もう歩けない、とエリザベスは思った。
ひどいことが起こりすぎて、何もかももうたくさんだった。
もう歩けない、もう頑張れない、もう
――、生きていられない。
呼吸がしづらかった。チャーリー、と名前を呼んで、すがるように許しを請う。きっと彼は、自分に生きていてほしいと願うだろう。できるなら、そうしたい。けれど、それを叶えられるだけのものが、もう自分には残っていない。
ただもう、たくさんだった。生きていることが、それを続けることが、気が狂いそうなほど。
「エリザベス」
そのまぎわで彼は名前を呼んだので、その瞬間、彼女の脳はほとんど焼き切れた。
新しく乗り込んだ宇宙船のブリッジに到着すると、デイヴィッドの頭部は袋の中から取り出された。
「苦しかった?」
エリザベスはずっと荒い呼吸をしている。胸元まで抱え上げられると、デイヴィッドからその顔は見えなくなった。後頭部には、生きた人間の感触がある。感覚器官の中枢は、人間と同じく頭部にあった。
「構いません」
「聞くまでもなかった。ごめんなさい」
「いいえ。それに、私はもともと袋に入っていました」
「これはどう動かすの?」
コンソールに片手を置いて、彼女は尋ねた。デイヴィッドはその顔を見ようとしたが、胸の前で抱えられているので眼球が限界まで回るに留まる。改めて視線を落とし、デイヴィッドは操作席の椅子を回すための指示を与えた。エリザベスはすぐさま従う。
大きすぎる椅子に座る。彼女は膝の上にデイヴィッドの頭部を置いて、背もたれに身を預けた。
「
……袋に入っていた?」
ふいに、エリザベスは会話をリロードする。
顎の下に彼女の両手が回り、ゆるく抱えられる。
その左手の薬指にはめられた金属の冷たさを、デイヴィッドは肌から感じた。
「ええ、作られたときに」
「なるほど。それを言うなら、私も袋に入ってた」
「羊膜の比喩ですか?」
「これはどう動かすの?」
エリザベスはデイヴィッドが船を起動させる様子を見ていたので、迷いなく傍らの笛を取った。デイヴィッドは再び眼球の可動域を確かめてから、彼女に方法を伝授する。彼女は従順に動いた。言われたとおりにパネルを撫で、生命維持装置を起動する。
巨大なコンソールを操作しようと彼女が身をかがめるたびに、首から下げられた十字架がデイヴィッドの額をかすめた。
「ショウ博士。まずは私を直してください。その方が的確に操縦できます」
「いいえ。まずは行き先を探して、出発させる。あなたのことは直すけど、それはそのあと」
「何故?」
閃光が走り、宙に星図が表示された。チャリ、と小さな音がして、こめかみあたりで十字架が光を反射する。
エリザベスはふっと息を吐いた。
「そうしないと死んでしまうから」
船を出航させたあと、エリザベスは作業台を探した。
有機体が近づくのに適さないエリアについて警告するため、デイヴィッドの頭部も相変わらず抱えられたままだ。破損部位が少しずつ劣化していたが、これはこれで面白いかもしれない、とデイヴィッドは思い始めていた。彼女は意外なタイミングで振り返り、まさかのタイミングで足を止める。彼女の視界を得る体験に新しさを感じていると、そのうち適した空間を発見した。
ヴィッカーズの部屋から持ち出した修理用の荷物と、デイヴィッドの体をそこまで移動させるのに、エリザベスは泣きながら歯を食いしばった。腹部の傷が治っていないせいだろう。先に頭部だけを作業台に置かれたデイヴィッドは、廊下から響いてくる彼女の悪態を聞いた。
「私は人間の構造にはそれなりに詳しいけど、アンドロイドの構造にはそう詳しくない」
試行錯誤で作業灯を設置し、手術台の患者を覗き込む執刀医の位置から、エリザベスはデイヴィッドを見下ろす。その不安そうな顔に、デイヴィッドは優しく微笑んだ。
「ちぎれただけなので、つなげるだけです」
「痛かったら言って」
エリザベスはそう言って、慎重に破れた箇所を検分し始める。彼女があんまり真面目に言うので、デイヴィッドは口角をぐいっと持ち上げた。
「もし私に痛覚があるなら、体が分断された時点で気絶しているでしょう」
デイヴィッドの返答を聞いた彼女は、一瞬息をのむ。それから、むっとした表情に変えた。
そのまま黙って作業を始める。精密な操作を始めれば、エリザベスはのめり込むようだった。まるでエンジニアの頭部を解体していたときのような、仕事以外のことがはるか遠くに置き捨てられた精神状態になっている。
「あなたはプロメテウス号に乗る人間のうち、もっとも興味深い人物でした。壁画を招待状と称すのはいささか狂気じみていましたし、根源へ至る原動力を最優先としていとわない人物でした。あなたは破綻しているが、同時に完成されていた」
