こち、こち、こち、と時計の秒針が時を刻む音が、室内に高くこだまする。普段なら時計の音など気にも留めないのに、今日ばかりはヤルマルの長い耳は時計の音ばかりを気にしてしまうようだ。
「……遅いな」
オランローの呟きはあまりに短かったが、それが何を指すのかわからないような察しの悪い者はこの場にはいない。
「確かに思った以上に長いが、十五年ぶりの再会なんだろう? 積もる話もあるんじゃないかな」
思わず漏れたと言わんばかりの呟きに、ルーシャンが当たり障りのない言葉を送る。
ノエが父親と対面している間、応接室に通された五人は暇を弄んでいた。最初こそ、五人は執事が運んできてくれたお茶と菓子に手をつけ、無難な会話で時間を潰し、最も気になる事柄から目を背けていたが、さすがに雑談の種も尽きてしまった。
そして、話題が尽きれば、必然的にずっと気に掛かっていた事項が口をついて出てしまう。
「ノエは、父親のことをよく思っていないだろう。長々とおしゃべりをするようなことはないと予想していたんだけどな。一体何をしているんだろうね」
「さてな。さすがに、血を見るようなことにはなってないだろ」
ヤルマルの言葉に、ルーシャンはさらりと物騒な言葉で応じる。
「……兄さんは、相手がどれだけ嫌いな人であったとしても、自分の気持ちを満足させるためだけに傷つけるようなことはしない人です」
ルーシャンの冗談とも本気とも取れない発言に、オデットは至極真面目な顔で反論する。
彼女の手には、ノエが部屋を出る前に預けた剣が鞘ごと握りしめられていた。さすがに、領主と面会するのに武具の持ち込みは許されなかったのだ。
「武器も置いていっているわけだし、そんな物騒なことにはなっていないだろう。ボクも、オデットの意見に賛成だね」
「だけど、そんな嫌いな相手に対して、ここまで長く話しているのも不思議」
疑念を露わにするサルヒ。彼女の疑念も、また当然のものだ。
「嫌いな相手だろうがなんだろうが、相手は親だ。しかも、ノエにとっては十五年ぶりに再会する相手だ。憎かろうがなんだろうが、相手がどうしているかは気になるだろう」
そして、オランローの発言もまた、ノエならばあり得そうと思えるものだった。
あの青年は、どれだけ相手が自分と相容れない相手であろうが、相手の気持ちを知ろうとする。その上、話す相手が肉親ともなれば、話したいことだけ話してさようなら、ともいかないだろう。
「それは、経験則かい」
「ああ。オレとて、あいつがあのような真似をしていなかったら、腰を落ち着けて言葉を交わしたかった」
オランローが言及しているのは、彼の育ての親でもある帝国兵の男ーーセルウィのことだ。セルウィは光の戦士に一矢報いるための情報を求めて、ノエとヤルマルを捕縛し、尋問にかけていた。オランローにとって、それは到底許し難いことであり、彼との別れ方も決して穏やかなものではなかった。
それでも、オランローはセルウィと言葉を交わしたいという気持ちを捨てきれていない。どれだけ、相手の振る舞いに怒りを抱いても、相手を懐かしく思う気持ちはまた別だ。
「いつか、またどこかで会うこともあるだろうさ。その時に、声をかけてみるといいよ」
「再会できたとして、嘗てのようにはいかないだろうな。あいつは、オレの逆鱗に触れた」
「まあまあ。ボクは無事だったし、ノエも快復したんだ。ノエはともかくとしても、ボクは君にずっと怒ってほしいとは思ってないよ」
「あんたはそうかもしれない。だが、これは、オレ自身の気持ちの問題だ」
手持ち無沙汰になったのか、ソファから立ち上がったオランローは部屋の調度品の一つへと近づく。彼の後を追い、ヤルマルがひょいひょいと軽い足取りで駆け寄り、
「ボクのせいで、君とセルウィが未来永劫仲違いってことになったら、ボクとしては目覚めが悪いんだけどな」
小声でオランローの角にそう囁くと、オランローは明け色の瞳だけをヤルマルへと向け、
「一番大切なものを傷つけられて、平然としていられるわけがあるか」
