千代里
2024-05-27 12:59:22
18525文字
Public リーブラ13話
 

リーブラの針は問う・13話・その10


「誠に申し訳ないことをした」
謝罪の言葉と共に、ノエの目の前に立つ男が頭を下げる。彼の片手は、先だってノエが捕まえた窃盗犯ーー帽子を被ったくすんだ金髪の少年をしっかりと捕まえていた。
男は頭を上げると、
「グレン、君も彼に謝罪をしなさい。そもそも、何故そのようなことをしたんだ」
隣に立つ少年ーーグレンという名らしい彼は、男の厳しい叱責を受けても素知らぬ顔をして、ノエから視線を逸らした。単純に叱られて拗ねているからというよりは、より明確な拒絶を形にしようとした結果のようだ。
「グレン!!」
…………
「あの……盗んだ物は返してもらいましたから、僕はそれで十分ですよ」
被害としては紛れもなく窃盗であるが、だからと言って目の前の少年を頭ごなしに恫喝したいわけではない。ノエがそれとなく妥協点を示したところ、男の方も少年を謝らせるのは諦めたようだった。
軽く肩を落とすようなそぶりを見せてから、
「寛大なお言葉、感謝します。見たところ、この街の方ではないようですが……怪我などはしていないでしょうか」
「いえ、僕はまったく。そちらの子供の方が、取り押さえる時に怪我をさせてしまっていないでしょうか」
ノエに質問されて、男の視線がそばにいる少年へと映る。男の視線に引きずられるようにして、ノエも目の前の子供を見やる。
背丈は、ノエよりも頭二つは小さい。耳の長さから察するに、彼はヒューランなのだろう。
薄汚れてサイズの合っていない上着のせいで、手は殆ど袖の中に隠れている。一方で、踝が見えるほどちぐはぐなサイズのズボンからは、棒のように細い脚が出ていた。
暗く沈んだ紫の目は、ノエと視線が合うと険しさを帯びる。お前のせいで叱られている、という子供らしい非難の目線とも違う。もっと剥き出しの底知れない深さを帯びた敵意だ。
しかし、ノエはグレンとは初対面である。彼にこのような目を向けられる理由が、ノエにはない。
グレンは、自分の保護者らしき男にも、平等に冷たく尖った視線を送っている。まるで、彼自身が一本の氷柱であるかのようだ。
「えっと……何か欲しい物でもあったのですか?」
そんな頑なな態度をとる少年の様子が気になり、お節介だとは思うがノエは声をかける。年頃こそ違うものの、ノエに出会ったときのオデットの態度とも通ずるものがあったからもある。
しかし、半ば予想していたことだが、グレンは無言でそっぽを向いてしまった。
「ーーグレン」
「ああ、いいんです。どうやら、僕のことは警戒してしまっているみたいですね。無理もないことですが」
咎めるような男の物言いを和らげようと、ノエは当たり障りのない言葉でその場を濁す。
財布を盗まれた時は流石に黙って見送るとはできなかったが、相手が子供であるということや、粗末な身なりをしていることから、何か事情があるとは察せられた。
ならば、無事に財布が戻ってきた以上、第三者の自分はそろそろ身を引く頃合いだ。念のため、中身だけ確認して、オデットのところに戻ろう。
ノエが、その場を辞すための言葉を口にしかけたときだった。
「せんせー! アランせんせー!!」
裏路地に響く、少年の声。それは、ノエを睨みつけている窃盗犯のグレンのものではない。
どうやらアランという名前らしい男は、声の元へと顔を向ける。思わず彼につられて振り返ったノエは、裏路地から声を張り上げている少年を目にする。
グレンを捕まえるためにアランが置き去りにしてしまった子供が、彼を探してやってきたのだろうか。そう思った矢先、
「大変だよ! グレンが突き飛ばしたお姉ちゃん、怪我して動けないって!」
その言葉に、ノエは青銀の目を丸くした。

***

「オデット、足は曲げられるかい」
「は、はい」
「そうか。伸ばすのは?」
「そちらは……やっぱり少し痛いです」
寝台に座っているオデットの片足は、真っ白の包帯が巻かれ、添え木が添えられていた。ノエに促されるままに足を曲げ伸ばししていたオデットは、自分の状態についてできる限りありのままを答える。
裏路地に飛び込んだ少年が言っていたように、オデットはグレンに突き飛ばされたはずみで尻餅を打っていた。それだけでなく、捻った方が悪かったのだろう、彼女は足を挫いてしまってもいた。
オデットの窮状を知らせてくれたのは、コーディという名の少年だった。彼は、グレンを追いかけて行ってしまった先生ーー二人の保護者であるアランという男とはぐれてしまったので、ひとまずオデットのそばにいようと彼女に声をかけた。そこで、オデットが立ち上がれずに青い顔をしていることに気付いた。
すぐさま、彼は自分の保護者とオデットの同行者であるノエを探すために、あの裏路地での呼びかけとなったのである。
