mishiadd
2024-06-03 17:43:46
8924文字
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最果てを駆ける

【盈月狂想録web版でのスケブ企画で頂戴したリクエスト】利害の一致で肉体関係のある柳伊。性行為にトラウマがあるけど自分の欲しいものと引き換えにする伊織殿とその親友のセイバー。

全部めちゃめちゃにぶっ壊して、ぜんぶどうでもよくなって、それでふたりで逃げちゃおっか、って。

――そんな、泣きたくなるような幸せな夢を見た気がした。







とんでもない強欲があったものだと、セイバーは感嘆する。

珍しく伊織がセイバーに買い出しを頼んだものだった。常ならば見回りがてら共に町を散策するか、そうでなくとも仮にも英霊を顎で使うのは忍びないと思うのか目を離していたずらに騒ぎでも起こされたらたまったものではないと思うのか、よほどのことがなければ伊織はそうそう好き好んでセイバーをひとりで遣いにやる性質ではない。
あってもなくても困らないような日用品の名をいくつかと、「これで気に入った団子でも買うように」と駄賃代わりに銭を多めに渡され――セイバー自身は喜んで受け取ったが、よくよく考えてみればとんだ不遜である――機嫌よく方々の屋台を見回りながら目的の万屋まで行き、言いつけられたものを購入して長屋に戻ってきたときだった。

きっちりと閉め切られた長屋の戸から、くぐもった声が漏れ聞こえている。

「うん?」と当初は首を傾げ、構わず戸に手をかけようとする。その瞬間、更に漏れ聞こえてきた声で、セイバーの動きがぴたりと止まる。
安普請の長屋の中で押し殺そうとした声は艶っぽく濡れており、今のような昼下がりの時分に耳にするには少々不適切ともいえる響きだった。問題は、その声音がどう聞いても宮本伊織のものだったことである。

――あ、……はっ」

元々セイバーは伊織の落ち着いた優しい声音が好きだったが、これはまたひどく耳に毒だった。あの清廉な声がこうも色っぽく湿るのかと素直に感心してしまう。――いやいや、感心している場合ではない。
今長屋の中を覗くべきでは当然ないし、ましてや中に入るなどもってのほかだ。どうしたものかと周囲をきょろきょろ見渡し、はたと手に持った日用品に目を落とす。あってもなくても困らないような日用品――人払いされていたのだ、と思い至る。

「してやられた」、という思いからか、「人を遠ざけておいてやることがこれか」、という思いからか、「おぼこい顔をしてなかなかやるではないか」、という思いからか、セイバーの可憐な顔の口許が笑みのかたちに歪む。ともあれ今セイバーにできることは知らぬふりをして町をもう一周してくることくらいである。お互い、馬に蹴られるような真似は避けるべきだ。

「イオリー、私は去るからなー。……これで貸しひとつ、あとで甘味でも買ってもらうからな」

聞こえないとわかっている小さな声でそう嘯いて、日用品を抱え直してセイバーがその場を立ち去る。たっぷり二刻ほど時間を潰して、ようやく長屋に戻る頃には日も傾き始めていた。

戸の前で今度こそあの嬌声が漏れ聞こえてこないことを確認し、セイバーが戸を開く。何食わぬ顔をした伊織が炊事場の前に立っており、米の準備をしているところだった。

「セイバー。遅かったな、万屋でなにかあったか」
……まあなー?」

「よく言う」という思いを含み笑いと共に漏らし、セイバーがはぐらかす。日用品を畳の上に置き、伊織の周囲をうろちょろしたり畳の上で伸びをしたりして膳が出てくるまでの時間を潰し、いざ夕餉を食べ始めたときに満を持して切り出した。

――で? どこの媛だ?」
「うん?」

にやにやと可憐な顔立ちに不釣り合いな笑みを浮かべて、セイバーが肘で伊織を突く仕草をする。

「とぼけるではないか。きみ、わざわざ私を追い出して媛を連れ込んでいたろう?
あのように面倒な真似をしなくとも、正直に言ってくれれば私とて気を利かせたものを」
……ああ――

思い至り、伊織が頷く。うんうん、と訳知り顔で腕組をし、セイバーも頷いた。

「いやいや、きみもなかなかやるではないか。あれだけ何人もの媛になびかれていながらきみときたら気付いている様子もなかったので私は心配していたのだぞ。
そうしたらどうだ、まったくきみも隅に置けない――
「あれは媛ではない。――宗矩殿だ」