「…………一応聞くけど、それってボクのこと?」
「それ以外に誰がいる」
照れもなければ殊更に誇るわけでもなく、実にあっさりとそのような発言を向けられて、ヤルマルは落ち着きなく耳を動かす。こればかりは、意識して己の耳を止めるようなことはできなかった。
「と、ところで。ノエはやっぱり、父親と積もる話があって時間がかかっているってことなのかな」
「そう考えるのが妥当だろう。それ以外に考えられるとしたら、父親の方からノエに何か用があって、その件で話が長くなっているか、だな。あいつは、父親に呼びつけられてここに来たわけだから、父親の方の用事が込み入ったものだったのかもしれない」
「十五年ぶりの肉親との再会、だものねえ」
そこにどんな感情がよぎるのかは、ヤルマルには想像もつかない。
そもそも、ヤルマルは父親の顔を知らない。母親とて、自分が生まれているのだから自分を生んだ女性がいるのだろうとは知っているが、実際に顔を見た記憶は殆ど残っていない。唯一の肉親である兄は、すでに土の下で眠っている。
(でも、自分の人生を狂わせた相手に再会するってなると、流石にノエも穏やかではいられないかな。そして、ノエの父がもしノエのような人物だとしたら……)
血を見るようなことにはなってないだろうが、ノエが手をあげる可能性はゼロではない。
そして、ノエの父がノエ同様に誠実な性格の持ち主なら、彼は間違いなくノエの怒りを受け止めるだろう。たとえ、それが直接的なものであったとしても。
その末に、必ずノエは後悔する。たとえ、手をあげていなくとも、父親を意図的に傷つけるような言葉を吐いただけでも、彼は自らの一挙一動が正しかったかを振り返り、思い悩むだろう。
「うーん……。お酒は多めにしておいた方がいいかなあ」
「何を言っているんだ、ヤルマル。あんた、ノエを酔いつぶすつもりか」
「嫌なことを忘れるときに、お酒ってのは結構有効な手段なんだよ。あと、ノエはまあまあ飲めるタイプだと思う」
「おーい、そこの大酒飲みのヴィエラさんよ。若人に二日酔いの苦しみを教えるなよ?」
ヤルマルのぼやきが聞こえたのか、ルーシャンが苦笑混じりにまぜっ返す。けれども、彼らの発言のおかげで、重くなっていた空気が少しだけ軽くなった。
「存外、父親と腹割って話し合って、以前よりは打ち解けてるんじゃないか?」
「それは、兄さんがお父さんを許したってことでしょうか」
父の話を聞くたびにノエが顔を強張らせているさまを、オデットは覚えている。ルーシャンが言うように、ノエが簡単に父を許して受け入れてるとは思えなかった。
「許す許さないの問題じゃないさ。許さなくても、家族なんだ。今どうしているかって、気になるものは気になる。さっきもオランローが言っていただろ。その末に、以前よりも頑なな心が少しほぐれるってのは、まあ順当な流れだ」
ルーシャンはオデットに見えるように、人差し指を一本立ててみせる。それが長話の理由の一つであり、打ち解けたと考えられる原因の一つだ、と。
「それに、ガキの時に別れてからあいつは相当父親に対して怒りを溜めていたみたいだ」
今でも、ルーシャンはよく覚えている。ルーシャンがノエの出自に触れようとしたとき、今まで礼儀正しく振る舞っていた青年から、剥き出しの激情が垣間見えた日のことを。
「でも、あいつが長年積もらせてきた怒りは、本物の父親に対してのものじゃない」
「本物の父親……?」
「たとえば、ノエのすぐ側に父親がいて、終始ノエを虐げていたというのなら、ノエの恨みは現実の父親に向けられる。だが、実際はそうじゃない」
ノエは確かに父親に拒絶され、彼が救済を必要としていたときに背を向けられた。その事実は覆らない。
しかし、この十五年の間、常に父親が、ノエから見えるところでノエを拒絶し続けていたかというと、そうではない。
「ノエにとって、父親っていう存在は二つある。現実に今こうしてこの屋敷で生きている者と、この十五年間怒りを向けていた相手だ。でもって、後者の『父親』は現実のものじゃないんだよ。ノエがガキの頃に見た父親っていう思い出に、きっとお前はこんなことを思っていたんだってレッテルをかぶせて、そいつに対して怒っていたんだ」
