——瞼の向こう側が明るい。遠くでチュン、チュン、と小鳥がさえずり、それにケロ、ケロと応える蛙の声が聞こえる。壁越しにぺたぺたと、誰かが近づいてくる足音が耳に届いた。襖の隙間からは、かすかに炊きたての米の甘い香りが漂ってきている。ゆるやかでほっとするような、あたたかな朝の気配だ。
「
…………」
まだ瞼が重い。しかし意識はすっかり覚醒して、俺の耳は周囲の音をしかと捉えている。こちらに近づく足音が止まり、ス、と、部屋の襖が開けられる音がする。そして間を置かず、布団の中で丸まったままの俺の頭上から、真白のやや低く落ち着いた声音が聞こえてきた。
「ああ、起きてますね。目を瞑っていても分かりますよ」
「
……ねむい」
「おはようございます、楓」
「
……真白、おはよう
……」
「もうすぐ朝食ができますよ。今朝は味噌汁は?」
「ん
……のむ
……」
「分かりました。冷める前に起きて下さいね」
そう言い残し、真白は廊下を引き返していった。きっと台所に向かったのだろう。
真白が襖を開け放していったことで、俺の寝室に風の通り道ができたらしい。夜のうちにすっかり滞ったぬるく湿っぽい部屋の空気が流れ出し、朝の爽やかな空気に入れ替わっていく。
そろりと目を開け、名残惜しくも掛け布団を横にどける。そのまま上体を起こし、グッと伸びをすると、固まっていた自分の身体が息を吹き返したような心地がした。
部屋を見回してみるが、いろはの姿はない。真白もいろはも、俺よりずっと活動的だ。
布団を畳んで、軽く身支度を整える。その途中、鏡に写る自分の姿を見て、昨夜の夢を思い出した。どこか知らない場所で、目の前にいるもう一人の自分と話をする夢だった。変な夢だ。何を話したかは覚えていないが、寝起きの気分はあまり良くなかったから、楽しい話ではなかったのかもしれない。
居間まで行くと、ちょうど真白が朝食を並べ終えたところだった。おいしそうな匂いにつられて俺のお腹がぐうと鳴り、真白がこらえきれずに小さく笑う。
「もう食べられますから、好きなだけどうぞ」
「あ、ありがとう
……いただきます」
「ケロ!」
「あ、いろは。おはよう。朝ごはん、もう食べたの?」
「ケロ!」
鳴き声に合わせて、長く伸ばされたいろはの舌が、目の前の空になった皿を指さすように示した。いろはの言葉は分からないが、きれいに完食したぞ、ということらしい。
「今日も美味しそうにおにぎりを食べてましたよ。いろははただの蛙と違って虫以外もなんでも食べてくれるので、準備が楽で助かります」
「いろはは全然好き嫌いしないよね。真白はもう朝ごはん食べたの?」
「いえ、私もこれから食べます。今日は旅館の手伝いも休みを頂いていますし、ゆっくりできますから」
「そうなんだ。最近忙しそうだったよね」
「外の国から商人の一行が来ていたんです。団体客が来ると、さすがにのんびりとはいきませんね」
「そっか。お疲れさま」
「楓はどうなんです? この前役所から、魔物被害を抑えるために知恵を貸してほしいと、声をかけられていたでしょう」
「
……返事の手紙は出したよ」
「承諾したんですか?」
俺は顔を上げられなかった。その態度で真白も答えを察し、苦笑を浮かべている。気まずさを感じる俺の様子を感じ取ったいろはが、気遣うように俺の膝上に飛び乗ってくる。
「ま、そうだろうとは思っていました。あなたの兄も諦めが悪いですね」
「
……」
「気にする必要なんてありませんよ。彼もあなたに断られるのは初めてではありませんし、力を借りたかったのは本当でしょうけど、断られる前提で準備を進めていたはずです」
真白がなんてことないようにそう言った。たったそれだけのことで、役所勤めの兄の期待を裏切り続ける罪悪感で重たくなった俺の心は少し軽くなる。きっと真白もそれが分かっているから、毎回「気にしなくていい」と言ってくれているのだと思う。
「ありがとう。真白は優しいね」
「ええ、まあ」
「
……」
「なんです?」
「
……いや
……俺はそんなに自分に自信は持てないなと思って
……」
「せっかく楓が褒めてくれたのに、否定しても仕方ないでしょう。それとも、私が優しいというのは嘘ですか?」
眉を下げて少し寂しそうな顔をした真白に、俺は慌てて声を上げた。
