ふるさと さくら
2024-06-03 00:25:26
10803文字
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メリノト(メリ)になる予定 性癖パネルトラップ⑤前半

性癖は書き終わったら公開します(そこまで書けていないため)
⚠️フレオル新刊LOST SPADILLE時空ですが、フレオル及びフレオル要素は出てきません。新刊読まなくてもまったく問題ない内容ですが、新刊持っててまだ読んでない人は読んでからの方がいいかもしれないです。

偽装恋人の🧲と🐝の話。前半はわりとノトメリ感が漂っている。
独自設定満載、🎹と📰が出てきてなおかつ🎹の父親がわりと嫌な感じで出てくるので注意。🧐はいません。



「お名前を確認させていただきます。メリー・プリニウス様と……ノートン・キャンベル様ですね。ようこそ、恋人たちの花園へ。どうぞごゆっくり、甘いひと時をお楽しみくださいませ」
 皺ひとつない燕尾服に身を包んだ、執事風のスタッフが恭しい礼を見せる。その完璧なまでの作法に対して、身分証をパーティーバッグをしまい込んだゲストの女は優雅に微笑んだ。ただし、口元以外の感情は薄いヴェールに包まれており不明瞭だったが。
「えぇ、今宵の夜会はひと月も前から楽しみでしたから。もちろん、彼と共に堪能させていただきます」
 そう言いながら女は傍らに佇んでいた男の首に手を伸ばし、細い指先で誘うように筋を撫でた。丁寧にクリーニングされたテールコートに身を包んだ男は一瞬ぴくりと肩を上げたが、あくまでそれが当然だと言わんばかりに女の誘惑を受け入れる。そして白いレースのあしらわれたイブニングドレスの腰に手を回し、スタッフから目を逸らして女をエントランスに誘っていく。
 見送る初老のスタッフはもちろんのこと、すれ違う他の招待客も息を呑むほどの完璧な入場だった。人の目の多いエントランスを行く間も、彼らは誰もが羨む恋人にしか見えなかった。時折二人にしか聞こえない戯言を発しては、面白おかしそうに笑い合う姿は、まさに今夜の『恋人たちの集い』に相応しい。
 だが────
………
 人気のない宴会場の外れまでやって来た二人は、おもむろに繋ぎ合っていた手を離した。そして周囲に誰もいないことを確認すると、甘いマスクに包まれていた男女の顔つきは瞬く間に凍りついたビジネスの雰囲気に様変わりする。
……こちらペルセポネ。無事会場に潜入しました」
 ダチュラを模した胸のブローチに向かって、メリーは冷たく業務的な声で話しかけている。そんな彼女の変わりように驚くでもなく、むしろ嫌悪感を示すようにあからさまな距離を取るノートンは、先程の情熱的なエスコートが嘘のように辛辣である。
「はい、はい……えぇ、ではそのように。エウリュディケーへの指令指導、くれぐれもお願いしますね。エウテルペー」
 耳元で聞き慣れた男の声が途切れた頃、メリーは会話が終わったことを示すために顔を上げた。そして高級感あふれる空間に馴染めないといった態度を隠せない新人エージェントに向けて、容赦のない苦言を呈するのだった。
「視線をあちこちに動かし過ぎです。きちんと足を揃えて立つように、プルート。そのような態度では出身階級がターゲットに露見しますよ」
……うるっさいなぁ、本当に。いいか、僕は今でもあんたと恋人ごっこをするのが気に食わないんだよ。さっきの入り口でのやり取りだって吐きそうだった、もう二度とやりたくない」
「愚痴は終業後に自分で処理しなさい。今は業務中です、それとも減給されたいのですか」
 すると、ノートンの顔つきはあからさまに不快に歪んだ。
「仕事、仕事ね……僕、金さえあればだいたいのことには文句は言わないけど。あんたにそれ言われると、はらわた煮えくり返りそうになるな……
