アヤ
2023-08-29 23:50:44
2277文字
Public レントキ
 

花にたとえて

20230829

※ ワードパレット『花にたとえて』期待 / 笑顔 / 摘む


 出会った頃に比べ、彼――一ノ瀬トキヤは、幾分も素直に笑うようになったと思う。事務所のメンバーに対してはもちろん、初対面のスタッフや共演者など彼を取り巻く他人に対して、営業を伴うアイドルスマイルとは異なる類の笑顔をきちんと見せるようになった。仲間と過ごした短くない年月と、アイドルを通して得た経験たちが、彼をそういう造形に作り替えたのだ。その事実がオレにはいっとうまばゆく尊いことのように思えた。
 現に今も、メイクを担当するスタッフとおだやかに言葉を交わしていた彼の口角が、ゆるい弧をえがくようにふわりと持ち上げられる。鏡を通して彼の飾らぬ笑顔を目の当たりにしたオレは、誰にも気付かれぬようちいさく息を吐いた。
 可愛くて、愛しくて、胸がいっぱいになる。心臓が細い糸でギリギリと締め上げられ、食い込む位置から赤い血が滲むみたい。すっかりイッチーに骨抜きにされているオレの血液ははちみつのようにどろどろと甘ったるく、きっといつか、粘度の高いそれが血管を詰まらせ、オレの命を奪うだろう。――そういうくだらぬ思考が頭の中をすみずみまで満たした。周りのひとびとに胸のうちを悟られることはないだろうけれど、ゆるみきった表情の言い訳を考えることは億劫だなと思う。それでも、他人へ向かうイッチーの笑顔をオレは楽しく見つめ続ける。
……あ、)
 ばちん。音が聞こえそうなほどまっすぐに、鏡を介して彼と視線が交わった。可愛い笑顔は、今度は自身を見つめるオレを訝しむような、それでいてすこしだけ困ったような、そういう表情へと様変わりする。
――かわいい)
 それ以外の言葉なんて忘れてしまったみたいに、先程と寸分違わぬ感想をふたたび抱いた。だって、なんだかもう、たまらない心地になるのだ。ととのった造形が紡ぐ感情の機微は、どれを手にしても、色鮮やかに咲き誇る花のように美しい。
 そっと瞼を伏せ、目が合ったことは偶然であると今更な演出を試みる。――深い意図はない。ちょっとした出来心が頭を擡げたので、素直な心持ちでそれに従ってみようと思っただけだ。あるいは、一種の照れ隠しに近いのかもしれない。意図せず悪戯がバレて、思わず寝たふりをしてしまうような。
 彼はますます訝しむだろうか。グッと眉間にシワを寄せ、可愛い顔をかすかに曇らせて。そのさまを想像するだけでオレの頬はだらしなくゆるんでしまうのだった。他人に指摘される隙を曝してしまうことを否定できない。……いよいよ重症だなと思う。
……レン」
 ひとの気配がした。同時に、愛しい声で名前を呼ばれ、伏せた瞼をふたたび持ち上げる。……メイクを終えたらしい、先程まですこし遠くにいたはずの恋人が想像通りの表情でこちらを見下ろしている。
――イッチー? どうかした?」
 ちいさく首を傾け、努めて明るい声を出した。イッチーがどうしてこちらへ来たのかきちんと気付いているうえで。
……いいえ。あなたが何もないなら、別に良いです」
 嘆息を零すついでのようにそう言って、そのまま彼はオレの隣へ腰を下ろす。
 ――シャイニング事務所の皆さんは、ほんとうに仲良しですね。数え切れぬほど告げられたスタッフたち(しかも、ひとりふたりの話ではない)からの『感想』を、オレは不意に思い出す。今の状況も彼らからすれば『仲良し』の類に分類されるのだろうか。それなりの広さの楽屋で、わざわざ、ふたり掛けのソファにメンバーどうし並んで座ることは。
「別に良い」なんて物分かりの良いことを口にしながら、彼の横顔には不服さを匂わす表情が浮かんでいるのだった。――かわいいな。何度くりかえしたかわからぬ感想を飽きもせずふたたび取り出して、宝物をいつくしむみたいにその表面をそろりとなぞる。指先の皮膚を通して、ひやりと冷たい感触が伝ってくるようだ。情熱を伴う感情とは異なる類の、けれど、それは鉱石のように美しく、オレのなかで確かな存在感を放つ。
 顔を寄せ、イッチーの瞳を横から覗き込んだ。『仲良し』だから距離が近いだけ……周りがそう勝手に思い込むラインをうっかり踏み外さないように気を張りながら。「……何ですか」――ふたたび、不審がるさまを隠す気配もなくイッチーは眉間にしわを寄せてオレの方を見た。意図せず距離が近付き、……ふわり、オレが纏う香水とは異なる甘い香りが鼻腔を淡くくすぐる。――まるで夏に咲く花のよう。オレの心臓を捕らえて離さない、彼自身を形容する美しい造形を思いえがく。
 レン、と。輪郭を辿るみたいにイッチーがオレの名前を呼んだ。視線は変わらず交わったまま、自身の問いに対して返事を寄越さぬ恋人を彼は尚も訝しんでいる。――言いたいことがあるなら、ちゃんと口にしてください。そういうイッチーの胸中がはっきりと伝ってくるようだ。
 他人へ向かう彼の笑顔も大好きだけれど、こうして視界と思考をオレで満たすイッチーを眺めるのは、やはりたまらない気持ちになる。
 ときおり、その延長に色褪せたドライフラワーが浮かぶのだった。日の当たらぬ場所で逆さに吊るされた花は、案外簡単に永遠を冠した枯れぬ存在へと変貌する。そうやって花になぞらえた恋人と、オレに意識を向ける彼の時間をずうっと独り占めできたら良い。……なあんて。互いがアイドルである以上、決して叶わぬ――そうしてそれが今すぐ叶ってしまうことをオレ自身も望んでいないような甘い願いを、瞼を伏せ、胸のうちでひそかに反芻する。