目を閉じ短く呼吸を繰り返す教官を見守りながら、私は手を強く握り締めた。見ていることしか出来ない自分が歯痒くて。
リゼット教官と二人での任務だった。ある地方で獣が大量発生した為に掃討が追い付かず、ブレイズも出ることになった。けれど既に別の任務に出ていたため全員とはいかず、班分けをした結果、私と教官が一つの班になったのだ。
時間は掛かったが任務自体は順調に進んでいた。
――教官が私を庇って怪我をした以外は。
『リゼット教官!』
『大丈夫だ、アルヴィエ
……致死性のものじゃない。毒が抜ければ、動け、る
……』
言いながらふらつく教官を支え、近場の村に駆け込み、宿を借り、今に至る。
騎士学校で読んだ本や座学を必死に思い出せば、確かにあの種類の獣の毒は身体を動けなくする類のものだった。筈だ。
教官の額に乗せたタオルを取って、汗を拭き取り水に浸し、絞って額に戻す。
手持ちの効きそうな薬を使ってしまえば、後は何も出来ることがない。あの獣の毒が抜ける際には副作用として熱が出ると記載があったから、解毒は進行している。
……ということなのだろう。
ミシェルならきっと的確に診断して癒せた。イェルシィさんならよく効く薬草が分かったに違いない。ヴァネッサさんならそもそも怪我をさせることはなかった筈。
レオやユーゴなら。リュシアンさんやマクシムさんなら。
私でなければ。
教官一人なら、きっと怪我を負うこともなかった。何もかもが未熟な自分がどうしようもなく情けない。せめて私がこの毒を受けていれば
……。
ぐるぐると考えても、教官の傷も私に出来ることも何も変わらないというのに。
あの頃から私は何も
――
再び強く手を握りしめた時、リゼット教官がゆっくりと目を開けた。
「教官!」
ぼんやりとした灰色の目が私を捉える。
「あの、身体は大丈夫ですか?
……ごめんなさい、私
……」
「だいじょうぶ」
熱のせいか、どこかふわふわと浮くような声で教官は言う。
「大丈夫だから
……もう、休みなさい」
思わず目を開いた。教官は熱があるのに、身体だって決して楽ではないだろうに、いつもより穏やかな顔で、柔らかな声で、普段とは少し違う言葉遣いで。
それとも熱があるから? びっくりしている内に、リゼット教官がこちらに手を伸ばした。優しく頭を撫でられる。
「
……いいこ」
小さく笑って、教官は再び目を閉じた。心なしか、さっきよりも穏やかな呼吸になっている。
撫でられた頭にそっと手をやる。
教官に撫でられるのは初めてではない。たとえばよくやったと特大の花丸をくれた時。あるいは眠れぬ夜の片隅で。くすぐったいけれど嬉しくて、でもやっぱりいつもの程よい力加減よりずっと優しくて。
「
……慰められちゃった」
のだろう。きっと。
教官、もうちょっと、人より自分のことを考えた方がいいんじゃないだろうか。
窓の外は日が落ちようという所だった。
……これ以上、私がリゼット教官にしてあげられることはない。
そう、ようやく腹に落ちた感じがする。気持ちとしては休んでなんかいられない。でも、休むことも仕事だと教官は言うのではないだろうか。
もう一度タオルを絞って教官の額に乗せる。
狭い部屋にはベッドが二つ、すぐ近くに設置してある。ひとまず空いているベッドに上って横になった。すぐ隣にリゼット教官の顔が見える。何か異変があれば気付けるだろう。
全然眠れる気はしないけれど、こうして横になるだけでも疲労は軽減される。早く解毒されるよう祈って、私は目を閉じた。
夢をみていた。
故郷のクレヴス村にいた頃の夢。私は熱を出して寝込んでいた。気持ち悪さからろくに食べられず、白湯のようなスープをどうにか口にして眠れるのを待つばかり。
妹は、アニエスは風邪がうつるからと母親が言っても聞かず、小さな手で甲斐甲斐しく私の世話を焼いている。汗を拭い、タオルを絞り、心配と申し訳なさをその目に湛えて。
どうしても花畑の様子を確かめたい、と言うアニエスに付き合って、その帰りのことだった。転びかけたアニエスを支えた、まではよかったが、私も足を取られてよろけた所に、樹上に積もった雪が落ちてきたのだ。咄嗟にアニエスを突き飛ばし、私は雪の中に埋もれた。思った以上に身体が動かせず、焦りと恐怖に背筋を凍らせながら藻掻く。そうする内に、不意に雪が剥がされて、涙目のアニエスと必死な顔をしたガスパルが目の前に現れた。全く、どこから現れたのだか。見ていたなら話しかければいいのに。
そんなことを思いながら、ごめんなさい、怖かった、よかった、と涙声の妹を抱き締め返し、帰路に着く。ガスパルはまたひっそりと姿を隠していた。
だからアニエスは責任を感じているのだ。
そんな必要ないのに。
濡れたと言ったって、雪合戦で散々雪を被れば同じようなものだ。風邪を引いたのがたまたま今日だったというだけのこと。
