アゼムはちらり、とカレンダーを見る。カレンダーには月曜から今日の金曜日までピーっと線が引いてあり、出張、と几帳面な字で書かれている。相変わらずエメトセルクの字はお手本みたいだなあ、と考えながら視線を滑らせれば、今日の日付のところには少し癖のある字で八時半着予定!と書いてあって、それはアゼムの字だ。
一週間の出張は新幹線で二時間の距離。一緒に住み始めて初めての出張で、彼がいることに慣れきっちゃっていたんだなあ、とアゼムは息を吐く。
日はすっかり落ちて入るけど、まだ帰ってくる時間ではない。見たいテレビも特にないし、ご飯は新幹線の中で食べて帰るって言ってた。部屋の片付けも済ませたし、シーツだって新しいのにした。土日はゆっくり過ごそうと買い物も済ませて、あとはアゼムが適当にごはんを摘むだけだ。一人分だとどうにも適当になりがちで、ここ一週間で体重落ちたかも、なんて思う。恋人という関係になる前からアゼムが不摂生な生活を送っているとよく怒っていたエメトセルクのことだ。体重が落ちたのもすぐバレるかもしれない。しかし、だからと言って今からちゃんと自分のためだけに食事を用意する気にもなれない。
たまごがけご飯でいいかなあ、とキッチンに向かう途中でリビングで一番目立つテーブルの上に置いたスマホが音を立てる。パッと手に取り画面を確認して、あら、と瞬き一つ。
時刻は夜七時半最高の時間である。ぱぱっと返信をして、小さなカバンに財布を詰める。Tシャツの上に薄手のカーディガンだけ羽織って足を突っ込むだけのサンダルを引っ掛ける。こんな時間に男に会いに行くなんてエメトセルクが知ったら怒るかな、と思いつつ。もしかしたら羨ましがるかも、とひっそり笑った。
自宅マンションから歩いて十五分もすれば、ほんの少しだけ賑わいのある駅前に辿り着く。ついたよ、と連絡を入れて顔を上げると、ちょうど歩いていた待ち合わせ相手とぱちん、と目が合う。
「ヒュトロダエウス!」
アゼムが笑いながら駆け寄れば、学生時代からの親友はハグで受け止めてくれる。
「こんな時間にラーメンに誘うだなんて、悪い男だな、君は!」
「そんな悪い男についてくるなんて、キミも悪い子じゃないか!」
片やスーツの男に、片や部屋着の女だ。側から見ると訳わからない組み合わせだろう。もしかしたら恋人に見えるかもしれない。しかしアゼムとヒュトロダエウスは親友である。それこそエメトセルクと恋人になる前から三人はずっと親友だった。こうしてエメトセルクとヒュトロダエウスが社会人になって、アゼムは大学院に残って、三人の親友の中から恋人同士が生まれたって。ずっと変わらない一番の親友である。
「どこのラーメン? この辺りだと豚骨か、煮干しか、あと混ぜ麺もいいよね」
「ワタシは駅裏の豚骨の気分! どう!」
「最高の選択だな!」
わっはー!と笑いながら手をパチン、と叩き合う。親友二人、肩を組んで夜の八時前。今からラーメンを食べて、駅まで二人で彼を迎えに行く。最高の金曜日の夜の計画であった。
ラーメン屋の前で食券機を睨む。ヒュトロダエウスは濃厚にんにく豚骨ラーメン背脂マシマシ、フライドオニオン追加を躊躇いもなく選んだ。洗練された指の動きだった。
「金曜の夜ぐらいじゃないとにんにく行けないよね〜」
「翌朝まで残るからね。ところで」
にやり、とヒュトロダエウスが笑って首を傾げる。
「キミ、キスの予定は?」
「んー? んふふ」
にんまりと笑いながらアゼムの指が選んだのは普通のとんこつラーメンだ。食券を渡して席に着いて、冷たい水で口を湿らせる。
程なくして目の前にやってきたどんぶりいっぱいのラーメンに、うわあ、と目を輝かせる。
「え、君さらににんにく追加するの?」
「金曜だからね。何やってもゆるされる!」
「わ〜っ最高じゃないか」