「杞憂はもう控えなさい。心配しなくても────私もあなたと恋人のふりをするのは、真っ平ごめんですからね」
 バッサリと切り捨てるようなメリーの発言に、それはそれでげんなりとしてしまうノートンであった。本当に気に食わない上司だ。何だって、僕はこんな女の言うことに従っているんだろう……
 宴会の開始まではまだ時間がある。意味のない回想をし始めたノートンは、諦めたように付近の柱に寄りかかって今日に至った経緯をぼんやりと思い出していた。




 話は、一週間前に遡る。




 仕事の小休憩を終えて職場に戻るワーカー、天気がいいからと今になってようやく南向きの窓に洗濯物を干し始める者。様々な人間がそれぞれの生活を送るフラットの集合地域に、ひっそりと佇む探偵社のオフィス……昼下がりの陽光が差し込む事務所の一角で、数人の男女が円卓を囲み座っている。
 ここはオルフェウス探偵社。ただし探偵社の顔はあくまで表向きの話。ここに集う社員は全員────貴族の一柱であるデロス家当主によって雇われた、法に縛られぬエージェントたちだ。
 彼らの目的はただひとつ。かつての『主人ロード』の命令に従い、社会に蔓延る危険因子……すなわち何者かによって精製された危険薬品を回収し、その根城を殲滅することである。
……というわけで、次の『標的』はこちらの番組に隠されていることが判明しました」
 キャラメル色のコートに袖を通した女が、ホワイトボードの一角にポインターを指し記す。彼女の名はメリー、コードネームはペルセポネ。此度の会議の進行役を務めるこの探偵社の敏腕経理担当社員だ。
「狙うは『恋人たちの花園』のスポンサーたるこの男。彼は何者かの支援を受けているようで、今回の番組に多額の投資をしていることが私の調査で判明しています」
「恋人たちの花園……それは一体、どういった番組なのですか?」
 純然たる疑問をその真っすぐな瞳に浮かべるアリス・デロスが、進行役に質問を投げる。するとメリーは「いい質問です」と前置きをしてからオレンジのリップで笑みを描いた。
「よくあるでしょう、テレビや何かで最も優れたカップルを決める恋愛バラエティというものが。このイベントもそういった類のものですから、内容は至極簡単です。集められたカップルを何らかの形で競わせて、最も優れたベスト・ラヴァーズを選出する……収録された映像は、いずれは国民向けにも放送されるでしょうね」
「そんなに大々的な番組の中に、危険薬が紛れ込んでいるなんて……
 神妙な面持ちになるアリスが黙り込むと、代わりに真横に座る男が口を開いた。コードネームをエウテルペーと名乗る彼は、フレデリック・クレイバーグ。メリーよりは探偵社での経歴は浅いものの、それでも幾多の死線を潜り抜けてきた歴戦のエージェントである。
「奴らは、あからさまに怪しい場所には薬を隠したりはしません。それにしても、よく目星をつけましたね……ペルセポネ。普通は芸能界を疑っても、その内部状況を知ることは難しいかと思いますが」
 同僚の関心を装った指摘を受けてもなお、メリーは日頃の微笑みを絶やさない。彼女はくす、と笑い声をこぼしながら、カツカツとブーツのヒールを鳴らしてフレデリックの傍に佇んだ。
「何も難しい話ではありません。私には私のパイプがある、ただそれだけのこと。まぁ、全てを捨ててこの探偵社に入られた『クレイバーグ』さんには、馴染みのない話かもしれませんがね」
