千代里
2024-06-06 07:47:37
13212文字
Public リーブラ短編
 

心を射抜かれた日

まだ雇われたばかりのサルヒが、ルーシャンの様々な表情を知る話

 私――サルヒ・ケレルは現在、とあるお屋敷で女中の仕事に就いている。……正確には、女中の見習いをしている。
 私は、お屋敷の他の人と違って黒い角と鱗をもつ種族だ。年齢はまだ十二か十三だったかだと思う。
 紺色の長い前髪で黄金色のの瞳を隠した、人付き合いが苦手で口下手で、洗濯物を畳むのもやっぱり苦手で、皿洗いは一人前だけど料理はまだまだ下手な見習い。それが、今の私だ。
 私が今仕えている旦那様に雇われてから、まだ二ヶ月も経っていない。だから、私が一人で完全にこなせる仕事なんて、殆ど無いに等しい。それでも、旦那様は私を自分の側仕えとして任命してくれている。
 
 私が勤めている家は、貴族というとても偉い人たちの家だ。彼らは、イシュガルドという国に住まいを構えている。
 元々、私はとある商人の護衛として、この国にやってきた。けれども、どんな手違いからか、私は異端者であると言いがかりをつけられて、牢に繋がれてしまった。
 後から旦那様から聞いた話によると、竜との長い戦いを続けているお国柄、私のような黒い鱗と角を持つ種族は、竜の血を飲んだ裏切り者――異端者に見えてしまうのだそうだ。
 国に来たばかりで何も知らない私は、異端者の情報を吐けと何度も知らない大人たちに迫られた。冷たい牢の中で過ごしていたあの日々は、今は思い出したくない。
 そんな私を助けてくれたのが、今の旦那様だった。
 私を雇っていた商人は、旦那様の家のお抱え商人だった。商人は、私が異端者として捕まったときこそ素知らぬふりをしていたが、罪悪感は持ち合わせてくれていたらしい。私が捕まったことを屋敷の人々に語ったところ、屋敷の主人の養子――今の旦那様が、私を助けるために動いてくれたのだ。
 その後、私は薄情な商人の護衛をやめて、私を助けてくれた旦那様に仕えることにした。
 旦那様は、屋敷の中では少し特殊な位置の人だ。養子といっても、旦那様は主人の遠縁などではない。そもそも種族すら異なり、生まれついての貴族ですらない。
 旦那様は、元は平民で、今の父親に見出されるまでは孤児院で過ごしていたそうだ。
「お前も知っての通り、親父は魔法の研究が飯よりも酒よりも寝るよりも好きなやつだからな。だから、他の連中より魔法の才能があった俺を『使える』と思ったんだろうよ」
 旦那様は、そんな風に自分が養子となった経緯を語っていた。
 ――ルーシャン・ド・エブラール。
 それが、私の旦那様の名前だ。
 雪焼けしたような褐色の肌に、白金色の髪。少し垂れ目がちな眼窩の奥に見える紺藍の瞳。その双眸が、気になるものがあったときは少しだけ瞬きが増えることを私は知っている。年は私より上で、二十は少し前に過ぎたとのこと。
 これは、私がまだ旦那様に雇われて二ヶ月ほどの頃の話。まだ、私が旦那様に特別な気持ちを抱く前の頃の話である。
 
 *
 
 旦那様はエブラールという家の養子である。だけど、旦那様は貴族の一員でもある。私は貴族が何かを知らない、階級制度とは縁のない東方の草原育ちだが、流石に二ヶ月も旦那様と共に暮らせば貴族とは何かを察するようになった。
 貴族とはお金持ちの人たちだ。そのうえ街で暮らす人々のお手本となる人でもある。彼らは街の人からお金をもらう代わりに、街の人が安心して暮らせるような仕事をしているのだそうだ。
 旦那様は、貴族とは何かと尋ねた私にそう答えた。私は頭から煙を出しながらも、ひとまず頷き返した。つまり、貴族とは草原でいうところの族長みたいなものなのだろう。
 