「んあ、」と間抜けな声を出してセイバーが黙る。伊織が米をひとくち口に運び、もくもくとよく噛む。それをこくんと飲み込むまでを、セイバーが絶句して見ていた。
続いてもうひとくち米を口に運ぼうとするのを、「待て待て待てーい」とセイバーが止めた。

「なにをしれっと当たり前に食い進めとるかきみは。――ヤギュウ!? 何がどうなっている!?」
「言葉の通りだ。――なんのことはない。ただの取引だ」

焼き魚の身を箸の先でほぐしながら、伊織が言った。

「技をひとつ教えてほしいと乞うたら、対価としてこの体が欲しいと言われた。だから了承した」
――は?」

今度こそセイバーが言葉を失う。
膳に目線を落としたまま、まるでなんでもない、明日の朝餉の献立の話でもするかのような口調で、伊織が続けた。

「友諠は結んだが、宗矩殿には俺に技を教える義務も義理もない。対価を望むのは当然だろう。銭であれば難しかったが、俺に支払えるものでよかった」
「え? 待て待て待て。――あやつは、きみに技を教える対価としてきみを抱いているのか?」
……そう言ったが」
「は? いや、いやいやいや、いや」

親友――のようなもの――の浮いた話にふわふわと浮ついていた頭を殴られたようだった。同時に、伊織についてセイバーが知っているいくつかの事柄が急に脳裏に甦ってきた。むしろ、今となってはなぜ忘れていたのだろうとすら思う。きっと、この親友が誰かを好きになるのはよいことだと――そう、セイバー自身の価値観に照らし合わせて、その自分勝手な願望にとってあまりに都合のいい事象が目の前で起こっているように見えたから、すっかり忘れていたのだ。

恐る恐る、沈痛な面持ちでセイバーが尋ねた。

「きみは――嫌いだろう。その――
「ああ」

伊織がセイバーを見る。特になんの感情も抱いていない、いつもの静かな月夜の色の瞳だった。

触れるのも触れられるのも嫌いだ。だが、宗矩殿の技の伝授と引き換えなら致し方ないし、どうということもない」
――そんな」
「少し我慢すればそれで済む。それで、あの技を得られる」

セイバーも膳に目を落とす。米を食らい、ぽつりと訊いた。

「ヤギュウは、知っているのか。――きみが嫌いだって」
「己が欲望を果たすため嫌悪しながら堪える姿がそそるのだと言われた」

――ああそういうことか、とセイバーが天井を仰ぐ。つまり、あの魔性にとってはなんでもいいのだ。伊織が抱かれることをもっとも嫌うと知っていて、むしろ知っていたからこそ、敢えてそれを条件にしている。仮に伊織が鰻を食べるのが嫌いだったなら、技の伝授の度に毎回鰻を食べることを条件にしていただろう。

「悪趣味な……
……止めてくれるなよ、セイバー」
「止めはしない。きみが決めたことだ。だが、そうだな。――面白くは、ない」

ぽつり、とセイバーが零す。例によってその真意を酌みきれない伊織が、セイバーを宥めるように言う。

「おまえに迷惑はかけない。宗矩殿にもひどい触れ方はされていないから体調に影響が出ることもない。
このせいで俺とおまえが儀で後れを取ることはないよ、セイバー。むしろ、俺がかの技さえ体得できれば戦闘にも役立つだろう」
「そういうことではないよ、イオリ。――よい、きみが決めたことだから。私が――勝手に面白くないだけだ」

……うん、」と伊織がよくわからぬまでも頷く。しばし膳に目線を落としたまま押し黙っていたセイバーが、やがて意を決したように大きく頷き、大袈裟な身振りで焼き魚に箸をつけた。

「これはなかなか塩加減がよいぞ、イオリ! 米がすすむ!」
「それはよかった」

いつものように穏やかに笑い、伊織も箸をすすめる。――楽しい夕餉の時間だ。わざわざ面白くない話をすることもないのだ。
再びその件に触れることはなく、夜が更けていく。



――とはいえ。



布団に入り、軽い寝息を立てている伊織を横目で見遣りながら、畳の端に腰かけたセイバーが溜息をつく。――たいした『強欲』があったものだ。
そもそも、近頃は己がマスターの意思を尊重して結局伊織の言い分に折れ続けているセイバーである。儀やセイバーとの共同戦線に直接関係のない伊織個人の決断ともなればますますセイバーが口出しできることではない。とはいえ、面白くないのは事実である。伊織自身が狂おしい程に求めるもののためとはいえ、己の根源的な嫌悪感を押し殺してその体を差し出すという行為を繰り返す彼に――何も思わないでいるというのは難しい。ただ、それはセイバーの勝手な感情であり想いであることも理解している。押し付けてはいけないとわかっているから、今も何も言えないでいる。

