ声が聞こえる。こっちだよ、早く早く! そう言って呼んでいる。
 けれどオレはもう全力を出して泳いでいた。これ以上ないという位に尾を動かし、必死になってあいつに追いつこうとしていた。だがそうするたびにあいつの姿は遠ざかり、とうとう見えなくなってしまった。
「おゆちゃーん……
 遠くからかすかにオレを呼ぶあいつの声が聞こえる。行かなくちゃと思えば思うほど、体の周りの水がまとわりつくように重くなり、ひれがうまく動かなくなる。
「おい、おにぎり野郎、どこだ!」
 いつの間にか呼ぶ声すらも聞こえない。叫んでも反響するのは自分の声ばかりになっている。
「オルカ、おい! オルカ!」
 体は鉛のように重く、泳ぐ速度はこれ以上なく遅い。オルカの姿はどこにも見えず、静まり返った青い海は何も答えなかった。

 そこで、目が覚めた。
 ほう、ほう、とフクロウの鳴く声が窓の外から聞こえた。オレの体の周りに水はなく、目に入るのはいつもの家の風景だ。ただ、濡れたのかと思うほどに汗をかいている。
 ゆっくりと体を起こすと、しっとりしたブランケットが体から滑り落ちた。ふらふらと足をベッドから下ろし、靴をひっかける。当然そこにあるのはサメのひれではなかった。
……夢か」
 ため息を吐いて立ち上がる。眠りの名残を引きずった体はふらつき、よたよたとした足取りでしか歩けない。まるでそれが夢の続きのようで、背中を汗が伝う。
 どうにか短い距離を歩ききり、隣のベッドを覗き込む。オルカは気持ちよさそうな寝息を立てて眠っていた。ブランケットの一部を丸めて抱きしめているせいで、脚と体の半分がはみ出ている。
 なぜだかその姿にひどく安心して、オレは笑っていた。
……風邪引くぞ……
 ぎゅっと抱きしめていたそれらを広げ、きちんと体をブランケットの中に入れてやる。そうする間もオルカは少しも目覚めることなく、すぴすぴと気持ちよさそうな呼吸音が聞こえてくる。
 あれは悪い夢だった。やっとそう思えた瞬間、急に足から力が抜けて、オレは床に座り込んだ。
 置いて行かれた。そしてそれに追いつくこともできない。そう気付いた時、腹の底が震えるほど恐ろしかった。怖くて、寂しくて、胸がかきむしられるように辛かった。
 速く泳げないなら、もっと速く泳げるようにすればいい。弱いなら、もっとトレーニングすればいい。いつもならそう思えたはずなのに、夢の名残が体にまとわりついて、なぜだか今はそう思えない。
 いつの間にか、口から弱音が転がり出ていた。
「なあ、置いてかないでくれよ……
 答えはない。代わりにぽてんと手がベッドからはみ出し、オレの前に垂れさがった。そっと目線を上にあげると、オルカは寝相を変えており、さっき整えたはずのブランケットから手を放り出したようだった。
「ハハ」
 オレはその手を両手で包んだ。そうして祈るようにぎゅっと握りしめる。
 まだ夢の名残は強く体を縛っていたが、今ならもう一度、今度は夢も見ずに眠れそうだった。