 恐れ多くも旦那様付きの召使にしてもらえた私は、一日の半分以上旦那様と行動を共にしていた。そんな私だからこそ、すぐに旦那様が家の他の人――旦那様の義理のお兄様や、そのお兄様の奥様とは雰囲気が異なる人だと気がついた。
「旦那様の振る舞いは、あまり貴族らしくないですね」
「そうか? まあ、見ての通りの下町生まれの下町育ちだからな。多少礼儀がなってないのは、お前なら大目に瞑ってくれるだろ?」
……確かに、私は執事や他のメイドの皆様のように、旦那様の振る舞いの良し悪しは判別できませんが」
 旦那様が未熟な私を付き人にしたのも、ひょっとしたらその辺りに理由があるのかもしれない。私は、他の年長の召使みたいに旦那様の振る舞いにケチをつけるような真似はできないから。
 その会話をしていたのは、旦那様が外出から戻ってきたときのことだった。
 大旦那様――正真正銘、屋敷の主人であり旦那様の養父の方だ――と出かけていた旦那様は、部屋に入るや否や、すでに緩めていたタイを鬱陶しそうにほどき、上着を脱いで、どちらもまとめてソファに放った。
 旦那様の部屋は、大旦那様の他のご子息に比べると少し質素だ。家具だって必要なものだけが置かれている。着ている服だって、質の面ではやや下がるのだろう。
 でも、だからといって、上着を放るのは貴族のすることだろうか。あと、タイが皺になるのでそんな風にくしゃくしゃしないでほしい。
 旦那様は、まるで蛇の脱皮のようにポイポイと服を脱ぎ捨てていく。私は彼の後を追いかけて、旦那様が散らかしていった衣服を拾い上げて、洗濯籠の中に突っ込んでいく。
「旦那様」
「おう、悪いな」
 服を脱ぎ散らかすなと言いたかったのに、旦那様は私が服を受け取るために声をかけたと思ったらしい。上等そうなベストを渡され、微かに香水の香りが残るそれを、私は眉を寄せて受け取る。
 そうすると、旦那様はシャツとズボンだけのラフな姿になっていた。そのまま、彼は寝台に向かう。私が朝起きてせっせと皺を伸ばした寝台に、旦那様はごろりと寝そべった。
 このくたびれ具合は、結構疲れている時に見られるものだ。大旦那様との外出は、旦那様の嫌いな社交の場だったのだろう。
 だけど、見逃してならないものもある。
「旦那様」
「んー、何だよ」
「お休みになるなら、寝巻きに着替えてください」
「少し仮眠をとるだけだから、別にいいだろ?」
「旦那様の仮眠は一時間に及ぶ場合があります。その場合、シャツに皺がよります。寝るのなら、寝巻きに着替えてくださいっ」
 私なりに頑張って声を張り上げてみたが、返事の代わりに寝息が聞こえてきた。
 相手が私の身内だったなら、私は容赦なくシャツを剥ぎ取って洗っていただろう。ついでに、ズボンもむしり取っていたかもしれない。だが、流石に雇用主の衣服を無断で脱がせるわけには行かない。
…………旦那様っ!」
 先輩を見習ってできる限り厳しい声を作ってみたものの、十と少しの小娘の叱責など、大の大人の旦那様に響くわけもなく。
 結局、私は二時間後にようやく起きた旦那様に、ため息と共に小言を並べ、しわの寄ったシャツを回収したのだった。
 
