定休日前夜。いや、もう日付も跨いだ深夜も深夜だ。厨房の火だってとっくに落として、片付けも粗方終わっている。それでもまだ、最後の客が帰ってくれない。
「おい、いい加減閉めるぞ」
カウンターの定位置でワインボトルに手を掛けながら俯いていた厄介な客は、俺の一言におもむろに顔を上げた。――あ、駄目だこれ。完全に目が据わってやがる。
これ見よがしに盛大な溜息を吐いてやりながら、隣の席に腰掛けようと客席側に回り込むと、薫は自分の手元の皿をさっと俺から遠ざけた。
すっかり出来上がった酔っ払いのくせに、どこにそんな俊敏さを隠していたのやら。
「別に、それ食うまでは――って、もう空じゃねーか!」
店に入ってくるなり注文されたいつものカルボナーラはきれいに平らげられていて、かろうじてソースが残っているだけに見える。何をそんなに大事そうに抱えることがあるのか。そう思いながら身を乗り出して薫の手元を覗き込むと、皿の端にフォカッチャの切れ端がちょこんと乗っていた。
「まだ、食ってる、だろ……!」
「え、あ、あぁ……」
なぜか妙に真剣な面持ちで、こちらを睨み上げるその視線がどこか子供じみて見える。いや、三分の二が減ったワインボトルを抱えながら、少し舌足らずに言うその口ぶりのせいもあるのかもしれない。(ちなみに既に一本はしっかりと空にしてくれている)
別に食べてるものを取り上げようってわけじゃない。むしろ、こちらが供したひと皿をそんなふうに、さも大切そうに抱えられると、なんというか、その。
「……俺の料理、そんなに好き?」
声に出してから、とんでもなく命知らずなことを口走ったと悟る。
馬鹿にするな。どうして俺が。
それらの小言にプラスして、謂れなきゴリラの称号なんかを畳みかけるように浴びせられるのが関の山だ。
そう思って身構えたが、どういうわけかいつまでたっても小言の雨は降ってこない。
それどころか、寂しそうな表情を隠しもしないもんだから、まるでこちらが悪者にでもなったようで決まりがわるい。
「あー、その、えーと……あっ、逆か! あんまり好きじゃなかったか、パン」
薫の苦手な食材なら把握しているし、今まで出した料理を残されたことは無かったから考えも及ばなかったが、実はパンは不得手だったのか。
――いや、ピッツァもパニーニも作らされたことあるよな?
「ひさしぶり、だから……自家製パン」
「え?……ああ!」
普段料理と一緒に出しているフォカッチャやグリッシーニなどのパン類は基本的にここの厨房で毎日作っている。しかし、今月の頭からオーブンの調子が悪く、騙し騙し使っていたのだが、先週ついにうんともすんとも言わなくなってしまった。昨日ようやく修理が完了して、今日から再度自家製パンを提供できる環境が整ったのだ。
フォカッチャくらいならフライパンで作れなくもないが、流石にすべてのお客の分を用意するとなると手が回らない。それでオーブンが使えない間は、近所のパン屋からバゲットなどの食事パンを仕入れさせてもらっていた。俺自身、個人的に買いに行くくらい気に入りの店だから味の保証済みだ。――いや、でもそれって、つまり。
「俺の作ったパンが食いたかったってことか?」
あ、しまった。
逸らされた視線に、また言ってから間違えたことに気付く。
途端、薫の頬が赤らんで見えてくるのだからたまったものじゃない。酒に酔ったって、こんな顔をしたことがないことは、俺が一番よく知っているはずなのに。
「……なら、なんで残してんだよ」
違う違う! 何言ってんだ俺は!? これじゃまるで俺が拗ねてるみたいじゃねぇか! クソ! なんだか薫の様子が妙にしおらしいから、こっちまでおかしくなる!
「……だろ」
「なんだよ? ハッキリ言えって」
思えばその時既に、俺も正気じゃなかったんだろう。聞き返してしまったことを後悔したときにはもう遅かった。
「食べたら、なくなっちゃうだろ……!」
耳まで赤くした薫のその一言が、トスッと俺のど真ん中を貫く。
頭の中でパンッとクラッカーが鳴り響き、薫に食べさせるためのパンが脳内で膨れ上がって美味しそうなゆげを上げる。
そうして何の前ぶれもなく、俺のパン祭りの幕は切って落とされた。
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