千代里
2024-06-01 18:15:03
4561文字
Public リーブラ短編
 

私の最愛に捧ぐ

ヴィエラ葬送アンソロに寄稿した短編です。

 その日、私は空を飛んでいた。
 くるくると、落ち葉みたいに軽やかに宙を舞い、私の重たい体は嘘のように空を行く。手を伸ばすと、森の木々で隠れた太陽にだって指が届きそう。
 だというのに、私の手はどんどん太陽から離れていく。体は重みを思い出し、空はますます遠くなる。
 ゴツッという鈍い音と、頭に拳骨が落ちたときの何十倍もの痛み。ふ、と遠くなる意識と、最後に聞こえた彼女の悲鳴。
 それが、生きた私が最後に感じた全てだった。
 
 ***
 
 物言わぬ物体となった私は、身動き一つすることなく岩の上に転がっていた。
 桃色の髪から伸びた長い耳は、そばを流れる川から飛び散った水飛沫で少しずつ濡れていく。お気に入りの滝壺も、緑豊かな川縁も、私という死体が全ての景観を台無しにしていた。
 
「お姉ちゃん!!」
 
 彼女の悲鳴は漸く言葉となり、すぐに私の元へと駆け下りてきた。
 森のどこを探しても、こんな器量良しは他にいないだろうと思う、可愛らしい私の妹が、既に明後日の方向を見ている私の瞳を覗き込んでいる。
 尤も、当の本人の目は今は涙でびしゃびしゃになっていて、開きっぱなしの私の目にまで流れ落ちていた。
 ただの死体となった私の側で、妹は一頻り泣きじゃくった後、ようやく私を抱え上げた。
 私と瓜二つの顔をしているのに、私よりも随分と逞しい妹は、難なく私を横抱きにできる。
 抱えた弾みで、陥没した私の頭からぼたぼたと赤いものがこぼれ落ちたが、妹は顔色ひとつ変えない。さすが、私の妹。
 
「まだ、お姉ちゃん、いるよね。呼んだら戻ってくるよね、ね?」
 
 もし私が戻ってこられるなら、せめて私の陥没した頭から出てきた中身は回収してもらいたいものだけれど。
 彼女は私を背負って、軽々と森を駆けていく。私にはできなかった、風のような疾駆。いつも見送るばかりだったのに、今日は特等席で森の匂いを感じられる。
 淡い桜色に彩られた長い耳が、私のすぐ近くで花びらのようにひらひらと翻っていた。
 
 ***
 
 彼女と共に里に戻った私は、多くの悲鳴と嘆きの声に迎えられた。こんなこと、生まれて初めてだ。
 
「まだ成人の儀の前なのに」
「トゥーリを遺して逝くなんて……
「崖から足を滑らせたんですって? トゥーリみたいにまともに動けないくせに、そんな所に行くからよ」
 
 妹は、余計な雑音は無視して、私を抱いたまま泣きじゃくっていた。
 
「さあさあ、トゥーリ。泣くのはおよしなさい。この子も、いつまでもあんたが泣いてたら、心配になって戻ってくるに決まってるよ」
 
 近所に住んでいたおばさんが、妹を慰めている。私が慰めたかったけれど、今の私の手足じゃ妹の顔にすら触れられない。
 
「わ、私、お姉ちゃんのそばにいたのに! 離れちゃいけないってわかってたのに!」
「仕方ないさ、事故はいつだって起きるものだ。昨日は雨も降っていたからね」
 
 崖上から足を滑らせて、滝壺に真っ逆さま。頭の打ち所は、『良かった』らしい。
 もっとあちこち体を打ち付けて酷い有様になることもあるから、綺麗な体が残っていてよかった。
 
 泣いてばかりいた妹は、まだ柔らかくて温かい私を抱えて、里長の女と共に、とある建物に向かった。
 そこは、木で作られた私たちの里の家とは違って、冷たくて大きな石造りの家だった。ここが何と呼ばれているのか、私たち里のヴィエラはよく知っている。
 自分が死体としてこうして入る日が来るなんて、しかも妹と一緒なんて――感無量だ。
 