 *
 
 これはささやかな一例に過ぎず、事あるごとに旦那様は私の前でだらしない姿を見せていた。けれども、ひとたび外出すれば旦那様は実に完璧な振る舞いを見せる。
 つまり、旦那様は外面を取り繕うのはとても上手な方なのだ。
 一方、私の前ではその取り繕いはどこへやら、かなり気を抜いて過ごしていた。服は放るし、私の前であくびはするし、寝癖を整えるのも私の役目になっている。
 他にも、たとえば今。
 夜も更けて、皿洗いの仕事を終えた私は、旦那様にお休みの挨拶をしようと部屋に向かった。
 そこで私が見たのは、机に突っ伏して居眠りしている旦那様だった。扉が開いた音に気づかないぐらい、熟睡しているらしい。
 机の上に散らかった数冊の本。眠る前に持ち込んだものの、すでに空になってしまっているカップ。メモをとっていたのだろうけれど、書いている途中に眠りこけてしまったようで、羽ペンは明後日の方向に倒れ、紙の上に虫が這ったような黒い筋を残している。
 整然とは程遠い机の様子に、私はため息をついた。異端者として捕まって投獄されている私の元に、颯爽と現れた救世主の面影は、今の旦那様からは微塵も感じられない。
(私が見たのは、幻覚だったのかもしれない……
 などと思いつつも、私が彼に助けてもらったのは事実だ。
 なので、恩を仇で返すわけにもいかず、私は眠りこけている旦那様の背中を揺する。
「旦那様、起きてください。お休みになるなら、寝る支度を手伝いますから」
 しかし、旦那様はなかなか起きない。
 ならばと、私は少し強めに揺さぶってみる。すると勢い余って、そばに積み上げていた本がぐらりと揺れて、
「あっ」
 どさどさと小さな雪崩が起き、旦那様の頭に崩れてきた本が衝突した。本の山に埋もれるような結果にはならなかったものの、流石の旦那様もこれには目を覚ましたらしい。もぞもぞと身を起こし、頭に手をやっている。
 のっそりと頭をもたげ、ぼんやりと周囲を見渡すその姿は、私に故郷にいるケナガウシを思い出させた。
……何だ? 頭に、何かぶつかってきたような気がしたんだが」
「それは気のせいではありません。旦那様、目が覚めたのなら寝台に移動してください。うたた寝は体によくありませんよ」
 私の説明を聞いて、ようやく旦那様は自分がどんな状態だったかを理解したようだ。
 くあっと噛み殺してきれていない欠伸で空気を喰むと、側においていたカップを手にとり、
「じゃあ、サルヒ。茶を淹れ直してきてくれないか」
「旦那様。寝る前の飲食は推奨しかねますが」
「そうじゃない。これからまだ続きを読むから、目覚まし代わりに一杯欲しいんだよ」
 私は唇をギュッと引き締める。先輩のように精一杯のしかめ面を作り、
「私の目には、先ほどの旦那様はぐっすりお眠りになっていたように見えたのですが」
「今度は寝ないさ。この本を、今晩中に読み終わりたいんだ。明日はまた、兄貴らの付き合いで出かけなくちゃいけないからな」
 そう言っている旦那様が目線で見やった本には、私には絶対読めなさそうな細かい文字が並んでいた。旦那様は下町育ちだが、養父である大旦那様のおかげで学力の面では貴族と同等のものは兼ね備えている。それも、旦那様なりの努力あってのことだろう。
 けれども、それはそれ。私はわざともう一度ため息をついてみたものの、旦那様は悪びれもせずに読書に戻っていく。
 旦那様は、本が好きだ。それはいいのだが、集中するあまり周りが見えなくなることもあるし、今みたいに無理をしてまで読書に邁進しようとすることもある。こうして、机の上で眠りこけていたのも、一度や二度ではない。
「貴族は、街の人たちの模範になるという話でしたのに」
 ぶつぶつ言いながら、私はお茶を淹れるために厨房に向かう。
 紅茶の茶渋がこびりついたカップを見て、果たして綺麗に汚れが落ちてくれるだろうかなどと、これまた小さく息を落としてしまうのだった。
 