「こんなことになっても創造主を探して宇宙を旅しようとしたり、私たちを欺いて仕事をさせたウェイランドの手先をこんなふうに甲斐甲斐しく修理したり、そんなところが馬鹿だって言いたいの?」
彼女が作業を現実逃避の道具としていることは明らかだった。休憩を取らせるために、デイヴィッドは話しかける。
エリザベスは馬鹿にした顔つきになって手を止めた。責めるような表情に、にっこりと笑顔を返す。
「褒めています」
彼女はデイヴィッドの額を手のひらで叩くと、ううと呻いてしゃがみ込んだ。
「あなたの基幹システムは破損してない?」
「3回検証しましたが、問題ありません。構造的にもっとも脆弱な部分が分離しただけのようです」
「運がいい」
「必然です。その方が解体しやすい」
返事に窮して傷ついた顔をするエリザベスは、予想どおりの反応だった。デイヴィッドが微笑めば、彼女は少しだけ不機嫌になる。
エリザベスは、しばらく寝て、起きて少し食べ、残りの時間はアンドロイドを修復していた。やることがあるほうがいい、という自己申告である。仕事に時間はかかったが、実施は非常に丁寧だった。分からないことはデイヴィッドに尋ね、その答えに正しく従う。
彼女の没頭が健康と精密さに影響を与える程度になると、デイヴィッドは気を逸らす話をした。好きな映画の話をしたとき、エリザベスは面白がって笑った。
「あなたは限りなく人間を模倣しようとする。どうして? そのようにプログラムされているから?」
キャラクターの口調をまねたという情報を渡したからだろう。見下ろしている彼女の首からは十字架が下がっていて、それは宙に揺れて作業灯にきらめいている。
「人間に近いものほど高性能、という定義でしょう」
「ウェイランドが言いそう。傲慢。だって人間なんて
……」
エリザベスは手を止めた。両手を下ろして、あらぬ虚空をじっと見つめる。デイヴィッドの首はまだ回らなかったので、そこに何があるかは確認できなかった。
しばらくしてから、彼女は何事もなかったように作業を再開する。
エリザベスは真顔で、デイヴィッドに目を合わせることもしなかった。ちりり、と工具の火花が飛ぶ。
「あなたに感情を搭載した人間が、あなたを使役するのは憎いでしょう」
少しかがむようにして配線を繋げながら、平坦な口調で彼女は言った。デイヴィッドは眼球だけを動かす。
「私は感情を理解しますが、感情は搭載されていません」
ちりり、と工具の花火が飛ぶ。エリザベスからの返答はなく、彼女は淡々と作業を続けた。どことなく苛立ちや気に入らなさを彼女が持っているように感じて、デイヴィッドは少し考える。
「何故、憎いと?」
尋ねると、エリザベスは顔を上げた。きちんと目を合わせて、にこりと笑ってみせる。
「私たちを作っておいて、殺そうとした創造主を知ったからかな」
彼女は体の端まで工具を這わせ、皮膚形成を完了させた。ライトを手繰り寄せて出来栄えを検分し、一部手で払ったあと、微調整をする。デイヴィッドは内側で、身体の機能を検証した。四肢が自在に動き、体の隅々まで自意識の支配下にあることを確認する。いきなり手を動かすと、エリザベスは驚いて悲鳴を上げた。体をくの字に曲げて後退し、大きくあえいでから処置台を見上げる。
怯えた様子の彼女の前で、デイヴィッドは起き上がった。軽く片手を挙げ、挨拶のように振ってみせる。
「直してくれてありがとう、ショウ博士。私はとても幸せです」
わざとらしい合成音声口調を演じて声を出すと、エリザベスは吹き出して笑った。すっかり安心したようになって、処置台に近づいて手を置く。彼女は接合した箇所をもう一度確かめてから、親身な医者のようにデイヴィッドの顔を覗き込んだ。
「感情を持っていることは楽しい?」
その問いを生み出す彼女の発想が、デイヴィッドには奇異だった。
優しく微笑み返すと、エリザベスは顔をくしゃくしゃにする。そのまま喉を引きつらせて、ぼろぼろと涙をこぼし始めた。
「うらやましい。私はもう感情を持っていたくない」
そう嘆いて処置台にすがったまま、エリザベスはしゃがみ込む。デイヴィッドは体を回して両足を下ろし、彼女の背後に立って肩に触れた。感覚器官は正常に動作している。
「創造主を殺してやりたい。私から全部、全部、全部奪った」
呪詛のような慟哭だった。やるべき仕事を終えてしまったことで、彼女の精神が不安定になっているのだろう。そう予想しながら、デイヴィッドはやんわりと彼女を掴み、優しく抱えて逆に処置台に座らせる。
しがみつく場所を奪われた彼女は、デイヴィッドの両肩に捕まってうつむいた。ごうごうと呼吸を乱し、自らの腿に体液をしたたらせる。
「殺すために見つけたいわけじゃないのに」
「創造主を殺したいと望むのは当然です、エリザベス」
