斜某りったー
2024-06-08 22:01:15
8558文字
Public
 

終末日和に蕩かして

剣伊
現パロ
高校生の二人が地球最後の日にクレープを焼く話
死ネタ注意

 
「クレープが食べたい」

 最後の晩餐の献立は、そんなセイバーの一言で決まった。

 つい先程マグカップに注いだ粉末タイプのコーンポタージュを完飲するや否や発された宣言に、伊織はそうかとだけ返して、三口ほど残されていたインスタントコーヒーをぐいと呷り席を立った。もちろん買い出しのためにである。
 伊織がなんやかんやで流されやすいのは常の事であるが、本日は輪をかけて甘い様子。
 だが、その理由を知れば、彼がセイバーの突拍子のない要望を多めに見てやっている内心にも察しが付くことだろう。

 何を隠そう、今日は地球最後の日、世界が終焉を迎える日だ。

 数ヶ月前、突如として航空宇宙局から発表された、地球に迫る小惑星に関する警告。
 六六〇〇万年程前にも起きた大惨事の再到来は、唐突に、呆気なく知らされた。
 地球に大きな隕石が落ちてくる。つまりは、シェルターなど意味をなさず、誰一人として助からない冬の時代が訪れる。
 最初の内こそ陰謀論が囁かれていたが、連日の報道や更新される情報に、人々の不安は次第に各地で勃発する暴動の嵐へと姿を変え、地上はすっかり荒れ果ててしまって久しい。
 当然学校も機能しなくなったので、受験期だったことも起因してか、セイバーなどは退屈な勉学をせずに済むと喜び伊織の手を引いて遊びに行こうと外へと誘った。
 しかし、皆同じことを考えるのか、このご時世に動物園やらカラオケやら、そんな娯楽施設は現実から目を背けたがる人間で埋まりきり入りこむ余地さえない。
 そんな訳で、頬を膨らませて拗ねてしまった彼の機嫌を取るために、伊織は遠方にある実家に蜻蛉返りし、挨拶もそこそこに倉庫の奥で埃を被っていたアウトドア用品をせっせと持ち出すことに相成った。高校生の身では少し遠出をしてピクニックをするのが関の山であったが、それが存外お気に召したらしく、セイバーは遠方に連なる山々や、川のせせらぎ、広がる花畑に出会しては目を輝かせた。原始的なものが心を揺さぶるという、人工的な娯楽に溢れた世にあって、若人たちが忘れかけていた事実を取り戻すかのように。

 それはそれとして、俗的な欲求は別腹である。キッチンカーは絶滅危惧種のように姿を見せないので、伊織はセイバーを荷物持ちとして連れ立って、近所のスーパーへと足を運んだ。




 品数が少なくなったとは云え、辛うじて物品が流通していたスーパーも、一週間前にはついに生ものの搬入が停止され、指示を仰がれた店長の独断により、二十四時間無期限に開放されている。勿論、中の物は全品無料という大盤振る舞いだ。故に、深夜十二時と云う時間帯でも、伊織たちはその恩恵にあやかれる。
 店内は暗く、倉庫から直に運び込まれた段ボール箱が床に散乱している。セイバーは意気揚々とバックから懐中電灯を取り出して点灯させた。開け放たれた自動ドアから侵入してきた土埃が歩くたびに足跡を作る。天井から吊るされた看板を頼りに店内を歩く。一筋の光は持ち主の気の高ぶりに振り回されて不規則に跳ね回った。
 伊織はセイバーに先導を一任して、適当に放置されているカートを引き抜き彼の後を着いて行ったが、あちらこちらの棚を時に背伸びし、時に屈んで大真面目に物色し、走っては戻ってを繰り返す様を見ていると、なんだか大きな子供か犬を飼っている気分になってくる。およそ齢十五を超えた同年齢の友人に抱く印象ではないが、余計なことを云って怒らせたくはなかったし、楽しそうなセイバーを眺めるのも嫌いではないので、特に何も云わずやりたいようにさせてやった。
 冷蔵コーナーの電気は落とされており、棚には保存の効くものしか残っていないので、カゴの中に投げ込まれるのは専らチョコソースにマーマレード 、ブルーベリージャム、蜂蜜、ツナ缶、トマト缶といった長期保存が効くものに、シナモン、ザラメ糖などのサイド的な品々である。こんなに要るのかと問いかけると、一度すべてのトッピングを試してみたかったのだと悪戯っ子のような笑顔が向けられた。なんだか気が抜けたので、後で不味いと泣きついても知らんぞと苦笑する。
 レジを通り抜け、重い荷物たちを買い物袋に詰めた後、二人はそのままカートを押して出口へと向かったのだった。
 