「オデットの癒しの魔法でも、完全に治癒はできていないってことか」
「そうですね……。具体的な傷口が見えていない負傷は、傷の範囲や傷の深さがわからなくて、治療しづらいんです」
それでも、負傷した直後に比べれば、随分と痛みはましになった方だ。ノエが駆け寄ってきたとき、オデットは立ちあがろうとするだけで顔を顰めていたのだから。
目立った腫れはないので、恐らくは折れてはいないだろう。念のため、オデットの反応を見るためにノエが包帯の上から彼女の足をなぞる。すると、まるでそれから逃げるようにオデットの足が引っ込んだ。
「やっぱり、痛むのか」
「あっ、いえ。ちょっと……くすぐったかっただけです」
「そうか。今の動きができるなら、安静にしていれば直に痛みも引くと思うよ」
オデットを心配させないように、ノエは敢えて楽観的な言葉を選ぶ。幸い、少し俯いていたオデットの真っ赤な顔は、彼女の長い髪の毛に隠れてノエには見えていなかった。
「アランさんに、暫くはここにいていいって言ってもらえたし、お言葉に甘えて休ませてもらおうか。……それにしても、まさかアランさんが司祭様だったとは思わなかったな」
「はい。思いがけなく、目的地に来てしまいましたね」
ノエとオデットが話している一室ーーそこは、街にある教会内の救護室であった。つくづく、近頃は教会の救護室と縁がある。
窃盗犯の少年やオデットの救護を求めてきた少年は、教会に併設している孤児院の子供だった。そして、彼らの保護者であるアランは教会の司祭だった。
着ていた服が、司祭用の装束ではなく、街歩き用の私服だったために、ノエもオデットもすぐには気が付けなかったのだ。
幸か不幸か、司祭たちは多くが孤児院の子供達の面倒にかかりきりで、礼拝堂には祈りに来ている街の人以外の姿を見かけなかった。おかげで、オデットは余計な萎縮をせずに、救護室まで連れてもらうことができた。
「何だか、教会ですけれど賑やかなところですね。昔、わたしがいた救貧院を思い出します」
「ーー……そうか。思い出せるんだね、もう」
オデットの口から「思い出す」という単語が出てきたことに、ノエは微かな寂寥を覚えてしまった。
本来そんな感情を抱くべきではないとわかっていても、彼女が記憶を取り戻し、自分の知らない思い出を当たり前のものとして受け止めている事実は、時折ふとしたときに隙間風のようにノエの心へと冷たいものを吹き込んでくる。
「大丈夫ですよ、兄さん」
そんなノエの一抹の不安すらも読み取って、オデットは彼へと笑う。
「わたしの思い出も、兄さんの思い出も、同じだけ大事なものだって……わたしは、そう思うようにしています」
「うん、ちゃんと分かっているよ。オデットが記憶を取り戻しても、きっと僕の思い出も大事に扱ってくれるだろうってことは」
「でも、心配になっちゃうところが、何だか兄さんらしいです」
「自分でも、どうかとは思うんだけどな」
「どうかと思ってもらうぐらいは、わたしとしてはちょうどいいのですけれど」
それに、とオデットは少しばかり頬を膨らませて、
「兄さんだって、わたしの知らない兄さんの思い出を沢山持っているじゃないですか。わたしだって、小さい頃の兄さんに会ってみたかったのに」
「ああ、いや……オデット、それはさすがに無理だと思うよ」
それに、ノエとしては幼い頃の自分の醜態をオデットに知られるのは恥ずかしくてたまらない。オデットは、きっと喜んでノエの子供時代を知りたがるだろうが。
「はい、兄さんの言うようにそれは無理なことです。でも、わたしも兄さんと同じ気持ちを持ってるって言いたかったんです」
オデットは足に響かないように寝台から身を乗り出し、座っているノエの手を握りしめる。
オデットの記憶のことについて、以前のように強いショックを受けているわけではないが、それでもオデットと触れ合っているとノエの心はふっとゆるむ。彼女のそばにいるときでしか得られない、他の仲間と異なる安堵がノエの心に吹いていた隙間風を散らしてくれた。
「話を戻すけれど……オデットのいた救貧院も、子供が多かったのか?」
「はい。半分ほどは子供だったと思います。わたしはその中でも小さい方だったので、いつもお姉さんやお兄さんに囲まれていました。わたしに、家の仕事を手伝う方法を教えてくれたんです」
「オデットは今も整理とか掃除に慣れているものな。そのときに教えてもらったことだったんだろうか」
「そうかもしれません。あと、お母さんも、救貧院でのお仕事は得意な方じゃなかったので、わたしが手伝っていたからかもしれません」
