千代里
2024-05-28 13:03:15
10440文字
Public リーブラ13話
 

リーブラの針は問う・13話・その11


ーー懐かしい。
その感情は、ノエが屋敷の中に入る門扉のところですでに感じていたものだ。
門の鉄柵の造詣や、絨毯の色味や質感。それを見ただけでも、ノエは自身の既視感を強く揺さぶられていた。
自分が貴族として生活していたのは、もう十五年以上前の話だというのに。まるで帰るべき家に帰ったかのような郷愁に、腹の奥底が掻き回されているようだ。
それは不愉快なものではなく、だからこそまた認め難い。自分はこれら全てから距離を置き、蓋をしていたつもりだったのに。もう大丈夫だと思っていた覚悟は、あっという間に覆されてしまう。
「ノエ様?」
……いえ、何でもありません」
先を行く執事に怪訝そうに呼びかけられ、ようやく、ノエは己が足を止めていたことに気がつく。
懐かしさに耽るような感慨など、生まれるべくもないと思っていたのに。不意打ちのようによぎる懐古の念が、知らず知らずのうちに足を止めさせていたようだ。
窓の向こうから差し込むのは、寒冷化を経たイシュガルドにしては珍しい薄い日差しだ。太陽は中天より少し傾いており、今の時刻が昼を過ぎたものの、夕方にはまだ早い時刻だと教えている。
教会を出たノエとオデットは、これ以上街を散策していては訪問に適した時刻を過ぎてしまうと判断し、ヤルマルとルーシャンたちにそれぞれに連絡をとった。
大通りの広場を集合場所に選び、再度顔を見せた面々は、各々の成果を語った。
ルーシャンは、ヤルマルが希望している二、三の食事処や酒場を見つけていた。父との対面を目前にして緊張を隠しきれないノエに、
「終わったら、美味い飯食わせてやるよ。今日はおじさんが奢ってやろう」
などと、いつものからりとした笑顔を見せ、ノエの肩を何度も叩いてみせた。
「宿の方なんだけど、あまり良い報告はできないね。残念ながら、どこもいっぱいみたいだ」
最近はドラゴン族の襲撃により、近隣の村が一つ壊滅したために、人でごった返しているとヤルマルは補足する。
「この寒冷地で野宿は自殺行為だ。宿に掛け合ったら、床くらいは貸してもらえそうだったよ」
「それで十分です。屋根さえあれば、後はどうとでもなると思います。遠路はるばるやってきてもらって、そのような場で寝かせる形になってしまったのは申し訳ありませんが……
「なーに、ボクもオランローも岩を枕に、川のせせらぎを子守唄に休む生活に慣れているからね。君の言う通り、屋根があるだけで十分だ」
これまた朗らかに笑ってみせたヤルマルは、ノエの胸を拳で軽く叩いた。先のことは気にするな、と伝えたいのは彼女の顔を見ればわかる。
そうして、一行が連れ立って向かった先は、この街の高台にある一際立派な様式の屋敷だ。かつては民衆を見下ろすためにこの立地に建てたのだろうが、今は逆に民から親しみを込めて見上げられている場所でもある。
門前にいる衛兵に、自分が誰かと訪問の目的を伝えると、十分と待たずに中へと通された。もう少し領主として警戒すべきではないか、などと、そんなことをノエが考えてしまったほどだ。無論、結局それも気を紛らわすための思索の一つに過ぎないのだったが。
応接室に通された一行は、ノエを除く五人はここで待っていてほしいと頼まれた。いくら仲間といえども、もとより家族の対面に顔を出すつもりはない。オデットだけは些か不安と不満を混ぜた顔をしていたが、ノエが頼めば首を縦に振ってくれた。
「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」
気負っていないことを示すために、できるだけ気軽な調子を装って、ノエは応接室を出た。そして今。彼は、執事の男に先導されて、屋敷の廊下を歩いている。
自分が幼い頃にどのような屋敷で過ごしていたかなど、もうとうの昔に忘れているものと思っていた。なのに、今こうして歩けば、自分の住んでいた屋敷にも似たようなものがあった、という郷愁が次から次へと芽生えていく。
質のよい調度品は、どれも高価そうではあるものの、過度の装飾がない。そのため、どのような調度品であってもお互いに調和が取れている。
