妖魔などに感情があるのかどうかなど、どうでもいいし関係もないが、菊司を見下ろした
トウロウはたしかにどことなく、嬉しそうだった。
思えばその妖魔は菊司の前のバディである籠目瑞雪を折った張本人だと気付いたのは、つい先ほどだった。
モニターに映し出されたトウロウの逆三角形の頭に、かつて菊司がつけた疵がある。ガタン、と椅子を蹴り、身を乗り出してモニターを凝視する。
劫罰狐は不思議そうに菊司を見上げた。
「アハ、へえ。生きてたんだ。こいつ」
「あるじ?」
「ごう、きみどうする? 俺の復讐、付き合ってくれる?」
「ふくしゅう」
劫罰狐が生まれたいきさつを、菊司は知っている。だからこそ、たかだか三十年ほどしか生きていない人間の、命がけの復讐に付き合う義理もないのだ。劫罰狐には。
「どっちでもいいよ。きみが行かなくたって、それなりに致命傷を負わせられるから」
「
……。あるじがいくなら、おれもいこう」
「そう。分かった。じゃ、行こうか。こいつは俺が殺す」
短刀、劫罰狐を刀掛けから取り上げ、鞘を手で握りしめる。
――妖魔は、狩り殺さなければならない。
今の菊司の原動力はそれだけで十分だった。
現場は天照本部の近く、それでも木々が多い場所だった。地面は土であったり、コンクリートであったり、砂利であったりした。周囲は乾燥しているため土ぼこりが舞っている。
多くの刀遣いは門から這い出てきた妖魔の討伐にあたっている。凪鞘班や下緒院も出ているところを見ると、かなり大規模な現場のようだ。
眼鏡のヘッドを押し上げて、劫罰狐を抜く。
ぎらりとまるで
――死神が持つ鎌のような「それ」が土煙の中で光る。
「そっちから来てくれるなんて、探す手間が省けちゃったな」
劫罰狐の妖刀は短刀だ。長時間の防御には向かない。じゅうぶんくらいに分かっている。
――短時間で、片をつける。
ただ、菊司の段位。弐段の中、か、下。それにはたして見合うのか。
戦ってみなければ分からない。
籠目瑞雪が折れた当時は肆段だった。複数のトウロウの相手としては、その一振りで首が飛びかねない状況だった。周りに高段位の鯉朽隊がいなければその時に菊司は籠目瑞雪もろとも死んでいただろう。
「お前、覚えてるの。俺のこと。俺の、バディのこと。それともそれ以上にお前、人も刀神も食ってきたのかな」
トウロウはその濁ったような眼球を、菊司に向けていた。そう
――笑んでいたのかもしれなかった。
まるで会話を待っているかのように、じわじわとトウロウの異様に細く曲がった脚が菊司に近寄ってくる。
「ごう、きみは近寄るなよ。それか妖刀の中にいな」
劫罰狐の左右違う目が頷くように揺れた。その後、劫罰狐は姿を消す。それでいい、と菊司は目を伏せた。
ちかり、と人間の首などいとも容易く切断できるほどの刃が、目の前で輝いた。土ぼこりの中であろうとなかろうと、関係ない。
菊司は左手で劫罰狐を握りこんで刃を弾く。火花がかすかに、鈍く散った。
そのまま足を踏み入れて波立たせている腹に右手に持ち替え、ジャックナイフを振りかぶるように突き立てる。
血のような液体が菊司の白衣を汚した。
「それでもお前が生きていてくれてよかったよ。俺の手で殺せるんだから。
……お前にとっては取るに足らない存在なんだろ、人間も、刀神も。お前らは生きるために殺さない。なんのためにお前らは殺すんだ。俺たちを。なあ、教えろよ。教えてみせろよ」
短刀を引く抜くと、トウロウは威嚇するように翅を鳴らせた。半透明の、見るからに蟷螂
――、昆虫らしい翅だ。
「教えられないよなぁ! だから無意味なんだよ、お前らはさぁ」
頭に血が上っていると思う。自覚している。
でも、それでも、忘れられないのだ。気高いあの刀神のことを。
幼馴染みの命、籠目瑞雪の命。
天秤にかけたあの日のことを。
どちらとも失った後悔を、痛みを、菊司は一生忘れない。一生、自分を許さない。
それでいい、そのための命だ、と菊司は考える。
――定之は、
彼は「忘れなくていい」と、言ってくれた。
忘れなくていいのなら、忘れない。思い出も、記憶も、後悔も、その在り方もすべて。