 口調はあくまで柔らかかったが、メリーの言葉は「それ以上土足で踏み込むのは許さない」という立場を表明している。瞬時に緊張感の漂う雰囲気に、座っていただけのアリスは思わず息を呑んだ。彼らは仲間同士だというのに、時折こうして一触即発寸前の状態にもつれこむことがあるのだ。信頼はしているけれど信用はしていない、そういったメリーとフレデリックの関係は、アリスが初めてこの探偵社に足を踏み入れた時から目にしてきた光景だった。
 ほんの一瞬で、フレデリックの目つきにはメリーに対する敵意が浮かぶ。しかしそうした流れにも慣れているのか、彼は自らそうしたにもかかわらず、すぐに鋭い雰囲気を収めた。そしてもういいと言わんばかりに、佇む女に投げやりな声を向けるのだった。
……失礼。話を逸らしました、どうぞ続きを」
「ご理解いただき感謝します、エウテルペー。さて、本題に戻りますが……今回のスポンサー、彼が狙っているのはこの番組の優勝者です」
 トン、とボードに張り付けられた男の額を指先で叩きながら、メリーは言葉を続ける。
「情報提供者によれば、彼は優勝したカップルに多額の出演料と……愛の霊薬を授けるつもりだとか」
「愛の霊薬?」
 あからさまに嫌悪感を示すフレデリックの態度に苦笑しつつ、メリーは立ち位置を変える。ボードの左から右へ移り、端に貼られていた薄紅色のポーションの写真を手に取ってフレデリックに手渡す。それを受け取った彼が眉を潜める後ろから、アリスが少し背筋を伸ばして覗き込もうとしていた。
「それが、『組織』の作らせた危険薬だと私は睨んでいます。もしもこの霊薬とやらが一般人の手に渡れば、ろくなことにならないでしょうね」
「話は分かりました。つまり誰の手にも渡る前に、この薬品を回収しなければならないということですか。さしずめ潜入方法は、出演者として……
「えぇ。会場にはスタッフと出演者しか入れません、ですから我々は紛れもない恋人の立場で、正当にこのゲームを勝ち進む必要があるのです」
 頷くフレデリックは、メリーの言いたい作戦の全容までもを既に理解したらしい。そしてこの話をされた理由もとっくに咀嚼済みであるようだった。
「ではペルセポネ、私に男性役を任せたいということですね」
「そう言いたいところなのですが。エウテルペー、こちらを見てください。あぁ、エウリュディケーは少し目を瞑っていてくださいますか」
 メリーのやや沈んだ声に、フレデリックは首を傾げる。つられて干渉しないように告げられたアリスも同じ角度に首を傾けたが、存外素直な彼女は特に理由を問うでもなく、黙ってメリーの言う通りに両目を瞑った。
 フレデリックの前に、新たな写真が差し出される。映し出されているのは、何の変哲もないどこかのスタジオの風景だ。照明器具やカメラの間に数人のスタッフが立っており、忙しそうに業務をこなしている。
 しかし、その中でも視察をするように現場を見ている銀髪の男の姿を見た瞬間────フレデリックの呼吸は止まりかけた。
「スポンサーの中に、あなたの生家が連なっていました。あくまで僅かな協賛というレベルではありますが……あなたがお父上と鉢合わせになるのは、探偵社としても避けたいところです。あなたもそうでは?」
……申し訳ない。こんなところで足を引っ張るつもりはなかったのですが」
 何か良くない記憶でも蘇ったのか、フレデリックの顔色はみるみるうちに蒼白になっていく。浅い溜息を吐き、さっさとメリーに写真を突き返す態度は、まったくもって肉親になど会いたくないと言わんばかりの振る舞いだった。額に手を当てて具合の悪そうな表情を浮かべるフレデリックに、まぶたを上げたアリスが心配そうな視線を向けている。
「お気になさらず、エウテルペー。確かに偽装エージェントとしての力量はあなたが最も適していますが、何もこの探偵社の男性社員は一人ではありません。代役ならそこにいるではありませんか」
「えっ、私が紳士に変装を?」
「全然違います、デロスさん」