オデットの記憶の中にいる母親は、母の知人であるディアヌが語っていたように、存外にお転婆な性格だったようだ。子供のようにはしゃぎながら家事に取り組むせいで、掃除をする前より汚している場合もしばしばだった。それでも、彼女がからっとした笑みを向けると、皆そろって「仕方ないなあ」という顔をになってしまうのだ。
そのような思い出話をノエに語りながら、オデットは外を見やる。冷気を締め出すために閉め切った救護室の窓からは、教会に併設している孤児院や、遊び場として開放された広場がよく見える。
そこでは、年齢も種族もさまざまな子供たちが、てんでばらばらに好きなことをしていた。
追いかけっこをしている子供もいれば、広場の隅でままごとに興じているものもいる。
昼過ぎになって、イシュガルドにしては珍しく薄く日が差し始めたため、子供らにとってはまたとない好機なのだろう。
「あ、あの子は……
「さっき。オデットの財布を盗っていった子だな」
オデットが視線を止めた先ーーそこにいたのは、くすんだ金髪に、帽子を被った少年ことグレンだった。晴れているとはいえ、外の気温は決して高くない。それにも拘らず、彼は薄手の上着一枚で空をぼんやりと眺めていた。
「少し寒そうな格好ですね」
「着ている服が足りない、ということではなさそうだけどね。他の子供達は、皆暖かそうな格好をしている」
ノエの言うように、グレン以外の子供たちは、ややオンボロではあるもののマフラーや帽子、手袋を身につけていた。しかし、グレンだけがまるで温度を感じていないかのように、薄着のまま外に出ている。
ぼんやりと空を眺めていた少年は、不意に人の気配を感じたように振り向いた。
ノエたちの視線に気がついたのではない。グレンの元に、三人の子供が近づいてきたのだ。グレンよりも年上の子供が先頭に立っている一方で、まだ七つにもなっていないような子供も混じっている。
見たところ、どうやら、遊びの誘いというわけではなさそうだ。三人から漂う刺々しい気配は、救護室から見ているだけのノエにも伝わる。
「兄さん、少し窓を開けてもいいでしょうか」
……うん」
自分たちは、この孤児院や子供たちにとっては部外者だ。それが分かっていても、自分たちが一瞬でも関わった相手の様子を無視することができない。その点において、二人はよく似ていた。
窓から吹き込む風を伝って、三人組の声がノエたちに届く。
「ねえ、グレン。コーディから聞いたのだけど、あなた、またアラン先生に迷惑をかけたそうね」
「さっき来てた人たち、お前が財布を盗もうとした人って本当かよ」
「ひとのもの、とっちゃだめなんだよ」
忠告めいた言葉を放っているのは、一番年上のヒューランの女子だ。周りのものよりも頭一つ抜けて大きいので、恐らくは孤児院の中でも最年長のリーダー格なのだろう。
続けて、リーダーに追従したのは、彼女より年下と思しきエレゼン族の少年たちだった。
「あなたが悪いことしたら、その分だけ私たち全員が悪く言われるの。前にも先生が言っていたでしょ。レンタイセキニンってやつ。それに、私たちだけじゃなくて先生も悪く言われるのよ」
「そうだぞ。グレンも知ってるだろ。あの人が来てくれたおかげで、ずっと楽に暮らせるようになったじゃないか。前よりたくさん毛布が貰えたし、服だってずっとマシなもんが行き渡るようになった。それに、小遣いだってくれる!」
「あとね、おかしもくれるようになったの。グレンは、それ知らないの?」
どうやら、アラン司祭が教会に赴任したのは、最近のことのようだ。彼のおかげで、孤児院の子供達の環境は良くなったらしい。
「教皇様のところから来た偉い人だって、アラン先生がたくさん頑張ってるって褒めてくださってたわよ。なのに、あんたのせいで全部台無しになったらどうすんのよ。先生がいなくなったら困るのは、あんたも一緒でしょ」
そのとき、今まで話を聞いているかどうかも定かでない様子だったグレンに、初めて動きが見られた。
遠すぎてグレンの表情までは見えなかったが、リーダーの女子がたじろいだ様子を見る限り、グレンが彼女を睨みつけたのだろう。ノエが味わったような、あの氷のような冷たい視線を、彼女にもぶつけたのだ。
……な、何よ……そのはんこーてきな目は!」
一歩、グレンが前に踏み出る。ただ言葉だけをぶつけていた者にとって、その振る舞いは直接的な行動に出るという意思表示に見えたようだ。
三人組にも、先ほど以上にはっきりと動揺が見られた。
「お、お前なんて、怖くないんだからな! 悪い子は、ハルオーネ様のお叱りを受けるって、先生も言ってたぞ!」
「そうだよ! わるい子は、ランドンみたいにドラゴンになっちゃうんだよ! ドラゴンになって、騎士様にやっつけられちゃうんだ!」
一番小さな子供が、そう言った瞬間。
グレンは、急に一番年少の子供へと向く先を変えた。
氷のような視線とともに、グレンの痩せた足が一歩前に踏み出る。
(まさかーーあれは、流石にまずいっ……!)
