水が地面を打つ音が聞こえる。窓ガラスに当たった水滴が重力に従って下へ流れ落ち、いくつもの水の筋を作っている
——雨が降っている。まだ昼間だというのに窓から見える空は鉛のような暗い色で、ただでさえ狂っている時間の感覚をさらに狂わせる。カイルはもう何日も、竜王城の医務室から出ていなかった。
数日前、カイルは竜騎士団の魔物討伐任務のためにとある海辺の町へ赴いた。そこで戦闘に巻き込まれてしまった民間人を庇い、魔物の毒液を右半身に浴びた。その場ですぐに海水で洗い流したものの、右目と右腕は毒液による浸食が特に酷かった。グジュグジュと溶けていくような奇妙な感覚と焼けつくような強烈な痛みに耐えられず、いつの間にか気絶したらしい。気が付くと竜王城の医務室に寝かされて、城の回復術士による治療を受けていた。溶けたと思った右目と右腕は実際には溶けていなかったが、内側が疼くような痛みがずっと続いていて、もうしばらくは包帯を外せないと言われている。今もカイルの右目と右腕は包帯でグルグル巻きにされていて、まるで夜の国に住むと言われるマミーのような有様だ。
幸い、身体の他の部分は毒液による負傷が見られなかった。両脚も無事だったためたまには医務室の外を散歩したいと言ったが、体内に入った毒素が完全に抜けきるまでは絶対安静だということで、ベッドから出ることも許されず医務室の住人となり果てている。
(
……これは、きっと一生治らないのだろう)
いつも治療をしてくれている医者や回復術士の言動から察するに、恐らくこの傷は生涯消えないものなのだと思う。痛みは時間が経てば消えると言っていたが、毒液の色に染まった右腕は何日経っても紫色のまま変わらず包帯の下にある。爛れた紫色の右腕は包帯をしていてもジクジクと痛い。今日は雨が降っているからか、心なしかいつもよりさらに痛い気がする。それに、右目の方はもっと致命的だ。
(腕だけならまだしも、片目が見えないのでは竜騎士を続けるのは難しいだろうな)
医者に診てもらうために初めて包帯を外したときは理解ができなかった。包帯を外したはずなのに、右目の視界は真っ暗なままだった。部屋が真っ暗なのかと思ったが、左目は問題なく景色を捉えていたためすぐにそうではないと分かった。そうして直面した現実はあまりにも受け入れ難いものだったが、毎日包帯を外すたびに何も見えない事実を突きつけられては嫌でも理解するしかない。おまけに右目は瞳の色まで変わっており、以前よりも色が失われて見慣れない薄黄緑色になっていた。紫色に染まった右腕に左右で変わってしまった瞳の色、どちらも気味が悪くて、自分の身体なのに今ではすっかり直視したくない代物だ。
(
……これから俺は、どうすればいいのだろう
……)
考えれば考えるほど陰鬱な気持ちになって抜け出せない。外ではいまだ雨が降り続いている。せめて城内を歩き回るくらいできれば少しは気分転換にもなるのだが、それすらままならず気分は落ち込むばかりだ。どうせやることもないのだ、余計なことを考えなくて済むように眠ってしまおうか。
そうしてカイルが目をつぶったところで、医務室の外の廊下を聞きなれない足音が歩いてくるのが聞こえてきた。普段から医務室に出入りしている人の足音はこの数日で覚えてしまったが、今こちらに向かってきている足音には聞き覚えがない。興味を引かれ閉じた左目を再び開いたところで、その人物は医務室に現れた。
「どーも。誰かいる?」
入口からひょこっと顔を覗かせて当番医に声をかけている人物に、カイルは見覚えがあった。カイルのみならず、竜騎士団に所属する者であれば誰もが一度は見たことがあるだろう。透けるような白銀の髪に、印象的なエメラルドグリーンの瞳を持った若い男。間違いない、竜騎士団の入団式でスピーチをしていた、この竜の国の王
——ルシウス陛下その人だ。
多忙なはずの陛下がなぜこのようなところにいるのかと思ったが、ここは竜王城なのだからその城主たる陛下が城内にいるのは当然だ。しかしなぜ、わざわざ医務室までやって来たのだろうか。陛下がお身体を患っているという話は聞いたことがないが、怪我であれば医務室に来ることもあるかもしれない。思わぬ来訪者に好奇心を抑えきれず、カイルは突然現れた有名人の横顔をまじまじと見つめ
——唐突にエメラルドグリーンの瞳と視線がぶつかる。驚いて咄嗟に目をそらすが、すぐにこちらへ歩いてくる足音が聞こえだしてカイルの背中に冷や汗が垂れる。
(ま、まずい、国王陛下に対してあまりにも不躾な視線を飛ばしてしまった
……! 絶対に不快に思われている
……!)