「記者さん、そんなわけないでしょう」
 見当違いなアリスの発言に対し、即座にメリーとフレデリックの指摘が刺さる。あれ、違うんですか? と小首を傾げるアリスの姿に『主人ロード』の能天気な姿が重なる……どうしてこうも、デロス家の人間はオトボケなのだろうか。やれやれと首を振るフレデリックに同調的な気分を抱きつつ、メリーは足音の鳴り始めたオフィスの入り口を射抜くように見つめた。
 そして、扉は作法の欠片もない騒音を立てて無造作に開かれる。
「休憩休憩……あ、何このお菓子。食べていいやつ? ねぇクレイバーグ先輩、これ取引先に貰ったお菓子だろ。袋開けていい? いいだろ、あのハチミツ女には内緒でさ……
………………プルート」
 底冷えするような女の声に、乱雑に入室した男の背中がぎくりと固まる。顔が半笑いになっているのは前職の後遺症故だが、それでも今回の引き攣ったような笑みは、紛れもなく天敵の女の存在を感知したせいで形成されたものだった。
「げ、ハチミ……ペルセポネ」
「エウテルペー、現場に出られないあなたに指示を下します。プルートを一週間後までに完璧な上流紳士に仕上げなさい。私の隣に立たせても不遜のない『恋人』に調整すること。できなければあなたの給料も減らしますからね」
 硬直したのは社用車の整備で薄汚れた男だけではなかった。思わぬ形で飛び火を受けたフレデリックもまた、冷たいこと極まりないメリーの絶対的な命令に冷や汗をかいている。腹を空かせがちな新入りの犬に密かに餌を与えていたのが露見したのだから、焦る態度も無理はない。追い詰められてこそ真価を発揮しがちなフレデリックのことを分かっているからこそ、メリーも敢えてそうした形で命じたのだが。
 フレデリックはおもむろに立ち上がり、つかつかと入口の側で身を竦ませた新人に歩み寄る。そしてすっかり仕事の雰囲気を纏った状態で、煤けた作業服の袖ごと無理やりに彼を引っ張り上げた。
「お、おい。何の話だよ、恋人ってなんだ? 僕がハチミツ女の? 何がどうなって……
「ロシナンテの点検は終わりです、プルート。詳しいことは荘園で話しますから、帰りますよ」
「は!? おいハチミツ女、クレイバーグ先輩に何吹き込んだんだよ、おい、僕のいないところで色々勝手に決めるな、おい……先輩、ち、力強っ……
 ずるずると引きずられていく新人と、問答無用で荘園に帰ろうとするフレデリック。数刻後には、彼らは厳しい貴族のマナーを叩き込み叩き込まれる特訓を始めることになるのだろう。後ろ姿を相変わらずの薄い微笑みで見送りながら、メリーはかちりと収縮式のポインターを短く納めた。
「なるほど、クレイバーグさんが出られないならキャンベルさんをということですね。さすがです、プリニウス夫人! きっと今回の作戦も成功しますよ────って、え……?」
 努めて明るく振る舞うアリスだったが、メリーからの返事はない。思わず心配になってソファに座ったまま振り向いたものの、アリスは吹き荒ぶ極寒の気配にぶるりと背筋を震わせてしまった。
(ふ、夫人……なんて難しい口元をしているの。そんなにキャンベルさんと潜入するのが嫌なのかしら……




 そんな作戦会議から一週間後。
 無事に番組企画への登録も終え、二人は潜入調査員として撮影会場であるホテルの宴会場に訪れていた。徐々に人も集まり始めているようで、ロビーには幾組ものカップルが集い始めている。甘いフレグランスの漂う空間は、まさに愛情を披露するに相応しい雰囲気を醸し出していた。
