Privatter+
Font
Serif
Sans Serif
Color
Light
Dark
auto
Font size
Large
Medium
Small
Language
Japanese
English
Sign in with Google
Sign in with ID and password
Account ID
Password
Sign in
Forgot password?
Create account
千代里
2024-05-31 14:09:42
14104文字
Public
リーブラ13話
Clear cache
リーブラの針は問う・13話・その13
冷めてぬるくなってしまった紅茶からは、ノエの苦手な濃い砂糖の味がした。だが、それは母がいつも嗜んでいた紅茶の味でもあった。
その味を、今は自分の父を前にして味わう。かつてなら想像もしなかった状況だ。しかし、厳然たる事実として、ノエは父親と対面して、彼が注いでくれた紅茶を喉に流し込んでいる。
「私がどのような者であるかを、私自身の口で語ってほしい。そう言っていたな」
「はい。確かにそう言いました」
先だっての申し出を、ノエは繰り返す。ノエの一方的な判断ではなく、この街に来て知っベルナールという男の多様な側面を知りたいのだ、と。
「それを聞いたとしても、お前にとってはただの言い訳に聞こえるかもしれない。私がお前を助けなかった事実は、私が万の言葉を尽くしても、今更変えられることではない」
先ほどのやり取り比べると、ベルナールの言葉は細く聞こえた。
ノエと再会して得た喜びと高揚は、本物だったのだろう。だが、ノエが口にした言葉の数々により、ベルナールはノエにとって己がどのような存在であるかを見つめ直したようだ。
(
……
言い過ぎだったかもしれないな)
父と再会したからといって、ノエは彼を言い負かして傷つけたかったわけではない。
そもそも、父に何かしてもらいたいとも、父をどうにかしてやろうとも具体的には考えていなかった。
けれども、実際に父親を前にして感情が先走り、自分でも予想すらしていなかった、父親を傷つけたいという気持ちに駆られた。実際、ノエは衝動に任せて彼が傷つくと分かっている言葉を敢えて選んで叩きつけた。
その結果、ほんの数分程度は、相手を言い負かす高揚が全身を巡った。けれども、今こうして冷静になった先にノエに残ったのは、苦々しい悔悟だけだった。
それらを踏まえた上で、ノエは明らかに消沈した様子の父親の言葉に耳を傾ける。
「ならば、今更、どうして私がお前を呼んだのか。まずはそれを聞いてもらえるか」
「
…………
はい」
長い吐息の後に、父親である男は静かに告げる。
「私は
……
お前に謝罪したかったのだ」
「それは、何に対してでしょうか」
再び膨らみかける怒りを、ノエは先ほどよりは穏やかに沈めた。すでに、相手に自分の考えを叩きつける段階は過ぎたのだ。
今は、父の言葉に耳を傾ける番だ。他ならぬ自分がそう言ったのだから。
「何に対して
……
と一言で言い表せるものではない。だが、真っ先に言わねばならないのは、お前が最も私の力を必要としていたときの私の振る舞いに対してだ。私はお前が助けを求めていると知りながら、目を塞ぎ、耳を塞ぎ、お前は異端の罪と関係ないと声を上げなかった」
ベルナールの声は、淡々としていた。けれども、それは彼の中にある後悔の気持ちを抑えているからだと、ノエにも予想ができた。
そうしなければ、きっと彼は恥も外聞も捨ててノエへと頭を下げていたのではないかーーそう思うような気配が、彼の言葉の端々から滲んでいた。
「お前の母親ーーメリュジアヌに異端の罪を被せたことも、正しいと言えることではなかった。それも承知している」
「正妻が異端者に堕ちたとしたら、家名に傷がつく。それを恐れて、お母様が異端者であったのだと発表したのですか」
「ああ、そうだ。私のもう一人の妻ーーワルギリアは、私の父と相手の父が双方合意の上で成立した縁談の末に、迎え入れた女性だった」
ノエは、今まで父であるベルナールと正妻である女性がどのように縁を結んだかを知らなかった。恐らくは縁談だろうと思っていたが、そこにベルナールの意思が介在していなかったとは、流石に予想していなかった。