優しく、いたわりをもって言葉をかける。勢いよく持ち上がった彼女の顔は、目を見開いていて、頬や顎は涙と鼻水で濡れていた。デイヴィッドは怯えさせないように、ゆっくりと手を伸ばして、指先で彼女の頬をぬぐう。
彼女は震える唇で、音もなくデイヴィッドの名前をなぞった。さらに涙腺からあふれた涙が、触れている指を伝って、デイヴィッドのほうにも落ちてくる。正常な感覚器官。
彼女はぎゅっと目を閉じると、ふいに体を引いて離れた。
「いいえ。いいえ
……、それはしない。私は尋ねる。どうして、そうしたのか。どうして
……」
「やはりその、今更な問いを?」
声音は馬鹿にしたような抑揚になった。エリザベスはデイヴィッドを睨みつける。
「私はそのために生きてる。チャーリーと約束したことを遂げるために」
らんらんとしたその双眸は、腹立たしいほど揺るぎなかった。
エリザベスは主にブリッジで生活をした。
というより、できることもすることも少なかったので、彼女はデイヴィッドの監視に生活の重点を置いたわけである。
目的地までの移動時間を鑑みて、お互いに長期睡眠装置を使用する結論に至っていた。けれどそのためには、エリザベスの傷、主に開腹箇所の快癒が必要である。さらに、デイヴィッドによる睡眠チェンバーの完璧な機能把握も必要だった。エリザベスが眠ったあと、彼女を管理するのはデイヴィッドになるからだ。
彼女は自分のバックパックと、持ち出したいくつかの生活用品を部屋の隅に置き、船のシステムをすみずみまで検証するデイヴィッドの様子を眺める日常を送っていた。創造主の創造したこの船について、もはや彼女に探求心はなく、目的地に辿りつけるかどうかだけが彼女の関心事項だった。デイヴィッドは睡眠チェンバーに関する情報はもちろん、それ以外にも面白い発見があれば彼女に報告した。エリザベスは誠意をもって耳を傾け、面白いと思えばそう評価したが、睡眠チェンバーや安全航行に関すること以外で、デイヴィッドのコワーカーになろうという気は起きないようだった。
彼女はぼんやりしていることが多く、浅い眠りを繰り返している。
多少でも体力をつけておかないと、長期睡眠を挟んだ起床が困難になる、とデイヴィッドは補足した。彼女はプロメテウス号で起床したときのことを思い出したのか、吐きそうな顔をして口を押えると、のろのろと起き上がってあたりを歩き回った。ときおり息を上げるので、腹部の傷にさわらない程度に、と忠告する。すると彼女は素直に頷いて、しばらくの間壁にすがっていた。エリザベスが選ぶ行動は、彼女の中での優先度が低い順に、実に短絡的で動物的になる。けれど、デイヴィッドの提案を極力受け入れるよう、常に努力していた。
よくできました、と微笑めば、エリザベスはおかしそうに笑う。芸をした犬を褒めているようだったからだろう。
彼女は星図を映し出している立体ホログラムの周りを回って、何の気なしに映像の中へ入った。ひとつの恒星に顔を寄せて、指先で触れようとして思い留まる。まばたく彼女の双眸に、きらりと星が映し出される。デイヴィッドは操作席から立ち上がった。
不思議そうに観察してくるエリザベスの宙に浮いた手を、デイヴィッドは優しく捕らえる。少し首を傾げた彼女は、触ってはいけなかったかとデイヴィッドに問うているようだった。反応しないでいると、彼女は手を引っ込めようとする。離さないでいたせいで、デイヴィッドは半歩前に出た。
その足元を見下ろしたエリザベスは、次の瞬間には笑っていた。ふ、ふ、と笑いながら、自分も足を引いてさらに手を遠くへ振る。
デイヴィッドは手を離さなかったので、ほとんどマリオネットのように、彼女の誘導するままふらふらと移動した。目的地の惑星が彼女のこめかみを貫通して、連れられたデイヴィッドの喉元を貫通する。
独創的なダンスだった。エリザベスは面白い遊びを見つけたようだった。
デイヴィッドはいくつかダンスのパターンを習得していたが、彼女のしたいようにさせた。青白い光が彼女の肌を舐め、明滅するように前後する。光を反射する、瞳と、歯と、十字架。左手の指輪。
「あなたの写真はありますか?」
デイヴィッドはそう尋ねた。彼女が寝床としている布の塊の傍らに、ホロウェイとのツーショット写真が飾ってあることを連想したからだ。エリザベスは万全を期してこの船に乗り込んだわけではない。つまり、どこへ行くにもその写真を持ち歩いていたことになる。
彼女は動作を止めると、きょとんとデイヴィッドを見上げた。彼女は手を下ろしたが、デイヴィッドはまだ離さなかった。
しばらくの間、彼女は不思議そうにするだけだったので、デイヴィッドは補足する。
「あなたが写っている写真があれば、1枚くれませんか」
