アヤ
2023-06-08 19:09:03
2820文字
Public レントキ
 

夜の海と歌う魔物

第二回レントキワンライ|20230608

※ 『指を絡める』『おあずけ』




 ――夜の海には魔物が棲んでるんだって。
 深い青を見つめるレンは、悪戯を思い付いた子どもみたいに無邪気な笑みを浮かべていた。「マモノ?」――くちびるの先で、トキヤは音のまま彼の言葉をくりかえす。
「そう。美しい歌声に魅了された人間は正気を失って、魔物への恋心を胸に秘めたまま、自ら海の中へ沈んでいくらしいよ」
……いくつかの逸話がまざっていませんか?」
「んー? どうかな」
 話題を振ってきたのはレンの方だと言うのに、彼の返答はふわふわと浮ついていた。果たして、この会話にはどれほどきちんとした意味が付随するのだろう。ゼロとヒャク、どちらの可能性も有り得そうだと思いながら、トキヤは月明かりに照らされるレンの横顔を見る。


 夜の海と歌う魔物


 寄せては返す白い波の曖昧な輪郭を辿るように、数歩先を行くレンは静かに歩き続けている。「何処へ向かっているんですか」ありきたりな質問にも彼は曖昧に微笑むだけで、トキヤの望むような答えは終ぞ与えてくれなかった。……最初から期待もしていなかったけれど。
 雑誌の撮影で訪れたリゾート地、滞在先のホテルから彼はトキヤを連れ出した。夜も更け、そろそろ眠りにつこうという時分だったので、トキヤは断るつもりでいたのだけれど、……彼があまりにも寂しそうな顔をするから、珍しく絆されることにしたのだった。――今はすこしだけ、その決断を後悔している。
 レン、と。彼の名前を潮風にのせた。返事をする代わりに、レンは視線だけをこちらへ寄越す。
……せめて、目的を教えてください」
 トキヤの言葉に、レンはようやく立ち止まる。すこしの間なにかを考える素振りを見せた彼は、掬い上げるようにトキヤの顔を覗き込んだ。
「せっかくだし、イッチーと夜の海を堪能しようと思って」
 そう言って、花がひらくような美しい笑みを浮かべるのだった。嘘を吐いているようには見えないが、それだけが理由だとももちろん思えない。どう返事をすべきか惑うトキヤをよそに、彼はふたたび波打ち際の散歩を再開する。――彼の骨ばった指が、トキヤのものを優しく絡めとった。手を繋ぐひとつ手前のような仕草を、不意をつかれたトキヤは仕方なく受け入れる。
 会話はなく、波の音だけがふたりを包む。レンに引かれるように歩くトキヤは、彼の『散歩』に明確な目的地があるわけではないとようやく気付いたのだった。
 ホテルの影が遠のき、視界には夜の空と海だけが存在する。――不意に立ち止まったレンは「ここにしよう」と言う。そうして青白い砂の上に腰を下ろした。
 月の光をはじくレンの横顔を、トキヤは静かに見つめていた。視線に気付いているのか、ふふ、とくちびるの端を持ち上げた彼は「そういえば」と口をひらく。
――夜の海には魔物が棲んでるんだって」
……マモノ?」
「そう。美しい歌声に魅了された人間は正気を失って、魔物への恋心を胸に秘めたまま、自ら海の中へ沈んでいくらしいよ」
……いくつかの逸話がまざっていませんか?」
「んー? どうかな」
 ふわふわ、浮ついた返事をする彼は何処となく機嫌が良さそうである。『散歩』と称したこの時間をすっかり気に入っているような。――彼の考えていることは、ときおり良くわからない。なにが楽しくて、なにが彼の琴線に触れて、……なぜ、トキヤの隣に在ろうとするのか。「……イッチーはさ」まっすぐ前を見つめたまま、彼の美しいくちびるが思うがまま動かされる。「――オレと、キスがしたいだろ」
……は?」
「よく、そういう顔をしてるから」
 歌うように言葉を紡いだレンは、足の先で波の縁をそろりとなぞった。――突然何を言い出すのだろうか、このおとこは。脳裏に浮かぶ抗議の文言たちを、けれどトキヤは、自身のくちびるに乗せることができなかった。不意打ちをつかれたせいで、上手く身体が動かせないみたい。海から視線を外したレンは、首を動かしトキヤの方へ顔を向ける。そのまま三角座りをする膝の上にこてんと頬をくっつけた。そういう一連の行動が視界の中心に映り込んでいる。
「オレはしたいよ。イッチーと」
 真夏の真ん中、こんな時間でも辺りの空気はなまぬるい温度を保っており、レンの健康的な小麦色の肌にもじんわりと汗が滲んでいた。……とうとつに、健全ではない何かを見せつけられているような心地がして、心臓がギシリと嫌な音を立てる。
 夏の海を溶かしたレンの瞳がまっすぐにこちらを見つめ続ける。目をそらすことさえままならず、美しい二粒の宝石をじいっと眺めざるをえない状況に追い込まれていた。大変不本意ながら。
 どれだけの時間そうしていたのだろう。潮の香りを纏う風がヒュオと短く吹き、視線を繋げる糸がぷつりと切れる。これ幸いと言わんばかりに、不自然な沈黙なんて存在していなかったふうを装うトキヤは、視線をずらし「……そうですか」と努めて『曖昧な笑顔』を浮かべた。
「あ、ずるい」
 オレはちゃんと白状したのに。
 案の定、レンは不服そうで、眉間にくっきりと太いシワが刻まれている。そういう彼の胸中にはあえて気付かない振りをした。
……言葉にすれば良いというものでもないでしょう」
「今更じゃない? ここまできたら」
 拗ねた子どものように、彼はわざとらしくくちびるをとがらせる素振りを見せる。
 ――綱渡りのような危うい関係を続けている自覚があった。手を繋ぐとか、身体に触れるとか、キスをするとか、セックスをするとか……そういう行為が許されるか否かの境界線を彷徨い、結果としてトキヤは踏みとどまることを選んでいる。……だって、それを超えたら、二度と離れられなくなってしまう。
 今はまだ、同じ事務所に属する気の置けない同期という枠組みに納められているから。ただトキヤが、互いの内側にくすぶる熱に気付かない振りをするだけで良いし、友人としての正しい距離を自身に説き続ければ良い。
……歌」
 顔を上げ、ふたたび海の方へ視線を戻したレンは、ぽつりと独りごつように言葉を落とした。今日の彼は一段と子どもじみた行動をする。脈絡のない文言に、トキヤはちいさく首をかたむけた。歌が、なに?
……魔物の歌声で、イッチーが正気を失えば良いと思っていたんだけど」
……はあ」
「まだ、おあずけかあ」
……おかしな言い方をしないでもらえますか」
 くしゃりと表情をゆがませたトキヤに対し、レンはくすくすと笑ってみせる。どうやら、すっかり機嫌は戻ったらしい。
 砂の上についた指に、ふたたびレンのものが絡められた。約束事をするみたいに、小指だけそうっと。そこから伝う彼の温度はトキヤのものと変わらない。視線をずらし、彫刻のように美しい横顔を眺めながら、――トキヤは、『魔物の歌声』に絆されるいつかを夢見ている。