「家格は、ワルギリアの実家の方が我々よりも上であった。そうなれば、相手は自分の送り出した娘が異端者に変じた原因は、嫁ぎ先のこちらにあると言うだろう」
貴族にとって、相手の弱みというものは付け入る隙にしかならない。全てがそうではないかもしれないが、少なくとも、ラペイレット家は、妻の実家から救済の手が差し伸べられることはないと判じた。それが、彼らの関係を明確に示している。
「単に、私が夫として不適格だったと非難されるだけならまだいい。ラペイレットの家が丸ごと異端の烙印を押されれば、その咎はお前だけでなく私や私の両親、娘や使用人にまで及ぶかもしれない」
「
……
だから、僕とお母様を生贄にしたのですね。妾の親子が勝手に道を踏み外した。そうしておけば、咎は本家にまでは及ばないと」
「そうだ。
……
だが、お前には裏にどんな事情があったとしても、到底受け入れられるものではないだろう」
ベルナールの言う通り、ノエは自分の中にいる激情が少しも収まっていないことに気がついていた。一方で、彼の話した事情を受け入れ、飲み込み、現状を俯瞰している自分の存在にも気がついていた。
「あなたのおっしゃるように、僕はあなたが今語った理屈を聞いても、僕が見捨てられた理由として受け入れねばならないものだとは到底思えない」
納得はしていない。しかし、理解はできる。
そのような非情な決断を迫られた際に、情を優先して何もかもを台無しにするわけにはいかなかった。ベルナールのような立場に置かれた者の気持ちなら、今のノエにも理解することならできた。
「あなたの理屈を全て受け入れたわけではありません。それでも、そのような事情があったのかと
……
ここにいる僕は知ることができました。それもまた事実です。まだ年若いあなたにとって、自分の失敗で家を潰すべきではないと、気持ちが逸っただろうことも」
「ーー
……
それだけではない」
「違うのですか」
「私は
……
焦っていたのだ。兄が譲った家督を、私が台無しにするわけにはいかないと。さもなくば、街の者もこぞって『フィリベール様が領主になっていれば』と言っただろうから」
そこで、ノエは気がつく。ベルナールの言葉を今まで覆っていた、薙いだ湖面のような静謐な気配が剥がれ始めたことに。
ノエの激情を受けてもなお、ベルナールは動揺を露わにしなかった。領主としてこの地で最も責任ある人物として、己のかくあるべきという姿を辛うじて保ち続けていた。
だが、震えが混じった今の言葉には、そのような泰然とした気配は薄くなっている。
「
……
僕も一つ、疑問に思っていたことがあります。なぜ、長子である伯父上は、この家の当主になっていなかったのですか。聖職者になりたいからという伯父上の希望を、あなたの父親ーーおじいさまはすんなり受け入れたのですか」
イシュガルドの貴族の全てが、嫡男が後を継ぐと決まっているわけではない。ノエの伯父ーーベルナールの兄であるフィリベールのように、聖職者を志して家督を他の兄弟に譲る例もあるだろう。
だが、やはり家督は長子が継ぐものという考え方は濃いはずだ。跡取りにおいて、他ならぬ長子が辞退を申し出て、当主がそれをあっさりと受け入れるという絵図が、ノエには予想しづらかった。
「僕が知らないだけで、伯父上は当主になれない事情を抱えていたのでしょうか。たとえば、体が弱いとか、持病を抱えていたとか
……
」
「いや、そういうわけではない。フィリベールは
……
兄は行方不明になるその日まで、病らしい病もしていない壮健な男だった」
「では、どうして」
ベルナールは、苦虫を何匹も噛み潰したような顔をした。それほどまでに、彼はフィリベールが後を継がなかった理由を語るまいと、己の気持ちを飲み込んでいたのだろう。父の表情を見ただけで、ここに来たばかりのノエであっても、その気持ちは感じ取れてしまった。
「
……
お前と同じだ、ノエ」
「僕と同じ
……
。まさかーー伯父上は」
ベルナールが示唆として吐き出した言葉は、ノエにある一つの推測を与える。そして、ベルナールは彼の推測を肯定で受け入れた。
「そうだ。兄はーーフィリベールは、この家の正当な血筋を引いた子どもではない」
ノエが尊敬していた師匠は、自分の父と同じ血を引いていないと。目の前の男は、そう言った。
「ですが、伯父上はあなたと同じように、本家の子供として育てられていたようですが」