結局セイバーがいつも伊織にそうするように――彼を信じて見守るしかないのだ。







柳生宗矩は宮本伊織をひどく気に入っている。それは間違いない。――ただ、その愛し方はセイバーの常識や理解を超えている。そして、宗矩もセイバーに理解など求めていない。彼が執心し偏愛する伊織自身にすら理解を求めていないのだから道理である。
嗜虐志向がある――というのとは異なる。宗矩は伊織の研ぎ澄まされた月のような牙を好み、その狂おしく獰猛な熱を好む。彼の中の鬼をこそ好む。だから、あの手この手で彼の表層を剥ぎ取ってはその中身を露出させて愛でようとする。すると、おのずとその手法が――セイバーからすればとても『愛』とは呼べない代物になる。だがきっと、それも愛には違いないのだ。

そして、セイバーが宗矩について知っていることはもうひとつ。――柳生宗矩は、遊び好きだ。己が課した決めごとの中で、ごっこ遊びに興じるのが好きだ。――だから、これもきっとその遊びのひとつなのだろう。



カヤを小笠原の屋敷まで送り届けたセイバーが長屋まで戻ってくると、戸が開け放たれていた。中を覗いても誰もおらず、伊織はどこか買い出しにでも出掛けたか、と首を傾げたときだった。

……っ、――

くぐもった声が聞こえる。あ、とセイバーが思ったときにはもう遅かった。――大通りや長屋の表からは死角になるあたりの奥まった外壁を背にして追い込まれている伊織の姿を見つけてしまった。
セイバーからは壁に手をついて伊織に覆いかぶさっている宗矩の背が見えている。宗矩を見上げている伊織と宗矩の肩越しに目が合ってしまうと思い、慌ててセイバーが物陰に身を隠す。――とはいえ、それ以上身動きをとることもできない。霊体化してその場を去ることもできたが、とはいえこのまま伊織を放って置いていくわけにはどうしてもいかなかった。
きっと伊織がこの姿をセイバーに見られたくないことはわかっている。――さて、どうだろうか? 案外伊織は気にしないのかもしれない。妙なところであっさりと、頓着しないところが伊織にはある。

「伊織殿」

穏やかな、紳士的でいてひどく蠱惑的な声音で、宗矩が伊織の名を呼ぶのが聞こえる。

「伊織殿? さあ、貴殿が自分から差し出してくれなければ」
……
「おや、伊織殿? ――拙者は無理強いは好かない性質でなあ。その気のない相手とは、どうにも」

ぎり、とセイバーが我知らず奥歯を噛みしめる。よく言うわ、とはらわたが煮えくり返りそうになるのを堪える。
言動に不釣り合いな優しい声音で、宗矩が囁くのが聞こえる。

「さあ、伊織殿」
――
「伊織殿?」
「い――ぃ、ゃ」

か細い、弱々しい声だった。セイバーが我が耳を疑う。――彼が一度も聞いたことのないような、怯えきった彼のマスターの声だった。

「い、いや、だ」
「伊織殿?」
「いや――
「伊織殿。……拙者は構わぬ。貴殿が嫌なら今日はやめておくとしよう。貴殿がそれでよいのなら

ただでさえ蚊の鳴くようだった伊織の声が途切れる。――やがて、いつもの淡白な、はっきりとした声が聞こえてきた。

――ここでは嫌だ。中でならいい」
「はは、さすがは伊織殿。その目が見たかった――では、中へどうぞ」

宗矩に穏やかに促され、伊織が長屋の戸へ向かおうとする。セイバーが潜んでいる物陰の前をふたりが横切る寸前で、セイバーが霊体化する。からからと戸が閉まる。再びその場に実体を顕したセイバーが、ぴったりと閉め切られた戸を見つめていた。






――きみ、全然平気じゃないじゃないか」

夕餉を待つまでもなく、セイバーは伊織に食って掛かった。
四刻程経ったのち、長屋から宗矩の気配がようやく消えた。それを待って、セイバーが間髪入れずに長屋の中に突っ込んできたのである。