そこで、ルーシャンは折っていた指を伸ばす。ここからが長話になる二つ目の理由だ、と。
「じゃあ、実際に再会して父親の姿が、自分が思い描いていた憎き父親像とずれていたらどうする。ノエとて、いつまでもガキの頃の気持ちだけで、父親を見てるわけじゃないだろ。その辺りのズレを直しながら話をするってなると、そりゃ十分二十分で済む話じゃなかろうさ」
ルーシャンは手をおろし、すっかり冷めてしまった紅茶の入ったティーカップに手を伸ばす。どこか慣れた所作でそれを飲むと、彼はオデットへと片目を瞑ってみせる。
「それに、ノエが何かしでかしてたら、もっと大騒ぎになってるだろ。ここでこうして俺たちがのんびりさせてもらえるってことは、ノエと父親の面会が、ひとまずは穏当に進んでいるってことなんだろうさ」
「そう、ですよね。きっと、そうだと思います。武器もここにあるわけですし」
ヤルマルの論をオデットは自分を安心させるかのように繰り返し、剣を握る腕に力を込める。
オデットの緊張を解こうと、サルヒは隣に座る彼女に寄り添い、鞘を握りすぎて白くなった手を優しく撫でてやっていた。
(武器を持ち込まずとも、気に入らない相手を仕留める方法なんざいくらでもある……とは、言わない方がいいだろうな)
サルヒと言葉を交わし、ようやくオデットの横顔から緊張が消え始めた。
せっかくほぐれた気配を自分の発言で濁すような真似が愚策であることは、ルーシャンだって重々承知している。
(さてはて、若人が戻ってくるまであと何時間かかるやら。年寄りの話ってやつは長くなりがちだからなあ)
ノエの性格はよく知っている。彼が、父親に対して何時間も恨み節を吐くような人間には見えない。
しかし、十五年もの断絶を重く見るのは父親とて同じはずだ。しかも、手紙によると、父親はノエとの再会を首を長くして待っていたらしい。
そうなると、次にいつ会えるかも分からない状況で、すぐにノエを解放するとも思えない。
(あと、考えられるとしたら……その親父さんとやらの方が、この十五年の間に歪んだ考えを育ててないことを願うだけだな。誰かを大事に思うって気持ちが行き過ぎると、時たま狂気じみた選択になっちまうものらしいからな)
たとえば、怪我をさせたくないからと子供を一室に閉じ込め、実質飼い殺しにする。
あるいは、俗世間に触れさせたくないからと屋敷丸ごと買い与えて、自分が気に入った者を幽閉し、己の望むままの教えのみを授ける。
そのような『秘密』は、貴族の中ではある種公然となっている部分もある。
街の様子を見る限り、ノエの父親にはそのような倫理を逸脱した思考に染まっている可能性は低い。だが、人は見かけによらないとも言う。
ルーシャンがそう思い、それとなく部屋の外に耳を傾けたときだった。
こつこつこつ、と絨毯の上からも響く、硬質なヒールの音を耳にしたのは。
続けて、コンコンコンと扉を叩く音。
いや、正確には、それはドンドンに近い激しさを孕んだノックだった。単に、叩いている人物の力が弱いためか、ノックの音として大きく響かず、そのおかげでそこまでの強打に感じなかったというだけだ。
思わず、ルーシャンたちは顔を見合わせる。
最初は、召使が五人を呼びに来たのかと考えた。しかし、五人を案内して丁寧にもてなしてくれた彼らとノックの荒々しさが噛み合わない。
なお、その召使は菓子と茶を提供した後は、まるで物言わぬ彫像のように部屋の隅に待機している。
「どうぞ。鍵は開いているよ」
皆が頷くのを確かめてから、ヤルマルは呼びかけながらも、それとなく入り口に近づく。
今の五人は武装を取り外し、武具は全て床の上や壁に立てかけてある。本来なら召使に預けるべきなのだろうから、これはノエの父が冒険者である彼らに見せた配慮だ。
ゆえに、弓を携えながら近づくことはできなかったが、ヤルマルは自身の四肢にそれとなく力をこめて、扉の目前までやってきた。