 
 電灯の切れた道を歩く。人通りはなく、カートのタイヤがカラカラと回る音が夜の町に響く。
「ふふ、こんなにも静かだと、なんだか誰も居なくなったように感じるな」
 手をかざし、星々を指の間に挟みこみながら、セイバーは伊織を見上げた。口元は上機嫌そうに持ち上がり、ゆるりと弧を描いている。
「恐らく出払っているのだろう。こんな日だ、羽目を外したくなる気持ちも解る気がするよ」
 俺たちだって、例に漏れずこうして買い出しをしているしな。
 そう云って、袋の中身に落としていた視線を上げる。
 空は一点の曇りもなく、月と星々の明かりが瞬いて柔らかに地を照らす。しかし、そのなかにあってなお周囲の一等星を塗りつぶし、飲み込むほどに煌々と輝く異物が一つ。
 AM2:00。それが、惑星の衝突により、人類が滅亡するタイムリミットだ。


 外壁の塗装が剥げ、えも云えぬ哀愁漂うアパートに到着する。カートはそのまま脇に放置して、買い物袋を下げて赤錆びた鉄骨階段を昇っていく。セイバーの方が持つ荷が多く重いはずなのだが、彼は細身の割に膂力があるので、足取りも軽くカンカンと踏板を鳴らしている。朝に結わえてやった三つ編みがぴょこぴょこと揺れるのを見ると、やはり尾を振る犬のようだな、と思う。失礼なことを考えつつニ階に上がり、廊下をまっすぐ進んでいけば、突きあたりの角、伊織の借間に辿り着いた。本来ならセイバーは隣の玄関に入るべきなのだが、彼は伊織の部屋に入り浸ることが常であり、何なら二人は毎日夕餉を共にしている仲でもあるので、当然のように伊織の懐を漁り、鍵を取り出して解錠される。家主よりも先に入り、ただいまと笑うセイバーにも慣れたもので、伊織はさしたる疑問も抱かずに、同様にただいまと云い鍵を閉めた。
 下げていた袋はセイバーに押しつけ、自宅に残されている食材を物色しだす。
 昨今では常温保存の効く牛乳も売られているとかで、企業努力逞しい成果物は現在玄関の靴箱の中に置かれている。締め、二〇〇ミリリットルの紙パックが計二本。数週間前、最後の配給袋に入っていたそれと、これまた戸棚の奥に放置されていたホットケーキミックスの袋、冷蔵庫がお亡くなりになったので急遽クーラーボックスに移動した二個分の卵があれば、なんとかクレープ生地の体裁は保てるだろう。氷嚢が折り重なる隅の方に、数日前、インスタントラーメンの上に乗せて中途半端に残ったバターが紛れ込んでいたので、これ幸いとばかりに取り出した。ないよりもある方がきっと良い筈だ。
 食卓の中央を占拠するカセットコンロに乗せられたヤカンをキッチンのカウンターに置き、代わりにフライパンをセットして、点火し弱火で熱しておく。準備が終わればボウルにホットケーキミックスと卵、牛乳を投入し混ぜ合わせ、生地を作っていく。その間、セイバーは買い物袋から戦利品を取り出してはフィルムを剥がし、缶を開け、瓶の蓋を緩めて食卓に並べた。使い捨てのスプーンを贅沢にも一瓶一缶に一本ずつ添えていけば、あとは専ら調理担当の伊織を待つだけである。
 手持無沙汰になってしまったので、ピクニックに持ち出して以降、すっかり趣味になったラジオを流すためにチューニングを合わせた。手回し充電式のそれは、毎朝セイバーの手によってぐるぐると発電されているので本日も絶好調だ。ノイズ混じりの雑音が、つまみを回すたびに鮮明になる。

——さあ空を仰げば視界に入るは忌々しき尊大な石っころ。まるで自分が太陽だと云いたげに青、白、橙色の光を放つ姿は滑稽としか表せません。この世に地に堕ちる太陽などあるでしょうか? 否、否ですとも。即ちあれは軌道から外れ、憐れにも行く先を間違えた迷子に他なりません。哀しきかな、あれは自らが放つ光で、遥か彼方に輝く同士たちにも気が付けないのです——……