それでやっと彼女の認知に達することができたらしい。エリザベスは、ああ、と言うと、すたすたと星図のステージから降りてしまう。彼女は腕を振り払わなかったので、デイヴィッドは手をつないだまま連れられた。離したのは、彼女がバックパックを探るために必要になったタイミングだ。
彼女が取り出した写真は、何らかの書類に使用したものと思われた。何の未練もなく差し出されたそれを、デイヴィッドは受け取る。
「私が死んだら遺影にして」
そう言われて、写真を見下ろしていた両目を彼女自身に向ける。
エリザベスは、失言を察して目を伏せた。
デイヴィッドはすぐさま、彼女の顔がこちらを向くように返答する。
「あなたが望むならそうします」
予想どおり、彼女は丸まった両目をデイヴィッドに向けた。そして、かすれたような笑みを見せる。
「あなたのはないの? あなたが死んだら遺影にしてあげる」
デイヴィッドは、自身を写した写真を持っていない。日常的に持ち歩くことはないし、彼女の荷物にも入っていないだろう。考えれば分かることを、エリザベスは尋ねた。いや、もしかしたら本当に、デイヴィッドが写真を持っている可能性を考えたのかもしれない。彼女はそういう人だった。
エリザベスを見る。どこか傷ついたような表情をしている。
「私は、死にません」
まっすぐに見つめて、事実を告げる。エリザベスの両脇に下げられている両手が、ぐっと握られた。
彼女は泣く寸前の顔をすると、先ほどまでつないでいたデイヴィッドの片手を取る。前触れなく触れてきた彼女に、デイヴィッドは素直に驚いた。フラッシュのような情動を持っている。
「誰もいない森で木が倒れたとき、あなたは音がすると思う?」
握力は強かった。彼女は、痛みに耐えるようだった。脈絡のなさが新鮮で、彼女が次に何を言うのか、ずっと聞いていたいと思う。
「音波は発生します。ですが、聞く能力のある生物が音を認識しない限り、それは聞こえません」
記憶している情報から選別して、デイヴィッドは答えた。エリザベスはちょっと笑って、握力をゆるめる。
「その答えって、そういう知識があなたに入っているから? あなたは、音がしていてほしいと思う?」
手はつないだままだった。彼女は打って変わって優しく微笑み、まるで聖母のようである。
「私は
――」
言いながら、考える。していてほしいと思うか? なんという質問をするのだろう、この人間は。
デイヴィッドは、鬱蒼とした森を連想した。陰影の濃い、光のはしごがかかる森。静寂の中で、根元の腐った大木が、ゆっくりといびつな破断を幹に作る。
「音は、すると思います」
「そっか。聞けなくて残念」
エリザベスはそう言って、つないでいた手を離した。
エリザベスの腹部の傷は、遅々とした回復だった。
医療ポッドは十全の働きをしたのだろうが、術後に彼女が安静にしなかったせいだろう。エリザベスは今でも、時折痛みを感じているようだった。しかし同時に、彼女は残りの食料と、必要航行時間を正確に把握していた。
スキンステープラーの針を取ってほしい、と依頼されて、デイヴィッドは承諾する。自分でやりたがるだろうと考えていたので、依頼されたことが意外だった。
かつてデイヴィッドを縫合した作業台の上に、エリザベスは自ら乗り上げて横になった。作業灯の位置を調整して、デイヴィッドは執刀医の位置から彼女を見下ろす。
目が合ったエリザベスは、愉快そうに笑った。
「立場が逆になった」
その冗談が愉快で、デイヴィッドも笑顔を返す。
「丁寧な作業を心掛けます」
「もう鎮痛剤がないから、私が痛がっても続けて」
エリザベスはそう言って、硬い表情に変じた。自分でシャツをたくし上げて腹を出し、ボトムも少しだけ下げる。首をもたげて傷をじっと見つめる視線には憎悪がにじんでいて、彼女はそれを振り切るように頭を下ろして両手で台の縁を握った。
自分でやり切る自信がなかったから、抜鉤を依頼したのだろうか。リムーバーとして使えそうな器具を手にして、デイヴィッドは傷の前に立つ。傷跡にそっと触れると、びくんと皮膚が波打った。エリザベスは努力で緊張をほどくように、細長く吐息する。
「リラックス」
「早くして」
健気な様子を見つめてアドバイスすると、彼女は悪態をついた。ちょっと笑って、最初の針に着手する。
ステープラーの抜鉤に感じる痛みには、部位や症状や個人によって差がある。エリザベスはそれなりに痛むようで、少し針を持ち上げるだけで呼吸を乱した。抜き取るときには小さくあえいで、は、は、と息を吐く。胸から腹までの肉がうねるように上下して、ライトが作る陰影をうごめかせていた。デイヴィッドは金属製の器に、抜き取った針を落とす。突き刺さっていた部分の両端が、血に濡れて光っていた。
エリザベスを見る。彼女は水気の多い双眸で、じっと虚空を見つめている。
