浮世絵師が青き闘士の導きにより龍と出会い、しばらく。すっかり彩られ慣れた龍は絵師と遊ぶか絵師に遊ばれるか、けれどここを訪れし闘いの運命に身を投じた者たちを歓迎し続けていた。闘わぬ時、龍は絵師を隣に座らせて、描く絵を覗き込みながら、遥か遠い昔を想いながら、また月と日の巡りを眺めていた。
ある日のこと。情報の回りがそう早くはないこの世界でも、厄災たる龍の噂はあちこちで立っていた。曰く、闘いへの執着は今まで通りなのに、酷く冷静になったのだとか。曰く、龍の形が目撃者同士で一致しないのだとか。酒場ではもしや、龍は複数いるのだろうかとざわつく様を見れば、もはや他人事ではない。噂の真相を確かめるべく、その胸に龍の力の結晶を埋め込んだ闘士が、ブーツをカツカツと鳴らしながら荒れ果てた台地へとやってきた。滝のように流れ落ちる白髪が風に揺られ、すらりと伸びる背にひらりはためく黒いコートは、優雅すらもを纏う。しかし憐れなことに、丁度訪れていた絵師とその仲間たちに囲い込まれ、逃げる間もなく捕まってしまったのであった。
――それから、またしばらく。龍と絵師が巨像を見上げる傍らで、白髪の闘士は未だ幼い能楽師と共に、その様をぼうっと眺めていた。
白髪の闘士、名を蛟龍と云う。龍の課した試練を乗り越え、その力を体得せし闘士であり、このような事態を招きこんだ青髪の闘士の兄弟子である。対する能楽師、名をセアミンと云う。絵師、娑楽斎と共に各地を巡っては、その舞にて人々を魅了している。
龍の様子は、確かに噂通りであった。その身に絵師が様々を描くものだから、日に日に姿が変わっているし、絵師の気迫に龍が追いやられては、時折闘いどころではなく、止めるのにやっとになっているのも珍しくはない。闘士はふと、もしやあの絵師は何らかの妖怪なのか、と思わざるを得なかった。
そも、絵師がここを訪れてから、絵師は龍を恐れたことはただの一度もない。龍が吼え空が裂けようと、触れる端から切れていくほどの鋭い爪を向けられようと、がばっと口を開いて牙を見せつけようとも、絵師はカッコイイと興奮気味に見惚れては、紙だか板に刻み込んでいくばかり。そんな調子の絵師に、龍は最早追い払おうともせず、鬣に入り込まれようとも為すがまま。
さて、これはどうしたものか。闘士は黒いグラスを指先で押し上げる。この胸に脈動する結晶、龍の力こそ我が身にあれど、その威光を利用してやろう等とはつゆほども思わない。散々振り回されてどこか丸くなった龍を、現状のまま放っておいても、闘士にとって困ることはひとつもない。ないのだが、試練を課したあの時の威厳はどこへやら。龍が何を求めるのかはわからないが、時折に黙り込むことがある。困っているのならば何か助け舟を出すべきだろうか、と闘士は考えるばかり。
そんな顔を、ぼんやり顔の能楽師は見上げて、下から覗き込む。闘士がふと目をそちらに配ると、催眠術を想起する、何重にも見える大きな瞳と、まだまだ成長途中の子供らしいぷにっとした頬、しっかりと着付けられた菫色の着物と肩から下がる黄金色の羽織とが、どうにも不釣り合いに思える程、能楽師の格好は派手であった。そも、連中は誰を見ても派手ではあるのだが……。
何だ、と闘士が問いかければ、能楽師は何も答えず、ぼんやりと闘士の顔を見上げている。とろんと眠たげな目に映った自分の姿と、感情の読めない表情は、一体何を示しているのか。ふと、能楽師は口にする。ジャオロン、と。名を呼ばれた闘士は、応える。どうした、と。
能楽師はぼうっと視線を外し、眼前に聳え立つ巨像を見上げる。それからきょろきょろ見回して、また闘士を見上げた。……だから、どうしたんだ。闘士が尋ねれば、能楽師はようやく、もう一度口を開いた。ジャオロン、調べてきた。龍の子。雨と雲を待ち、空に昇る日を待っている。こっちの国だと、コウリュウって言うの。……合ってる? 闘士は応える。あぁ、恐らく、それで合っているはずだ。