「トゥーリ、まずこの子をあちらに寝かせなさい。彼女が戻ってきやすいように、体を傷つけないように、静かにね」
 
 里長に言われるがままに、妹は私を少し高さのある石の台の上に置く。ちょうど、家にある寝台と同じような大きさだ。
 私の陥没した頭が岩に擦れて、ぐずりと肉が崩れる音がした。妹は、小さく息を飲む。
 
「あとは、この子が好きなものを教えてもらえるかい。殯(もがり)の守人に伝えなくてはいけないからね」
「里長、お姉ちゃんの殯の務めは私がやりたいです。……駄目ですか」
 
 死体の私は、瞳を見開いたまま動かない。けれども、もし動かせたなら、私はどんな笑顔を浮かべていただろうか。
 里長は、毛艶の落ちた耳を神経質そうに震わせ、
 
「精霊の声を聞く守人だからこそ、彷徨い出た魂を今なら戻すことができるかもしれない。お前は、その機会をふいにしたいのかい」
 
 妹は、ふるふると首を横に振った。
 
「お姉ちゃんが戻ってこられるのなら、絶対私に会いにくるはずです。だって、生まれてからずっと、私が一緒にいたんだから」
 
 家族としての絆を示されて、頑固な里長もようやく堪忍したようだ。
 里長は私の好物を聞き出した後、部屋を後にした。
 薄暗く窓すらない、死で満ちたこの部屋に、私と妹の二人きり。同じ顔をした女が二人、並んでいた。
 
 ***
 
 私たちにとって、致命傷を負って動かなくなった体は、魂が迷い出た体と言われている。
 魂は外に迷い出てしまっても、精霊の懐に抱かれる前に呼び寄せれば戻ってくる。
 香を炊き、好きな食べ物や日常で使っていた調度品を周りに置き、ここがお前の体だと教える。それが、『殯』と呼ばれる儀礼だ。
 今までも、動かなくなった仲間たちは、皆こうしてこの部屋で静かな時を過ごしていた。
 魂が抜け出た体は無防備だ。ひょっとしたら、悪しき霊が忍び込んでくるかもしれない。体を守るため、守人は弓を弾いて魔を祓い、魂を導く歌を口ずさみ、早く目を覚ますようにと促す。
 ヴィエラの里の全てがそうなのかは知らないが、私たちの里では、死者は死者になるまでに時間がかかるのだ。
 
 私がここに横たわって、数日が経った。
 先ほどまで聞こえていた、鳥が囀るような歌声が消えていく。妹が、私のために捧げた歌だ。残念ながら、私は拍手を送れない。
 
「お姉ちゃん、私、話したいことがあったの」
 
 私の側に座った妹の手が、私の肌に触れる。
 冷たくなって動かない、私の体。石室の隙間から入ってきた虫が私の体に留まり、卵を産む。森の陽気は、命を失った体をゆっくりと腐らせる。
 
「どうして、森を出て行くなんて言ったの」
 
 ぶん、と小さな蝿が飛んでいく。私の体は少しずつ、内側から食われていく。
 私が好きだった真っ赤な甘い果実も、白い花も、私が大好きな妹すらも、私の陥没した頭は埋めてくれない。
 それでも、奇跡が起きればと願う。あるいは、死者が死体となったことを直視するために、殯の守人は共にいる。
 
「私たち、ずっと一緒だって約束したのに」
 
 恨み言めいた言葉は、二人きりだからこそ得られた言葉だ。だからこそ、今この瞬間が私にとって最上の時間だった。
 
「私、里長の話を聞いちゃったの。今度、里に護人の男たちが来るでしょ? お姉ちゃんを彼らと番わせて、子供を産ませるんだって」
 
 それは知っている。生まれつき体が弱い私に、唯一課せられた役割。森に縛られた私たちに与えられた枷。
 
「そんなの、駄目だよ。きっと、お姉ちゃんも嫌だったんだよね。でも、森の外に出てもお姉ちゃんはすぐに死んじゃうに決まっている。森の外って、怖いものばかりだって話だもの。私だって怖くて行けないのに」
 