貴族の中には、一揃えとして同じ職人に内装から家具の一切を任せる例もあると、以前商人から聞いたことがある。この屋敷には、そのような隙のない完璧さこそない。絨毯、机に置かれた小机、花瓶、壁紙、照明ーーそれらの造作は微妙に異なっており、恐らくは異なる職人の手によるものだと分かる。
しかし、お互いが主張しすぎない程度に調整された名工の作品であるとも分かる。だからこそ、職人が異なっていても、それぞれが自身の魅力を食い過ぎずに並び立っている。それは、見る者に過度の緊張を与えないということでもある。
もっとも、そのような計算された『緩み』すら、ノエの中に高まる感情の全てを宥めるには至らないのだが。
執事が足を止める。彼に追従して足を止めたノエが見上げた先ーーそこには、両開きの扉があった。他の扉よりも幾分か大きいそれは、恐らくこの屋敷の主人の部屋に続くものだ。
「旦那様。ノエ様がお見えになりました」
返事は、あったのだろうか。扉から少し離れているノエに、彼らの声は聞こえない。
いや、そもそも今の自分の耳は、正常に機能できているのだろうか。
自分の耳の奥で、延々と耳鳴りが響いているかのようだ。今のノエにとって、靴擦れの音も誰かの会話も、等しく意味のない音に聞こえていた。
「ノエ様。どうぞ、お入りください」
……わかりました」
己に向かって仰々しく一礼する執事を見て、緊張で忘れかけていた居心地の悪さが蘇る。
そもそも、自分は召使に敬われるような立場ではない。苦みに似た感情が、ノエの耳鳴りを沈め、自分がどこにいるのかを明確に教えてくれた。
扉の前に立ち、戸板を叩く。ノックの音の後、返事を待たずに、
……入ります」
この数分間の移動ですっかり萎えてしまった喉に喝を入れて、ドアノブに手をかけ、中へと入る。
扉を開いた瞬間、入室時独特の風の動きがノエの髪の毛を弄ぶ。
眼前に広がった光景ーーそれは、入る前に予想していたような、整えられた貴族の私室だった。
大柄なエレゼン族が二人は眠れそうな寝台や、寒冷化に伴い火を絶やすことのなくなった暖炉。語らいのために用意されたと思しきテーブルもソファも、それ一つで冒険者が一年は遊んで暮らせる額がするのだろうと思わせる、瀟洒な作りだ。それでいて、廊下の調度品と同じく、調度自体の主張は控えめであり、見るものを萎縮させない工夫がされている。
そのおかげだからだろうか。入室したその瞬間、ノエの青銀の双眸は、部屋の中にいた一人の男をすぐに捉えた。
……ーー」
男を何と呼ぶべきか。言葉は喉の奥で迷子になって、すぐに音の形をとってくれなかった。
ノエに似た、癖のある褐色の髪をゆるく一つにまとめ、ノエと同じ青銀を両目に宿した壮年の男。ノエよりも些か厳しさが強く印象づけられる面差しは、どちらかというとノエには伯父を思わせた。
貴族らしい、上等なしつらえと分かる上着に包まれた男もまた、部屋に入ってきたノエを見つめている。
……ノエ、なのか?」
貴族らしい、厳しさを宿した男の表情は、ノエを目にした瞬間に氷解した。
男は眉尻を下げ、何度も瞬きを重ねる。そこにいる人物が幻でないと確かめるかのように。
……はい。久しぶりですね、父さん」
かつてのように、お父様とは呼べなかったーー呼びたくなかった。
今まで、仲間に父のことを話すときや、頭の中で父のことを考えていたときは、何度か使っていた呼称だ。しかし、今、目の前に父親を目にした瞬間。かつての無邪気な子供時代のように、彼を『お父様』と呼ぶことを、ノエ自身が認められなかった。
それでも、目の前の男にとっては十分だっただろう。彼は目を見開き、貴族らしい威厳など
かなぐり捨てて、ノエの元へと近寄る。
それとは対照的に、ノエはその場に縫い付けられたようにして、父の接近を許した。
…………っ」
緊張からではない。動揺はあっただろうが、それとも少し違う。
眼前にいるのが、父親だということは分かる。記憶の中の彼に比べると、老け込んではいるものの、十五年の月日などものともせずに、ノエの記憶は目の前の男が何者かを教えてくれた。
だが、そこで一度ノエの思考は停止していた。