 さて、フレデリックに厳しいマナーを一から十まで教え込まれたノートンは、依然として落ち着かない気分でいっぱいだった。何せこんなにも高級な場所に足を踏み入れたことなど、今の今まで一度もないのだ。どうしているのが正しいのか分からない。かと言って、横で静かに人間観察に勤しんでいるバディを頼る気にもならない。彼女に弱音を吐くぐらいなら、今ここでダイナマイトを身体に巻き付けて爆死する方がマシだと思うほどに、ノートンは自らの上司のことを疎ましく思っていた。
 メリー・プリニウス。コードネーム『ペルセポネ』、本来ただのドライバーとしてエウリュディケ荘園に雇われるはずだった自分を、エージェントの道に引き込んだ張本人。
 人手が足りないから『こちら』の仕事を手伝ってほしい、給料は三倍にする。かつて彼女が発したその甘い誘惑につられて、深く考えずにエージェントになることを承諾した自分のことを、殴り倒したいと思わない日はない。おかげで毎日は散々であり、慣れない調査員としてのスキルと、エウリュディケ荘園で使用人として働く作法を無理やりに学ばされることになった。こんなはずではなかった、何より既に上流階級の素養を身に着けた者たちから失敗を責められるのが、屈辱を感じるほどに嫌だった。
 その一方で夢を絶たれ、平凡な送迎ドライバーとして生きていくのが関の山だろうと思っていた自分を、見上げるべき存在たちと同じ土俵に立たせたのも紛れもなく彼女であって。悔しい話だが、プライドは散々に傷つけられているものの、暮らしは以前より格段に良くなっているのだ。しかしそれを叶えたのが、このメリー・プリニウスという気に食わない女であるという事実を、ノートンは未だに嚙み砕いて飲み込めずにいるのだった。
「プルート」
 はっとして横を見ると、唇を美しく結んだメリーがこちらを向いていた。元よりあまり裕福でない幼少期を送ったノートンに対し、東欧の血を引いているらしいメリーの身長はやや高い。性差はあるもののあまり変わらない目線で彼女が見つめてくるのも、反射的に気に入らないと構えてしまう要因だった。
……何」
「そろそろ撮影が始まります。お手洗いに行ってはいかがですか?」
「はぁ? 別にそういう気分じゃないけど」
「いいから済ませておきなさい。早く」
 何だこの女。結局僕が邪魔なだけだろ。あからさまに不機嫌になったノートンに対し、メリーはつまらなさそうに目を逸らす。これはもう、会話をする気もないということなのだろう。それは別に構わない、こちらだって彼女といる時間は少しでも短くしておきたいものだ。フンと踵を返して、ノートンはいかり肩のままずかずかと化粧室の方角へと大股で歩いていくのだった。
(やっぱりムカつくな、あの女。この仕事が終わったら絶対にしばらく口をきかないでいてやる!)
 黙っていればいるほどに、メリーへの怒りが増していく。いっそ誰もいないなら、トイレの壁でも殴りつけてやろうか。そんな思いさえ沸々と湧いてきたノートンは、狭い通路を通り抜けて手洗いカウンターの立ち並ぶ空間に入るなり、派手な舌打ちをしようとした。だが────
……ッ」
 開きかけた口から、思わず細い息が吸い込まれる。ぎょっとしたノートンは、鏡のひとつの前で幽霊のように立ち尽くす男の背中を見るなり、つい足を止めてしまったのだ。音もなく、呼吸音さえ聞こえないような出で立ちで、物体のように鏡像の自身を凝視している姿は、傍から見ても普通の状態には見えない。
 赤い帽子を被った黒髪の男は、しばらくの間しきりに「ライラ……」と繰り返していた。しかしおもむろに口を閉ざすと、背後に立っていたノートンの存在に気がついたようだった。彼はゆっくりとした動作で振り向き、へらりと笑いながらこちらへと近づいてくる。しかしノートンには特に興味はなかったのか、のろのろと横をすれ違うだけで何も言葉を発することはなかった。