横から見ていたノエは、思わず窓を開け放ち、窓べりへと手を掛ける。
グレンが、小さな子供に対して何かしかけようとしている。それを察知したからだ。
いくら子供同士であれど、十歳前後の子供と七つにも満たない幼子の体格差は歴然だ。もし、オデットにぶつかったときのように加減せずに体を当てたら、それだけでも大怪我につながるかもしれない。
だが、ノエが窓わくを飛び越える前に、広場にいた子供の一人が四人の間に割って入り、今にも飛び掛かる寸前のグレンを取り押さえていた。それは、先だってノエたちにオデットの負傷を告げてくれた少年だ。
雪焼けしたような褐色の肌に、銀色の癖毛がきらきらと輝いている。はちみつ色の瞳は、本来なら愛嬌を宿しているのだろう。しかし、あいにく今は乱闘を始める寸前だったグレンを止めるために、少年は決死の表情でグレンの上体に組みついていた。
「だーっ、もう! またおまえら喧嘩してんのかよ! いいかげん、グレンにちょっかい出すのやめろってば! あと、グレンもグレンだぞ! お前、行動がストレートすぎんだよ! 口で言えないなら、身振り手振りとか、先生にチクるとか、色々やり方があんだろうが!」
たしか、名前はコーディといったか。彼の言葉から、グレンと他の子供たちとのやり取りが、どうやら日常的に行われているやり取りであることが窺い知れる。
「喋りたくないなら、喋らなくていいけどさ。気に入らない奴ぶん殴る前に、他にすることがあるだろーが」
…………
コーディの論は、グレンにとっては聞くに値するものだったらしい。彼はコーディを振り払ったものの、これ以上幼子に危害を加えようとはしなかった。
「あと、お前らも。グレンは、もうアラン先生にきっちり叱られてるんだよ。そのうえ、お前らまで調子に乗ってあれこれ言うんじゃねえっての。いつから、お前らそんなに偉くなったんだよ」
「でも……そいつのせいで何かあってからじゃ、私も困るし……
リーダー格だった女子も含めて、コーディの言い分が筋を通っていると察したのだろう。
女子の方はまだコーディに何か言っていたが、少なくとも矛先はグレンから変わったようだ。もっとも、肝心のグレンは、相変わらず地面を見たまま微動だにしていなかったが。
そうこうしているうちに、何やら様子がおかしいと察知したのか、孤児院から大人のヒューラン族の女性が姿を見せた。あちらは、教会の修道女か、それとも孤児院に手伝いに来ている者だろうか。
大人が姿を見せたことで、騒動は急激に鎮静化したようだ。ノエも窓べりから手を外し、ほっと息を吐いた。
丁度そのとき、コンコンと扉を叩く音が響く。どうぞ、と呼びかけると、扉が開き、外にいた人物の姿を露わにした。
「失礼します。オデットさんの足の具合はどうでしょうか」
「アランさん。はい、おかげさまで、だいぶん落ち着いたようです」
扉の向こうにいたのは、グレンの盗難事件の際にそばにいたアランだった。
夜闇のような黒い髪を後ろに撫で付け、顕になった眉は厳格そうに吊り上がっている。だが、今こうしてノエたちに様子を伺う彼の様子からも、そして先ほどの子供たちの会話からも、アランという男が善良な人物であるとノエは感じていた。
その裏付けというわけではないが、アランは教会に戻ってきても、司祭の装束を纏っていない。それは、ノエが教会に入る前にそれとなくオデットの事情を伝えたからだ。
小さい頃に、司祭の者にひどく叱られたことが原因で、司祭を見ると今でも体が震え上がってしまう。詳細は違うだろうが、大枠としては間違っていない説明を聞いて、アランはオデットの負担にならないように気をつける、と請け負ってくれた。
部屋に入ったアランは、救護室にある机の上に、運んできたお盆を置く。そこには、ティーカップが三つと、湯気をたてた焼き菓子とサンドイッチが並んでいた。温かい料理が冷めないように、ノエは開け放っていた窓を閉める。
「オデットさんは、治癒魔法が使えるという話でしたよね。もし、体内のエーテル消費が激しいようでしたら、錬金薬も用意しますが、どうしますか」
「いえ、そこまで激しく消耗したわけでもなかったので大丈夫です。それに、どのみち、わたしの魔法ではちゃんと治すことは難しそうでしたので」
すると、アランはオデットの足を見やり、申し訳なさそうに眉を下げ、
……この度は、本当にすみませんでした。もし、痛みが長引くようでしたら、医師の手配をさせていただきますので、遠慮なく言ってください」
「わかりました。もし、痛みが長く続くようでしたら、お願いさせてもらいます」