 *
 
 旦那様の付き人となって三ヶ月を迎え始めるころには、私は旦那様にあまり夢を見なくなった。
 生粋の貴族である血のつながらないお兄様方に比べると、旦那様はいい加減だしズボラなところがある。その上、子供みたいなところまである。
 大旦那様と一緒に何やら魔法の勉強をしていたかと思いきや、部屋一帯を氷漬けにした日のことを私は忘れていない。そのくせ、二人して震えながら「成功した!」と手を打ち合わせているのだから、年長の使用人たちと共に嘆息したものだ。
 何でも、二人は古い時代の魔法を再現しようとあれこれ試しているらしい。けれども、それなら部屋ではなく外でやってもらいたいものだ。氷漬けになった部屋の解凍と、駄目になった壁紙の張り替えや絨毯の取り替えに、どれだけ使用人が苦労したか。
 そんなこんなで、私の中で旦那様の評判が「体だけ大きく育った子供」という位置付けになったころ、
「なあ、サルヒ。ちょっと出かけないか」
 ある昼下がり、旦那様は気軽な調子でそう言った。
 おでかけだろうか、と私が外出着用の上等な設えのベストやらタイやら上着やらを取り出そうとしたら、「そうじゃない」と首を横に振られてしまった。
「俺とお前で、少し街をぶらっとしないかって誘ってるんだ。お忍びの外出ってやつだな」
「そうですか。お気をつけていってらっしゃいませ」
「いやいや、俺一人じゃなくて、お前もついてきてくれって言っているんだよ」
 私はぱちくりと瞬きを一つしてから、
「もしかして、お一人で出歩けないほどに方向音痴なのですか?」
「そんなわけあるか。お前、こっちに来てから全然外に出ていないだろ。たまには、お兄さんと一緒に、ぱーっと気晴らしに出かけないかって言ってるんだ」
 私は思わず、じとっとした目で旦那様を見てしまう。旦那様の心遣いは嬉しいが、絶対それだけが理由じゃないと私の直感が告げている。
「本当の理由は何でしょうか」
……料理長が、俺がよく飲んでる紅茶の茶葉が切れたから自分で買いに行けと」
 そんなことだろうと思った。要するに、一人で買い物に行くのが嫌で、旦那様は共連れを探していたのだ。
「でしたら、私に買いに行けと命じてくださればよいのではありませんか」
「それもそうだが、お前一人で出歩かせるのはちょっと不安だからな。こんな可愛いレディを一人で歩かせていたら、いつ悪い大人に声をかけられるか分かったものじゃない」
「不審者に声をかけられれば、腕を捻り上げるので問題ありません」
 実際、私は同年代の女性より明らかに力が強い。故郷では、鬼子だの神が憑いただのと色々言われたことだけはある。それは、今はさておくとして。
「それに、また教会の連中がお前にちょっかい出してくるかもしれないだろ。でも、だからってずっと篭り切りってのも、気詰まりになっちまう。それなら、俺が保護者を受け持っておけば、少なくともこの街では安全だろうってことだ」
……ありがとうございます」
 たしかに、旦那様のいう通り、私は一人では滅多に出歩かない。私の体に備わっている黒い角と鱗は、イシュガルドの国内ではいつだって奇異の目を向けられる理由になってしまう。
 屋敷の庭先を出入りしていたおかげで、街の人に顔を知られるようになったが、それでも不安は拭えない。その不安を、旦那様は肩代わりすると言ってくれているのだ。
「では、旦那様のお着替えを」
「ちょっとそこまで歩いていくだけだ。散歩気分なのに、そんなめかしこむものじゃないだろ。お前も、お仕着せじゃなくて私服でいいからな」
 そうは言われても、私はお仕着せの黒いワンピース以外の服を持っていない。
 結局、エプロンだけを外して、旦那様から借りたフード付きのケープで角を隠し、私は旦那様と街に繰り出すことになったのだった。
 