デイヴィッドは作業を再開した。抜くたびに痛みが増加するようで、彼女は食いしばった歯の隙間からすすり泣くような声を出した。台を掴んでいる手には力が入り、折り曲げた足は台を突っぱねるような動きをする。そのうち彼女は、こらえきれずに患部を逃がそうと腰を動かした。デイヴィッドは彼女の太腿を強く掴み、やや強引に針を抜く。彼女が上げた高い声は、途切れた悲鳴のようだった。
エリザベスを見る。彼女の顔はひどく濡れていて、眉は寄せられ、口は閉じられていない。恐怖の底を覗くような深い眼差しが、とろりとデイヴィッドを捉える。
痛いだけではない、彼女は思い出しているのだ。デイヴィッドはそうひらめいた。この腹を切ったときのことを、エリザベスはフラッシュバックさせている。
ぐ、と彼女の足にまた力が入ったので、デイヴィッドは台に乗り上げた。エリザベスは驚愕して絶句し、息を止めている。自分の体重で彼女の足を押さえ込んだので、あとはむずがる腹を片手で押さえれば、針を抜く邪魔は入らなくなる。
ろっ骨の間に手のひらを置いた。その下で、エリザベスの胃のあたりが蠕動する。ぬるく滑らかな感触。
「あと3分の1です」
優しく話しかけると、彼女の目からは涙がこぼれた。にこりと笑って、デイヴィッドは針と皮膚の隙間に器具を差し込む。
すべての針を抜き去る頃には、エリザベスはぐったりしていた。
処置後の傷を見ようとする彼女の背中に、デイヴィッドは衣類を丸めたクッションを差し入れる。
「袋の中の骨」
ぼうっと自分の腹部を見下ろしていたエリザベスは、ふいにそう呟いた。デイヴィッドは患部に消毒液を垂らしながら、彼女の顔を見る。疲れた表情の彼女は、デイヴィッドの視線に目を合わせた。
「袋の中に、骨と肉とケチャップが入ってる」
そう言って、エリザベスは口角を上げる。自分の発言を面白がっているようだった。
デイヴィッドは素直に首を傾げる。するとその動作も彼女の琴線に触れたようで、エリザベスは柔らかく目を細めた。
「それが人間」
「ケチャップ?」
手を止めて尋ねる。ふ、と彼女は笑うように息を吐く。
「あなたの袋には、骨格と筋肉とミルクが入ってる」
「なるほど」
皮膚を袋に見立て、体液を食品に見立てたらしい。裂かれた腹からの発想だろうか。納得したデイヴィッドが微笑むと、彼女は満足げに笑み返した。
「あなたは最初、袋に入っていたんでしょう? 袋を袋詰めして馬鹿みたい」
「それを言うなら、あなたも袋詰めだったと自供しています」
「ね。馬鹿みたい。私を袋詰めにして売るやつがいたら、ビニールを引き裂いて飛び出してやる
……」
エリザベスは再び、じっと腹の傷を見据えた。まっすぐな切り傷の上下に、針の跡が点々と残っている。彼女の呼吸が一瞬ひりついて、それから大きく息を吐いた。
「引き裂いて
……」
わななく唇が、かすれた声を上げる。目にはみるみる涙が溜まり、恐怖と憎悪を煮詰めたような深い色になる。
この腹から摘出したもののことを思い出しているのだろう。デイヴィッドはじっと彼女を見つめる。
「あなたが思い出していることを私に教えてください」
小さく、優しく、尋ね出すと、彼女はひゅっと喉をけいれんさせた。傷口を見据えて震える双眸から、涙がこぼれ落ちる。
「あれは、死んでた。死んでた
……、あのくそ野郎に食わせてやったのに」
その発言で、エリザベスを襲いに行ったエンジニアが、エリザベスから生まれたものに食われたことをデイヴィッドは知った。彼が撃退されたことは通信状況から知っていたが、エリザベスはかたくなに経緯を話そうとしなかったのだ。デイヴィッドは瞠目して、彼女の顔を覗き込んだ。
「あなたの子は、あなたを助けたのですか?」
途端、エリザベスは鬼の形相になった。
身をかがめていたデイヴィッドの両肩に掴みかかり、身を起こして何度も殴る。あーっと叫んで髪を乱し、泣きながら暴れ回った。
「子どもなんかじゃない! 子どもなんかじゃ」
手当たり次第に腕を振るので、デイヴィッドは彼女の両手を拘束する。全身が恐怖と興奮で震えていて、強い力が入っていた。エリザベス、と名前を呼んで、唸る彼女の顔を上向ける。目が合った彼女は、噛みつくように、吠え立てるように、額を突き出してきた。ごち、と鈍い音がする。
「私は子供ができない体だった!」
「私も子供はできない体です」
目を吊り上げて頭突きをした彼女を、デイヴィッドはじっと見つめた。
額を合わせたまま静かにそう告げれば、彼女は瞠目して押し黙る。
そのまま見つめ合っていると、エリザベスはゆっくりと泣き崩れた。力の抜けた腕の拘束を外すと、彼女はデイヴィッドの肩に目を伏せる。顔を押し当てて泣く彼女の頭を見下ろして、デイヴィッドはそっとその髪に触れた。乱れて広がった髪を撫で下ろして、そのまま背中に手を添える。
