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ひおう。
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剣伊
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人形はやがて月夜へと
宮本伊織が有する幼い頃の記憶で、二十を迎える今になっても色褪せないものがある。
他者を侵入させないような、あるいは何かを外へ出さないような高い高い塀に囲まれた大きな屋敷があった。貴族に流行りの煉瓦作りの屋敷だ。その周りに木々が植えられ、西洋風の洒落た柵がさらにぐるりと一周する。
柵を越え、木々を抜けさらに塀を潜らなければ見えないはずの屋敷の外観を、何故伊織が識っているのかといえば、彼はそこに行ったことがあるからだ。
奉公などではなく、忍び込んだ。
誓って、金品を盗みにだとか悪巧みのために侵入したのではない。
近所に住む、己よりも小さな子ども一人が劈くように泣いているから、どうしたのかと由を聞けば、親に買ってもらった大事なものを、烏に盗られてしまったのだと。飛んでいった方角を聞けばどうも件の屋敷だという。
まあるい、涙に濡れた眼に真っ直ぐ見つめられ、震える声で「いおりにいちゃん、どうにかならない?」と訴えられては、血の繋がりはなくとも大事な幼い妹がいる伊織は折れるしか無かった。
貴族たちにとって、庶民の子供など取るに足りない存在だ。伊織の後継人となってくれた華族のような人もいるとはいえ、大多数は住む世界が違うと距離を置く。下手をすれば、子どもとはいえ不敬罪だと直ぐに牢へ繋がれてしまうだろう。だから、正面からという選択肢は省いた。
細心の注意と、今は亡き養父から譲り受けた魔導書の知恵を活用し、柵を飛び越えた伊織は足音を消しながら、木々の隙間を忍び歩く。
剣すら握ることが難しいこの時代、伊織は才があったのか、帯刀を許された養父から二天一流を骨の髄まで叩き込まれた。只人は勿論、訓練を積んだ軍人であっても、まだ十になったばかりの伊織の腕に敵うものは少ない。実際に手を合わせたわけではないが、師や第二の師、師亡き後に後継人となってくれた華族の者から、そう口を揃えて云われていた。事実としては受け入れているが、慢心も傲ることも無い伊織は、周囲の警戒を怠らない。
「この辺りか
……
。」
小さく呟いてから、頭上から聞こえる鳴き声を頼りに塀の際にある一等大きな樹木を見上げる。巣でもあるのかと探るものの、枝と葉が邪魔でよく見えない。
仕方ない、と伊織は己の足に魔術をかけて助走をつけながら跳躍した。途中何度か太い枝を足場にして、勢いを殺すこと無く当たりを付けた場所へ辿り着くと、予想通りに巣があった。
幸いにも卵は無い。きらりと光る多種多様な物品に溢れた巣を一瞥して、そっと、子供が持っていたという装身具を取り出した。掌に収まる程度の西洋作りの小さな首飾りは、漸く授かった子供の誕生日なのだからと少し無理をして購入したんだと、かの両親が優しく微笑みながら話していた記憶がある。
別の木に止まり、こちらの様子をじっと見て警戒している烏に疾く去ろうと飛び降りようと足に力を込めた時、己に注がれる視線に伊織は気が付く。反射的に気配の先を辿れば塀の中、煉瓦作りの屋敷、手入れも禄にされていない庭先に、ぽつりと彼の者はいた。
平安貴族のような白妙の装束を身に纏い、刀を佩いた御仁は虚ろな夕焼けの眼を、伊織に真っ直ぐ向ける。背は伊織よりも小さく、しかし伊織も武を修めるからこそ解る、己よりも強い体捌きに、動く事も、逸らす事もできず見つめ合う。僅かの間だったのだろうそれは、伊織には随分と長く感じた。
まず御仁が動いた。ゆったりと流れるような動作で近付く。けれど言の葉を発することはなく、ただ感情の色無く木の上にいる伊織を見上げるばかり。
今度は伊織が動いた。声の届く際まで下りると、言葉を選びながら、音にする。
「勝手に忍び込んだ事、尊き貴殿に声を届けた無礼を詫びる。この木に巣を作った烏に盗まれた物を取り返しただけ故、此度は見逃してもらえぬだろうか。」
じぃ、と視線を送る御仁が、ようやく口を開いた。
「よい。」
どうやら赦しを得られたらしい。再度深く頭を下げて木から完全に降り立った時であった。
「ミコ、何をしている。」
冷たく、嫌悪すら乗せた音だ。ぶわりと汗が吹き出し、音を立ててはいけないと息を潜める。御仁とは別の声音の持主は、そのまま伊織に気が付くこと無く、ミコと呼んだかの白い人と何やら会話し始めた。
「烏を、見ておりました。」
「烏? ああ、そこに巣を作ったか。忌々しい。後で切り倒すか。」
「
……
。」
「次の討伐だ。東に鬼が出た。退治て参れ。」
「
……
御意。」
足音は遠ざかる。己の存在に気が付かれずに済んだとほっと、小さく詰めていた息を吐き出した伊織に、ミコと呼ばれた御仁がまた、声を届けた。
「先の、黒いきみ。」
「
……
何か。」
無視して機嫌を損ねられるのは困ると、小さく返事をする。少々不遜な物言いになってしまったかと焦るものの、気にした素振りを見せず続けた。
「あの巣を、別の場所に移すことは、可能か。」
「
……
木がある限り、戻って来る可能性はありますが。」
「可能なのだな。ならば、暫くで良い。烏を、別の場所にやってくれ。」
それは問うものではなく命であったものの、真摯に告げるものだから思わず目を見開く。そして噂など当てにならぬものだと、肩をすくめた。
ミコという呼び名と、鬼の討伐で、御仁の正体をすでに理解している。
〝血濡れの皇子〟と、揶揄され、恐れられる現大皇の子息の一人だ。今よりも幼い頃に兄を殺したともされ、庶民にも畏怖される皇子。神も、人も、魔も、尽く鏖されるという噂すらある。
しかし、実際はどうだ。
屋敷に忍び込んだ伊織は〝よい〟の一言で赦された。横を通りすがった獣すら斬り殺したと恐るべき話も耳に入ったというのに、たった一羽の烏を助けて欲しいと、見ず知らずの、それも忍び込んだ伊織にこうして頼み込む。
人の心が無いなどの話もあったが、いったいどう見たらそんな噂が立つのか。あまりにも見る目がないと、微笑が漏れ出た。
「ふ
……
相解った。烏は必ず、俺が保護しよう。伊織、宮本伊織という。」
「頼んだイオリ。私のことは
……
、タケルと、呼んでほしい。」
音に、僅かばかり色が乗る。
「タケル、だな。ではまた来る。」
微かな音だけを残し、伊織の気配が遠ざかる。彼の痕跡が殆ど無くなる頃、タケルは伊織の言の葉を転がすように、擬えた。
「また
……
か。」
生まれて初めての心臓が熱くなるような心持ちに、ぎゅうと胸元を握りしめ、脳裏にかの黒いきみを、伊織を描く。再び己と会うと、約束じみた言の葉をくれたその表情はどんなものだったのだろう。町で、村で、人々が良くする、向けられぬことのない、笑みだったのだろうか。
頭を振り、邪念だとそれらを払うと両の足をゆっくりと動かした。
タケルがこの地に住まう二年という短い月日の中、二人が友好を深めた色褪せない思い出の、始まりの日であった。
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