忘れないだけの力と強さはあると自負している。怒りも憎しみもすべて抱えて、背負って生きていくと。重い、軽いなどと言っていられない。重さなど関係ない。どうでもいい。この地球上に重力があるかぎり、重たさはあるのだから。それが架空のものであろうと、実物があるものであろうと。
菊司のほお、肩からかすった程度の傷があり、血がにじむ。
息が荒い。
汗で劫罰狐を握る手が滑る。
すん、と土のにおいを嗅ぐ。ほこりっぽいような、乾いたにおいだった。
トウロウは弄ぶように、菊司とぎりぎりの打ち合いをしていた。まるで知能があるかのようなそれに、菊司の眉間に皺が寄る。
劫罰狐はおとなしい。
この場では異能もさほど機能しない。土ぼこりの中では、影ができにくいからだ。
眼鏡の隙間から土が目に入る。じわりと視界が滲む。眼球が痛んでいることに気付いた。
頬に、血液とは違うなまあたたかい液体が流れる。眼球を傷つけたことによる涙だと知った。
ジャリ、と湿り気のあるような、乾いた砂利を粉々に踏み潰すような音が聞こえ、首をすこし動かす。
「
……!」
そこに、籠目瑞雪がいた。あごまでの、細くてまっすぐな黒髪。白い、死に装束のような着物。
「な」
目玉が無様に、一瞬震える。
「か
……」
赤く染まったくちびるがゆるんだ。
まるで「生きているような」、雪のような笑みだった。
「かごめ、」
喉から絞り上げられるような声を吐きだした直後、左膝に不気味な痛みが走った。
その痛みで脳が悲鳴を上げ、無理やり籠目瑞雪から視線を外す。
目の前に迫っていたのは、逆三角形の顔。
これを待っていたのか。このトウロウは。
「う、
……ぐ」
それでも死んではいない。まだ生きている。体を動かすための脳も、腕も、首もまだ繋がっている。
汗が不思議と引いた手で、劫罰狐をきつく握りしめた。
「
……お前らってやつは、本当に
……ゴミだよ」
膝に埋め込まれているトウロウの刃。それをありったけの筋肉で固定する。生暖かい血液がばしゃりと砂利を波打たせた。
菊司の、血走った目がトウロウの目玉に鏡のように映る。
「俺の左足はくれてやるよ。代わりにお前の命をもらう。お前に奪われたものの復讐だ。当たり前だよな?」
動けなくなったトウロウの霊核に、劫罰狐を突き立てた。
血に似た液体が菊司の血液と混じり合い、奇妙な色に変化する。それを見ている隙もなかった。籠目瑞雪のしなやかな白い腕が菊司の首に回ったからだ。
喉仏に親指を押し込められて、乾いた声を口から吐き出した。
「
……ッ、ぉっ、まえ、」
左足は使い物にならない。片足では立っていられずに、砂利の地面に背中を打ちつける。
どくどくと脈打つごとに血液が溢れ、痛みが増していく。籠目瑞雪の白いかんばせは歪み、菊司の感情が暴発するような呻き声をあげた。
「お前
……ッ! お前、お前お前
……!」
彼女がサルカゲだということなど、とっくに知っていた。
血を吐くような
主の激情に、劫罰狐が感化したように唸り声をあげた、気がした。
怒りと、いつもは持たない強烈な握力のせいか、右手の血管が切れるようないやな音がするが無視をした。そのまま手の中で劫罰狐をひるがえして籠目瑞雪の胸に刃を思い切り、突く。
ぐんにゃりと彼女の体が曲がり、サルカゲの本体があらわになる。霊核を破壊された妖魔は、黒い靄を残して消えていった。
――呼吸が一気に苦しくなる。
劫罰狐をぐらぐらとする手で、慎重に鞘に収め、ぼんやりと土ぼこりが収まりつつある周りを倒れたまま見上げる。
白く輝く毛並みの狐が、一声、鳴いた。
遠吠えのようなそれはまるで誰かを呼んでいるかのようだった。
「ごう
……」
ぬるりとした毛並みの狐は、長い首をさげて菊司の左腿に鼻を近づける。そんなことをしても血液は止まらない。分かっている。まるで案じているようなしぐさに、菊司は意識を無理やり保たせていた。
体を動かすたびに血が吹き出る。荒い呼吸をしながら、脱げかかった白衣を腿に巻いて思い切り締めつけた。ぐ、と歯の隙間から悲鳴が漏れる。
「ごう。