「ち、違うよ! そうじゃなくて、俺じゃ考えもしないような答えだったから、驚いちゃって。真白が優しいのは本当だから、自信を持って当然というか、なんというか
……えっと
……」
「
……ふふ。ありがとうございます。楓にそう言ってもらえるなら間違いないですね」
「ごめん
……何が言いたいのか自分でもよく分からなくなっちゃって
……」
「どうして謝るんです。すいません、少しからかい過ぎたかもしれませんね」
「ケロ〜」
「わっ! いろは、なっ、舐めないで
……!」
俺の膝に乗っていたいろはが舌を伸ばして俺の顔を舐めた。励ましてくれているのはわかるが、少しくすぐったい。
「二人とも可愛いですね。ご馳走様でした」
「えっ、あ、俺も、ご馳走様でした」
「ケロッ!」
今朝の真白の料理も美味しかった。
いろはが俺の膝からぴょんと飛び下り、俺たちは空になった器を片付け始める。
「真白、今日はどうやって過ごすの?」
「うーん、特に決めてないですね。楓は、今日の予定は何かあるんですか?」
「俺も特には
……道場の方に行くかどうか、迷ってるくらい」
「やることがないなら、やっぱり魔物対策を手伝えばよかったじゃないですか」
「
……俺には無理だよ
……」
「そんなことはないと思いますけど。あなたの兄だって、あなたが力を貸してくれたら心強いと思っているから、声をかけてきたはずですよ」
「でも、自信ないよ。俺が間違ったことを言ったらもっと被害が大きくなる可能性だってあるし
……」
そのとき、玄関の戸を誰かが叩く音が聞こえてきた。
「あれ、来客かな」
「誰でしょうね」
「ケロー!」
「あ、ちょっといろは!」
止める間もなく、いろはが玄関に向かって飛び出していった。
俺が急いで追いつくと、いろはが舌を器用に使って戸を開けたところだった。
「ケロ!」
「
……ケロロデ?」
「ケロ〜」
「お、驚かせてすみません! でも悪い子じゃないので
……!」
「いや、あ、いえ。私は魔法生物にあまり詳しくないので、ケロロデの舌がこんなに伸びることも、戸を開けられるくらい力があることも知らなかったものですから。決して不快になったわけではありませんので、ご安心下さい」
「あ、そ、そうですか。それならよかったです。えっと
……」
「楓、いつまで玄関にいるんです? まずは上がってもらったらどうですか」
後ろを振り返ると、ゆっくり歩いてきた真白が俺たちに追いついたところだった。
「すいません! あ、でも今は俺と真白しかいないので、父や兄に用があるなら出直してもらわないと
……」
「それなら問題ありません。私が会いに来たのはあなたです、比良坂楓さん」
玄関先に立った見ず知らずの客人は俺の目を真っ直ぐに見て、そんなことを告げた。思いもよらぬ事態に、俺は言葉の意味を理解するまで少し時間がかかってしまう。
「
……えっと
……?」
「ああ、それなら丁度良いですね」
「ええ。ご本人がいて下さって助かりました」
「まったくです。さ、どうぞ上がって下さい。詳しい話は中で聞かせてもらいましょう」
「え、あの」
「ありがとうございます。お邪魔します。あ、こちら、宜しければ皆さんで召し上がって下さい」
「饅頭ですか。有り難く頂きます」
「ま、待って
……」
会話に追いつけない俺を置き去りにして、真白は客人の男の人を招き入れていった。俺が取り残された玄関には、いろはが戸を開け閉めして遊ぶガラガラという音が響いている。
俺に来客があるなんて、滅多にないことだ。顔見知りがいないわけではないが、家を訪ねてくるほど仲のいい友人は俺にはいない。しかも今回は顔見知りでもなんでもない、恐らく赤の他人。そんな相手が突然俺の元を訪れるなんて、一体どんな用件なのだろう。まったく予想がつかず、少し怖い。
でも、今日は真白が一緒にいるから、なんとか乗り越えられるような気がしている。一人だけでいるときより、自分に自信が持てる気がする。
「ケロ」
「いろは。うん、俺も行くよ。
……知らない人と話すの、緊張するな」
いつもと少し違う朝の風景に、突然の来客。今まで想像もしなかったような新しい一日が始まりそうな、そんな予感がする。
——どこか遠くで、また蛙の鳴き声が聞こえた気がした。
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