 個人で活動しているのだろう。こんな日にも放送を続ける無名のパーソナリティーが、毒の入り混じった皮肉を隕石に向けている。カーテンを開け放っている窓からは、先程帰路に就いた時分よりも三回りほど存在感を増した件の迷子が迫っている様子が見えた。室内はランタンとカセットコンロの火のみがゆらゆらと揺れているが、もう少しすれば光源が増えて幾分か明るくなるだろう。小気味の良いパーソナリティの台詞回しに耳を傾けつつ、熱したフライパンに油を引き、くるりと持ち手を握る手首で円を描き全体に行き渡らせる。
 おたまで生地を掬い、投入した瞬間もう一度手首をぐるり。均等に生地を広げて、蓋をして数分。ヘラでひっくり返してじっと待てば、即席なんちゃってクレープの出来上がりである。
 今か今かと蓋の中を覗き込んでいたセイバーの皿に、クレープを滑らせる。指定時間通りに加熱したおかげか、焼き色は綺麗に付いて黄金の月のような塩梅になっている。湯気が立つ出来立てのそれに、セイバーは大きな声でいただきます! と両手を合わせ、スプーンで盛り付けを始めていった。

 チョコソース、蜂蜜、マーマレード、ブルーベリージャム、ザラメ、等々。
 糖分を気の赴くままに乗せていき、終わりにシナモンを振りかけて、もったりした具材が熱で液状化する前に素早く生地を折り込む。少し不格好で、市販よりも幾分か小さく分厚いそれをぱくりと一口。すると、先程まで快然の様相だったかんばせが、もぐもぐと噛みしめる度に喜と楽の色が失せていって、最終的に何とも云えないしょぼくれた風体へと変遷していく。ヘラで新たに投入した生地を押し付けながらその様子を何となく眺めていると、悲哀を背負っていた彼が徐ろに食べかけのそれを差し出してきたので、そのまま顔を寄せ、口に含んで咀嚼してみた。

 味の感想だが、端的に述べると甘味の暴力だった。微妙に方向性の違う甘味が複雑怪奇に入り乱れ、適量という忘れがちな有り難みを思い起こさせる一品であった。恐らく伊織自身も概ね似たような顔になっていることだろう。余り嬉しくないお揃いだ。
 静かに首を振り、差し出すセイバーの手をそっと押し返した。おまえがなんとかしなさいのジェスチャーである。自分で処分しなければならないことに関してか、見捨てられたことに関してか、どちらかは不明だがセイバーは眉尻を下げ、しわしわになりながら引き下がる。ペットボトルの水を煽り、そのままもそもそと食べる彼を横目に、伊織は出来上がった生地を自身の皿に乗せた。
 流石に口直しがしたかったので、個包装のマヨネーズをスプーンの背で塗りたくり、ホールのトマト缶を適当に潰してツナを散らす。レタスとチーズさえあればサラダクレープが出来上がるが、伊織はそこまで味に頓着する手合いではないので文句は出ずに黙々と口に入れた。甘みのある生地に包まれたツナの油にトマトの酸味と甘味が沁み込み、さっぱりとした清涼感が足される。しかし、あっさりした味わいかと思えばそうでもなく、生地に塗られたマヨネーズのコクが濃厚さの階層を一段階上げており、中々に纏まった仕上がりとなった。つまり、それなりに食べられる出来である。
 なんとなしにセイバーの口に放り込んでみれば、心なしか褪せていた朝焼けの瞳が輝き出したので、どうやらお気に召したらしい。そのまま皿ごと渡してやって、代わりに空いているセイバーの皿と交換する。まだまだ生地も具材もたっぷりあるし、世界が終わるまであと一時間も残されているのだ。焦る必要はない。さて、次はもう少しましな甘味に挑戦してみるかと、伊織は卓に並べられた瓶を手に取った。




