【ブラネロ】月の夜の猫

ブラネロウェブオンリー『「そういうことにしてるつもり!」12』さまの展示です。開催おめでとうございます!
ファウストに頼まれて夜ふけに嵐の谷に行くネロと、それについてくるブラッドリーのお話。

「おい、ネロ。こんな時間にどこに行くつもりだ?」
 夜ふけごろにエレベーターの前に立つと、後ろから聞き慣れた声がかかった。咎めるような、からかうようなその声に、俺は思わずマナ石を握った手を止めてしまう。振り返るまでもなく分かった、その低い声、穏やかでもあるが厳しさをたたえるその声は、ブラッドのものだった。でも珍しいじゃないか、いつもの今ごろは飲んだくれて寝ているか、俺につまみのフライドチキンをねだりに来るかのどちらかなのに。
……嵐の谷まで」
 俺はエレベーター前に設置された装置にマナ石をはめ、素直に口を開いた。するとブラッドはなぜかため息をついて、「こんな満月の夜に?」と重ねて言った。あそこは隠者の谷とも呼ばれる、魔力が強い場所でもあったから、彼なりに俺を気にしているのだろう。月の夜はいつもより精霊たちがざわつき、魔法生物たちも我を失うから。
「先生に頼まれたんだよ。猫の様子を見に行ってほしいって。なんでか知らねぇけど俺は猫に懐かれてたろ?」
 嵐の谷で訓練を行った時のことを言うと、ブラッドはようやく俺の側に来て、ジャケットのポケットに腕を突っ込んだまま「そうだな」とつぶやいた。そういえば、彼も結構猫に気に入られていたのだった。まぁ、俺ほどではなかったけれど。
「気に入られてるんだな。どうやって取り入ったんだ? あいつは早々人を信じる気質じゃないだろう?」
 ブラッドは笑い、わざと強い言葉を使った。
 俺が先生に取り入っただなんて、そんなことちっとも思っちゃいないくせに――おおよそ俺を怒らせて、本音を聞き出すためなんだろうに、ブラッドはそんなことどうでもいいみたいににやにや笑っている。でもあんたが聞きたい本音ってなんだ? もう嵐の谷ですることは言ってしまった。先生とどんなふうに親しくなったのか聞きたいのか? そんなのは秘密にするまでもない、数百歳年下の彼と親しくなったのは、ただまだ幼い魔法使いを庇護する立場にお互いあったから、それだけだった。
「先生は、あんたが思うほどお堅い人じゃねぇよ。酒を飲んだらあんたと変わらねぇくらいさ」
「なんだ、嫉妬させるつもりか? 俺が酔っ払ったらどうなるか、お前なら知ってるだろう?」
 ブラッドが少し熱を帯びた声で言う。
 彼は酔っ払うと、甘くなって俺にキスをする。酒を酌み交わしながら俺に触って、最後にはセックスをする。でもそんなことをするのは、今はブラッドだけだ。操だてしているわけではないが、そんな気分になれるのはどうしてか彼だけだった。
「ばか言え。先生とはそんなんじゃねぇって。ほら、エレベーターが来たぞ」
 部屋に響く金属音とともに、エレベーターが降り立つ。俺はそれに乗り込むべく足を進めたが、ブラッドは当然のようにこちらの側を進み、開いた扉の中に入ってしまった。俺よりも先に、これからするのはお楽しみごとではなく、ただの厄介ごとだというのに。
「なんだよ、あんたも行くのか? 猫の様子を見に行くだけだぜ」
「俺も猫には気に入られてるからな。助けてやるよ。どうせ試験の赤点を取り消してもらうつもりのお使いなんだろ?」
 その言葉に俺はため息をつき、エレベーターに乗り込んだ。一体どこから漏れたのやら。確かに俺は先生の試験で赤点を取って、補習を免れるべくこんな満月の夜にあの谷へと向かおうとしているのだった。シノが喋ったのだろうか? あの少年は結構ブラッドに懐いていたし、その主君であるヒースが喋るとは思えない。じゃなきゃ先生がか? でも、何のために?
「あんたの助けなんかいらないって……
「北の魔法使いは一途なんだよ。こんな騒々しい夜に、お前を一人で行かせられねぇだろ」
 ブラッドが笑い、俺に手を伸ばす。一瞬口付けられる、と思ったが、彼は俺のあごを掴むでもなく、髪をぐしゃぐしゃにしただけだった。これじゃあまるで子ども扱いだ。盗賊団に入ってすぐ、スプーンの持ち方も下手くそだった時、彼に満腹になるまで食わせてもらった時のようだ。
 俺一人でも大丈夫だとか、そんな言葉は何度も浮かんだが、俺はそれを口にすることはなかった。北の魔法使いは一途、か。俺はもう東の魔法使いだからそうじゃないが、彼がそのままだったのなら嬉しい。そんなふうに思ってしまうくらい、俺は今も彼にやられていた。ブラッドしか知らないわけじゃないが、今身体を許すのは、彼だけだったし。
 ――あぁ、やめだやめだ、満月の夜だからって、理性を飛ばすんじゃない。そんなことになったら、またこいつにからかわれるに決まっている。
 俺はそんなことを思い、エレベーターの扉が閉まるのを見つめた。ブラッドは腕を組み、壁に寄りかかったまま何も言わなかった。あんなに俺を求めているみたいな台詞を吐いたくせに、俺の様子をまだ伺っているみたいだった。
 仕事は早く片付けることにしよう。猫の様子を見るなんて簡単だ。俺はそう思っていた。そう思っていたのだが、東の国のエレベーターにつき、嵐の谷まで箒で飛ばして見つけたのは、思ってもみない光景だった。
 