 木々の葉ずれよりも細い妹の声が、石室に響く。夜の虫は彼女の声を妨げない。
 
「だから、私、考えたの。どこにも行けないのなら、いっそのこと、お姉ちゃんを私だけのものに……って」
 
 妹は私の冷たい体に触れて、そっと撫でる。甘く饐えた腐敗の香りを漂わせる私を、大層愛おしげに撫でる。私の開いたままとなった目は白く濁り、彼女の告白に目を細めることはない。
 
「でも……どうしてだろうね。私、お姉ちゃんともっと話したいのに、戻ってきてほしくないって思ってる」
 
 死者が目を覚まして再び起き上がり、彼女の頭を撫でる。そんな奇跡を妹は望み、同時に望んでいない。
 私の大好きだった白い花は、すでに枯れていた。
 
「だって、お姉ちゃんに嫌われるのが、嫌なんだもの」
 
 まったく、馬鹿な子。私があなたを嫌うなんてこと、あるわけがないのに。
 
 ***
 
 体が腐り、肉が溶け、虫が余計な屍肉を削ぎ落として骨が見えるようになるまで、殯は続く。
 そうして魂すら寄り付かぬとわかるほどに変わり果てた後、私はようやく安置されていた石室から運び出された。
 骨をつなぐ肉は虫に食われ、開いたままの眼もとうの昔に餌となっていた。
 変わり果てた姿を前にして、魂はこの地を離れたのだと里長が告げることで、この殯は終る。
 守人から死者の運び手となった彼らは、同胞を木でできた甕(かめ)に『詰め込む』。
 魂に礼を持って接する一方で、魂との縁が切れた体への扱いは存外適当だ。だってそこに、隣人はもういないのだから。
 私『だったモノ』を抱えて、妹は最期の別れのために軽くなった甕を抱えて、森の中を歩いて行く。
 里の者の死である以上、里長も同行するが、他の者は興味を無くしたようで、私だったものには関わらない。私が生きていた頃と変わることなく。
 私は昔から体が弱く、どれだけ成長しても半人前と言われ続けてきたのだから。
 
「戻ってこなかったってことは、あの子はあんたがもう大丈夫だと思ったことだろうよ」
 
 里長の言葉にも、妹は未だに赤い目を擦ってゆっくりと頷いた。
 二人が辿り着いた先にあったのは、里から少し離れたところに広がる湖だ。大きな木の根が張り出したその地には、今まで森に魂を委ねてきた同胞たちの体が最期に眠る場所でもある。
 妹は甕を抱えて、湖の中へと入っていく。水位が腰ほどまでになった頃、妹は甕をそっと下ろした。
 
「さようなら。私の大好きなお姉ちゃん」
 
 私だったものに声をかけ、彼女は最後に呟いた。
「私は、絶対に私の罪を忘れないから」
 
 私だったものが詰まった甕は、ゆっくりと水底へと沈んでいく。やがて苔が生え、甕に罅が入る頃、私の体は水に溶けて魚の餌になっていく。
 
 
 ふざけ合って、私を軽く小突いたトゥーリ。自分の中に芽生えた邪な気持ちが、大好きな姉を突き落としてしまったと、あの子は生涯、己を責めるだろう。
 
 ――私が、わざと崖から落ちたなどと知らずに。
 
 これから生きるだろう百年以上の時の中、彼女はあの甘く饐えた臭いと共にいた殯の日々を二度と忘れはしまい。
 体が弱い私は、いつかあの子を置いて逝く。遠い未来であの子が誰かのものになるぐらいなら、あの子の心を私以外が占めるなら、私は消えない傷をあの子に残す。
 そして、二人は永遠に共にいられる。
 これまでも、そして、これからも。
 
「何があっても、ずっと一緒よ。愛しいトゥーリ」
 
 涙と共に手を振るなんて、とんでもない。
 私は極上の笑顔を浮かべて、あなたの心に刻まれる。
 これこそが、私にとっての至上の葬送なのだから。