 ベタつくような足音が遠ざかっていく。何だあいつ、という思いを抱えたノートンは、ぞっとするような心境を落ち着かせるために早足で奥へと向かうのだった。


 数分後、不気味な男が立っていた場所とは別の鏡で身なりを整えたノートンは、メリーの元へと戻ろうとしていた。だが、発そうとした声は不自然に途切れてしまう。
「ぺルセ────」
 びり、と静かな電気が流れ出しそうな空気に、ノートンは咄嗟に足を止めた。メリーの前に、知らない男が佇んでいるのだ。探偵社の関係者ではない、見知らぬ存在。銀髪の男に見覚えはないはずなのに、妙に既視感があるのはなぜだろう。しかし少なくとも、メリーが相手のことを快く思っていないのは立ち姿を見ても明らかであった。
……今更ご子息が惜しくなったと? 申し訳ありませんが、彼は我が社の正統な従業員です。社員の生活を守るのは当然のこと、たとえお父上であっても居場所は教えません」
「ハッ、賞金目当ての元女優が偉そうに。私を誰だか分かっていないなら教えて差し上げましょうか、我らが麗しのヒロインさん。いいかね、私は……
 銀髪の男の口調には、中欧の堅苦しいイントネーションがこびりついている。見知った誰かに似ていると少しでも思ってしまった自分が嫌になるほどに、その年老いた男は傲慢だった。あれは……気に食わない。ああいう貴族は、僕が一番嫌いな輩だ。そう、たとえばあの男が今まさに無理やりに手首を掴もうとしている女が、日頃から忌み嫌っているメリーだとしても────思わずこちらの手が出てしまいそうになるほどに。
 表情筋の一切を動かさないメリーのほっそりとした腕に、皺の刻まれた乱暴が忍び寄る。しかし、銀髪の男の指先が彼女に触れることはなかった。やや目を見開いた紳士が横を見ると、そこには陰鬱そうな顔で接触を阻むノートンが威圧的に佇んでいた。
「な、何だね。君は」
 狼狽する紳士に対し、ノートンは光なき眼でニヤリと笑ってみせる。そしてやや力強く紳士の腕を振り払うと、その動作の流れで隣のメリーの肩を遠慮なく抱き寄せた。
「この人の恋人だけど、何? ここには結ばれた男女しか入れないんだから、彼女にも僕みたいな立場のやつがいて当然だろ……あと、賞金目当てで何が悪いわけ? その悪趣味な企画に出資してるのはあんたも同じじゃないか。そうだろ、クレイバーグ先輩のお父さん?」
 貴族相手であっても繕うことのない嘲笑に、老紳士はたちまち言い返す言葉を放とうと口を開きかけた。上等だ、と応戦しようとするノートンだったが、その試みは意外にもすぐそばでアカシアの香りを放つ淑女によって制止された。
「やめなさい、ノートン」
……!?」
 ぞわ、ぞわ、と這い上がる感覚に、ノートンは驚きのあまりメリーを凝視してしまった。この女、今何て言った。僕のこと、初めて名前で呼んだんじゃないか。
 ノートンの無言の動揺を完璧に無視して、メリーは静かに肩を抱かれたまま目の前の紳士に相対する。思えば彼女は、初めから助けなど求めてはいなかった。怯えることも、感情を露出することもせずに、ただずっとそこに佇んでいたのだ。まるで男たちが何をしようとも、自分のペースは崩させないと言わんばかりに。
……クレイバーグ様、今日はお互い手を引きましょう。あなたがこの番組に隠された情報を吐かないのであれば、私も『彼』の今の生活を守ることに徹するだけ。であれば、膠着状態を長引かせるメリットもない。ならば、これ以上押し問答をする道理もないでしょう」
「フン、そんな和平交渉が私に通じるとでも? お嬢さん、残念ながら私にはもうひとつ手札があるのだよ。君のかつての名前、君の過去を私は知っている。その薄布で隠そうとしても無駄だ、私が今ここで、そこの粗野な愛犬に君の正体を明かしたらどうするつもりかね?」
(────この女の、正体?)