どうやら伊織の支払いの仕組みは、次回分の稽古の対価を今回の稽古の後に支払う、というものであるらしかった。支払わなければそれっきり、次はない、ということだ。

軽く体を清めてきっちりと着物を着込んだ伊織がセイバーを見遣る。その涼やかな無表情の顔に、セイバーの怒りがますます煽られる。

「あんなに嫌がってた。――きみ、少し我慢するだけだって言ったのに。全然『少し』などではないではないか」
……見ていたのか」
「見てない。聞こえただけだ。でも、きみすごく」
「口出しはしない約束だったろう、セイバー。まだあの技を習得できていないんだ」
「こんなにきみがつらそうなら話は別だ」

セイバーから目を逸らそうとする伊織の着物の袖を掴み、セイバーが言い募る。

「あんなきみの声、聞いたことなかった。――イオリ、考え直してくれ。きみが壊れてしまう」
「おまえには迷惑をかけないと言ったろう」
「なぜだ! なぜきみはいつもそうやって――

心配すらさせてくれないのだ、という言葉が喉につっかえて出てこない。セイバーが俯く。滲んだ涙を見られたくなかった。
「セイバー」と伊織が静かな声で呼ぶ。まるで兄のような、優しい、宥めるような声だった。

「俺は大丈夫だから。きっとあの技を習得してみせるよ。そうしたら、俺はきっとおまえの助けにもなれるだろうし――おまえが心配することはなにもないよ」

――ずっと、ボタンを掛け違ったままでいる。
伊織に「きみは弱いな」と告げたあの日から。「セイバーは、自分が強くなることだけを望んでいる」と伊織に思わせてしまったあの日から。セイバーは、伊織が強くなるならば伊織自身がどうなろうと頓着する筈がない――などと、伊織に格好の言い訳を与えてしまったあの日から。
一度口にしてしまった言葉は取り消せない。一度伊織にそう思わせてしまったのなら誤解は解けない。口は禍の元。――今となっては、どうしてあんな言い方をしてしまったのだろうと、ふと思い返すたびに臍を噛むばかり。

――ああ、とセイバーが肩で息をつく。

伊織がどう思っていようと、セイバーがどう思っていようと、伊織がセイバーの想いをどう曲解していようと――結局、セイバーは伊織に折れるしかないのだ。
正しいかどうかはわからない。もしかしたら正しくはないのかもしれない。それでも、そうすることがセイバーの愛し方だった。

「わかったよ、イオリ」
「見ていてくれ、セイバー。俺はきっとあの技を習得してみせる」
「ああ、そうだな。きみはきっとやる。……ああ……

本当はそんなものどうでもいいのだと。――言ったところで、きっと伊織には届かない。







しまった、と思ったときにはもう遅かった。セイバーがたまたま長屋の中にひとりでいたところ、突然戸が開いて外からふたりがもつれこむようにしてなだれ込んできたのだ。
咄嗟に霊体化して気配を消した。そのまま壁抜けをしようと思えばできた。それでも動けなかったのは、畳の上で宗矩に押さえこまれた伊織が見たことのないほどに怯えきった子供のような顔をしていたからだった。
身につけた美しい所作や受け身の心得すらすべて忘れ、ただやみくもに手足をばたつかせて抵抗している。顔を覗き込む宗矩を見上げる瞳は瞳孔が開き、宗矩の向こうに何か別のものを見ているようだった。

「い、いや」
「伊織殿」
「いやぁ、こわい、いたい」
「伊織殿」

しぃ、と子供を宥めるように囁く宗矩の声も届かない。頬に触れようとする宗矩の手を払いのけて、キャアアア、と上げた甲高い金切り声は幼い子供の叫び声のようだった。

「もうやめて、いたい、ごめんなさい、ゆるして」
……伊織殿」
「も、もういや……さわらないで、もうしないで……

力なく暴れる伊織から一旦体を起こし、宗矩が呆れたように溜息をつく。半ば興味を失いかけたような目で伊織を見下ろし、先程までとは打って変わった冷え切った声で言った。

拙者は構わぬのだよ。貴殿がそれでいいのなら」

はあはあと伊織が乱れた呼吸を繰り返す。畳の上に横たわり、手足を擲って胸元が激しく上下している。
瞳孔の開ききった、そこではないどこか遠くを見つめたままだった目が宗矩を見る。――ぎり、と伊織が奥歯を噛みしめる。月夜の色をした瞳の焦点が合い、ぎらつく光を取り戻す。
下半身を宗矩に乗り上げられたまま伊織が上半身を起こす。宗矩の胸倉を掴んで引き寄せ、地の底から響くような唸り声と共に告げた。