「それも間違いではない。私の父ーーお前の祖父は、かつて愛妾を囲い、妻と妾の間を行き来する生活を送っていた。そして、不幸にも、正妻と妾が同時に懐妊の知らせを父に告げた」
それでも、その時はまだノエの祖父は事態を重く見ていなかった。彼は、イシュガルド貴族の常として、妾の出産が終われば、家から追放するつもりでいたからだ。流石に多少の情はあったのか、生活の支援として幾らかの援助は予定していたようだが、それも長くは続けないつもりだった。
そのような話を聞かされ、ノエは嫌悪を顔に浮かべずにはいられなかった。イシュガルドの貴族にとっては常習化されていることとはいえ、自分の血縁が己の倫理観から外れた行動をしていたと知ったのだ。平然としていられるわけがない。
「もし、祖父の妻ーーお前にとっては祖母に当たる彼女の子供が無事に生まれていたなら、さしたる問題はなかった。しかし、祖母が産み落とした子供は、生まれた時からすでに息をしていなかった。そして、妾の方の子供は無事にこの世に生まれ出た」
「
……
まさか、すり替えたのですか」
ベルナールは無言で頷く。
ノエの祖父にどのような思惑があって、そのような行動に出たのかは定かではない。妾が産み落とした子供が男児で、本妻が死産だったとなれば、妾が自身の子供を擁立しようと声を上げることを危惧したのだろうか。
「父からは、産後の母の具合がそれほどまでに悪く、死産と聞けばなおのこと体が弱り、命を落としかねなかったから
……
と聞いている。事実は定かではない」
「では、本当なら伯父上の母親となるはずだった方は、どうなったのですか」
「それはわからない。家を追い出されたのは確かだろうが、その後どのようにして過ごしていたのかを、父は最期まで語らなかった」
だが、決して明るい別れ方ではなかったのは確かだ。自分の息子を返せと迫られることのないよう、ギルを積んで放逐したか、それとも口封じとして秘密裏に処分したか。
どちらにせよ、全てを知るものは皆ハルオーネの御許に旅立ってしまった後だ。
「では、僕の祖母はどうだったのですか。自分が息子として育てていた子供が、実は己の血を引いていないと知っていたのですか」
「もともと、あまり子育てに積極的な方ではなかったのだが
……
ともあれ、最初は母はすり替えについて知らなかったようだ」
イシュガルドの貴族の中には、子供とはあくまで血の繋がりさえあればいいと考える者もいる。どうやら、ノエの祖母もそのような教育方針だったらしい。普段は、乳母に任せきりで子どもの面倒は時折時間が空いたときに、気が向いたらーーといった程度に過ぎなかった。
「だが
……
ある日を境に、明らかに彼女がフィリベールから距離をとるようになり、冷たく接するようになった。代わりに、殊更私に干渉するようになった。その理由が何なのかは明白だろう」
そして、その違いの意味を全く知らずにいられるほど、フィリベールは愚かな子どもではなかった。
七つ八つの幼子ならいざ知らず、物の分別がつくようになり、自分の社会的な地位を知ったフィリベールは、母が自分を拒むようになった理由を、父が自分に向ける罪悪感混じりの視線の意味を、ただの気のせいとしてやり過ごすことができなかった。
「
……
伯父上は、自分の出自を知っていたのですか」
できるなら、自分が師匠と仰いだ人がそのような形で傷ついていなければとノエは願った。しかし、それはあり得ないことだとも分かっていた。
果たして、ベルナールはゆっくりと首を縦に振った。
「知ったのがいつだったかは、定かではない。兄上は、そのような私的な感情を表立って出す方ではなかった。私に対しても
……
いつも良き兄として振る舞っていた」
しかし、言葉とは裏腹にベルナールの声に震えが混じった。淡々と事実を語っていた今までの発言とは異なる、彼自身の感情が、瞬間浮き彫りになる。
「私も、兄上を尊敬していた。この兄ならば、良き領主になるだろうと確信していた。兄の後を追い、兄を支える者になろう、と」
領民も、仲の良い兄弟の未来を疑っていなかった。
兄は領主として父の後を継ぐ。弟は、そんな兄の補佐となる。周りからの声もあって、ベルナールも己の役割を幼い時から理解していた。
「
……
ですが、伯父上は跡取りの座を辞退した」
「ああ。聖職者の道に進みたいと望んだからという話になっているが、それが建前だということは当時の私にも分かっていた。その頃にはもう、兄の出自については私も知るところとなっていた」