オデットの足についての話が一区切りついたので、アランに促されるままに、ノエは椅子へと腰掛ける。オデットも足に障らないようにそっと寝台からおり、同じくゆっくりと腰を下ろした。
先だっての陽気な女店員が振る舞ってくれた軽食を食べて以来、食事は口にしていない。丁度お昼時を少し過ぎた頃合いであったので、二人は揃って再び空腹を感じていた。
「よかったら、召し上がってください。迷惑をかけた詫びのようなものです」
「ありがとうございます。お腹が空いていたところでしたので、助かります」
ノエは一礼を軽く挟んでから、サンドイッチに手を伸ばす。
寒冷地でも育つ葉物野菜は、グリダニアとは異なり、少し小ぶりだ。苦味が少し強いものの、それが間に挟まっている調味料と程よく合う。
……何だか、懐かしい味だな)
小さい頃、同じ野菜を使ったサンドイッチを食べたことがあったのかもしれない。やはり、ここは自分の故郷なのだなと、ノエは改めて確かめたような気持ちになった。
アランは三人分分の紅茶を注ぐと、自分も改めて腰掛け、ようやく一息ついたといったように紅茶に口をつける。
アランはヒューラン族ではあるが、エレゼン族のノエに負けず劣らずの長身だ。室内着のブラウスに包まれているものの、鍛えられていると感じ取れるがっしりとした体格をしている。現在は司祭として教会で勤めているようではあるが、この鍛え方から察するに戦闘に従事する職に就いていたと見て間違いあるまい。
ノエがアランを見やっている間に、オデットの手が二つ目のサンドイッチに伸びる。
「オデット、今日はよく食べてるね。お腹が空いてたのかい」
「あ、いえ……その、パンが美味しかったので、つい」
オデットは顔を赤くしつつ、サンドイッチの端を齧る。グリダニアとは異なる作り方で焼き上げられたパンは、オデットの舌によく合ったらしい。あるいは、オデットにとってもイシュガルドは故郷なので、故郷の味を懐かしんでいるのだろうか。
「お口にあったようで何よりです。作った者も喜んでいるでしょう」
そう言うと、アランは窓の外へと向ける。グレンたちはすでに立ち去ったようで、外では先ほどとは異なる子供たちが追いかけっこに興じていた。
「孤児院にあれほど子供がいると、面倒を見るというだけでも大変でしょうね」
「行き場のない子供たちを、正しい道に導くのも私たちの責務ですから。グレンにも、きつく叱っておいたのですが……果たして、あの子がどこまで聞いてくれるのやら。実は、これが初めてというわけではないのです」
つい、といった様子で漏らした言葉は、愚痴というよりも苦悩の色が濃い。大人として、孤児院を管理する者として、孤児であるグレンの行く末が気になっているのだろう。
「出過ぎた話かもしれませんが……先ほど、グレンさんが他の子供たちに……その、いじめられているような姿を見かけたんです。ああいうやり取りも、よくあることなのですか」
オデットが、おずおずとアランへと問いかける。
部外者であったノエが、思わず身を乗り出しかけるような緊迫した空気だったのだ。オデットも、同じように彼らのやり取りに不穏なものを察知して、どうなるのかと危ぶんでいたようだ。
オデットが状況を詳しく説明すると、アランは頭痛がするといったような顔で、額に手をやっていた。
「客人のお二人に不安を感じさせてしまい、申し訳ございません。よくあることか……と問われれば、残念ながら首を縦に振るしかないでしょう」
「あの、グレンさんに色々言っていた三人を叱ったりしないでくださいね。三人は、アラン先生は良い人だから、グレンさんのせいで悪く言われたら困るって話していたので」
「お気遣いいただき、ありがとうございます。子供たちに感謝されているのは喜ばしいことですが……しかし、そのような発言をしていたのですね」
子供に慕われているとはいえ、それが不和の種になるのはアランとしても困るのだろう。
複数の子供の仲を取りもたなくてはいけない孤児院の先生というのも、決して楽な仕事ではなさそうだ。
「彼は、今までも似たようなことをしていた、と言っていましたが……
「ええ。財布を盗んだのは今回が初めてですが、店先のものを勝手に食べたり、取っていってしまったり……。あとは、渡した服を切り刻んでゴミ箱に入れていたこともありました。そちらは孤児院の備品だったので、まだ良いのですが」
だから、グレンだけ薄着なのだろうかとノエは思う。孤児院で渡された衣服を拒絶する理由は分からないが、彼にとって他の子供のように、施された服を着るというのは受け入れ難いことだったようだ。
「あ、あの。グレンさんに、一番小さい子が……えっと、悪い子はランドンみたいに竜になっちゃうぞって言っていたんですけれど。それって、どういう意味なのでしょうか」