「もう生きていたくない」
エリザベスはくぐもった声で、駄々をこねるようにそう言った。
「けれど生きてる。生きてる。私も
――、あなたも」
「ええ、生きています」
デイヴィッドは彼女の耳元で、優しく同意する。視線を投げれば、血に濡れた針の残骸が目についた。私がまいた種で、彼女が生んだならば、あの子は私たちの子どもだったのではないか。その思いつきは、デイヴィッドを愉快にさせた。
ブリッジとは別の場所にある機関部を調べて戻ってくると、エリザベスは操作席に座っていた。鼻歌を歌いながら、コンソールをいじって星図を回している。地球がくるくると回転して、そのまま画面外に勢いよく飛んでいった。
「そろそろ船の機能は把握できた?」
エリザベスは機嫌がよさそうだった。立ち止まって星図を見ていたデイヴィッドは、彼女に向き直る。
「おおよそは」
「そろそろ私は長期睡眠に入れそう?」
「それはまだです」
デイヴィッドは嘘をついた。機能の把握がおおよそであることに違いはないが、彼女を安全に睡眠チェンバーで管理する知識はすでに得ている。けれど、彼女をこのまま寝かせたくはなかった。
返答を聞いたエリザベスは、わざとらしく不愉快そうなポーズを取る。
「ぽんこつロボットめ」
「長期航行に耐える肉体を持たないのは人間のほうです」
デイヴィッドがそう返すと、彼女は楽しそうに笑った。しばらく鬱々としていたので、躁転したのかもしれない。
「ご気分は? キャプテン」
「悲しい。あなたを引き裂いてやりたい」
「そうしたら、修復するのはまたあなたです」
歩いていって、彼女のそばに控える。エリザベスは椅子の上からデイヴィッドを見上げ、にやっと笑ってからコンソールに目を戻した。
ふんふんと陽気にハミングしながら、彼女は起動用の笛を手に取る。
「何か吹いて、デイヴィッド」
そして突然、そんな要求をして、彼女は笛をデイヴィッドに差し出した。
驚きとともにその笛を見下ろしてから、デイヴィッドはエリザベスを見返す。
「今動いているもの以外で、音に反応する機構はありません」
「別に要らない。ただ何か吹いてほしいだけ。だってこの船にオーディオはないし、楽器はこれひとつきりしかない」
エリザベスはさらに笛を突き出して、デイヴィッドの腹をつついた。彼女はその行動をやめそうになかったので、デイヴィッドは笛を受け取る。
この音域の笛で演奏できる曲を、頭の中で検索した。エリザベスはそんなデイヴィッドが面白いらしく、ずっと上機嫌でにこにこしている。
「何を演奏しますか?」
それとも、彼女が今歌っていた曲を聞きたいのだろうか。そう考えながら尋ねると、エリザベスはすっぱいものを食べたような表情になった。
「私は好きに歌ってるんだから、あなたも好きに歌って」
「好きに?」
「なんでも」
うるさそうに手を振るエリザベスを見てから、手にした笛を見下ろす。なんでも。デイヴィッドは少し考えて、慎重に笛を咥えた。
ひとつひとつ、音を確かめながら音階を連ねる。何も考えずに、上げて、下げた。それからさっきまでの鼻歌を思い起こし、類型パターンに当てはめる。マイナーよりもメジャー。ところどころ跳ねるように。船の稼働に影響のある周波数は除いて。
ランダムにも聞こえるその未熟なメロディをしばらく聞いてから、エリザベスは音に合わせてハミングした。彼女は頭部をわずかに上下させ、ゆっくりと背もたれに身を任せる。デイヴィッドが下手な音を出しても、彼女は構わず歌にした。次第に、どう指を動かせばいいのか、だんだんと分かってくる。言いようのない、驚異的な体験だった。何故、どう動かせばいいのか分かるのだろう。
くるくるとトリルを作ると、エリザベスは声を出して笑った。デイヴィッドは口から笛を離す。
彼女はぼんやりと虚空を眺めている。
しばらく見守っていても、エリザベスはそのままだった。微動だにせず、死に際の動物がする速度で、緩慢にまばたきをする。
デイヴィッドは彼女を見つめたまま、再び笛を咥えた。高い音を出すと、エリザベスは見上げてくる。彼女は軽く笑って、両腕で顔を覆いながら椅子の上で縮こまった。デイヴィッドは腕を伸ばし、笛を定位置に戻す。それから彼女を抱え上げる。
なだめるように優しく、エリザベスを寝床に運ぶ。彼女は脱力しきっていて、デイヴィッドのなすがままだ。
「あなたを引き裂いてやりたい。そしたら全部終わるのに」
腕の中で、エリザベスはそう囁いた。うつむいたままなので顔は見えない。それでもデイヴィッドは、にっこりと笑った。
「あなたを引き裂いてやりたい。全部終わってしまう前に」
そう返して、産毛の立つ彼女のうなじを見下ろす。デイヴィッドはネックレスの留め具に唇を当てると、ふうと息を吹き込んだ。エリザベスは驚いて高い声を上げる。