笑いながら一口ラーメンを啜る。にんにくが無くたってラーメンは美味しい。最高である。噛み締めて飲み込んで、スープを掬って飲んで。不意にスマホが音を鳴らす。音消し忘れてた、と慌てて取り出して、画面を見て。今来た通知は、どうでもいい大学の研究室からのお知らせである。それとは別にいつの間にかエメトセルクからの連絡が来ていた。指を滑らせて開けば、二十分ほど前に着ていたメッセージに気付かなかったのだろう。
でも、見なきゃよかったな、なんて。アゼムは返事もせず画面をロックした。
「アゼム?」
幸せそうな顔から一変してどこか暗い顔になるアゼムにヒュトロダエウスは麺をちゅるんと飲み込んで首を傾げる。アゼムは顔を上げるとスマホをカバンに投げ込んだ。
そして無言でテーブルの上にあるおろしニンニクを掴むとがつがつとラーメンに入れだした。
(あーらら)
分厚いチャーシューを齧りながらヒュトロダエウスは横目でアゼムを見る。にんにく山盛り追加のラーメンを啜る彼女は少し不機嫌そうだ。キスの予定、無くなってしまったらしい。
ラーメンを食べるのに会話は不要で、程なくして大した時間差も無く食べ終わると席を立つ。あざしたーーーーーっ!と大きな声を背に店を出て、アゼムは「っはぁ〜っ!!」と充足感だけではない溜息をついた。
「どうしたの?」
「エメトセルク、仕事が伸びて新幹線乗りそびれたって。今日も泊まりになるかもって」
「ワァオ」
そりゃ不機嫌にもなる。ポケットに忍ばせたブレスケアを差し出そうか悩んでやめた。こうなったらヒュトロダエウスもブレスケア無しでいよう、と決意する。
「まあ、キミがフィールドワークであちらこちらを飛び回ってる間のエメトセルクの気持ちが分かったんじゃない?」
予定もなく夜の街を駅の方へ歩く。ヒュトロダエウスの言葉にアゼムは瞬きをして、つん、と視線を逸らした。
「予定通り帰ってきてるよ、私は!」
「でも二週間以上とかあるじゃないか」
「付き合ってからはまだ無いし」
「付き合う前からエメトセルクはずっとキミがいない間寂しそうだったよ」
パッとアゼムがヒュトロダエウスを見る。ほんと?と小さな声で尋ねる彼女に大きく頷いて見せれば、うふふふ、と妙な笑い声をあげた。
「なら許してあげようかな」
「上から目線だねえ」
「まあいいや。エメトセルクに返信してあげよ。ね、動画送りつけよ」
カバンをゴソゴソと漁りスマホを取り出すと、ヒュトロダエウスにくっついていえーい、とピースをする。かつて同じゼミにいた頃、徹夜で研究をまとめている時誰かが最初に寝てしまうと、よくこうやって寝てる証拠を残すために動画を撮っていた。そんなことを思い出しながらもヒュトロダエウスは満面の笑顔でアゼムの肩を組む。
「いえーい、キミの恋人と親友、今二人でラーメン食べてきました〜!」
「とんこつラーメン! いいだろー!!」
「この後コンビニでアイスも買っちゃいまーす!」
「えっ最高ヒュトロダエウス天才!」
恋人と離れてる寂しさを埋めることはできなくても、親友として誤魔化すことはできる。送信ボタンを押して、スマホをまたカバンに仕舞い込んで。駅前のコンビニでいいよね、そういえばあっちの方にまたコンビニ増えてて、なんて他愛もない話をする。
時刻は夜九時過ぎ。駅前の壁に寄りかかってアイスを食べる。さっきまでたらふくラーメンを食べて熱を持っていた体が、アイスと夜風ですっかり冷え切った。
「やっぱ、アイスはチョコが一番えらいんだよ」
「いいやバニラだね」
心底どうでもいい会話をしながらふとヒュトロダエウスはスマホの振動に気付く。着信だ、と指を滑らせて耳を当てると、ガヤガヤとした喧騒の向こうから聞き覚えのありすぎる声が聞こえてくる。
「ん、おつかれ。えー、今? いるよ、隣に。うん、そうそう、駅の南口のとこ」
「んぁ? 誰?」
アイスのゴミをゴミ箱に捨ててきたアゼムが首を傾げながらヒュトロダエウスの元に戻ってくる。そのアゼムの腕を、後ろから掴む手があった。
「おい」