――さっさとすませろ。俺の気が変わらぬうちに」

主導権を握っているのは、許してやっているのはこちらだと

宗矩が呆気にとられる。ややあって、ひどく愉しそうに、嬉しそうにからからと笑い声をあげた。「そうだ、そうでなくては、それでこそ拙者が見込んだ鬼である」。
洒脱な目尻に歓びを滲ませ、宗矩が伊織の手をとる。令呪の刻まれた手の甲にうやうやしく口づけを落とし、伊織の背を支えながらゆっくりと畳の上に倒した。
嫌悪感と共に宗矩を睨みつける伊織を満足げに見下ろしながら、上機嫌で宗矩が言う。

「拙者はなかなか評判がよいのだがなあ。――拙者の望んだとおりのものを魅せてくれた伊織殿へ礼にでもなればよかったのだが。
いやはや、実に惜しい。貴殿の一番の試練がこれでなければよかったものを」

宗矩がいとおしげに伊織に覆いかぶさり、その首筋に唇を落とす。ぎりりと歯を食いしばって堪える伊織の横顔から目を逸らし、セイバーは長屋の壁を抜けた。







――ついに伊織は成し遂げた。幾たびにも重ねた稽古と試練の末、ついにその技を体得したのである。
感慨に耽り、剣だこだらけの己が手のひらを見下ろす伊織の背後から宗矩がその身を軽く抱き寄せる。軽く顎をすくい上げて唇を奪おうとしたその目を伊織が睨み上げる。

「なんのつもりだ?」
「おや、つれないことだ。最後に一度お礼くらいあってもいいのでは?」
「約定は既に果たした筈。その謂れはないな」
「ああ、なんとつれない。――貴殿は本当にそそる――

構わずを進めようとした宗矩が、すんでのところで伊織から離れてひらりと身を翻す。直後、今の今まで宗矩が立っていた場所の地面が地割れのように抉れていた。
爆音に耳鳴りがしながら伊織が振り返る。界剣を構えたセイバーが仁王立ちで立っていた。

「イオリ! ――もう、よいのだよな!?」

伊織が目を見開く。セイバーが満面の笑みを浮かべた。

助けに来た!」

セイバーが伊織に駆け寄る。令呪の刻まれた手を取って駆け出す。そのまま雑木林の中を駆け抜ける。
その後ろ姿を呆気にとられた宗矩が見送る。やがてふたりの背中が視界から消えそうになったとき、高らかに哄笑した。はははは、と愉快さを滲ませて、「面白い、面白い!」と手を叩いて喜んだ。



雑木林を抜け、町へ下りる。大通りを駆け抜けて町を出て、そのままあてもなく道なき道を走り抜けた。
セイバーに手を引かれるかたちで走っていた伊織もやがてセイバーの隣に並ぶ。もはや手を離しても伊織がセイバーに遅れることはなかった。ふたりで顔を見合わせて笑い、ただ理由もなく、目的もなく、行く先もなく走る。ただ走って、笑いあうためだけに走る。

樹の匂いが、草の匂いが、川の匂いが混じった風を肩で切る。乾いた土の匂いがして、きっと夕陽の彼方の土地はこんな匂いがするのだと思った。

やがて、地図の上にも覚えのない、見渡す限りの荒野に辿り着く。傾いた夕陽に照らされたセイバーが、伊織を振り返って大声で言った。

「もう、このままどこかへ駆け抜けてしまおうか!」

え、と伊織が笑顔で聞き返す。はあ、と乱れた呼吸のまま、セイバーも笑顔で繰り返した。

「このまま、ふたりでどこかへ行ってしまおうか、って。――もう、なにもかも、忘れて」

――なにもかも、ぜんぶどうでもよくなって。
盈月の儀も、江戸の平穏も。器を壊すことも、誰かの願いを砕くことも。――善を為すことすらも、あの月のような剣を目指すことさえも。

己をこの体に閉じ込めて縛りつける、己をかたちづくるそのすべてを。

――そんなことは決してできないのだと、痛いほどにわかりながら。

セイバーヤマトタケルセイバーヤマトタケルである限り、宮本伊織が宮本伊織である限り。そんなことは決してできっこないのだと、残酷なまでに知りながら。



それでもそれは、あまりにも甘ったるくて幸せな、泣きたくなるような夢だった。



「いい、かもな」。伊織が答える。きっと、自分でもかつてしたことのないような笑顔だった。

「それも、いいかもしれないな」
「ふたりでな」
「ああ。ふたりで」



――荒野に、ふたり。



明日になればまた、己の強欲に縛られて茨の道を生きることを知りながら。
今日だけは、今宵だけは、まだ。

この、淡い幸せな夢想の中で、笑っていたいと願った。