ユコ
2024-06-05 04:40:40
5738文字
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アン・マタン・ドラージュ

お題:ギャップ 
教授のピュアさに陥落しそうになるのを必死にとどまっているアベンチュリンの話


「臭い」
「低俗」
「品性がない」

 いつも僕と会うたびに教授はこれ以上にないほど眉と眉の間に深い渓谷を刻み、その秀麗な顔を歪ませる。
 生憎と、常にゴミ屑を見るような視線と共に生きてきたような人生だったので、そんな視線で見られたって僕の心はちっとも動じないわけだが、僕の瞳や経歴でそんな顔をするのではなく、僕が身に着けるものでこんな顔をするのは教授が初めてだった。
 香水だ。
 自慢ではないが、僕の香水コレクションはこの銀河の中でも有数のコレクターと言える自負がある。仕事でさまざまな惑星を渡り歩く旅に、その惑星で有名なブランドの香水を買い歩いてきた。
 何故って? 
 香りとは、その人の印象を決める重要な要素であり、場を酔わせる因子ファクターの一つだからだ。右手にはめる指輪ひとつとってもギャンブラーにとっては視線誘導を兼ねるし、身に纏うもの全てがギャンブラーにとっては『策略』だ。
 人間は視覚情報だけでなく、五感で情報を集める。僕が軽薄で浮ついた人間であることを印象付けるのに、香りは手取り早い情報だ。それに、いくらつま先から頭まで着飾って身なりだけを美しくしたって、溝の香りがするものを人は手に入れたいなんて思わない。
 だから、僕は衣服や持ち物以上に、身に纏う香りにだって拘ってきた。
 そんな僕の美学の一つでもある香りを、教授は出会った時から彼の豊かな語彙力を持って否定してきた。
 曰く、人体から鼻腔がなくなればいいと思ったのは生まれて初めてだ、だの。
 曰く、香りとは人の品性を決定づける重要な要因ファクターであることを初めて知ったよ、だの。
 遠回しにありとあらゆる表現を使って、僕が身に着ける香りを嫌悪してくる。
 最近は語彙を凝らすのも面倒になったのか端的に臭い、低俗、という短い言葉でまとめるようになったが。
 そんなふうに仕事で会う度に、彼はボロクソに僕の香水について評価するわけだが、教授が教授たる所以は自分が嫌いな香りですら分析しようとする頭脳にある。

「クローブ。サンダルウッド。カルダモン。南国の夜の街の匂いのようなだな。臭い」
「ローズ。ラズベリー。バニラ。娼婦のような香りだな、下品極まりない」
「オレンジ。ホワイトムスク。ベルガモット。都会の朝のような喧騒を感じる。煩わしい」
「アイリス。ジャスミン。スズラン。自分を可憐な少女とでも思っているのか。胡散臭い。0点」

 このように、匂いの成分を彼は正しく分析する。悪口と共に。
 僕にとってはただの花の香りでしかなかったものを、こんなにも語彙豊かに表現できるものなのか。こうなってくると、彼の毒舌ともに浴びる豊かな知識が楽しくなってくる。
 最早、ただのゲームだ。
 僕は香水を選ぶ。
 教授がその香水は何の香りかを当てる。
 最近は彼と会うたびに最初に行われるこの香水当てが僕にとってはわくわくするものに変わり、スケジュールに教授との予定が入っているのを見ると、どんな香りを身につけるようかと出かける前に、一考を重ねてしまうようになった。



          *



 だから、今日も今日とてその香水当てゲームの延長戦上のつもりだった。
 彼がお気に召す香りがついにくるかもしれないし、彼の興味が注ぐものではなければ無視をされる、その程度の軽いゲーム。
 あのピノコニーで成果を出した一件以来、教授と僕の相性は良いと博識学会とカンパニー共通の見解が揃ったのか、僕の仕事に彼の名前が出てくることは多い。今日も次の仕事の打ち合わせのために彼の研究室に足を運んでいた。
 来週、ピアポイントで会談があること。
 そこに訪れるクライアントの一人が博識学会が提唱する新エネルギーに対して興味を持っている旨。
 などなど、次の仕事の背景を、研究室の机に向かう彼の背中に一方的に話すこと数十分。彼の頭脳ならこんなことを説明しなくたって十分察することができるわけだが、君の研究の費用を捻出するためには重要な会談である、ということだけは念押ししておかないとすっぽかされそうなくだらない事案だったため、念のための訪問だ。

「仔細は技術開発部がまとめてくれた資料があるから置いていくよ。貴重な時間を邪魔したね」

 僕が腰を上げたタイミングで、ようやく彼が振り返る。とっとと僕を追い出したい、というのが丸見えだ。

「次からはこの程度の話ならチャットで済ませてくれ」
「だって君、くだらない仕事のチャットは見ないだろ。トパーズからのくだらないシェア記事は読む時間はあるのに」
「あれは実に有用な記事だったし、優秀な彼女の気苦労には同情する」
「目の前で僕の悪口言うのやめてくれないかな」