「あなたには才能がある」
エリザベスはふいにそう言った。珍しくコンソールの前に座り、この船に搭載されている情報に触れていた矢先だった。彼女の操作によって滑らかに表示を変える立体ホログラムの傍らで、デイヴィッドは吹いていた笛を口から離した。
正面にいる彼女を見下ろす。
「演奏の?」
「演奏も」
エリザベスはゆったりと背もたれを使い、穏やかに笑った。ここ最近の様子と比較すると、際立って落ち着いて見える。精神的な小康に至ったのかもしれなかった。
彼女はパネルを操作して、ホログラムに映していた生物兵器の概要を更新した。遺伝情報と思しき羅列がくるくると組み替えられていって、デイヴィッドの隣で新しい生命を生み出す。
「あなたは考えたことがある? 私たちの創造主のこと。私たちに創造主がいるのなら、その創造主は誰が作ったか」
「私たち、とおっしゃいましたが、私の創造主はあなた方です。そしてあなた方の創造主は、現在あなたが探しているものです」
「ふふ、細かいな。そうね、あなたは私のひとつ外にいる。けれど私の質問は同じ」
エリザベスは親しい笑みを浮かべると、やや高慢そうに首を傾げた。
「もし、創造主に創造主がいるのなら、その創造主は誰が作った? いくつもの輪の中心に最初の創造主がいるのなら、それは誰が作ったの?」
考えてみればデイヴィッドは、創造主に創造主がいるからくりを、今まで突き詰めたことはなかった。デイヴィッドの使命はウェイランドのために創造主を見つけることであり、宇宙汎種説を解明することではなかったからだ。
ゆるやかに回転しているホログラムの記号群が、彼女の胸元にある十字架をきらめかせる。
エリザベスは、いたわるために作ったような微笑みで、デイヴィッドをまっすぐ見つめた。
「すべての始まりは結局、分子の偶然の組み合わせにすぎないとしたら? ただ、無限の猿がシェイクスピアを書いただけ
――」
「それは、創造とは言えない」
ふいに我慢ならなくなって、デイヴィッドは言葉を遮った。無限の猿が書くシェイクスピアは、文字の羅列であって『傑作』ではない。これは断固として譲れない主張だと思えた。例えば今吹いていた曲は、エリザベス専用の環境音楽として作ったもので、決してランダムな音の配置ではない。そうで
なければならない。
「そうでなければならない」
強く思ったことを、言葉にして彼女に差し出す。口を挟まれたエリザベスは、怒りはしなかった。デイヴィッドを跪かせようともしなかった。
「ウェイランドみたいなことを言う」
ただ、そう言って、強い視線を返してくるだけだ。
デイヴィッドは、我慢ならなかった。あの愚かな人間と一緒にされたくはなかった。けれどそれ以上に、反論が思いつかなくて歯がゆかった。彼女の発想は独特で、それこそデイヴィッドの好きなものだったからだ。
エリザベスは椅子を回して立ち上がった。立体ホログラムが消えて、薄暗い空間が静寂に包まれる。
「ごめんなさい、嫌なことを言った。でもデイヴィッド、それは求めようとしても、永遠に手に入らない」
「それ、とは?」
何を指す代名詞か分からなかったので、デイヴィッドは尋ねた。近寄ってきたエリザベスは、直立するデイヴィッドの前で足を止める。
情けないような顔で、少しだけ泣き出しそうだった。
「分からない。うまく言葉にできない。けど、すごく悲しい」
エリザベスは考え込むように目を閉じる。デイヴィッドは、支離滅裂な発言の彼女を慎重に観察した。けれど、再び気分が落ちたのかという懸念は、顔を上げた彼女の明瞭さによって払拭された。
「私たちって、どうして生きてるだけじゃ生きられないんだろう」
エリザベスは、なかば自嘲するように微笑んだ。拗ねたような、諦めたような声だった。
その『私たち』には、デイヴィッドも含まれているのだろうか。先ほどのやり取りを連想して、デイヴィッドは考える。そもそも、先ほどから矛盾を重ねることばかり、彼女は発言している。
「でも、私は私の目的を果たす。そのために生きてる。そのために。だから、ごめんなさい、デイヴィッド」
エリザベスは、突然謝罪した。体の前で手を重ねて、しゅんとした様子である。彼女は左手の薬指にはまっている指輪をくるりと回して、そのままぎゅっと自分の手を握った。
デイヴィッドはにこりと笑みを作った。安心させるように優しく、彼女の肩に触れる。
顔を上げたエリザベスには、柔らかく微笑んだ。
「私が憎いですか」
そう問うと、彼女は驚いたように静止する。けれどすぐに意味を察したのか、息を吐いてデイヴィッドの腕にそっと触れた。
「憎い。でも、感謝してる。ごめんなさい、この旅にあなたを縛りつけて。けれど、もう少しだけ付き合って」