たとえ公言されておらずとも、自分と兄の扱いの差や、向けられる言葉の端々に滲む感情に無自覚でいるほど、二人は子供ではなかった。
それでも、ベルナールはどこかで思い続けていた。きっと、兄が次期領主になるはずだと。しかし、現実はベルナールの思い描く通りにはならなかった。
「血筋など関係ない。どちらが優秀かは領民にすら分かっていたほどだ。剣の腕も、学問の才も、兄の方が抜きん出ていた。
……
母は、なぜ私がフィリベールに敵わないのかと、いつもそう漏らしていた」
「
…………
」
できる限り感情を削ごうとしているのだろう。それでも、ノエは感じ取ってしまう。
優れてはいるものの、当主の座を継ぐ血筋だけは持ち得なかった兄と。
兄に一段劣っていると言われ続けながらも、当主の座に収まる血筋だけは持ち合わせていた弟と。
きっとその間に生じていた歪みや軋轢は、単純に言葉で言い表せるものではなかっただろう。きっと何年も、あるいは十数年以上、兄弟はその軋みの中にいた。それでも、彼らは互いに背を向けずに、家族として互いに顔を合わせ続けていたのだ。
(僕の前にいるのは確かに父だ。でも、この男は
……
僕の父としての顔だけを持っているんじゃない。領主としての顔とも違う)
当然のことではあるはずなのに、ノエは失念していた。父には、父が生きてきた数十年の歴史がある、ということに。
それを理由にして彼を許すつもりはなかったけれども。それでも、ベルナールにはベルナールだけの人生があることを無視できなかった。ちょうど、ノエがベルナールの知らない十五年を過ごしてきたように。
「だが、いくら優秀であるといえども、父も母もわかっていたのだろう。フィリベールは妾の子供だ。もし真相が明らかになれば、我が家は周りの貴族から一段下に見られる。それは、我が家にとって覆しようのない弱みになる」
そして、フィリベールも自分が家の汚点になることを拒んだ。彼もまた、弟のベルナールを領主にと推した。
「私は
……
兄に甘えていた。兄が領主になるのだから、自分の責任はそこまで重くなかろうと。しかし、父も母も私こそが次期領主だと決めてしまった」
「あなたは、領主になりたくなかったのですか」
「
……
私に兄がいなければ、喜んで受け入れただろうさ」
男の皺の寄った頬に、皮肉混じりの笑みが混ざる。他ならぬ自分自身に向けた卑下は、きっと何十年も己に向け続けたものだ。
「私が次期領主の教育に忙殺されている頃、兄は神学院を経て異端審問官へと任ぜられた。その頃が、私とフィリベールの関係においては最も穏やかな時間だったかもしれない。少なくとも、私は彼と顔を合わす時間を減らすことができたのだから」
兄のことが嫌いになったからではない。兄を変わらずに尊敬する気持ちはある。
だが、それ以上に、兄が顔を出すことにより、自分の至らなさが露わになるのが耐えられなかった。お前はお情けで領主の立場を譲ってもらったのだと、誰がそう言ったわけではないが、そのような声が常にベルナールにまとわりついていた。
「
……
しかし。私は弱かった。今だからこそ、私は己の弱さが理由にならないと言える。しかし、当時の私は、己の弱さもまた仕方ないと言い訳にしていた」
ベルナールが顔を上げる。ノエと瓜二つの青銀が、ノエを見つめている。
それゆえに、ノエもまた悟る。この先の話は、きっと自分が知りたかった事実に近づく話になると。
「私は、自分の責務に背を向けたかった。その末に、私は親のことも家のことも兄のことも忘れられる、自分だけが逃げ込める場所を見つけた。そして、そちらに気持ちを傾けるようになっていた」
「それが、僕のお母様ですか」
「
……
ああ。メリュジアヌは、雲霧街の出身だった。私は皇都に滞在していた時に、彼女に出会ったのだ。領主としての座を正式に継いで、各所へと繋ぎを作っている一方で、私は彼女との日々に救いを求めようとしていた」
その瞬間、確かにノエは見た。ベルナールの横顔に今まであった強張りがふっと解け、代わりに安堵の表情が浮かんだことに。
ベルナールにとって、ノエの母は今もなお、思い出すだけで頬を緩ませるほどに愛おしい相手ではあるのだろう。異端の罪を押し付けたことと、夫としての情は、彼の中では全く別のところにあるようだった。