バン、と勢いよく扉が内側へと開く。ヤルマルが飛び退かなかったら、間違いなくヤルマルの顔面に扉が直撃していただろう。
「失礼しますわ! ここに、ノエという男が来ているのでしょう!? さあ、どなたがノエなのかしら。手を挙げてくださる!?」
言葉こそ丁寧であったものの、まるで敵陣に討ち入りに来たような物言いが室内に響く。
その勇ましさに、サルヒの脳裏には以前芝居で見た「やあやあ我こそが国一番の騎士」という名乗りをあげる騎士物語がちらりとよぎっていた。
「隠しても無駄ですわよ! わたくし、しっかりこの耳で聞きましたもの。今、ノエが来ていて、この部屋に案内したと!」
そうやって朗々と一同に問いかける相手は、サルヒが思っているような騎士ではなかった。そもそも、その人物は武人でもなければ、武装すらしていなかった。
部屋に入ってきたのは、エレゼン族の貴婦人だ。歳の頃はノエと同年代か、それよりいくらか下か。白銀の髪をまっすぐに切りそろえ、後頭部でゆるく結い上げている。その装いこそイシュガルド皇国における一般的な婦人の装いだが、若さや先ほどの振る舞いも相待って、どこかおてんばな印象が拭えない。
白銀の女性の後ろからは、黒髪の女性が音もなく入室した。こちらは、白銀の彼女のようにノエはどこかとは問わなかったが、同様の疑問を瞳に宿して、室内をぐるりと見渡していた。
「……悪いけど、ノエなら一時間ほど前にこの部屋から出て行ったよ」
状況はわからないが、ともあれノエはここにいないと説明しようと、ヤルマルが口火を切る。
すると、白銀の女性は吊り目がちの瞳をぱちぱちと瞬きさせ、
「あら、そうでしたの。では、あなた方はどなたなのかしら」
「ボクらは、ノエの同行者だよ。彼が父親と面会している間、ここで待っているように言われたんだ」
ヤルマルがそのように説明した瞬間、先ほどの気迫が再び女性に戻ってくる。
「あなた方は、あのノエの仲間ですのね。あの恥知らず、ついに本当にお父様のところに来るなんて……」
「恥知らずとは、随分な物言いだね。君たちは、ノエの境遇を知っていてそのように言うのかい」
ヤルマルが声のトーンを一段低くして、女性へと問いかける。すると、女性はヤルマルにナイフのような鋭さの視線を向けると、
「ええ、もちろん知っていますわ。あの男が、わたくしたちの大事なお母様を殺した人殺しだってことは!!」
「兄さんは、人殺しなんかじゃありません!」
間髪入れず挟まれた声は、オデットのものだ。彼女にとって、目の前の女性たちの暴言は到底看過し得ないものだった。
「大体、あなたたちは誰なんですか! いきなり入ってきて、兄さんのことをそんな風に言うなんてっ」
「兄さん? どうして、あなたが兄さんなどと言っていますの? あの男を兄と呼んで良いのは、わたくし達だけでしてよ」
女性は負けじとぴしゃりと言い返す。その内容に、ヤルマルを筆頭としたノエの同行者たちは、揃って驚きを顔に浮かべた。
確かに、ノエの血縁にあたる人物は、ノエが語った彼の過去にも登場していた。しかし、それは添えられたような語り方であり、ノエ自身その者とは親しくなかったのだろう。故に、誰もが今まで気にしていなかったのだ。ノエの父が住んでいるというのなら、この屋敷にもその人物がいる可能性があるということに。
女性は、自分の胸に手を当てて告げる。
「わたくしは、エヴァリンヌ・ド・ラペイレット。こちらは妹のイヴリー。どうぞお見知りおきを」
自己紹介というには、まるで狼が吠えるような勢いで女性ーーエヴァリンヌは一礼する。後ろに佇んでいた妹の方も、無言で会釈を挟んだ。
「先ほど申し上げました通り、わたくしたちはノエの妹ですわ。もっとも、あの男のような妾の子ではなく、正真正銘お父様の元に嫁いだお母様の子でありますけれどね」
ノエの妹と名乗る白銀の娘の勢いに気押されていたオデットは、一瞬言葉に詰まる。だが、妹の立場と先ほどの暴言は別だと思い至ったのだろう。ソファから立ち上がり、自分より一回り大きい女性たちを睨む。