 *
 
 旦那様の買い物自体は、すぐに終わった。目当ての茶葉は歩いて三十分もしないところにある商店で買えたし、ついでに料理長から頼まれた二、三のこまごまとした品も揃えられた。
 しかし、用事が済んだら帰るのかと思いきや、
「外に出たついでだ。少しあちこち見て回っていいか?」
「はい、構いません」
 そうやって許可を出したのが運の尽き。旦那様は嬉々として、目についた書店やら、雑貨屋やら、武具屋やら、挙げ句の果てに開店前のバーにまで顔を出していた。
 旦那様の服は平民が着ていそうな質素な上衣で、気取ったところのない彼はまるで貴族に見えない。護衛もなし、付き人も私一人だけだ。
 もし、こんな状態で、悪漢にでも襲われたらどうするつもりなのだろう。腰に吊るしている一振りのレイピアだけでは、到底対処できるとも思えない。そもそも、私は旦那様が剣を振るっている姿を見たことすらない。
(これは、私の方が旦那様をお守りしなくてはいけないかもしれない)
 旦那様に怪しい人が近づかないか、通りをぐるりと見渡す。すると、不意にトントンと肩を叩かれた。
 振り返ると、旦那様が私に手を差し出すよう身振りで示している。言われるがままに差し出すと、私の手のひらの上にポンと丸いものが乗せられた。
……パン?」
 まだ暖かさの残る丸パンは、イシュガルド特有のセサミをまぶしたものだ。私も時々口にしている。でも、なぜ今ここでパンを渡すのだろうか。
「腹、空いてるだろ。食ってみな。ここの店のは美味いから」
「ですが、お代が」
「いいさ、そのくらい。普段無茶言っている礼だ」
 旦那様に促されるままに、私は丸パンにかぶりつく。口にした瞬間、私はこれがただのパンでないとすぐに気がついた。
 口の中に広がったのは、パン生地だけではなく、肉をつぶしたものだ。しかもチーズが絡めてあって、ただパンを食べているよりもずっしりとお腹に残る。
 私が目を丸くすると、上から視線を感じた。見上げた先にいたのは、私の方を見てニッと笑ってみせる旦那様だ。
「な、美味いだろ。レバーケースゼンメルっていう料理なんだが、ただパンを食ってるよりもずっと簡単に腹が満たせるんだ」
 頷き返しつつ、私は思う。
 やっぱりこの人は子供みたいな人だ。自分が美味しいと思ったものを知人に分け合い、喜んでもらえると嬉しくなる。そんな言動は、まさに子供のそれだろう。
 本物の貴族のように、礼儀正しくもなければ、きっちりとしているわけでもない。それでも、側にいてほっとする人だ。だから、私は旦那様に呆れながらも、彼の付き人であることをやめたいとは言わないのだろう。
 旦那様は、私が無言で食べ続けているのを見て、よほどお腹が空いていると思ったらしい。フード越しに私の頭を撫でて、食え食えと促している。なんだか子供扱いされていると思ってムッとしてしまうものの、やっぱり料理は美味しいし、街の気配もそこまで怖くないし、この外出は楽しい。そう感じている自分がいる。
 しみじみと、私が今日の幸せを噛み締めていたときだった。
 ――絹を裂くような悲鳴が、路地から聞こえてきたのは。
……今のは?」
 今まで通りを満たしていた温かな空気が、嫌な形でざわりと揺れる。
 瞬間、私たちの向かいの路地の人だかりが、更なる悲鳴と共に二つに割れた。
 路地から飛び出してきたのは、一人の男だった。どこか憔悴した顔をしているが、その目は追い詰められた者だけが持つ危険な光を宿している。
 狩人に追い詰められた獣があのような光を宿して、追い立ててきた狩人に喰らいつく姿を、私は今まで何度も見てきた。そして、それは男も同じだったらしい。
「な、なあ見てただろ、あんたら!」
 何やら同意を求めて、男は周囲の者に呼びかける。
「あいつの方が、最初に俺に突っかかってきたんだ、だからちょっと脅してやろうと思って……本当に、脅かすだけのつもりだったんだ! だけど、あいつが飛びかかってくるから!!」
 彼の言葉に釣られて、私は男を見つめ――そして、息を呑む。
(血……!)
 男の持つナイフから、一つ、二つと真っ赤な雫が垂れている。
 しかも、ナイフを握る男の腕には真っ赤な花のような返り血が飛び散っている。あの様子を見る限り、少しばかり切りつけてしまった程度のやり取りではなかっただろうと、容易にわかる。
 男の顔は、狼狽している声の割には少し赤い。男が出てきた路地には、酒場の看板が吊るされている。さしずめ、酔った末に喧嘩となって、勢い余って刺してしまったというところだろうけれど。
…………っ」
 久方ぶりに見た人の血が、私の心をざわつかせる。
 今、あの男は危険だ。近寄るべきではない。すぐに衛兵を呼んできて、取り押さえなければならない。
 そこまで分かっているのに、私の瞳はナイフから流れ落ちていく赤から離れてくれない。
「サルヒ」
 旦那様が、私を呼んでいる。なのに、私の足は地面に縫い付けられたように動かないままだった。
 