 クレープを焼いて、ラジオに寄せられたお便りの内容を揶揄って、他愛のない話をして、穏やかな四十五分はあっという間に過ぎ去った。
 ばつん、という音とともに、光源が一つかき消える。
「あっ、あぁ~~……!」
 食に関しては無類の感知力を誇るセイバーが情けない悲鳴を上げる。カセットコンロの火が消えたのだ。
「寿命か。まあ連日使っていたし、致し方ないか」
「換えはないのか!?」
「実家の倉庫から持ってきたからな。元々入っていた分しかない。クレープはこれでお終いだよ、セイバー」
「うう、まだ試したかったものが沢山あったのに……!」
「俺の倍は食っていたような」
「全種類制覇は私の、いいや全人類の夢だぞ!」
「範囲広いな……
 馬鹿げた軽口を叩きつつ、互いに最後の盛り付けを行っていく。伊織はマーマレードの瓶を手に取る。セイバーはブルーベリージャムにしたようだ。会話に花を咲かせていたので皿に放置されていたクレープは少し冷えてしまっていたが、変わらずジャムの伸びは良い。バターは使い切ってしまったので、シンプルなそれを口に運ぶ。弾力の増した生地を食めば、ピールの触感と柑橘系の苦みが甘みの中に潜むジャムのお出ましだ。
「む、ブルーベリーの酸味が甘みを引き立てている。果肉もぎっしりしていて、これは……美味い! とても美味いぞイオリ!」
 日向のような笑顔を向け、感想を寄越してくるセイバーに、それは良かったと返す。幼い頃からの癖のようなものだ。セイバーは、昔から自分が楽しかったり嬉しかったりした内容を伊織に共有することが多かった。伊織自身、単身で臨めば動かぬ心もセイバーが映す世界を知ると不思議とそれらは色鮮やかに見えたから、その度に欠けた虚ろのような中身が盈ちていくように感じて、進んで聞き手に回りだす。相槌を打ちつつ、常より口元を緩める伊織に何か感じるものがあったのか、必然的にセイバーは己の裡を明かすことが益々増えた。日々の何でもないことから特大級のトラブルまで、彼の心の根を余すことなく受け止めているのだから、最早伊織はセイバー専用の相談窓口と云っても過言ではないだろう。

……さて、と云うわけで、いかがだったでしょうか。共感して頂ければ幸いです。残念ですが、そろそろお別れの時間が近づいてまいりました。それでは、未だにラジオ放送に拘り続けた奇特なパーソナリティに耳を傾けて下さった、これまた奇特なリスナーの皆様に、僭越ながら、この曲をお贈りします。世界に光が満ちるまでの十分間、後悔のない、緩やかなひとときをお過ごし下さい。エンディングはアメリカより、ニューオリンズで生まれ育ったミュージシャンが作り上げた、一九六七年発の不朽の名曲——……

 いつの間にか放送も終了するらしい。結局最後まで名も所属も明かさなかった彼の別れの挨拶に、聞き覚えのある前奏が流れ始める。
 何処で聞いたのかはすぐに思い当たった。高校の音楽室だ。教科書にも載っているほどに有名な曲だと説明されて、ついでに斜め前に座っていたセイバーは昼食を食べ終えた五限目ということで微睡んでいたことも思い出される。

 男の酸いも甘いも噛み分けたような掠れた声に、サックスやトランペット、ピアノが織りなす洋楽のジャズは、海を越え、遠く離れた日本の幽霊アパート——そう噂されるほど、二人が住むアパートは古びていた——に彩を与える。二日程前に、ガスや電気どころか水道さえも止まってしまったことが嘘の様だ。

 ──世界の平和を願う曲を、彼の捻くれたラジオパーソナリティは、一体どの様な思いで選択したのだろうか。

 三分にも満たない曲はすぐに終わり、両者ともに沈黙が訪れる。気まずさはない。先の曲が緩衝材となり、二人の間に流れるのは緊張感ではなく充実感だ。案外、このまま静穏に終わるのも良いかもしれないと、窓の向こうを眺める。
 だから、セイバーが瞑目し、拳を固く握りしめて深呼吸していることに気づかなかった。

「好きだ、イオリ」
 
 沈黙を裂くように唐突に発された言の葉に、伊織は特に衝撃のようなものは感じなかった。セイバーが伊織に好きだと云うのは初めてではない。先程だって、自分の分をセイバーに寄越した際に好きだぞ! と云われたし、とにかくセイバーは好意を隠すようなタイプではないので慣れた、ということもあるのだろう。ただ、何をしたことに対して云っているのかは不明だ。それに関しては疑問に思う。

 窓の外、黒々とした塊は己の身を削りながら迫っている。放つ熱は光を伴い、リビングを赫々と照らし出す。だから、彼の頬が少女のように赤らんでいるのも、きっと大気圏に突入した隕石が断熱圧縮されて赤々と燃えているからに違いない。