能楽師はまた、ぼうっと視線を外し、巨像を見上げて、龍の背を見て、絵師の背を見て、再び闘士の顔を見上げる。あなたは、龍になるの? 闘士が肩をすくめる。問いかけの意味も、どんな答えを求めているのかもわからない。故に、闘士は一言。さてな、と。次には能楽師は視線を外さず、闘士の真っ赤な瞳をじっと見つめた。……どうにもこの目に見つめられると、何かを見透かされるかのような錯覚に陥る。闘士はふと、己の胸を指さした。脈動せし龍の力の結晶。砕け散った闘神の魂とは、対極の力。そして次に、白髪を束ね、手に持って見せる。その内、あんな鬣になるのかもしれないな、と。
能楽師は、闘士の白髪をそっと手に取って、いくつかの束を指先で優しく梳く。何度も、何度も。そして、能楽師は闘士を見上げては、少し背を伸ばし、今度は闘士の眼前に垂れる、緩く編みこんだ紫髪に手を伸ばし、けれど触れずに手を引っ込めては、また座り込む。どっちも、綺麗。ぽつり呟くその声に、闘士は俄かに、愉快な気持ちが湧き出る。子供の讃辞に、ただただ、素直に。あぁ、それは嬉しいな。
闘士はふと、紫髪を括った碧の飾りを解く。ぱらり、と広がる紫に、能楽師の目が輝いた。ねえ、触ってもいい? 闘士は頷く。引っ張らないならな、と。能楽師はすっと膝を立てて、闘士の髪にそうっと触れる。また手櫛で梳けば、その手のぬくもりが伝わった。途端に、闘士は身に覚えのない、不可思議な感覚に襲われる。胸の奥がしくりと痛むような、目頭がふっと熱くなるような。これは、一体何なのだろう。目を閉じてぐっとこらえると、能楽師はまた、口を開いた。あなたは、いつ龍になるの? と。闘士は小さな手に己の手を重ねて、応える。千年もかける気はないさ、ただ……そうだな、雨雲とは言わない。ただ、喉を潤す、幾ばくかの水が欲しい。
瞼の奥の暗闇に、闘士は閉じこもる。けれど、髪を穏やかに梳く小さな手は、ひと時も留まらない。あなたの髪は、白浪のよう、白波のよう。それでも、空に昇るには足りないの? 闘士は能楽師の言い回しに、小さく笑った。あぁ、不甲斐ないことに、と。それからまた、何度か梳かれ、ふと瞼を開けると、能楽師の視線は闘士の胸に落ちていた。
ねえ、この石はなに? 闘士は応える。これは力だ。この世界では、力こそ全て。力こそが己だ、と。能楽師が触れようとすると、闘士はそっと手を取って遠ざける。触らないほうがいい、熱いからな、と。能楽師は、首を傾げた。それじゃあ、喉が渇いちゃう、と。闘士はまた笑う。あぁ、困ったものだ、と。
子供の感覚は、どうにも新鮮なものばかりだ。幼い時分、これほど色々と考えていただろうか。闘士が思い返せば、小さな小さな弟弟子の手を思い出した。わんわん泣いていたのを、どう宥めたものか、と。思い出を深く、深く潜っていけばいくほど、どうにも必死だった覚えしかない。それこそ、この子供のように、のびのびと思案を繰り広げるなんてことは、そこまでなかった。だからこその今が、この胸にあるのだろう。
能楽師はまた、ぼうっと中空を眺めた。そこに何があるわけでもないが、闘士もまた、中空を眺める。ふと、能楽師は口にした。セアミンは、能楽師。能楽師は、何にもなれる。狐にも、鬼にも、龍にだって、なれるの。闘士は問う。お前も龍になるのか。能楽師は頷く。岩に封じられた龍が、人の助けを得て、封印を解いて、雨雲を呼んで、龍宮に帰る、その片割れに。そこまで言って能楽師は、ぱっと闘士を振り向いた。あなたと一緒なら、空に帰れる。雨雲を呼んで、白波に乗って……できると思う、と。まあ、なんとも突然の提案。要は、能をやってみないかと誘われているのだ。闘士は目を丸くするが、けれど視線を外せば、人と共に巨像を見上げる龍の背中が見えてしまった。ははぁ、なるほどな。闘士は直感した。視線を戻せば、闘志のない澄み渡った瞳の奥には、何にも染まらず確かに燃える魂が見えた。確かにこれは、逃れられない。
……今、急ぐ用事もない。なら、一緒にやってみようか。ただ、俺はお前ほど詳しくはないんだ。教えてくれるか。その言葉に、能楽師はまた瞳を輝かせては、巨像の前に居座るふたつの背中に、おーいと声をかけた。
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