 ほぼ反射の勢いで、メリーの方に視線を向ける。しかしそれでも、メリーの情のない顔つきが変わることはない。まるで老紳士の言うことなど大したことではないと言いたげに、彼女は未だに余裕を見せ続けている。
 なぜそんなにも平静を保っていられるのか、ノートンはすぐに思い知ることになった。
「どうするも、何も」
 くす、とメリーの仏頂面が初めて崩れていく。口元に甘い花の香りを纏って、何でもないことのように笑う彼女は視覚的は美しくも見えた。ただし、綺麗なものには毒が秘められているものだ。
 メリーは夜会の入り口でしたようにノートンの首筋を撫で上げながら────ぞっとするほどに鋭い針を覗かせた。
「もしも知られたならば……寝室にスズメバチを差し向けて、身体の震えが止まらないようにして差し上げようかしら。 クレイバーグ様、あなたのことも……そして私の可愛い彼もね」
 低く女が嗤った瞬間と、さっと青ざめたクレイバーグ氏が瞬時にメリーの前から距離を置いたのはほほ同時の出来事だった。狂ってる、という文字を顔面に浮かべて、老紳士は狼狽を隠せもせずに片手に持っていたステッキを携えて背を向けてしまった。
「あら、もうお話は良いのですか? ご子息の最近の様子でしたら、いくらでも教えて差し上げるのに」
「結構だ、失礼する……だがそこの野犬、これだけは忠告させてもらおう」
「は? 野犬って僕のこと? クソ貴族、お前……
 ノートンの極小の悪態は幸いにしてクレイバーグ氏の優秀な耳には届かなかったようだ。先達に受け継がれたのであろう銀色の年老いた双眸が、メリーの肩を中途半端に抱いたままのノートンに向かう。そして紳士は負け惜しみのように、不穏なセリフを吐き捨てるのだった。
「いいかね。その女は美しいアゲハ蝶などではない、男を巣に捕らえて食らい尽くした後、その場所に君臨する女王蜂だ。人生を棒に振りたくなければ、その女と交際するのはやめておきなさい」
「────」
 カツン、カツン、と紳士の足音が去っていく。まずは窮地を抜けたという安堵の実感を得られるかと思いきや、ノートンの心臓にはとてつもない爆弾が埋め込まれた。あのクソ貴族、何で最後に恐ろしいことを言い残していきやがった。おかげでこの女の肩に回したままの腕が震えて下ろせなくなったじゃないか。この、アホクレイバーグが……いや、先輩は悪くないんだけど、たぶん。
 特大級の脅しを受けたノートンは、何とか乾いた口を動かしてメリーに問いかける。そうでもしないと、次の行動が取れなかった。
「あんたさ……昔、何やらかしたわけ」
 言葉尻が震えている。そんなノートンの怯えた姿に、メリーはやはり蝶のように微笑むだけだった。するりと舞い上がるように自らノートンの腕を抜け出して、二、三歩前からこちらを振り向く彼女は……それでも良くも悪くもいつも通りのメリーにしか見えなかった。
「教えて差し上げても構いませんが、蜂に刺されるのはお嫌でしょう」
…………そうだな。聞こうとした僕が野暮だった」
 はぁ、とため息をつきながらノートンは肩を竦めた。これはつまり「あまり深入りをしない方がいい」ということなのだろう。あわよくばこの女の弱みを握って、少しでも日頃の優位性を高められればと思ったのだが。あいにく、メリーが秘匿している過去というのは想像している以上の質量を抱えているらしい。
「もういい、行こう。さっさと薬でも何でも回収して帰ろう」
「切り替えの早いところは成長しましたね、プルート。あとは手筈通りに、私がいいと言うまで『武器』は隠しておくようにしてください」
「はいはい……ま、クレイバーグ先輩があのいけ好かない貴族とばったり遭遇するよりかはマシだったか……あっ。そういえば、さっきトイレで変な男がいて」
「どうせ出演者でしょう、気にすることはありません」
 そんな会話をしながら、ふたりは宴会ホールへの扉へ歩み寄り、開け放つ。待ち構えていた恋人たちの花園は、煌びやかな舞台セットと共に彼らの入場を華々しく迎え入れるのだった。
「さぁ、行きますよプルート。『予行演習』の始まりです」