「っ、えぁ?」
「やあ! おかえり」
ヒュトロダエウスがひらひらと手を振るのを睨みながら、その男はそっと息を吐く。
「夜中に連れ歩くな」
「やだな、キミをお迎えするつもりだったんだよ、彼女」
「お前もだ。そんな格好でであるくな」
ぱち、と何度か瞬きをして、アゼムは空いてる方の手でパッと口を押さえた。
「うっわ、なんでいるの!?」
アゼムの言葉にエメトセルクの眉間の皺がさらに深くなる。
「どうにか新幹線に飛び乗った。おかげで自由席で二時間立ちっぱなしだ」
連絡入れたぞ、と言われて慌てて鞄を漁ろうとするアゼムを止めて、エメトセルクはヒュトロダエウスを見る。
「引き取る」
「どーぞ! じゃあまたご飯でも行こう」
「ああ。帰るぞ」
「わ、わっ。まってよ、あ、またねヒュトロダエウス!」
ひらひらと手を振りながら親友達を見送って。最後に残ってたアイスのコーンを全て口に放り込むと、ヒュトロダエウスは気分よく改札へ向かった。ここしばらく寂しさで元気がなさそうなアゼムだったが、きっともう大丈夫。親友達が幸せなだけで、ヒュトロダエウスも幸せになれるのだ。
のんびり歩いて徒歩十五分だけれども、エメトセルクに手を引かれて歩けば十分と少しで辿り着く。ラーメン食べたの、などと適当な話をしてればあっという間で、セキュリティを抜けてエレベーターに乗って、自宅の鍵をガチャガチャとあげて玄関に入って。そしてドアが閉まると同時にアゼムはエメトセルクに抱きしめられた。
後ろから抱え込むように抱きしめられて、また靴も脱いで無いのに身動きが取れない。うわわ、と思いながらもアゼムが振り返ろうとしたら肩に顔を埋められ、すうっと吸われているのを感じる。
「えっ、エメトセルクさん……ここ玄関です……」
「そうだな」
「君、出張帰りだしお風呂とか……入る? 洗ってあるから、スイッチ押したらすぐだけど」
「そうだな」
「エメトセルク〜!」
ちゅう、と首筋に吸いつかれる。キスマークそこ見えないかな、と、心配しながらもぞもぞともがいていると、くるりと体を反転される。そのまま近付いてくる顔にキスされる、と目を閉じようとして、そしてアゼムはハッとして手を間に入れた。むに、と指先に唇が触れて、エメトセルクがチッと舌打ちをした。
「どけ」
「まってまって! 今日君帰ってこないと思って、さっきにんにくマシマシのラーメン食べちゃったの!」
「気にしない」
「私が気にする!」
手を掴んでどかそうとしてくるエメトセルクと、エメトセルクの唇を抑えてどうにかキスを防ごうとするアゼム。ただのバカップルじゃないか、ヒュトロダエウスにバレたら大笑いされる、とアゼムが一瞬考えた時、エメトセルクがアゼムの指先を舐めた。
「…………っ!!」
咄嗟に手を引っ込めるのと、エメトセルクの顔が近付いたのはほとんど同時で、アゼムはぐい、と横を向く。ふにり、とアゼムの頬にエメトセルクの唇がぶつかったと思った次の瞬間、かぷり、と噛みつかれた。
「いっ……」
「……風呂に入る。その間歯磨きでもして喰われる準備をしておけ」
はあ、と溜息と共にエメトセルクがアゼムを離す。靴を脱いでネクタイを緩めながら風呂場に向かうエメトセルクを見送り、アゼムはずるずると玄関で崩れ落ちた。
遠くでシャワーの音が聞こえ始める。そこでようやくアゼムは靴を脱いでばたばたと廊下を走り、歯ブラシを手に取る。カバンにブレスケアあったっけ、と必死に考えながら歯磨きをして、どうしよう、と浴室を見る。タイムリミットはあと数分。それまでに少しでも寂しさを誤魔化すためのにんにく臭をどうにかしなくてはならない。
口を濯いでもう一度チューブを絞って練り歯磨きを乗せる。
結局一週間ぶりのキスの香りがどうだったのか、二人のみぞ知るのであった。
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