「ねえ、君がカイルくんかな?」
「は、はい
……!」
「悪いんだけど、少し話せるかな?」
ルシウスは真っ直ぐカイルのベッドまで来ると、横になったカイルに声をかけた。穏やかな笑み。気分を害しているような様子は感じられない。国王ともなれば人前に出ることも多いだろうし、好奇の目に晒されるのは慣れているのかもしれない。それにしても、まさか国王陛下が医務室に来たのは、自分に用があったからだというのだろうか。カイルは自分が住む国の王と言葉を交わしている事実に、緊張で心臓が飛び出しそうな勢いだった。これ以上失礼がないようまずはベッドから出ることが先決だと身体を起こそうとする。しかしルシウスは上半身を起き上がらせるカイルを見て、慌てたように両手と首を左右に振る。
「横になったままで構わないよ!」
「しかし国王陛下に対してこれ以上の失礼は
……」
「そんなこと気にしないよ! 君、まだ絶対安静なんだろう? いいから寝て、ね?」
「は、はい
……申し訳ありません」
必死な様子でカイルを止めようとするルシウスの態度に、恐縮しながらカイルは再び身体をベッドに戻すことにする。その際、身体を支えていた右腕に痛みが走った。わずかに顔をしかめたカイルに気づいたルシウスはすぐに手を貸して背中を支え、カイルがベッドに戻るのを手伝った。カイルに布団をかけ直し、自分は手近な椅子を引き寄せてベッドの脇に座る。
国王陛下自ら医務室に出向くなど、一体どのような重大な用件があるのだろうか。そもそもなぜ、一介の竜騎士でしかない自分に。まったく予想がつかないルシウスの来訪理由に、ベッドの中に隠れたカイルの手のひらはすっかり緊張の汗で湿っている。数秒の無言の時間の後、ルシウスはカイルの目を見ながら、気遣うような声音で言葉を発する。
「右腕、痛むのか?」
「は、はい
……」
「そうか
……君のおかげで一般人が魔物の被害にあわずに助かったと聞いた。竜騎士として務めを果たしてくれたこと、心より感謝する」
真剣な眼差しでカイルを見据え、確固たる声でそう言い終えると深々と頭を下げるルシウス。それはルシウスからカイルへの、紛れもない感謝と敬意だった。カイルは大きく目を見開いて返す言葉が出ない。人々を守る竜騎士として当たり前のことをしただけです、顔を上げて下さい。今すぐそう言いたいはずなのに、喉が塞がって声が上手く出てこない。
竜騎士になることはカイルにとって、子どもの頃からずっと追いかけ続けてきた夢だった。小さい頃、真っ黒なドラゴンの背に乗った一人の竜騎士に命を助けてもらったことがあった。そのときからカイルはずっと、顔も覚えていないその竜騎士に憧れ、自分も彼のような竜騎士になることを目指してきた。そうして今から三年前、自分が憧れた通り、人の命を助ける竜騎士になった。だから自分の行動に後悔はない。その結果、右腕と右目が使えなくなったとしても。
だが、その行動が本当に正しかったのかはずっと分からなかった。人の命を助けることは正しいことだ。それは間違いない。あのとき助けに行かず見殺しにすべきだったとは絶対に思わないし、次また同じようなことがあれば、自分は次も必ず人の命を助けるために動くだろう。ただ、他にも方法があったのではないかと、思わずにはいられない。あのとき身を挺して庇うのではなく、もっと別のいい方法があったのではないか。あのときあの場にいたのが自分ではなく他の竜騎士だったなら、もっと上手く助けることができたのではないか。そうしたら
——自分はこれからも竜騎士でいられたのではないか。この医務室で目覚めてから、右腕の痛みに歯を食いしばるたび、包帯を外しても暗闇しか感じられない右目に絶望するたび、そんなことを考えてしまう。そしてそんな思考が頭をよぎるたび、後悔したくないのに後悔しそうになってしまう。あのとき身を挺して人を助けたことを、あのとき人を助ける竜騎士に憧れてしまったことを。
だから本当はずっと、誰かに言ってほしかった。認めてほしかった。カイルのしたことは正しいのだと。何も後悔なんてしなくていい、カイルはやるべきことを立派にやり遂げることができたのだと。あの日、確かに憧れたあの竜騎士に恥じないような、肩を並べられるような竜騎士になれたのだと。
——そして今、ルシウスの言葉でそれが叶った。
カイルはしばらく声を発することができなかった。言葉を詰まらせるカイルに気づき、ルシウスは口を開かず黙って待っている。医務室は静寂を保っている。いつの間にか、外の雨音も止んでいた。窓から日が差し込んで、暗かった部屋が暖かな光で満たされようとしている。
「
……あ、の」
「ん?」
「ありがとう、ございます」
「お礼を伝えに来たのは俺の方なんだけどな。ま、君の気持ちが前を向けたのなら何よりだよ」
「前
……そうですね、これからどうやって生きていくか、きちんと考えないとと思ってます」
「何か考えはあるの?」
「
……いえ
……人の役に立つような仕事がしたいとは思いますが」
「へえ
……それなら、俺から一つ提案があるんだけど」
「提案、ですか?」
カイルのこれからの生き方について、国王陛下から提案がある。その発言にカイルは目を丸くした。ベッドの中とはいえどうにも姿勢を正さずにはいられない。そして同じく、ルシウスも居住まいを正す。二人の間に緊張した空気が漂っている。やがてルシウスが口を開く。真っ直ぐにカイルの目を見て、不安と期待が入り混じったような表情をして。
「俺の、竜王の、側近として働いてはくれないだろうか」
カイルは片目を見開き、ルシウスは生唾を飲み込んだ。
これが今から9年前、まだ従者を持たなかった竜の国の現国王ルシウス・ウェズレイと、これから竜王のただ一人の側近となるカイル・フレイザーの出会いの話だ。
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