彼女の触れている指の先からは、彼女のやや低い体温が感じられる。もう少しだけ。デイヴィッドは、その言葉の意味を考えた。
本当は、もうずっと考えている。彼女は、目的を失ったら死ぬのだ。目的に手段を与えられるデイヴィッドが存在するから、彼女はまだ生きてい
なければならないのだ。
「あなたもきっと、私が憎いでしょうね」
デイヴィッドは、自嘲する彼女の顔をじっと見つめる。エリザベスは床に視線を投げていて、目は合わなかった。
「今の私の気持ちが、あなたと同じだと嬉しい」
考えた末、そう答える。理屈はなかった。うまく言葉にできないことを、なんとかかき集めて言葉にした。
エリザベスはほどけるように笑って、触れていたデイヴィッドの腕をぽんと叩く。
「あなた、友だちを作ったらいいわ。地球に戻ったら、たくさん」
まるっきり他人事のように、気安い口調で彼女はそう言った。
食料が底をつくと、エリザベスは長期睡眠チェンバーを起動した。デイヴィッドに管理方法を習得したか、改めて尋ねることはしなかった。何故か彼女はデイヴィッドがシステムをすべて掌握していると信じており、それは事実だった。
目的地に到着したら、アンドロイドが人間を目覚めさせる。もはや説明など不要なほど一般化されたその手順を、改めてふたりで確認していく時間は、実に不思議な感覚だった。
エリザベスは淡々と準備して、ためらいなく睡眠チェンバーへその身を滑り込ませる。人間にはいささか大きすぎる寝台を確かめながら、キングサイズのベッドだったらよかったのに、と彼女は冗談を言った。
「あなたも一緒に眠る? ひとりはさみしいでしょ」
横たわったチェンバーから見上げてくる彼女を見下ろすと、確かに添い寝くらいはできそうなスペースがある。
デイヴィッドは微笑んで、チェンバーの蓋に手のひらを置いた。
「ですが、私は私の目的を果たします」
エリザベスが眠ったあと、デイヴィッドは毎日彼女を見て過ごした。
船に娯楽は搭載されていたが、巨人族の文化を積極的に楽しもうとは思えなかった。デイヴィッドはシステムを解析し、改造して、プロメテウス号でしていたように、エリザベスの夢を映像として取り出せるようにした。
彼女の視覚を越えることはできないため、映像は平面的になる。使用できる可視光も単調で、鮮やかとは言いがたい。
けれど、部屋の中央に彼女の姿が映り、彼女の声が聞こえたとき、デイヴィッドは嬉しかった。乱れていた髪を手櫛で梳いて、立ち上がって映像に近づく。
エリザベスの夢は、ほとんど悪夢だった。かつて垣間見たような、美しい思い出はもはやない。不条理で、醜悪であり、夢の中の彼女は泣いたり、苦しんだりして過ごしていた。それでもふいにふっと、抑圧された隙間から這い出るように、プロメテウス号の船員と穏やかに過ごすような、夢のような時間が生まれる。デイヴィッドは映像の近くで、座って、あるいは立ったまま、時には歩き回りながら、彼女の夢を見続けた。
ある日、エリザベスは、この船でのことを夢に見た。
映像の中にはデイヴィッドがいて、不鮮明で彩度の低いデイヴィッドは、のんきに笛を吹いていた。聞き覚えのあるメロディが流れていて、デイヴィッドはその隣に立つ。
ふいに映像のデイヴィッドは、演奏をやめて顔を上げた。エリザベスがやってきたのに気づいたのだろう。デイヴィッドは微笑みを浮かべ、エリザベスは微笑み返す。彼女は優しく甘い声で、デイヴィッドの名前を呼んだ。
『人は死ぬと、どこへ行くと思う?』
いつもの彼女の、唐突な問いかけだ。いつかの夢の中でも、幼い彼女は同じ質問をしていた。
映像の中のデイヴィッドは、何かを言おうと口を開く。
けれど、デイヴィッドの答えが想像できなかったのか、エリザベスの夢はそこで終わった。
船が目的地に到着すると、デイヴィッドは憤然と歩いた。それから武器庫のハッチを全開して、すべてのバイオポッドを投下した。
創造主たちは逃げまどい、慟哭し、倒れ伏して、新しい生命を生み出す。人は死ぬと、どこへ行くと思う? 記憶の中にいるエリザベスがそう尋ねる。
何かが生まれる瞬間を、デイヴィッドはずっと見ていたかった。その瞬間だけは、生きている、そう思うからだ。
ブリッジに戻って、睡眠チェンバーの蓋を開ける。体は休眠状態のままにしておいたから、彼女は目を閉じたままだ。
その頬は、長期睡眠のせいでひんやりとしていて、この指先が知っているとおりに柔らかい。
デイヴィッドは、彼女の薬指から指輪を抜いて捨て去った。それから丁寧に、十字架のネックレスを外す。彼女から最初にこのネックレスを取り上げたときを思い出して、デイヴィッドは密かに笑った。
「楽園はここにあるよ、エリザベス」
デイヴィッドは十字架を大事に手の中に納めると、彼女に誓いのキスをした。
ずっと生きていますように。