そして、それは残念ながら今のノエには理解できない感覚だった。
「
……
最初は、会うのは一度だけにしようと思っていた。私自身、すでに婚約の話が浮上していた頃だったからだ。父の過ちにより、私とフィリベールのような兄弟が生まれていたことも知っていた以上、妾を持つべきでないと最初はそう思っていた」
「それでも、あなたはお母様と会い続けたのですね」
ノエの声が硬くなる。いっそ、あなたが会わないでいてくれれば、という言葉が喉の奥まで出かかっていた。しかし、もしベルナールが『過ち』を犯さなければ、ノエはここにこうして座っていることもできなかった。
ベルナールも、自分の選択をそれ以上は取り繕わなかった。ノエの言葉に、彼は明確に一度頷いてみせた。
「私が皇都を発つまでの半年近くの間に、彼女はお前を身籠っていた。私が皇都を発つ直前に、メリュジアヌは腹の子の存在を私に打ち明けた」
本来ならば、すぐにでも堕ろせと迫るべきだったのだろう。次期領主への足固めをしている最中に、そのようなスキャンダルは、どう考えても家にとって良いようには働かない。
フィリベールのときとも、また違う。妻を迎え入れる前に外で女遊びに耽溺していた上に子供まで宿させていたなどとなれば、縁談相手全員から背を向けられる可能性すらある。
「でも、あなたは母を自身の領地に迎え入れたのですよね」
「ああ。最初は、私も彼女の扱いに悩んだ。雲霧街に残していくか。それとも、フィリベールの時のように、私の子供だけを攫っていくか。あるいはーー」
「自身の領地に迎え入れて、秘密裏に養うか。そして、あなたは僕たちを養うことを選んだ」
しかし、ベルナールは首を横に振る。
どういうことかと、ノエが眉を顰めていると、
「お前たちを領地に招き、養う。それこそが、父親としての私がとるべき『正しい』選択だと私に諭したのは、フィリベールだ」
「
……
そうでしたね。確かに、僕もそのような話を聞いたことがあります」
だから、ノエはフィリベールを一時期父と同じように嫌っていた。自分勝手な独りよがりの善行のために、将来のことも考えず母子を貴族のように遇しようと提案したのだろう、と彼を憎んでいた時期もあった。
だが、今こうしてフィリベールの半生を父から聞かされて、ノエは全く異なる視点で師匠である伯父を見つめ直せた。
「
……
伯父上は、僕らの姿にありし日の自分の姿を見たのでしょうか」
「そうかもしれない。私とて、全く重ねなかったといえば嘘になる。かつての父のように、自分勝手な事情で親子を引き裂くような結果にしたくないと、どこかで私は『父より上手くやってみせる』と思っていたのだろう」
「それでも、あなたは縁談は受け入れた。
……
母は正妻にはなれなかった」
なってほしかった、というわけではないが、要らぬ期待をもたせた事実には変わらない。
もし、そのまま雲霧街に親子を置き去りにしていれば、きっと母は領主夫人になる道を諦めたのではなかろうか。
(
……
全ては可能性の話に過ぎない。もしかしたら、僕の懐妊を父さんが皇都を発つ直前に告げたのも、父さんに考える時間を与えさせなかったからかもしれない)
ノエは小さくかぶりを振る。その件については、今となっては考えても詮ないことだ。
「
……
私は、メリュジアヌを愛していた。だが、私は領主でもあった。兄から譲られた地位を、私は守らなければならなかった。当時の私にとっては気が進まないことではあったが、貴族社会での立ち位置を確立させるためにも、正妻を貴族の家から迎え入れる必要があった」
「
……
その物言いは、あなたが迎えた奥方に対して、不誠実ではありませんか」
「ああ、分かっている。私は、彼女にとっていい夫ではなかっただろうことも、今は重々承知している」
単純にベルナールの振る舞いだけを見れば、彼は二人の女性を関係を持った不埒な男に見える。実際、ノエの中の半分は父に対する軽蔑の気持ちを抱えている。
だが、もう一方で、ベルナールが責任ある立場と己の私情の間で揺れ動く気持ちがあったことも理解していた。いくら彼が領主であるといえども、己の抱く気持ちの全てを切り捨てろと言えるほど、ノエは非情になれない。
領主であっても、ヒトであることに変わりない。誰かを愛しいと思う気持ちもあれば、疎ましいと感じる気持ちもある。責任から逃れたいと願うこともあるだろう。