「お、おい……お前、さっきから何じろじろ見てるんだよ……!?」
 そして、私の視線に男も気がつく。自身のしでかしたことに動揺している男には、目の前の全てが自身を非難しているように見えたのだろうか。
 私は思わず目を逸らそうとしたが、私の意思に反して私の顔は動いてくれなかった。
「何見てるんだって言ってんだよ……っ!」
 男が私へと近寄ってくる。自身が今何を持っているのか、何が原因でこんな窮地に陥っているのか、興奮状態の男の頭にはないのだろう。
 ただ、自身を非難するものを追い払わんと、男は手元の得物を振り上げる。
 私は立ちすくんだまま、赤を纏った銀色の刃が振り下ろされるのを、待って――
 
 とん、と。
 体が、後ろへと押された。
 
 私が尻餅をついたと同時に、銀色が閃く。
 それは、男が振るったナイフではない。もっと大きく、もっと細い一閃。
 続けて、金属が石畳を打つ音。
 それは男が手に持っていたナイフが、石畳に落ちた音だった。
 私をかばい、誰かが持っていた剣がナイフを叩き落とした。でも、一体誰が。
「旦那様……?」
 尻餅をついた私の目からも、傍にいるその人の顔はよく見えた。
 いつもは人懐っこい少年のように柔らかく撓む瞳は、今は触れるだけでも切れそうなほどに鋭くて。
 先刻まで私の頭を撫でてくれていた大きな手は、腰のレイピアを抜き、酔漢の喉元にぴたりと突き立てられている。
――――
 白状しよう。
 私は、見惚れてしまった。
 この上なく、惹きつけられてしまった。
 この、手を伸ばすことすら躊躇するような紺藍の瞳に。
 にわかに、周りが騒がしくなる。街の人が呼んできた衛兵代わりの騎士が、地面に落ちた血濡れのナイフを見つけて、男を取り押さえにかかる。旦那様の気迫に押されて凍りついていた男は、呆気なく騎士たちに捕縛されて、何処かへと連れて行かれてしまった。
 周りを流れていく時間から取り残されたように、私は放心状態でその場に座り込んだままだった。
 だが、私のその様子を、旦那様は恐怖で凍りついてしまったと解釈したようだった。
「大丈夫か、サルヒ。怖がらせて悪かったな」
「あ……いえ、そういう、わけでは」
 膝を折って私に手を差し伸べてくれる旦那様には、先ほどまでの鋭さはない。だから、あれは私が一瞬見てしまった夢なのではないか、と思ってしまった。
 でも、旦那様の手にある、抜かれたままのレイピアが、あれは夢ではないと教えてくれていた。この細い剣が、ナイフを弾き落とし、暴漢を鎮圧した刹那の出来事は、夢ではなかったのだ。
「あー……説得力がないかもしれんが、何もしょっちゅう街でこんなことがあるわけじゃないからな。今回は、たまたま運が悪かったんだ」
 私を怖がらせまいと、旦那様は必死で言葉を探している。普段はもっと饒舌なのに、今に限って珍しくまごついている様子が、私の目には新鮮に映った。
 私は無言で頷き返して、旦那様の手を取って立ち上がる。尻餅をついたはずみに汚れてしまったお仕着せの汚れを払い落とし、ようやく足に力が戻ってきたと感じたときだった。
「誰か! この中に医師か、治癒魔法が使える魔道士はいないか! さっきのやつに刺されたやつの血が止まらないんだ!!」
 切羽詰まった声が、例の暴漢が出てきた路地から響く。
 私は、思わずきゅっと唇を噛み締める。あの男のナイフは、街を行く人が見てとれるぐらいに赤く染まっていた。間違いなく、刺された側には深い傷が残っている。きっと、長くはもつまい。
 私が、草原で生きた時代のことを思い出し、そのように結論を出しかけたとき、
「サルヒ、付き合ってくれるか」
 旦那様は一言告げると、レイピアを鞘に納め、私の手をとって声の方へと歩き始めた。街の人は旦那様が何者か知っているからか、道を空けて旦那様と私を通してくれた。
 建物と建物の間に挟まれるようにしてある、小さな酒場。普段なら落ち着いた空気を楽しみながら酒盃を傾ける場所なのだろう。だが、隠れ家のような店の扉は今は大きく開け放たれ、人々のざわめきに包まれている。