次から次へと沸き起こる感情の放流。郷愁と、憤激と、悲哀と、苦渋。それら全てを飲み込み、適切な形に処理するまでの時間がノエには必要だった。
だが、ノエが気持ちの生理ができずに立ち尽くす一方で、父親の方はそうではなかった。ノエの父ーーベルナールは、これ以上ないほどの安堵を顔に滲ませ、
「夢ではないのだな。ノエ、本当に、よくぞ無事でーー」
彼の手が、大きく成長した息子の肩に触れる。もし、ここでノエが涙の一つでも流せば、この場の空気は、親子の感動の再会へと塗り替えられていただろう。
しかし。
「ーーーっ」
ノエは肩に載せられた手に触れるやいなや、それを力を込めて払い落とした。
ノエの中で処理しきれなかった感情の奔流は、ベルナールの行動により、急速に一つの形でまとまっていく。
……最初に言うことが、それか」
喉の奥からようやく絞り出した声は、ノエ自身が驚くほどに怒りで満ちていた。けれども、今の彼はそれを抑えようとも思わなかった。
……あんたのせいで、僕がどんな目に遭ったか。あんたが、お母様を異端者に仕立てたせいで、僕も異端者の嫌疑がかかって、その後何が起きたか」
一つ一つ、自分が怒りを感じた原因を、噛み砕き、形にして、挙げ連ねていく。
「それだけじゃない、あんたは自分の嘘を貫くために、僕を庇おうともしなかった!! 僕が冤罪だと分かっていたのに、弁護の一つもしようとしなかった!!」
父が妾の母が異端者であり、正妻を犠牲者として発表したこと。
その上、冤罪であると分かっていながら、息子を救うために動こうとすらしなかったこと。
その事実は、幼い頃は今のように明確に理解できなかった。
だが、やがて成長していくにつれて、ノエは己の身に何が起きたかを、父がどんな裏切りを働いたかを、よりはっきりと理解していった。
その瞬間に胸を占めた暗い感情を、今さらこんな安っぽい再会で癒せるわけがない。
「お前が僕とお母様を異端者に仕立て上げた結果、何が起きたか。知らなかったとは言わせない。僕は異端者だと決めつけられて……崖から落とされたんだ」
「ーー……まさか、本当にそんなことが」
驚きの声をあげている父親。その姿を見て、ノエの感情はより逆撫でされる。
「本当に? 異端審問官が、情に駆られて僕を助けてくれたとでも思っていたのか! だとしたら、貴族らしくない随分とおめでたい発想だな!!」
自分でもぞっとするぐらいの暗い喜びが、己の腑に広がるのが分かった。
他人の心を傷つけようと意図した言葉を口にするのが、これほどまでに気持ちを高揚させ、愉悦に浸らせるものだとノエは今まで知らなかった。
だが、今更構うものか。ノエの中で、溜まりに溜まった十五年分の感情が、今こそ自分の怒りを叩きつけろと叫んでいる。
「僕が助かったのは、たまたま崖下を歩いていた傭兵が僕を見つけてくれたからだ。僕が地面に叩きつけられる前に、彼女が使い魔で僕を救出してくれた。そうでなければ、僕は今頃、崖下に転がった骨の一つになっていただろう」
……そうだったのか。私は、てっきり……教会が何か手を回したのかとばかり」
どうやら、父親はノエが生きていると知って、てっきりイシュガルド正教会が秘密裏にノエを保護していたものとでも考えていたらしい。
そのような、ありもしない優しい可能性に縋っていることすら、今のノエには厭わしくてたまらなかった。
「今こうしてここに立っていられるのは、偶然に偶然が重なったからだ」
もし、一つでも偶然がずれていたなら。ノエは今ここに生きていることすらできなかった。
「あんたが僕にしたことがあるとしたら、それは一つだけだ」
すぅ、と息を吸い、ノエは言う。

「ーーあんたは、僕を殺そうとしたんだ」

実の父親でありながら、お前の選択は確かに息子を死に追いやっていたのだと。一つも言い訳ができないように、ノエは言い切る。
そのくせ、何もかもを無かったかのように、今更会いたいなどと手紙を寄越してきて。
自分の罪などなかったかのように、父親然とした姿を見せてきて。
「僕が、お前の手紙を喜んで受け取ったと思ったのか。父に呼ばれて、すすんでこの場所まで来たと思っているのか」
ノエは、胸に手を当て、己を覆う上着に力を込める。ぎり、と音を立ててノエを守っている皮の防具に皺がよる。