「あなたたちが、兄さんの妹さんなのはわかりました。ですが、だからといって兄さんをそんな風に呼ばないでください」
「そちらこそ、分かっておりますの? あの男は、わたくしたちのお母様を手にかけたのですわよ」
「でも、それは君の母親が竜に変じていたからだろう。半死半生だった君の母親に追い込まれて、ノエはとっさに身を守るために剣を抜いた。そのように聞いているけれど?」
当時の状況については、ノエから得た情報以外のことは何も知らない。幼子の記憶には脚色が含まれることもあるだろう。できる限りこの場を穏便に片付けるためにも、ヤルマルは公平な聞き手としてエヴァリンヌに問いかける。
「ええ、そうですわね。お母様が……異端の竜に変じたことは事実です。ですが、お母様をそこまで追い詰めたのは、あの男の存在そのものと、その母親です」
「だったら、大人しくお母様に殺されればよかったのに」
ぽつ、と落とされた、冷たい雫のような一言。それは、今まで声高に己の主張を並べ立てていたエヴァリンヌの後ろから聞こえた。
妹として紹介された黒髪のエレゼン族の女性ーーノエのもう一人の妹である女性が、白熱する空気を一気に冷やすような一言を挟んだのだ。
「だというのに、あの男は今もお父様の心の中に居座り続けている。それどころか、浅ましくも生きながらえて、ただでさえドラゴン族の迎撃で休む間もないお父様を更に悩ませ続けている。それぐらいなら、最初から……お母様の爪に引き裂かれて、死んでしまっていればよかったのに」
抑揚の薄い声だった。だが、それは無感情から生まれたものではない。
むしろ、その逆。激しい怒りを内に秘めていて、表に出すまいと押さえつけているからこそ、彼女ーーイヴリーはそのような声を出している。
「お父様が何と言おうと、わたくしたちはあの男を認めませんわ。あいつがぬけぬけと我が家の敷居を跨ぐようなことがあったら、そう言ってやろうとこちらに来たのですけれど」
「さっきみたいなことを、兄さんに直に言うつもりだったんですかっ」
自らの主張を強気な語調と共に宣言するエヴァリンヌらに対して、オデットもまた顔を真っ赤にして声を荒らげる。
相手がノエの妹だろうがなんだろうが、オデットにとってはどうでもよかった。ただでさえ、家族のことで悩み続けているノエの心労をこれ以上増やしたくない。その一心だった。
ただでさえ、ノエはヒトを傷つけるという行為に迷いを持っている。不必要な殺生は避けるのはもちろんのこと、たとえ自分の命が狙われているときでさえ、彼は命を奪うという行為が『正しい』のか悩むだろう。
そんな彼の迷いの発端となった一連の事件を蒸し返して、もう一度『人殺し』などと言われたら、どれほどノエの心が傷つくか。オデットにとって、そのような発言は到底見過ごせるものではなかった。
「人殺しを人殺しと言って、何がいけませんの。自分が何をしでかしたかを忘れて、のうのうとよくも顔を見せられたものですわ」
「呼んだのは、君たちの父親の方だけどね。ノエが好き好んでここに来たわけじゃない。だというのに、ノエを責めるというのはお門違いではないかな」
激昂するオデットを片手で制し、ヤルマルは眉間に力を込める。言葉こそ冷静ではあったが、白緑の双眸にはちらちらと牽制の光がよぎっていた。
「だったら、そんなもの無視してしまえばいいのです。第一、今更になってどうして、生きているなどという知らせが届くのですか」
「ノエが、望んで自分の生存を父親に知らせたわけじゃない」
「ええ。ですから、どうして崖から落ちてちゃんと死んでなかったのかとエヴァリンヌは言っている。死んでいれば、生存の知らせが届くこともない。どうせ届くなら、骨が見つかったという知らせの方が私たちにとって望ましかった」
イヴリーの一言は、姉と違って冷静であるからこそ、余計に冷たく響く。