 店の中心に横たわっていたのは、脇腹を抑えて呻いている男だ。そばには、店主と思しき人がたくさんの布を用意して傷口を圧迫している。しかし、溢れ出た赤は白かったはずの布を全て黒に近い赤に染めていた。
 思わず、その赤に釘付けになり、私の心が再びざわめく。漂ってくる血臭は、厨房で目にするような死んだ獣の血ではない。
 私が立ちすくんでいるのに気がついたのか、旦那様は私のフードを引っ張って深く被りなおさせて、
「きついなら、そいつ被って目を瞑っていてくれ。すぐに戻る」
 それだけ言うと、旦那様はすたすたと人々に近づいていく。
 私は血が嫌いなわけでも、血が怖いわけでもない。だから、フードを被りながらも、こっそりと旦那様の背中を目線で追っていた。
「あの人は、助かるのでしょうか」
 思わず、といった調子でそう呟くと、
「ああ、きっとな。何せ、ルーシャン様が来てくれたんだ。あの人の魔法はすごいぞ」
 私の独り言に、野次馬の一人が律儀にもそう返してくれた。
 一体何がすごいと言うのだろう。そう思い、首を傾げつつ見守っていると、旦那様が店主に声をかけているのが見てとれた。
 店主の代わりに、旦那様が傷口の近くに陣取る。旦那様が傷にむけて手をかざすと、そこに治癒魔法の光が宿るのが見てとれた。
 光がある程度大きくなると、旦那様は傷口を抑えていた布を取り除く。すぐさま溢れ出る血を押し留めるように、癒しの光が傷へと降り注いでいく様子が、私の目にも見てとれた。
(また……あの顔だ)
 私は気がつく。
 先ほどと同じように、触れるのも躊躇われるような真剣な気配が、旦那様の横顔に浮かび上がったことに。
 不用意に声をかけることすら躊躇われる。けれども、つい手を伸ばしたくなる。あの研ぎ澄まされた気配の一端に、指をかけてみたいと思う。
 そう思っている間に、辺りを柔らかく包んでいた治癒魔法の光が消える。同時に、旦那様を覆っていた鋭い気配も嘘のように霧散していく。
「よし、ひとまず傷は塞がったはずだ。だが、失った血の量が多い。しばらく安静にしておいた方がいいだろう」
 旦那様がそう言った瞬間、そばで様子を見守っていた一人の女性が泣き崩れた。きっと、彼女は倒れている男の妻だったのだろう。ありがとうございます、と繰り返している彼女に、旦那様は「どういたしまして」と気軽な調子で返していた。
 まるでちょっと一杯ひっかけただけといったような、随分と気楽な様子で、旦那様は私の元に戻ってきた。先ほどヒト一人の命を救ったなどと、微塵も感じさせない気配に、これまた私は夢でも見ていたのではないかと思ってしまう。
「悪い悪い。ちょっと道が混んでてな」
 そんな冗談を挟む彼に、私は思わずといった調子で訪ねてしまう。
「あの……先ほどの魔法は」
「ああ。親父が教えてくれた治癒魔法なんだ。外傷なら、あれでひとまずは難を逃れられるだろう」
「旦那様は、あのような魔法も使えるのですね」
 旦那様が魔道士であることは知っていたが、てっきり魔法とは氷や炎を生み出すものばかりだと思っていた。人の傷を癒す魔法も扱えるとなると、このひとは一体どれほどの魔法を自分のものとしているのだろう。私がそう思っていると、
「魔法自体には問題なかったんだが……ちょっと余っちまったな」
「余った?」
 店を出ながら私が問いかけると、旦那様は私に見えるようにパッと手を広げてみせた。
 おかげで、魔法を使わない私にもすぐに分かった。そこには目には見えないけれど何かを生み出そうとするエネルギーが残っていたのだ。
 このまま霧散させても、きっと何の問題ない。けれども、魔法を使うための力は旦那様から生み出されたもので、そのまま散らせてしまうのは勿体無い。なんだか、私はそう思ってしまった。
「ああ、そうだ。サルヒ、お前、何か好きな花とかあるか?」
「花、ですか?」
 残念ながら、私は花に詳しくない。特に、イシュガルドの花は全くだ。
 そんな気持ちが顔に出てしまったのか、旦那様は一瞬思案顔になったと思いきや、