 さっきまでの退屈なビジネスの話よりもぽんぽんと会話が進む、他の人間にはない心地よい会話のテンポに苦笑しながら僕は鞄を持って扉へと向かう。
 レイシオの研究室は、セキュリティも厳重で出る時も彼のセキュリティーカードがないと扉が開かない仕組みだ。いつものように僕を追い出すためにカードをセキュリティにかざそうとした彼の手が止まった。

……ん?」

 すん、と彼の美しい鼻梁が動く。
 どうかしたのか、と問う隙もなかった。
 彼の端正な顔が僕の顔面にどんどんと近づいてくる。
 まるで、鼻と鼻がぶつかりそうな距離だ。

……レーイシオ?」

 近い。
 流石に、ものすごく距離が近い。
 僕たちは確かに友人のように親しげにフランクに接するけれど、ただのビジネスパートナーで、そもそも友人でもこの距離感はおかしい。
 その意味を込めて彼の名前を読んでみるが、自身を凡人と言って憚らない秀才は、目の前の謎を解き明かすことに夢中らしい。

……雨上がりの庭のような香りがするな」

 その一言に、ようやく彼のこの奇妙な言動が、自分の香水の香りを嗅ぐためらしいと気づいた。
 どうやら、彼はこのくだらないゲームの存在を忘れていなかったらしい。
 くん、とまた小さく鼻を吸ってレイシオは口を開く。

「土と花の……、これはクチナシの花か?」
「花の名前まで僕は覚えちゃいないよ。どこの惑星で買ったんだったかな、確か、そうだ。これは調香師が幼い頃に住んでいた庭の香りを再現したとか……
「ああ、あの水の惑星か。雨季が一年を通じて多い惑星だ。あの星は静かでいい」

 そう言いながら、彼の鼻先が僕の頬を掠める。
 すう、と僕の耳元で深呼吸をするように彼が深く息を吸った。同時に、彼の体から混ざり毛のない石鹸のシャボンのような香りが漂う。僕が纏うような偽物の花の香りじゃない、シンプルで清潔な香り。お風呂上がりなのかな。いや、彼の体臭に心地よさを覚えている場合ではなく。僕はやんわりと彼の逞しい胸元に手を置く。これ以上は近づくなという意思表示だ。

「僕は雨が多いところは好きじゃないけどね……、ねえ、レイシオ」

 頬から、首筋に。
 僕が引こうとする境界線も無視して、彼は僕の首筋に鼻を埋めた。彼の吐息が僕の項をくすぐって、こそばゆい。ぞわぞわ、と僕の背筋が寒気に近いものが走って、震えた。どくどくと、心臓がうるさい。体が、熱い。
 ちっ、と僕は舌を打つ。どんな大舞台のギャンブルだって、自分の震えを他人に悟られるなんて無様なことはしてきていない。この程度のことで簡単に彼の腕の中で動揺を露わにするなんて、一体、自分の体は何をしているんだ?
 僕の混乱も他所に、レイシオはぼそぼそと僕の耳元で呟きを止めない。探求心旺盛な学者様はまるで周りが見えていないようだ。

……なるほど。雨上がりの際は地中のバクテリアが活性化し、空気中にも水分が含まれる分、独特の匂いが生まれる。この香水は普通の花の香りではなく、その瞬間を再現しているのか。激しい雷雨の後のような瑞々しさを感じる。惑星の気候が香水という文化にも影響されるのならなかなか興味深いな。あそこの惑星にクチナシの花は珍しかったように思うが……
「レイシオ!」
「なんだ」

 後ろは壁。前は逞しい胸筋。ついでに顔の側には鍛え上げた二の腕がある。いわゆる壁ドンってやつだ。星核ちゃんの友達の女の子が目を輝かせてプレゼンをしてくれた漫画に出てくるようなシチュエーション。
 気づいたら、僕に逃げ場はなかった。 
 体格差が恨めしい。僕は自分の頭上にある男の端正な顔をじとりと睨みあげる。

……あのさ。さすがに近くないかな、僕たちの距離」

 僕の指摘にようやく高尚で変人な学者様はこの違和感に気づいたらしい。目が覚めたようで何よりだ。

「ああ。君の体臭と混ざって香りがうまく嗅ぎ取れなかったからな。苦しかったのならすまない」
「いや、そういう問題でもないけれど」

 体臭。
 そんなものまで嗅ぎ取ろうとしていたのか、と僕は思わず冷えた目でビジネスパートナーを見つめた。
 対人関係においてこの距離の違和感に気づかないのなら、この男、僕以上に友達がいないのでは? なんて失礼なことを思いながら、僕は冷静になって彼の体を押し退けて彼との距離をとった。
 つとめて、冷静に。
 僕は、動揺なんてしていない。
 まったく、ちっとも。
 こんな程度のことで動揺するなんて、ギャンブラーの風上にも置けない。にこりといつもの微笑みを作って、僕は彼に言った。