「如何した、藪から棒に」
 首を傾げる。すると、なぜかセイバーは口をギュ、と噤み、代わりに無言で立ち上がった。ギ、と椅子の足が床に擦れる音がする。そして、小さく手招きするものだから、内緒話でもしたいのかとこちらも立ち上がって身を乗り出して──引き寄せるように彼の両手が側頭部を挟んできて、視界がセイバー一色に染まった。

 頭が真っ白になったかのようだった。だって近いのだ、セイバーが。
 視覚情報が処理されない。よって事実から弾き出されるはずの感情が出力されるに至らない。
 しかし、己の乾いた唇に触れる、柔らかな潤みのある感触が、現在何が起きているのかをじわじわと自覚させる。そのせいでまた頭が馬鹿になった。故障中の脳は混乱し、セイバーのことばかりを頭に叩きつけてくる。視界がぐるぐると回る。触れてくる手が、唇が、熱のすべてが、こそばゆくて適わない。

「好き、なんだ」
 セイバーが離れる。未だ呆気に取られている伊織に目を合わせて、もう一度、同じ内容を反復する。流石に熱の籠る湿度を伴ったそれの意図を察せぬほど、伊織は馬鹿ではない。ここまで直球に伝えられては、どんな阿呆でも理解はするだろう。だが、少しづつ戻ってきた思考回路は、なぜという疑問だけを出力した。どうやらまだ本調子ではないらしい。
……それ、今云うのか?」 
 だから、思わず口からまろび出た言の葉は、なんとも風情のないものとなってしまった。
「今だからこそ、だ。……鈍いきみのことだから、今まで私がこのような恋慕を抱いていたとは露にも思わなかっただろう。ッなあに、例え断られても数分後には須く消えて無くなるからな! 云ったもの勝ちというやつだ!」 
 半ばやけになったのか、やたらに声と胸を張る割には腰に当てた手が震えているセイバーの態度に、ふむ、と取り敢えず口にして顎に手を寄せ時間稼ぎをしつつ、未だ答えの出ていない己の心情を推し図る。先に受けた行為。決して嫌ではなかった。むしろ、彼から与えられる全ては、伊織にとって心地が好い。
 
 ——ならば、それが答えなのだろう。

「セイバー、……タケル・・・

 名を呼んだ。それだけで、びく、とセイバーの肩が跳ねる。視線を彷徨わせて此方を見ようともしないことから、どうやらすっかり断られると思っているらしい。
 期待されていないのか。如何やら俺への信頼は地の底らしい。今日という日が来なければ、おまえは一生隠し続けていたのか。そう考えると、なんだか腹の底が少々ぐるぐると蟠り、虚ろの心に穴が開いて、隙間風が入ってくるような心地がした。
 この気持ちの正体は解らない。だが、そんなことはどうでも良くて、今は目の前にいるあんぽんたんの曇り切った目を覚まさせてやらねばならない。

 なので、胸許をぐい、と引っ張って、随分と静かになった口を塞いでやった。
 
 目を見開き、何が何だか把握できていない様子に、大成功だと目を細める。
 思わずふ、と漏れた吐息に、もう一度びくりと跳ねた彼は、漸く思考が戻ってきたのだろう。その大きな朝焼けの瞳を潤ませて力を抜いた。
 時間にして十数秒。あわい同士を重ねただけの児戯の延長のようなそれを、互いの温度がほんのりと移った頃になって、ゆっくりと離す。
「俺の返事はこの通りだ。さて、感想は?」
 意地悪く問いかけてやる。彼は逡巡して、口をもごもごと動かし、姿勢を安定させるため卓に突いた手をぎゅうと握り込みながらも、随分と遺憾の残る声で言を発した。
……もっと早く云うべきだった」
「はは、今更だな」
 まあ、伝えられぬよりは上等だろう。そう云い終える前に、後頭部に手を添えられる。抗わずに身を任せれば、三度目の口付けが交わされた。

 急く様に、惜しむ様に、深く、深く。
 食んで、奪って、与えて、溶け合って。
 声も、息も、ぬくもりも、とろりと分け合い嚥下する。
 最早互いしか見えない。互いしか感じない。
 幸福と寂寞が代わる代わる去来する。
 何を悔いたって、何が盈たされたって、ああ、もうすぐそこに、目蓋を焼く程の極光が──。

 ──人生最期の日。いとおしい人の口付けは、マーマレードとブルーベリージャムの味がした。