「好きなものでもいい。なに、どうせ単なる子供騙しみたいなもんさ」
 そう言われたので、私は旦那様が何かを魔法で作ろうとしているのだな、と察した。
 私が好きなもので、旦那様も知っているもの。すぐに閃いたのは、
……あの、羊が」
 イシュガルドでも、度々山村で見かける白い群れ。牧童が率いている群れを見た瞬間、私は草原で羊の群れを追いかけていた昔の自分を思い出したものだ。
「羊?」
「故郷でよく飼っていたので、それで」
 だけど、旦那様は最初『花』といったのだ。それに比べると、羊というのはいかにもありきたりで、愛らしくはあるけれど貴族の人が愛でるものとはかけ離れているように思えた。
 けれども、旦那様はくつくつと低い笑い声を漏らすと、
「じゃあ、羊を作ってみるか。初めてだから、上手くできるかは保障できないけどな」
 そう言いながらも、ほら、と私の前に手を広げて見せる。渦巻いていた魔力が急速に周りから空気を奪い、透き通った氷が生み出される。それは、まるで意思を持った一つの生き物のように固まり、一つの形を生み出していく。
 四本のほっそりとした足は、草原を駆ける蹄をちゃんと持っていて。丸みを帯びた体は少しばかり凹凸があって、氷が本来持ち得ない柔らかさを表現している。
 くるりと丸みを帯びた角と、首にぶらさがったベル。ぴょこんと伸びた尻尾ができたところで、魔法の彫刻は終わりを迎えた。
「氷で、羊を作った……?」
「ああ。すぐ溶けちまうだろうが、窓辺に置いておけば朝までは持つんじゃないか」
 そういって、旦那様は私の手に氷の小さな羊をのせた。
 羊は今にも動き出しそうなほどに緻密なつくりで、このまま私の手を飛び出していっても不思議ではない。そう思うほどに、生き生きとした輝きを宿していた。
 旦那様は、私のフードに手を置いて、
「連れ出しておいて、こんなことになるとは思わなくてな。まあ、なんだ。詫びにもならないが、持っていってくれるか」
 そんなことを、少し申し訳なさそうに言ったのだった。
 別に暴漢が現れたのも、血を見ることもになったのも、旦那様のせいではないのに。彼は、そうやって謝罪をする人なのだと、私はその時初めて知った。
「よし、そろそろ帰るか。今日は色々あって疲れただろ。先に休んでいいぞ」
「い、いえ。そういうわけにはまいりません。私は、旦那様付きの女中ですので」
「そうか? だったら、読書用の茶をまた淹れてもらうとするかな。お前が淹れたときの味、あれがないとどうもしっくりこなくてな」
「はい。お任せください」
 そう言いつつ、私はそろりと旦那様の横顔をうかがう。
 彼はすでに先ほどの鋭さを潜めて、いつもの緩んだ気配を纏って帰路を歩いていた。
 太陽を浴びて少し眩しそうに細めてる目も、がしがしと頭を掻いている仕草も、どこをとっても先ほどの旦那様と同一人物に思えない。けれども、あの姿もまたルーシャンという人の一つの姿なのだ。
 少しだらしなくて、貴族らしくなくて。脱いだ服はその辺りに置いてしまうようないい加減なところも、本に夢中になって寝こけてしまったり大旦那様と子供みたいにはしゃいでいたりするところも。
 そして、暴漢を前にして躊躇なく立ち向かえる姿も、魔法を使って誰かを助けようと必死になる姿も、突然の事件で驚いている私を慰めるために氷の置物を作るところも。
 きっと、全部がルーシャンという人の姿なのだろう。
 私は、今日この男性の知らない姿を知ったというだけなのだ。
 それは、ちょうど分厚い布が下がった天幕を一枚めくっていくようなもので、きっと旦那様を覆っている幕はもっとあるのだろう。
……知ってみたい。旦那様のこと、もっと)
 いつしか、私の心にはそんな気持ちが芽生え始めていた。
 小走りで旦那様のあとを追いかけ、私は彼の一挙一動に目を凝らしてみる。
 その気持ちが、何から生まれたものなのか、この時の私はまだ知らなかった。
 
 これは、私がルーシャンという人に出会って間もない頃の話。
 私が彼と共にあろうと願うようになった、その些細なきっかけの一つの話だ。