その全てを否定することは、息子であり、父の行動の被害者ともいえるノエであっても簡単にはできなかった。
「私にとって、父と母が持ち込んだ縁談は、私を領主という立場に縛り付ける枷のように思えた。今だからこそ分かる。当時の私は、領主の座を継いだにも拘らず、己の責任の重さを正しく認識していなかったのだ」
「だから、妾であるはずのお母様の元にも顔を出し続けていたのですか」
「
……
私にとって、メリュジアヌとお前と過ごす日々は、領主としての顔を崩し、思うがままに振る舞える場所でもあった」
流石に頻繁にとはいかなかったのは、妾の存在を正妻に語っていなかったからだ。無論、女の勘とは鋭いもので、正妻として嫁いできた女性は、すぐにベルナールが囲っていた愛妾の気配を察知していたようだった。
しかし、貴族社会にとって妾の存在はしばしば現れるものである。だから、正妻も最初はベルナールが妾の元に通うのを飲み込もうとした。その不満は、数年後に異端者という形で露わになるのだが。
「だが
……
そうして何年か経つうちに、私はまた不安と劣等感を抱くようになった。特に、お前を見ているときに」
「僕
……
ですか?」
まさか、当時まだ二桁にも満たない年頃に、父親からそのような感情をぶつけられていたなどとは。そんなことは到底考えてもおらず、ノエは自身を指差して思わず問い直してしまう。
「お前は、フィリベールによく懐いていただろう。お前の母も、私よりも頻繁に顔を出すフィリベールに対して、親しみを持って接していた。私は、その姿を見てーー
……
兄が、私が唯一自分の拠り所としていたものすらも奪っていくと、そう感じてしまっていた」
そこにあるのは、根深い嫉妬の感情だ。
長らく、親にすら兄と比較され、兄のようにはできないという劣等感を抱えながら生きてきた男の間に生まれた歪み。その歪みが、再び時を経てベルナールを蝕んでいった。
「フィリベールが任務の末に行方を絶ったと聞いたとき
……
私は確かに喜んだ。ああ、喜んだとも
……
! あの男に、大事なものを奪われるかもしれないと恐れずに済むのだと、私は
……
安堵して、しまった
……
!」
声が熱を帯びる。しかし、そこにあるのは高揚ではない。まるで、自らの腹を割き、そこから湧き出た己自身の血潮から生まれ出た熱のようで。傷が熱を持って痛むように、その熱は決して喜びや興奮から生じたものではなかった。
「だが、ノエはーーお前は、あいつが帰ってこいとずっと願っていた! どれだけ、その言葉が厭わしかったか
……
!」
言葉の勢いに突き動かされるようにして、ベルナールは腰を浮かせかける。もし、彼が血気盛んな若者だったのなら、きっと椅子を蹴飛ばして立ち上がっていたのではと思うほどの気迫が、一瞬彼を覆っていた。
「お前がフィリベールを探す姿を見て、私はお前にとって不要なものではないのかと、そんな感情が生まれていくのを私は止められなかった! だからーー」
「
……
だから、僕を見捨てたのですか。僕が異端者として処刑されるのを、黙って見過ごしたんですか」
ノエの静かな問いかけに、ベルナールは長いため息で応じた。それが、少なからず肯定の意味を帯びていることは、ノエにも十分に分かった。
「
……
メリュジアヌに罪を押し付けるのは、私も避けたかった。息子を失いたくないという気持ちもあった。しかしーー私は、証明しなければならなかった」
これは言い訳だと、ベルナールは繰り返す。
最初に、自分の話をすると宣言したときと同様に。
「私は、兄がいなくとも正しく家を守れる。兄を失った上に、家すらも没落させては、私は生涯兄の影を追うだけの亡霊よりもなお惨めな存在と成り果てていただろう。それだけは避けねばならぬと、必死だった」
その末に、家の醜聞を押し付けるのにちょうどいい妾に全ての責任を押し付けた。その影響で息子が異端者としての烙印を押されようと、兄の影を追い続ける息子など不要だと思おうとした。
正妻との間に生まれた娘たちだけを、『正しい』子供として受け入れればいい。そのように必死に言い聞かせーーしかし、男はそのような暗示すら自分にかけられなかった。
「時が経ち、家が落ち着きを見せ始めた頃になると、私はようやくお前たちとの日々を振り返られるようになった。そして
……
ようやく気がついたのだ」