エヴァリンヌがノエが父の元に顔を出すことにはっきりとした怒りを示しているのに対して、イヴリーは対照的にただただひたすらに冷たい死をノエへと押し付けたいと願っているようだった。
「あなた方は、どうしてそんなにノエに死んでいてほしいの?」
じわじわと湧き立つ嫌な空気から逸脱した、静かな声が割って入る。それは、場の様子を黙って見守っていたサルヒの発言だった。
「……決まっていますわ。わたくしたちのお父様が、あのような者のために胸を痛めている。しかも、あいつはわたくし達のお母様を殺したのですわよ。これで『どうか生きていてください』と思えと言いますの?」
「あいつは、好き好んであんたたちの母親を殺したわけじゃない。それは分かっているんだろう。……さきほど、あんたたちは、自分の母親が竜になったことを認めていたからな」
オランローの発言に、エヴァリンヌは眉間に深く皺を刻み、彼を睨みつける。だが、お構いなしにオランローはエヴァリンヌの憤怒の視線を受け止める。
「だったら、あんたたちは、竜に爪と牙を向けられて、反抗もせずに大人しく死ねるのか」
「なっーー」
「あいつは、当時七つか八つだったか。自分がそれぐらいの年頃だったとして、あんたたちは『お前のせいで自分の身内がドラゴン族になったから、大人しく食い殺されろ』と言われたら、分かりましたと言って死ねるんだな?」
「……オランロー。もう少し抑えて。レディの前だよ」
一歩前に踏み出たオランローの声は、恫喝こそしていないものの、今にもはち切れそうな激情が混じっている。それを察したヤルマルは、先走りそうな若者に向けて、すかさず緩やかに制止の言葉を放った。
一方的にノエを糾弾されて、友人であるオランローが憤るのもわかる。しかし、彼女らに手をあげようものなら、余計にノエが不利な立場になる。恫喝とて、程度がひどければ同じだ。
(まさか、それを狙ってのことではないと思うけれどね)
こちらの怒りを引き出して、ノエを非難する理由を作ろうと考えている可能性。それは、流石に低そうだとヤルマルは判断する。
根拠はない。ただヤルマルの勘がそう言っているというだけだ。強いて言えば、彼女らの感情に走った発言を聞いて、そのような策略家には見えなかったと思ったから、だろうか。
「まあまあ、オランロー。これは、父親を愛する娘の可愛いヤキモチだ。そんなにムキになって怒るなよ」
ひりついていた空気を、ルーシャンのからかい混じりの声がなだめていく。あたかも、幼子が癇癪を起こしている様子を宥める大人のように。
だが、言われた側としては、そのような子供扱いはたまったものではない。
「ちょっと、それ、どういう意味ですの」
「どういう意味もこういう意味もありませんよ、お嬢様方」
怒りを露わにするエヴァリンヌとは裏腹に、ルーシャンはカップを優雅に机上に戻してみせる。普段は使わない貴族の如き言い回しに切り替え、おまけに、まさに子供に向ける大人の余裕の笑みを浮かべた上で、
「要するに、あなた方は父親の心を占めている兄に対して、嫉妬しているのでしょう。兄弟の間では良くあることです。特に、血が半分しか繋がっていなかったり、そもそも繋がってすらいないようなものを兄弟姉妹とした場合にはね」
いっそ、空々しいと思うような笑顔を浮かべて、ルーシャンは一堂を見渡す。
「お嬢様方はまだお若い。子供の可愛らしい嫉妬として、私たちも大目に見て差し上げましょう。おそらく、兄上であるノエ様もそのように仰るでしょうから」
ルーシャンは相手の流儀に合わせて、貴族的な言い回しを使っているのだろう。だが、それは表面上の話だ。
(……旦那様の方が、大人気ないような気もするけれど)
ルーシャンの隣で黙って様子を見ていたサルヒは、無言で彼の横顔を見やる。
エヴァリンヌのように怒りを露わにはせず、かといってイヴリーのように強い言葉を使って圧するのではなく。それでいて、的確に相手を馬鹿にして、一段下へと叩き落とすやり方。
ルーシャンがかつてまだ貴族の末席として社交の場に顔を出していた時、余計な『おせっかい』をしにきた貴族たちに接していた時の振る舞いは、確かに『子供向け』ではない。