 
 嵐の谷に降り立つと、なにやら精霊たちがざわついていた。魔法生物たちも、どこか騒々しかった。いつものように満月のせいかと思ったのだけれど、精霊はいつもとは違って何かを守るように俺たちを拒んだ。最初のうち、北の魔法使いであるブラッドがいるからかと俺は思ったのだが(俺は東の国の精霊には歓迎される気質だったから)、俺一人でこの隠者の谷に入ろうとしても、どういうわけか拒まれてしまった。
「どうする、ネロ?」
 ブラッドがこちらを伺うように言う。彼は魔法を使って結界を破ろうとしていたが、俺はそれを止め、上着のポケットから先生にもらった羊皮紙の札を出し、ひらひらとまたたく紙を空に浮かべた。先生が描いた魔法陣の札は、木々の枝のように伸びる結界の糸を解いてゆく。まぶしいくらいの月明かりの中、先生が張った結界は開いてゆく。俺はその様子を眺め、丁寧に編まれた結界は解かれてゆく様も美しいものなのだとしみじみと思った。
「あぁ、見事だ。呪い屋もやるもんだな」
「見惚れてねぇで行くぞ。さっさと片付けて明日の仕込みをしねぇと……
 俺は溶けてゆく結界を見つめるブラッドを置いて、先生が長く住んでいた屋敷を目指す。でも、そこにたどり着いた時、また精霊がざわついて、俺たちの行手を阻んだ。俺は確かあと数枚は札があったはずだと思って上着を探り、そのうちの一枚を取り出してさっきと同じようにしたが、なぜか今度はうまくゆかなかった。精霊は俺たちを警戒し、帰るように言う。でも、俺は先生に言われた通り、猫たちの様子を見なければならない。赤点の補習を回避するためには、それは必要な事柄なのだ。精霊たちは、そんなの、知ったこっちゃないだろうが。
 だから、俺は精霊が警告するのを無視して魔法を使って屋敷に入り込んだ。鍵の閉められていないドアを開け、屋敷に入り込んだ。ブラッドもそれに続く。先生が住んでいた屋敷は薬草や薬品で埋め尽くされていて、俺がもらったような魔法陣の札も貼ってあった。《危険、開けないこと》と走り書きされた引き出しもある。それは結界を破ってまで呪い屋の家にやって来る者にはお宝だと言っているようなものだったが、俺は過去の悪い癖を必死でおさえて、次々に扉を開け放ち、腹が空いている猫には餌を、怪我をした猫には手当てを、死んでしまっている猫には、色とりどりの花の咲く、雑草が生い茂る庭に墓を作った。
 俺たちは月が傾くまで屋敷中を歩いた。でもどういうわけか、納屋に続くドアを開けるとなると、またにわかに精霊たちが騒ぎ始める。俺は何がどうなっているのか理解できなくて、面倒なことが起こりませんようにと、面倒ごとが待っているそれを開けた。でも、納屋で待っていたのは恐ろしい精霊でも、魔法生物でも、もう長らく観測されていないドラゴンでもなく、にゃあにゃあと甲高い声で鳴いて乳を求める子猫と、俺たちを威嚇する母猫、それらを守るように倒れている父猫だった。
 俺は慌てて父猫に駆け寄るが、やはり彼はもう息をしていなかった。きっと母猫のために餌を取ってきたのだろう、父猫は鼠を噛んでいて、でもだらりと足を伸ばしていた。
 獲物を取るのに、他の生物と争ったのかもしれない。それで怪我を負ったのかもしれない。猫は本来母猫だけで子育てをするものだが、この場合は情が深い父猫だった、ということだろうか? 俺は魔法で母猫の周りに結界を張ってやり、父猫を抱き上げる。するとブラッドは笑って、
「お前もすっかり東の魔法使いだな」
 と言った。
「どういうことだよ。さっさと墓を作るぞ」
「北の国じゃあ死んだ者に情けはかけなかった。マナ石を食って終わりだ」
 ブラッドが寂しそうに言う。でも、それがあんたの最上級の弔いだった。それを俺は知ってる。
 彼の頬を月明かりが撫でる。俺はそれを眺めて、綺麗だななんて、月並みなことを思った。ずっと昔から抱いている、そんな月並みなことを思った。
「もう百年以上俺はここにいるから」
 あんたを捨てて、百年以上経つから、俺は変わってしまったから。
 そう言い訳をして、俺は庭に出る。母猫は俺を威嚇せず、愛しい男を静かに見送る。子どもたちに乳をやりながら、愛しい男を静かに見送る。ブラッドもその母猫に結界を張ってやり、魔法でシュガーを作って床に散らばらせた。猫がそれを食べるかどうかは謎だったが、食えば力が出る。母猫がそれに気づいてくれればいいのだが。
 それから、俺たちは父猫のために墓を作り、またがりがりの猫に餌をやり、怪我をした猫の手当てをした。彼らは皆、今も帰ってこない主人を待っているのか、俺が持つ先生の札の気配を伺っていた。今度先生にも屋敷を訪れるように言おう、俺はそう思い、土を掻いて汚れた手のひらを叩いた。
「確かに、お前はもう東の国の魔法使いだな」
 ブラッドが寂しそうに言う。
 俺はそれに何も言えず、彼の着るジャケットの袖を引っ張る。そして自分からキスをする。そんな顔は見たくないと、いつもの傲岸不遜なあんたでいてくれと、ねだるみたいに。
 俺たちは何度もキスをする。猫の墓の前に、雑草が咲かせた花びらが散る様子を眺めながら。どうぞあの猫たちは生き延びてくれと、そんなことを思いながら。満月の夜に騒ぐ猫たちが、少しでも幸せであってくれと思いながら。