子供らの話をし続けていると、余計アランを悩ませてしまうと思ったのだろう。
オデットは、話題を少しずらして、自分が気になっていた独特の言い回しについて尋ねる。
「ああ、それは、この街に伝わる御伽噺なのです。どちらかというと、子供向けの教訓を交えたお話ですね」
オデットの予想通り、アランは眉間に寄せていた皺を緩め、オデットに向き直る。
「もしよかったら、聞かせてもらえますか」
「構いませんよ。ーー昔、この街にはとある騎士の兄弟が住んでいました。弟は品行方正の礼儀正しい、騎士の鑑とも言えるほど立派な人物でしたが、兄のランドンは狡賢い上に怠惰で、そのくせ嫉妬深く欲深い男でした」
そうして子供向けの物語をオデットへと語るアランの目からは、先ほどまでの苦悩が薄れている。目を細めてオデットに語って聞かせる姿に、ノエは彼の普段の振る舞いが透けて見えるようだと感じていた。
「街の人たちは、騎士として活躍する弟には賞賛や感謝の言葉を送りますが、当然ながら怠け者のランドンにはそのような賛辞は送られません。しかし、それがランドンには面白くありません。彼はあの手この手で弟を貶めようと、罠を仕掛けたり、悪党を雇って差し向けてみたりと、ひどいことをたくさんしました。それでも、弟は兄はそんなことをしないと、兄を信じ続けていました」
それほどの信頼を向けられたとしても、兄のランドンにとっては不満が溜まる一方だった。
ついに、ある日ランドンは弟を言葉巧みに連れ出して、弟を崖から突き落としてしまう。
これで、弟が称賛を向けられる姿を目にしなくて済む。ランドンが、そう喜んだときだった。
「ランドンは、自分の手を見て驚きました。彼の体は、醜いドラゴンへと変わってしまっていたのです。他人を妬み、傷つけても平然としているような愚かな人物は、ドラゴンと変わりないということです」
御伽噺の常として、悪は滅ぼされるべきものである。奇跡的に一命を取り留めた弟は、ドラゴンとなって街の人々を苦しめる兄のランドンを討ち取り、兄を憂う一方で、その死を悼んで涙を流したのだった。
そのように物語を結び終えてから、
「悪いことをしていたら、ランドンのように竜になってしまう。はたまた、自分の仲間として引き入れようとランドンがやってくるぞ……というのが、この街では小さい子供への脅し文句として度々使われているようです」
オデットはそれとなくノエへと視線を送ったが、ノエはゆっくりと首を横に振った。
同じ領地に暮らしてはいたが、ノエはそのような話を聞かされた覚えはない。恐らくは、この街独自の物語で、ノエの母は聞いたことがなかったようだ。
子供たちの話によると、アランはあくまで最近教会に配属された司祭のようだ。彼の口調が伝聞調になるのは、そのような理由からだろう。
……グレンさんが、あんなにも怒っていたのは……その、もしかしてドラゴン族にご家族を?」
オデットが、おずおずと問いかける。
この街に来るまで、オデットは自分の知らない『ドラゴン族』というものの脅威をまざまざと見せつけられていた。だが、それはドラゴン族の破壊の痕跡や、彼らを恐れる者たちの発言がほとんどで、彼女もノエも、実際に竜が人を殺めた現場を見たわけではない。
だが、今ここに、竜の脅威によって傷つけられた者がいるかもひれやい。。オデットにとって曖昧だった『竜』という見えざる不安が、より濃い影として焼き付いているように思えて、オデットの胸中は嫌なざわめきを覚えていた。
そんな気持ちを交えて、オデットが問いかけると、
「グレンの場合は、家族が竜に殺されたわけではありません。……彼の母親が、竜に変じたのです」
「ーーーーっ」
思わず、オデットはノエの方を見そうになる。
ノエもまた、一瞬動揺を顔に浮かべかけーーしかし、どうにかすぐに平静を取り戻した。
身内が竜に変じることも、変じた者が身内を傷つけることも、イシュガルドではよくある話だ。何もノエだけが竜に変じた者の犠牲者なわけではない。それでも、少なからずノエの心に驚嘆がよぎっていく。
「実は、私は……司祭の職に就くまでは異端審問官をしていました。グレンの母を追い詰め、竜に変じた彼女を仕留めたのは……私なのです」
目の前の司祭は事もなげに説明ようとしたようだが、彼の声には隠しきれない沈痛な思いが滲んでいる。ノエですら、一瞬目の前の男に何と言うべきか、言葉に迷ってしまったほどに。
「確かに、グレンにとってそれは悲劇だったことでしょう。ですが、そのようなことがあるから、彼が何をしても許してやってほしい、とまでは言いません」