「今まで僕が身につける香りを、臭いだの品性がないだの散々な言葉で罵倒していた君は、一体どこにいったんだい?」
「悪いものは悪いというが、良いものを良いと認める柔軟性はあるつもりだが? 最近は君と会うときは基本、呼吸の頻度を減らしているから、今日はこの香りに気付くのが遅れたんだ」
「君、器用だな」

 学者様は呼吸の頻度も自由自在に変えられるらしい。
 ようやくまともな距離感を持ってくれたビジネスパートナーは、僕を暫し見つめて、ふむ、と考えるように手を顎に添えた。

「しかし、意外だな」
「何が」
「こういう素直で自然的な香りが、君からするのは悪くない」

 何を言っているんだ、この男。
 僕は思わず目を瞬かせる。 
 けれどこれは夢想ではなく、現実だ。
 瞬いたところで彼の姿は僕の前から消えやしない。

「今までの作り物と違って、これは君に似合う」

 まるで花が綻ぶように。
 僕の前で深い渓谷しか刻んでこなかった眉間が和らぎ、彼の薄い唇がまろやかな曲線を描いた。
 僕が長い時間と人生をかけて取り繕ってきた、見せかけの策略も何もかもを無視をして、この男は平気で僕の真理を突く。
 ゲームに勝ち負けはつきものだ。
 だから、このくだらない香水当てゲームにだって、勝敗はある。 
 ──もう、限界だった。

 僕は足元の鞄から、技術開発部から預かっていた書類を取り出し、レイシオの胸元に突きつけた。彼の首元にかけられているセキュリティーカードを奪い、研究室の扉を開ける。

「そろそろ僕は次のアポイントメントがある。詳細はまたチャットで連絡するよ。時間があるときに目を通せるようなら、目を通してくれ」
「おい。僕はまだ引き受けるとは言っていないぞ」
「博識学会経由で役員決議もされた話だから、この件に君に拒否権はないよ。じゃあね、教授」

 慌ただしく一方的に捲し立て、僕は彼の研究室から飛び出すように去った。
 レイシオの研究室から派手な身なりの男が現れたことに、通りがかりの研究生がぎょっとした目を遠巻きに向けてくるが、僕はその視線を無視してずるすると廊下の端に座り込んだ。ぼそりと誰にも聞こえないようにぼやく。

……天然って怖」



         *



 まぁそんな取るに足らない一件で、ベリタス・レイシオという男に狂気気味のファンがついてしまう原因の一端を味わったり、彼がいかに無自覚に罪作りな男であるかを知ったわけだが。

「あれ?」

 いつのように戦略投資部の幹部室に戻り席に着くと、近くにいたトパーズが首を傾げた。

「どうしたんだい、トパーズ。僕の魅力にようやく気づいた?」

 僕の軽口に迷うことなくトパーズは端末を手にする。

「もしもし? スターピースカンパニー人事部はこちらですか? 最近、同僚からのセクハラに困っているので面談の場を設けて頂きたいんですけど……
「悪かったよ、トパーズ。冗談だって」
「はいはい。冗談でも趣味が悪いよ。最近、その香水お気に入りなの?」
「え?」
「いつもころころ香りを変える君が、先週も同じ香り付けてた気がして。ねー、カブ?」

 カブもこの香り好きなの? なんていつものように次元プーマンを彼女は腕にぎゅっと抱きしめる。私もその香り結構好きよ、と彼女らしく爽やかに誉めてデスクを去っていく彼女を見送ってから、僕は思わずデスクに顔を伏せた。

 ──これは君に似合う。
 
 この間告げられた、レイシオのその台詞が鮮やかに脳裏に蘇る。
 それ以来、気づけばこの香水を朝に選んでいるとか。
 外せない勝負事がある日に、弦を担ぐようにこの香りを選んでいるとか。
 無意識だった自分の行動がとどめのように僕にのしかかってくる。

……いや、別に浮かれてないし」

 負け惜しみのように、ぼそりとデスクにぼやいた。
 身につけるものは全てが計略。
 それが策略が蠢く賭け事の世界で生きていくことの秘訣だ。そこに僕の好みも意志もいらない。相手が見たいと思う見せかけの自分がいれば良い。
 だから君に似合うな、なんて無垢な一言で心が動いたりなんかしない。しないけれど。

……この香水、追加でもう一つ買っておこうかな」 

 もちろんビジネスパートナーと有効な関係を築くためのものなので、経費で。
 そう言い聞かせて、僕は端末を開く。嵐のように僕の心を揺さぶった男が気に入った香水を、賢い同僚にばれないうちにそっと指先で画面の中の籠に忍ばせるのだった。






アン・マタン・ドラージュ(嵐の後の朝の香り)