先だっての妖異の戦いで燃え尽きてしまったコートの代わりに、馴染みの職人が同じ形のものを用立ててくれた。それが、今のノエの身につけている上着だ。クルザスに赴くなら、防寒性も抜群のこれがきっと役に立つと、笑顔と少しの心配を混ぜた顔で店主はノエを送り出してくれた。
「僕がどれだけ悩んだか、お前にわかるのか。この地に足を踏み入れるだけで、どれほどの勇気が必要だったか、お前は想像したのか」
ノエの悩みに寄り添ってくれた人がいた。仲間や、冒険者ギルドの者のおかげで、ノエはここに辿り着く選択を選び取れた。
「だというのに、お前は自分の周りの人たちに何を言っているんだ。使用人たちに傅かれて、僕が嬉しがると思ったのか。宿を提供されたぐらいで、僕が感謝すると思ったのか。そんなもの、僕は何一つお前に望んでなどいない!」
それが父親として息子にしてやれることだと思っているのなら、大間違いだ。
それぐらいなら、防具を仕立ててくれた行きつけの店主の方が、無理に返事をしなくていいとノエを気遣ってくれた冒険者ギルドの面々の方が、気負うなよと背中を叩いてくれた仲間たちのほうが、よっぽどノエにとっては『家族』だ。
……ならば、ノエ。お前は、私に何を望む。いや、私はお前に何をしてやれる」
ノエの激昂の間断を縫って、ベルナールの声が響く。ノエと少しだけ似た、深みのある声。
「僕は、あんたにーー……っ」
そこで、言葉が途切れてしまう。
あまりに大きすぎる感情の奔流に、ノエの頭は焼き切れそうだった。このまま感情に押し流されれば、自分でも取り返しのつかないことを口にしてしまう。そう思い、咄嗟に己を引き留めたのだ。
……お前の言うように、私はお前を助けるために何一つ行動しなかった。お前の母に異端者の汚名を被せ、家名を守ることにのみ注力した。挙げ句、お前が生きていると知ったときには、きっと善良な司祭に助けられたのだろうと、最も己の責が問われない可能性に逃げようとした」
「ーーーー」
「十五年前、私はお前を失った。その事実を理解して、当時の私がどれほど自分の選択を後悔したか。だが、それを語ったところで、私の知らないお前の十五年が癒えるわけではないのだろう。だったら、私はお前の十五年を少しでも癒すために、いったい何ができる」
そんなものはない、と言い切ろうとした。
だが、顔を上げて正中に父を見据えた瞬間、ノエの心が揺れる。
湧き上がる怒りを衝動のままにぶつけ、父の中にあった驕りや楽観的な考えを叩きのめしてやろう。先ほどまで、心底からそう思っていたはずなのに。
ノエの中に生まれていた激情は、自分の目の前にいる男を改めて視界に収めた瞬間、微かな揺らぎをみせた。
……この男は、こんなにも小さかっただろうか)
その感想は、物理的な大きさの違いから生じたものでもある。
ノエの背丈は幼い頃に比べれば格段に伸びた。かつては見上げるしかなかった父親は、今やノエと同じくらいの背丈になってしまっている。
だが、それだけではない。
(この男は……もっと僕にとって大きな存在に思えたはずなのに)
冒険者になる前も、なってからも、ノエは多くの人と出会ってきた。
ウヴィルトータを筆頭に、グリダニアでは仲間と呼べるまでの信頼できる者たちに出会った。仲間の他にも、様々な理由で自らの理想や希望を胸に抱え、懸命に生きる人たちを知った。
だからこそ、今のノエは思う。
……こいつは、こんなにも普通の存在だっただろうか)
こんな風に、自分が傷つけてしまった子供のために何かしてやりたいと、ただ一心にそう思うだけの父親の顔をしているなんて。そんなこと、気づきたくなかったのに。
けれども、気がついてしまう。これまで積み重ねてきた日々が、ノエの目に、彼の父親もまた『凡百の男』であったのだと気がつかせてしまう。
「お前が望むなら、イシュガルドの国内なら、ある程度安定した暮らしを約束できるだろう。地位が欲しいというのなら、根回しをすることも不可能ではない。もう二度と関わるなと言うのなら、それも……甘んじて受け入れるつもりだ」
……あんたから施しを受けるつもりはない。お金も地位も、僕はもう僕にとって必要な分は十分に持っている」