気にすることはないと言ったところで、優しい妹は納得しないだろう。
ゆっくりと手を伸ばす。
「だいじょうぶ、だから
……もう、やすみなさい」
思った以上に力ない声になってしまったけれど、アニエスの頭を撫でる。柔らかな髪の感触がくすぐったかった。
「ほんと? ほんとうに?」
うん。大丈夫だから。眠るから、また明日。ガスパルにもお礼を言いに行こう。
アニエスは、こくりと頷いた。
「
……いいこ」
笑うと、ようやくアニエスも納得したようだった。おやすみ、と優しい声がする。
……もう、思い出せない、懐かしい声。
見守られている気配を感じながら、私は重い瞼を下ろした。
次に目を開けた時、夢だと気付いた。
そうだ、任務の最中で。
「あ、教官?」
隣から声がして顔を向けると、アルヴィエが起き上がる所だった。
「体調はどうですか? どこか違和感は?」
軽く手を握って開き、乗せられていたタオルを取ってゆっくりと身を起こす。
「多少頭は重いが、意識ははっきりしている」
「失礼します。
……熱も下がったみたいですね」
よかった、と額に触れた手を離しながらアルヴィエはほっと息を吐いた。
アルヴィエがランプに火を灯す。小さな部屋が明るくなり、窓の外は夜闇に満ちていた。
「アルヴィエ、どうして私が起きたと分かった?」
「え? だって、見えたので
……?」
「
……そうか」
戸惑いながらアルヴィエは答えた。それが自明の理であるかのような口ぶりで。
彼女が声を掛けた時、私は目を開けただけで身動ぎもしていなかった。窓からの月明かり程度では、輪郭を捉えるのが精々だろうに。
……まあ、いい。今は。浮かんだ違和感を一度しまって、ベッドに腰かける。
アルヴィエも向かいのベッドに腰かけ、背筋を伸ばした。ベッド間は狭く、斜めに向かい合う形になる。
「リゼット教官、申し訳ありませんでした」
アルヴィエが頭を下げる。
「何に対しての謝罪だ?」
「私を庇って教官が怪我をしました。それがなければ今頃帰還出来ていましたし、他の班の手助けも出来た筈でした」
アルヴィエの手が膝の上で握られる。
「
……リゼット教官でなく、私が怪我をしていた方が、」
「アルヴィエ、顔を上げろ」
握られた手が一瞬震えた。それでも指示通り、そろそろとアルヴィエは顔を持ち上げる。
「他班や騎士学校への連絡は行ったか?」
「はい。状況とこの村に滞在する旨を伝えました」
「薬も投与されていたようだが」
「そ、それは私が。すみません、勝手に」
「では、この村の位置を覚えていて、私を担いで宿を取り、看病をしていたのは?」
「
……私、です」
問いを進める内に、アルヴィエの表情が困惑に染まっていく。何を問われて
――尋問されているのかと言いたげに。
「確かにお前があの攻撃を避けられるならそれが一番よかった。だがそれを言うならば、前衛を務める私がお前の所まで獣を行かせた時点でよくなかった」
「で、でも教官は他の獣の対処をしていましたし」
「そうだな。最も理想的な動きは出来なかった。だが、戦闘は往々にして理想的な動きのみが出来るものではない。
……起こったトラブルに対し、お前は十二分なフォローを行った」
金と、青に染まった瞳を見据える。
「よくやった、アルヴィエ」
その瞳が見開かれ、そしてじわりと歪んだ。
俯いた頭に手をやる。
……その感触に覚えがあるような気がした。柔らかくてくすぐったい。
「す
……すみません、私、何か
……気が抜けちゃった、みたいで」
「構わん。もう任務は終わっている」
少し強めに髪を撫ぜてやる。揺れた頭の下から、小さな光が反射して零れた。
「出来たことを、なかったことにするな」
「
…………はい」
片手を当て、ぐっと拭ってアルヴィエは顔を上げた。
アルヴィエはよく見通す眼を持っている。周りを見、感情を汲み取り、導くことも出来る。
自分のことはあまり見えていないのは彼女の弱点だ。けれど少しずつ積み重ねていけばいい。少しずつ、自分のことを知っていけばいい。騎士学校での時間はその為にあるのだ。
「そういえば、夕食は摂ったか?」
「まだです。宿の人には一応、時間が置いても食べれるものをお願いしてますけど
……」
「そうか、助かった。早速食べに行くか」
「はい!」
立ち上がると、こつりと互いの額が掠めた。至近距離にびっくりしたアルヴィエの瞳がある。
「
……狭いですね」
「
……狭いな」
呟き合って、どちらともなく笑いが漏れた。
騎士学校にいる間。与えられた猶予の時間。私が必ず、お前達を守ろう。
先に宿の者へ伝えに行ったアルヴィエの背に、いつもと変わらぬ誓いを呟いた。
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