「な……っ、わたくしたちは十分大人ですわよ!」
「おや、それは不思議なことをおっしゃるものですね」
確かに、見た目だけならエヴァリンヌもイヴリーもノエと大して変わらない。だが、ルーシャンは物おじせずに言い放つ。
「イシュガルドの貴族たるもの、どのような事態においても私情をはさむことなく、家のため、そして何よりも民のために為すべきことを為せ。私は、そのようなものこそが貴族であると認識しているのですが」
膝の上で手を組み、まるで自身こそがこの部屋の主であるかのような顔でルーシャンは言う。
「己の感情を開け助けに見せた上に、あまつさえ曲がりなりにも屋敷の主人の客人に向けて、かような暴言。子供の戯言としてなら、笑って流しましょう。ですが、これが我々が『平民』であるからと、侮った上での振る舞いだとしたらーー」
ふ、と口角を吊り上げて男は言う。
「いったい、どちらが無礼者なのでしょうね」
言いたいことを言い切って、ルーシャンは何事もなかったかのようにソファに深く座り直す。その隣で、サルヒは小さくため息をついた。
(あのような形で子供を言い負かすのは、やっぱり大人気ないと思うのだけれど)
ただ、サルヒとて上手くやり込める手腕を持っていたなら、同じようなことを口にしていただろう。なので、ルーシャンを責めるつもりも毛頭なかった。
「ルーシャン、そんなにムキになって相手を言い負かすものではないよ。どちらが子供がわかったものじゃない」
サルヒが心の中で思っていたことを、ヤルマルは数倍は朗らかな声音で、しかしそれとなく嗜めるように言う。
「あと、そちらのレディたちも。ルーシャンの言葉を借りるなら、そんなにムキになればなるほど、君たちの怒りが幼稚なものに見られてしまう。それは確かに、彼の言う通りだ」
限界までヒビが入ったガラスの如き空気は、ヤルマルの場違いなまでに明るい声が吹き込まれて、どうにか修復を始めていく。
「あいにく、ボクらにとってノエは仲間だ。そして、ボクらは彼の家族については、ほとんど知らないといっていい。ノエだって、この十五年は自分の家族と全くといっていいほど交流を持てていなかったんだからね」
自分たちは、あくまでこの家の問題について白黒の判断をつけられる立場ではない。そのように、ヤルマルは己の立ち位置を定義し直し、改めて二人を見据える。
「そこで、ものは相談なんだが。もし君たちがいいと言うのなら、君たちがそこまで敬愛してやまない父親について、ボクらにも教えてもらえないだろうか」
「ヤルマル……?」
何か言いたげなオランローに、ヤルマルは小さくかぶりを振る。
ここで、妹たちを追い返すことは簡単だ。だが、そうなると、彼女らは確実に父との面会を終えたノエを捕まえて、先ほどのような言葉をぶつけるだろう。自分たちが積もらせた感情を発散する場所を見失った末に放たれる言葉は、確実にノエを傷つける。
ならば、適度にたまっていた鬱憤を晴らす場所として、少々慣れない接待をするぐらい、どうということはない。
「どうして、わたくし達があなた方にお父様の話をしなければなりませんの」
「そこはほら、客人の接待だと思ってくれないかな。いくらノエを待つためだと言っても、話し相手もなしにここに留め置かれていて、正直ボクらも暇を弄んでいてね」
不愉快そうに眉根を寄せている姉妹たちに、ヤルマルは持ち前の朗らかさを遺憾無く発揮する。
「それに、ボクらはこの地に来たばかりだ。せっかくだから、この地を治める領主様の姿というものを知りたい。そうすれば、ノエとはまた違った視点で君たちの姿を捉えることもできる。さすがに、すぐに肩を並べて君たちのようにノエを責める、とはならないだろうけれどね」
ノエを非難した娘たちに対して、オデットとオランローの表情は相変わらず険しい。感情で動く若者たちにとって、一度自分の大事な人を非難した者を受け入れるのはそうそう簡単なことではない。