妾であるメリュジアヌを失ったことの責任の一端は、確かにベルナールにある。二人の妻の気持ちに配慮しなかった夫が、妻たちの衝突を招いた。
だが、流石に正妻が異端の道に踏み入るとまでは予想していなかった。だから、何もかもがベルナールのせいだとまでは、かろうじてではあるが、そう言えない部分もあった。
「だが、ノエ。お前を死に追いやったのは、間違いなく私だったのだ。私には
……
私だけは、お前を助けられる機会が明確にあった。なのに、私はつまらない嫉妬心と自分の劣等感を埋めるのに必死で、お前の手を掴んでやれなかった」
たとえ、ノエがフィリベールを慕っていたのだとしても、ベルナールの記憶の中にいるノエは父親を嫌っても疎んでもいなかった。父の姿を見かければ、皇都の土産話を求める無邪気な息子の笑顔ばかりが、ベルナールの脳裏にちらついた。
「
……
私は、お前を失いたくなかったのだと、手を掴むべきだったのだと、そう気がついたときには、もう何年も経っていた。異端審問官に問い合わせても、処刑はもう何年も前に終わっているという報告が届いただけだった」
どれだけ過去に戻りたいと思っても、そのような願いが叶うわけもなく。やり直しはできない選択の結末に、ベルナールは唇を噛み締め、己の過ちから生まれた後悔に耐えるしかなかった。
「
……
これが、私が語れる『私自身』の全てだ。領主として皆は私を評価してくれているようだが、所詮それも私が兄の後を辿って得たものにすぎない」
話が始まる前にノエが評価した『よき領主』としての顔すら、ベルナールはどこか皮肉を交えて受け取っていた。
「フィリベールならば、もっと上手く領地を経営していただろう。より人々を幸福にしていただろう。私は、フィリベールの真似をしているだけに過ぎないのだ」
ベルナールの言葉が途切れる。ノエにとって父親である男の告白は、そこで終わりを迎えた。すでに、紅茶はすっかり冷めてしまっていた。
ノエの内側では、今聞いたばかりの父親の告白がさまざまな形に変化し、渦巻いていた。
自分勝手な感情で『正しさ』から外れ、ノエを見捨てた『父』に対する怒りは依然として残り。
一方で、領主としての責務と兄への劣等感に板挟みになった『男』への哀れみが生まれ。
それでいて、責任ある立場を得た以上は、そもそも道を違えることすら許されるべできはないと『領主』に呆れる気持ちもあり。
どれも、ノエの中では正しいものであり、同時に正しくないものでもあった。
怒りに任せて、目の前の父親を殴りつけたい衝動も。
憐憫から、眼前の男を慰めてやりたいと願う気持ちも。
呆れから、眼前の領主を叱責したい心も。
どの選択もノエの中には同じだけの大きさでひしめき合い、何を選ぶべきかなど到底決められなかった。
「
……
あなたがどのような人なのか、少なくともあなたはあなた自身をどう捉えているかについては、よく分かりました」
まだ心の整理はついておらずとも、時は過ぎていく。わずかにさしていた日差しはゆっくりと薄くなり、夜の到来が近いことをノエに告げている。
「その上で、僕はあなたに言います。
……
やはり僕は、あなたを許さない。どれだけあなたの話を聞いても、許せそうにない」
静謐な空間に、ノエの声はよく響いた。
「お母様の名誉を汚し、僕を見捨てたあなたを受け入れない。どれだけの後悔を口にしても、その気持ちは覆らない」
そこで、ノエは言葉を喉の奥に押し込む。
これで全てに踏ん切りをつけたと言える。もう二度とあなたに会わないと宣言して、ベルナールとの対面を完全に拒絶しても、父はノエの選択を受け入れるだろう。
ただ、自分の中でほんのわずかに、何か他に言うべきではないかという迷いがある。だというのに、何を言うべきかは全く分からず、言葉は喉の奥で迷子になってしまった。
ノエが次の言葉を吐く前に、先にベルナールの方が口火を切る。
「
……
お前が何を思っていたとしても、私の気持ちは変わらない。私が、お前に謝罪したいという気持ちは、この先私の命が尽きるまで、私の胸に刻み続けていよう」
たとえ、息子が父を許す日が来なかろうと。ベルナールという男にとって、もはや赦しの有無は関係ないのだから。
再度の沈黙。それを破り、彼は先ほどとは異なる為政者の顔を覗かせて話を切り出す。
「ノエ。私の屋敷に無理に泊まって行けとは言わない。だが、今は宿がどこもいっぱいのはずではないか」