帰る場所も、冒険者としての立場も、ノエの中に確固たる根として存在している。それ以上を望もうという気持ちもない。
「ならば、私には何ができる。……残念ながら、お前のためにこの命を差し出すとだけは言えない。もし、私が領主でなければ、そのように言うこともできたが」
その瞬間、ノエの目にはベルナールの異なる姿が垣間うつった。
今まで見せていた、己の選択を後悔する父親という弱く脆い姿の裏に、一つの領地の長として、多くの命を背負う責務を持った男の顔が確かに存在していた。
……あなたが、そのような短絡的な懺悔を口にしていなくてよかった。もしそんな言葉を口にしていたら、僕はもっとあなたを軽蔑していたでしょうから」
父親の言葉を聞いて、ノエの激情がいくらか収まる。代わりに、彼の中で街で見かけた人々の声が蘇り、泡となって弾けていく。
彼らの言葉の中には、ノエの知らないベルナールという男の姿があった。領主として、貴族として生まれたものの務めとして、その地に生きる人々のために何かせねばと、懸命に己の責務に忠実である男の姿が。
ノエにとって、ベルナールという男は父親であると同時に、自分を見捨て、母にありもしない罪を被せた許し難い男でもある。だが、この街において、彼は目立った華々しい功績はなくとも、堅実に人々の生活を守ってきた領主である。
どちらも、ベルナールという男の持つ側面であり、今のノエはようやくそのどちらをも知る機会に恵まれた。
(父のことを許せたわけじゃない。あの事件の全てを飲み込めたわけじゃない。今だって、僕の中には、罪を償うと言うのならいっそ……命でもって贖えと叫びたくなる僕がいる)
ハルオーネの元へと旅立った母に詫びろと、そう喚いている破壊的な衝動を持った己は、確かにノエの中に存在する。
けれども、その単純かつ甘美な誘惑を、ノエは払い除けた。
そこまで極端な願いでなくとも、感情に任せて、お前は二度と僕の人生に関わるなと言うのは簡単だ。父親が傷つく姿を見て、ノエの中で満たされるものは確かに存在する。
けれども、もしこの男が本当に償いのために何かしてくれるというのなら。
そのような、短絡的な感情任せの依頼をするべきではない。
「僕が、もしあなたに何か望むとしたら。それは、僕自身の利益に関することじゃない」
先ほどまでの激しい怒りを込めた自分を宥め、代わりにノエは平時の己を引き出す。
感情はすでにぶつけた。
ならば、次に必要なのはいっそ氷のように澄み切り、冷えたーー鋼のような理性を持った自分だ。
……僕の仲間に、イシュガルドに縁のある者がいます。僕は、彼女の縁者を探そうとしています。ですが、今の彼女は何らかの事情で記憶に大きな穴が空いてしまっています。僕は、彼女の記憶の穴を埋めるためにも、彼女の手助けをしたいと思っています」
まずは自分の状況を説明する。己が何を望んでいるのかを明確にして、落とし所の予想を相手にもさせる。
「イシュガルドが閉鎖的な土地柄なのは、前々からよく知っていました。あなたが便宜を図ってくれたからこそ、僕らは特段障害を感じずにここまで来ることができた。しかし、他の場所でもそうだとはわからない」
……つまり、私に国内での移動に関する便宜を図って欲しい、ということだろうか」
「交通手段は、自分たちで何とかします。ただ、行く先で僕たちの身分を疑われた時、あなたの名前と地位を利用する。その許可をもらえますか」
これは息子から父へのお願いではない。もっと損得を明確にした『交渉』だ。
こちらの手札は、相手が抱く罪悪感を軽くすること。得られる報酬はこちらにはあれど、相手である父には目に見える報酬はない。ならば、男はなんと答えるか。
果たして、ベルナールはゆっくり頷いた。
……わかった。お前が私の名前を身分の証として使用することを認めよう」
ベルナールの視線が、ノエの左手の親指に落ちる。そこにあるのは、本来ならば当主が受け継ぐべき、家紋が刻まれた指輪だ。
「まだ、それを持ってくれていたのか」
「勘違いしないでください。僕は、あなたへの感傷からこれを捨てなかったわけじゃない」
だったら、なぜ持ち歩いていたのか。今でも明確な答えがあるわけではないが、一つだけ確かなことは言える。