一方、ルーシャンやサルヒは、特段ノエの味方をするでもなければ、エヴァリンヌたちの味方をするわけでもない。先ほどはエヴァリンヌの暴言を見かねて、ルーシャンが痛烈な嫌味を放っていたが、言い回しが絶妙であったがために明確な敵対姿勢とはなっていない。
(早くノエが戻ってこないものかなあ。ああ、でも今戻ってきたら、余計に話がややこしくなるのか。まいったな)
普段なら、たとえ相手がこちらに対して敵意を見せていたとしても、ヤルマルの屈託のない明るい振る舞いやノエの正直すぎるぐらい丁寧な言動さえあれば、相手の警戒を解すぐらい訳ないことだった。
しかし、今は日和見を決め込んだルーシャンらと、ぴりぴりしている若者たちしかいない。ヤルマルは長い耳を垂れ下げたい気持ちを堪えて、
「チャーミングなボクの顔に免じて、屋敷に招いた客人への接待を、美しく礼儀正しいと街で評判のお嬢様方に頼んでもいいだろうか。最初は、茶飲み相手としてでもいいからさ」
そう言って、片目を瞑り、からりと笑って見せる。
自分でもわざとらしいと思うような愛想の振りまき方だが、果たして効果があったのか、エヴァリンヌは不意に何やらもの言いたげな表情を見せて、ついと視線を逸らした。
代わりに、控えていたイヴリーが優雅な一礼をしてみせ、
「……屋敷に招いた客人に対して、ホストとして接待するのも、私たちの役目。そういうことですね」
「物分かりが早くて助かるよ。いきなり家族の話をする気持ちにもならないなら、まずはこの街の話を聞かせてくれるかい? せっかく遠路はるばるやってきたんだ。思い出の一つや二つ、作ってから帰りたいんだ」
そういうことならと、二人の淑女が静々と室内へと入っていく。その間も、エヴァリンヌはちらちらとヤルマルに視線を送っていた。
「……おい、ヤルマル」
二人が椅子に座り、召使を呼びつけている隙を縫い、オランローがヤルマルの長い耳に口を寄せる。
「仕方ないだろう。この手の感情って、溜めておいたら溜めた分だけ派手に爆発しちゃうものだから。ノエの前でさっきみたいな剣幕で怒鳴られたら、ノエだってたまったものじゃないだろうし。彼女らだって、自分の不満を聞いてもらう第三者が必要なんだろうさ」
この屋敷には、彼女らと同じ目線で話を聞いてくれる相手がいない。
メイドや召使は、話し相手にはなってくれるだろうが、やはり身分の差がものを言う。本当は違う考えを持っていても、彼らは頷くだろうーーそう分かっている状態では、腹を割って話すとはいかない。
まして、父親本人に己の抱えているものを見せるわけにもいかない。他ならぬ、その父親に関する気持ちなのだから、心情としても見せづらいだろう。
だったら、新たにやってきた屋敷の身分とは無関係の第三者である自分たちが、話し相手にぐらいはなってやろう。ヤルマルはそのように判断したのだ。
「それは確かに、あんたの言う通りなのかもしれないが。オレが言いたいのは、そういうことじゃない」
紅茶のおかわりを召使へと頼み終わったエヴァリンヌの視線が、再びヤルマルに向けられている。
先ほどまでのキリで刺すような視線とは異なる、どこか落ち着きのない気持ちが混ざった視線に、
「オレは、ノエに怒られるのはごめんだからな」
「んん? どういうこと? ……いてっ」
首を傾げているヤルマルの額を、オランローはぐいと人差し指で押す。
続けて、彼は涼しい顔で茶を飲んでいるルーシャンの隣に腰を下ろした。いまだに剣を抱えたまま、顔を強張らせているオデットの手に、自分の手をそれとなく重ねてやる。
わずかに彼女の緊張が解けたのを察知しつつ、彼は瞑目する。
(……早く帰ってこい、ノエ。あんたが戻ってこないと、あんたのことを案じすぎて、オデットが先に参ってしまいそうだ)
そして、自分も胃が痛む思いがすると、内心で付け足しておく。
オランローの嘆息をよそに、ヤルマルは「じゃあまずは何を話してもらおうかな」と場を取り仕切り始めた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.