「ええ、そのようですね。何でも、ドラゴン族が近隣の村々に被害を出しているとか」
「ああ。ランドンが再び目覚めたせいで、各地の警備体制の補強が間に合っていない。この寒冷化のせいで、各領土からも支援を渋られている」
思いがけなく父親の置かれた立場を知らされたが、ノエとしては発言の中にはもう一つ気になる部分があった。
「ランドンとは、おとぎ話に出てくる竜に変じた男の名前ではありませんでしたか」
「よく知っているな。その通りだ。だが、あれは本当はただのおとぎ話ではないかもしれない。少なくとも、この家ではあれはある種の事実を語り継いだものとされている」
説話の中では、己の欲深さから自然と竜に変じたように語られているが、実際は異端者であった男が竜へと変じたのではないか、とベルナールは語る。
その様に見方を変えると、ランドンという名前を授けられたドラゴン族に対する考え方も変わってくる。
「あるいは、もともと長きにわたりこの地に生きる我々を襲ってきたドラゴン族に、かつてはヒトだったという物語を与えて、寓話としたのか
……
」
「少なくとも、物語の中にあるように仕留められることはなかったのですね」
御伽話の中では、ランドンは弟によって討ち取られている。しかし、現実では今も竜は暴れ回り、人々の生活を脅かしている。
「残念ながら、討伐の結果までは現実ではなかったらしい。数十年に一度の周期で、あれは活動を始め、人々を襲う。獣のように食物を求めてではなく、単純にヒトが逃げ惑う様を見たいがために襲っているようだ」
ベルナールはノエに向き直る。そこには憂いに満ちた父親の顔はもうない。あるのは自分のもとに訪問した冒険者に忠告する、領主としての顔だけだ。
「ランドンは村や街を特に狙って襲う。少数で行動する分には問題ないだろうが、十分注意して行動するように」
「
……
わかりました」
「宿泊する場所については、教会を訪ねるといいだろう。教会では、旅人のためにいくつか部屋を開けておくようにしている。お前たちのような冒険者のためなら、数日は部屋を貸してくれるはずだ」
屋敷に泊まってほしいと、ベルナールはもう言わなかった。ノエがどのような気持ちでこの場にいるのか、彼はもう十分に理解していたからだ。
「教えてくださり、ありがとうございます」
ノエもまた、他人行儀とわかりつつも粛々と頭を下げる。あなたからそれ以上の恩を受ける理由はない、と伝えるために。
その後も、街を巡るにあたって二、三の注意を受けてから、ノエはソファから立ち上がった。空は燃えるような夕焼けに包まれている。予想より長く続いた父親との面会も、そろそろお開きの時間だ。
「では、僕はこれにて失礼します。
……
今日は長々と時間をとっていただき、ありがとうございました」
息子と父ではなく、一介の冒険者と領主として、二人は向かい合う。
再会したばかりの頃にあったぎこちない空気は、すでに二人の間から消え失せている。そしてまた、再会した折にノエの中で爆ぜた熱も、今はすっかり冷えていた。
父である男に丁寧に礼をして、ノエは踵を返す。扉に手をかけ、外に出ようとした、その時。
「ノエ。一つだけ聞かせてくれ」
領主の男ではなく。
父親としての声が、ノエの耳に届く。
「
……
お前は、今、幸せか」
沈黙が生まれる。
時間にしてほんの数秒ほどであったにもかかわらず、その場にいる二人にとってはまるで何年もの時を隔てたような沈黙が。
やがて、ノエは振り返らずに言う。
「ええ。僕は今ーー幸せです」
嘘偽りなく、己の本心を全て音として。
彼はそう告げる。
「
……
そうか。ノエ
……
お前に、ハルオーネ様の加護があらんことを」
この言葉が、きっと最後になる。そのような気持ちが感じられる、静かだが万感の思いがこもった見送りの言葉だった。
だから。
ひとつ、深呼吸を挟み。
それでも向き直ることなく、ノエは言う。
「
……
あなたも、どうかお元気で」
今度こそ扉を開き、廊下へと足を踏み出す。
背を向けていたノエには、扉の向こうに消える父の顔は見えていなかったはずなのに。
なぜか、ノエの瞼には、自分を見送る父の顔が焼きついて離れなかった。
Reaction
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.
Custom color
Reset color
広告非表示プランのご案内