「僕は、自分が何者かを忘れないために、この指輪を外さないでいる。それだけだ。当主でもない僕が持っているべきではないと言うのなら、今ここでお返しします」
きっぱりと言い切ると、ベルナールはゆっくりと首を横に振った。彼の横顔には、再び息子の再会への喜びと悔恨に満ちた父親の顔がのぞいていた。
「それは、お前が持っていなさい。イシュガルドの国内を巡るなら、助けになることもあろう。それで、お前の頼みはそれだけだろうか」
…………
実利的な部分としては、今の依頼だけで十分だ。オデットの記憶を求める旅路において、身分を保証する後ろ盾が得られたのは、何よりも価値のある成果だと言える。
けれども、今こうして父親と再会した機会を、本当にそれだけで終わりにしていいのかと主張する声もある。
この街に来て、ノエは初めてベルナールという男が持つ父親以外の側面を知った。今までノエが憎悪していた、ぼんやりとしたうろ覚えの記憶の中にある父ではなく。
人として生き、領主として街や土地を治め、ドラゴン族との戦いを続けるイシュガルドの民としての父を。
兄のフィリベールほどではなかったとしても、ベルナールは領民が口を揃えて「良い領主」だという。
だが、ノエは、そんな男に見捨てられた。良い領主である男は、良い父ではなかった。
……どうして、あなたは、僕を見捨てたんですか」
気づけば、この街に来てからノエの中にあった疑問が、口をついてでていた。
「あなたは、街の人たちにこんなにも慕われているのに。あなたが領主として、貴族として、立派な人物であると皆が言うのに」
非難したかったのではない。父を憎悪する黒い感情は、すでに彼にぶつけた後だ。
だから、これは憎しみでもなければ、怒りでもない。
ただ、純粋な一つの疑問。
……ノエ」
「あなたが何を思って、今こうしてここにいるのか。僕に、ベルナールという人が何者かを教えてほしい。他ならぬ、あなた自身の口で」
十五年もの間の断絶を理由に、父を一方的に拒むのは簡単だ。実際、今だって受け入れるつもりはない。
「それで、あなたを許そうなどとは思っていない。でも、僕の中には……小さな僕の記憶しかない。幼い僕が感じた気持ちしかない」
それも、もちろんノエの一部だ。抱えていなければならない大事なものだ。
けれども、それだけで心を埋め尽くしていても、きっと大事なものを見失ってしまう。
「だから、今の僕の目で、僕の耳で、あなたという男を知る機会が欲しい。あなたが僕を見捨てた罪を償いたいのだと言うのなら、あなたの全てを見せてほしい」
その結果、やはり父は愚かしい人物だったと、男を見限る結果になるかもしれない。
はたまた、自分の追放は仕方ないことだったと、己自身の首を絞めることになるかもしれない。
(どっちだっていい。もし、僕が傷つくような結果になったのなら、その時はーー)
今日は俺の奢りだ、と笑ってくれた男がいた。お酒の飲み過ぎは注意してくださいと嗜める女性がいた。
ノエだってたまには羽目を外さないとと笑う、陽気な麗人がいた。こいつらに一服盛られるなよと苦笑する友がいた。
そして、なにより。
あなたが一番大事なんです、と言ってくれる少女がいるから。
……そうか。お前は、それを望むのか」
自身の全てを吐き出すような長いため息をついてから、ベルナールはノエを見つめ返す。
無邪気に父を慕ってくれた幼子は、そこにはもういない。いるのは、十五年の月日を経て、鍛えられた剣のように研ぎ澄まされ、澄み渡る双眸を得た若者だけ。
「分かった。少し長くなるかもしれない。もしよかったら、座ったらどうだ」
……わかりました」
小さく顎を引き、ノエはベルナールが示したソファへと腰を下ろす。机の上には、息子の来訪を待つまでの間に、落ち着かない心を宥めるために飲んでいた紅茶が残っていた。
召使を呼んでポットを変えさせるべきかと悩み、ベルナールは内心で首を横に振る。今は、この空間に誰であろうと立ち入ってほしくなかった。
ノエの対面になるようにして、ベルナールは腰を下ろす。自分と同じ目線を持つようになった彼に向けて、男は果たして何を語るべきかと、自身の半生を振り返った。