……いい、俺はべつに死にたくも妖魔なんかに殺されたくもない。この門もじき閉じる。それ、まで、俺の意識、なくなりそう、だったら、腕でもどこでも噛んでくれよ」
長い言葉がうまく話せない。それでも劫罰狐は理解したようだった。
「は、はは
……。仇、とったぜ。
……かごめ」
ぼそりと誰にも聞こえないくらいの声で呟く。意識がぐらつくが、必死につなぎ止める。
まだ、やりたいことは数え切れないのだ。
灰の義手の調整も、定之の眼帯の調整もしていない。完成していないものを遺すことなど、峰柄衆の恥だ。
肺がひたすら酸素を求める。口に入るのは煙たい土の名残だった。それでも、その土のにおいも味も、透明になっていく。
――敵討夕大に、大それたことを言えなくなってしまうと、自嘲した。
生きることに必要だったといえば「仕方ねぇな」と言ってくれるだろうか。
やらなければ、やられる。
妖魔との戦いはそういったものだ。妖魔より先に死ななければ勝ちだ。勝ったなら、そのぶん生き続けなければいけない。
それが生き残った刀遣いの義務だ。すくなくとも、菊司はそう考えている。
聴覚が狂ってきたのか、耳鳴りがひどい。血管が蠢く音だけがすぐ近くで聞こえてくる。
視界がぶれる。
腕にやわらかな痛みを感じた。劫罰狐が熱心に噛んでいるようだった。もう首さえも動かない。
誰かの話し声が聞こえる。けれどどこの誰なのか分からない。土ぼこりはすでに去っているが、眼鏡が地面に打ちつけたせいで弾かれたせいで、視界も機能していない。
痛みがとうとう茫漠とし始めたころ、菊司の瞼が閉じた。
短いような、長いような夢を見た気がする。
海辺。
夜の、暗い海だ。
オレンジ色の髪の毛がかすかに揺れている。
眼帯をした左目は見えない。
――定之くん。
きっと俺は、これまで以上には戦えない。復讐なんていうものを望んでしまったせいかな。
復讐が正しいとか正しくないとか、そんなことはもういいんだ。
そんなことを言えるのはきっと、討ち果たしたから。
けどまあ、心配しないで。俺は片足持っていかれたくらいじゃ折れない。死ぬまで折れてたまるか、くらいは思っているよ。
定之くんの左目が見えないならそれ以上の仕事をするって、俺はこっそり思ってた。もちろん今でも思っているけど。
ハンデをプラスにしちまえるくらいの仕事を。
だから俺の足もそうだよ。切り落とされてよかったって思えるくらいの義肢をつくる。それが今の俺の夢。
まあ、その前に色々しなけりゃいけないこと、あるんだけど
――。
彼と、海を見たときのことを覚えている。
砂浜を踏みしめる不安定な力の入りかたをする足の感覚も。
藻や、流れ着いた流木も。
そんな、暗い海の夢だった。
「ちくしょう。これが、人間の底力ってやつだ」
そう自分に言い聞かせるように、菊司はその後数ヶ月、リハビリに没頭した。
いついかなるときも、鬼気迫るような表情で。
「俺は天才なんかじゃないって誰よりも、俺自身が一番知ってんだ。よく言うだろ。〝天才とは努力する凡人である〟って。それでも俺はそこまでいってない。その足先さえいけていない」
まだ足りない。
どんな努力もどんな経験値も、天才の前ではいとも容易く踏み潰される。
なら徹底的に〝努力の天才〟とやらになってやろうじゃないか。
菊司は自らを「天才」と称することで、なにに対しても好奇心を忘れずにいた。清陵院菊司が生まれ持ったものに、好奇心しかなかったからだ。名前すら、最初からついたものではなかった。
何者でもない、ということが、菊司を菊司たらしめるのだ。
だからこそ今までもこれからも、何者かになることを怖れた。自分が自分でなくなるような気がしたからだ。
病院の白い味気ない布団が、左の膝から下の部分を凹ませている。
「ざまぁみろ。俺は生きてる」
笑いながら吐き捨てる。
土ぼこりの中とどめを刺した、顔に疵のあるトウロウに向かって。
生きていればどうとでもなる。
死ぬことも、生きていなければできないことだ。
生にしがみついて、せいぜい足掻いてみせるさ、と笑った。
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