辛い過去やトラウマを抱いているものだからといって、何をしてもいいとは限らない。もしそれが許されるなら、この世界には秩序など何一つ残っていなかっただろう。
……けれども、もしあなた方が許してくださるのなら、あの子の事情をほんの少しでもいいので、汲み取っていただければ幸いです」
少年の母親の息の根を止めるきっかけとなったと自覚しながらも、アランは自身の保護者としての立場を強く自覚している。故に、少年の悲しみに寄り添ってやることも、少年のいっそやけになったような振る舞いを見過ごしてやることもできない。
アランの微妙な立場を察して、ノエは静かに頷き返した。
……あの少年が、あんなにも僕を強く睨んでいた理由が、今ならわかった気がする)
ノエだけでない。
グレンはおそらく、誰に対してもあのような視線を向けているのだろう。
自分の家族を失ったことも、その喪失を肯定する世間も、何もかもが憎くて仕方ない。その感情は、たとえ冤罪ではあっても、ノエも幼い時分に味わった覚えがある。
周囲に対する言葉にできない怒りが他人を傷つける方向に働くのは不思議な話ではない。あるいは、アランを困らせることによって、母にとどめを刺した男の顔に泥を塗ろうとしているのかもしれない。
(僕は彼のように誰彼構わず怒りをぶつけるようなことはしなかったけれど、もし巡り合わせが悪かったなら、僕だって同じことをしていたかもしれない)
たまたまウヴィルトータが近くにいてくれたから、ノエは手当たり次第に八つ当たりするような真似はしなかった。できることなら、グレンにとってのアランがそうなってくれる日が来ることを願うばかりである。
「先ほど、グレンの母親がドラゴンに変じたと仰っていましたよね。そうなると、彼は異端者の子供ということになりますが……彼自身が、異端審問にかけられることはなかったのですか」
ノエは、己の過去と照らし合わせて問いかける。
ノエの場合は、母との関係疑われた上に、ドラゴン族の手先から判別するために崖から落とされるという結末まで迎えた。ならば、グレンはどうなのか。
「中には、ノエさんが仰るように、彼も異端者として裁くべきだという意見の者もいました。しかし、私や他の司祭が取り調べや調査を行い、彼には竜の血が流れていないだろうと判断したのです」
「そうだったのですね」
それはよかった、とノエは心の中で呟く。自分のように冤罪によって苦しむ子供がいなかったのなら、それは喜ばしいことだ。オデットの一件もそうだが、イシュガルド正教会の中にも、今までの体制を変えたいと願う者がいるのかもしれない。
「無論、万が一のことを考えて、司祭が目を光らせるようにしています。ですが、ここに来てすでに一年は経っていますが、そのような兆候はないと聞いています。彼の母は、息子まで異端の道へ引き込もうとはしなかったようです」
アランが顔をあげ、窓の向こうへと視線を送る。彼の視線につられ、ノエたちも外を見やった。
広場には、再びグレンが姿を見せていた。手には、木でできた剣のようなものを持っている。まだまだ構えが甘いが、無言で剣を振り下ろす姿には、ただの子供とは異なる凄みがあった。
幼いながらも、彼も騎士を目指しているのかもしれない。ちょうど、かつてのノエと同じように。母が竜に変じて命を落としたという結末が、彼にそのような夢を抱かせたのだろうか。
グレンが素振りをしていると、程なくして、先ほど喧嘩の仲裁をしてくれた色黒の少年ことコーディがそばにやってきた。グレンは彼を一瞥だけして、素振りを再開する。
コーディはあれこれ話しかけているようだが、グレンがそれに応じる気配はない。それに臆することなく、あれこれと声をかけているコーディは、きっとグレンにとって良き友人なのだろう。
見るともなしに、オデットと二人で少年たちの様子を見ていたノエは、ふと気がつく。
「あの……あくまで、僕がグレンさんの様子を見て感じたことなのですが。彼は、無口なのではなく、口がきけないのでしょうか?」
ノエに捕まったとき、彼は悲鳴の一つもあげなかった。年相応の子供らしい言い訳もしなかった。先ほどの喧嘩のときも、黙って言葉を聞き流している面もあったのだろうが、彼は言い返す言葉そのものを口にできないように見えた。
そして、今。コーディがあれこれ話しかけても、彼は返事の一つもせずに素振りを続けている。
「ええ、恐らくはそうだと思われます。竜に変じた母親が殺されるさまをその目で見てから、彼は言葉を発することがなくなってしまったのです」
淡々と状況を説明しているものの、アランの声音には苦々しいものが如実に滲み出ていた。紅蓮の母親を殺したのは、他ならぬアランだ。彼は、グレンが言葉を失ったのは、自分のせいだと感じているようだった。
……そうでしたか。だから、僕が彼を捕らえたときも睨むだけだったのですね」
凍りついたような表情の少年の横顔は、今や鮮やかにノエの瞼の裏にしっかり焼きついている。
既に、ノエはグレンという少年のことを、ただの赤の他人とは思えなくなっていた。
お節介だとは承知の上だ。旅人の自分にできることなど、何もないとわかっている。それでも、心から完全に消し去ることはできない。
彼の母親は冤罪ではなく、正真正銘竜に変じたのだとしても。
実の親が竜にまつわる問題で失われた実情や、肉親の喪失によって世界から心を閉ざそうとしているかの如き素振りは、ノエの心情を強く揺さぶるに足り得るものだった。
「ドラゴン族の脅威は、単純な災害以外にも数多くあります。グレンの件もその一つと言えましょう。……すみません、旅の方には少々重すぎる話でしたね」
「いえ……たとえ、旅人であったとしても、その土地に生きる人の考えを知らなくていい理由にはならないと思いますから」
「ありがとうございます。このような形ではありますが、ノエさんやオデットさんのような旅人に出会えたことは、私にとってもグレンにとっても、良き思い出となるでしょう」
あまりに空気が沈んでいると思ってか、アランは適当なところで話を切り上げ、無難な話題へと切り替えた。
オデットも、深入りしてもアランとグレンの微妙な関係性を話してもらうばかりになると思ったのだろう。少々強引ではあるが、供された焼き菓子の話や、気候の話など、当たり障りのない話題を広げた。
……僕は、もうイシュガルドの人ではない。だけど……イシュガルドの抱えている事情の全てを、僕には全く関係ないものだと言いたくない気持ちが、生まれ始めている)
たとえ、イシュガルドの問題でなかったとしても、似た感情は芽生えていただろう。どのような国に行っても、困っている人がいたら何とかしたいと思うのが、ノエという人物だ。
しかし、ノエが今抱いている心情はそれとは少し違う。以前のように、正しくあらねばと思う気持ちから生まれたものでもない。
もし、グリダニアや見知らぬ異国が抱えている問題だったなら、まだ意識的に距離を置けたかもしれない。自分たちは他所から来た人間で、余計な口出しをするべきでないと、できる限りの手助けをして身を引けただろう。
けれども、竜や異端者が絡む問題となると、ノエは完全に他人事とは思えなくなってしまう。
(もう僕には関係ないと言うことは簡単だ。オデットの件だけ片付けたら、イシュガルドと縁を切ることだってできる。グリダニアに戻れば、僕のことを待ってくれている人もいる)
頭ではわかっている。今更、自分がこの国に残ったところでどうこうなるものでもない。
それでも、一抹の疎外感と、言葉にし難いーーしてはならないように思う罪悪感が、ノエの中で小さく主張している。言葉にしてしまったら、きっとノエの選択は一つに絞られてしまうだろうから。
この苦味のある感情は、父が領地の統治に心血を注いでいると教えられた時の心境にも似ていた。
「そういえば、お二人はどのような理由からこちらに来られたのでしょうか。あまり目立った観光施設などがある街ではないと思うのですが」
話の区切りが訪れたのか、何気ない話題の一つとしてアランがオデットとノエに話しかける。
まさか、領主の庶子として父に会いにきたなどと言うわけにもいかず、
……親戚がこの街にいるので、久しぶりに顔を見にきたんです」
本来の来訪の理由を、無難な言葉に言い換えて答える。
あまり深掘りされては、余計なことを口にしかねないと、今度はノエの方から質問する。
「アランさんがここに来たのは最近のことだと、子供たちが話していました。なぜ、異端審問官を辞めて司祭としてこの街に?」
つとめて、平静を装ってそう尋ねると、今度はアランの顔に苦笑のようなものを浮かんだ。グレンのことを話す時は保ち続けていた厳しさが、一瞬だけ和らぐ。
「グレンの一件があってから、今まで以上に異端者にとって遺された家族というものが気にかかるようになったのです。中には、家族全員が異端者であったという例もありますが、同じくらいそうでない例もある……そう信じたいと、私は思ったのです」
怪しい者は全て罰せよ。そのような考えも、イシュガルド正教の中にはある。
いつ、自分のそばにいる者が竜に変じるかわからない。そのような状況下では、安心して日常を送ることもできない。
ただでさえ、外から襲いくる竜に神経をすり減らしているというのに、内側にまで敵がいてはたまったものではない。疑わしきを全て崖から突き落とし
たいと叫ぶ者の考えも、全く分からないわけではない。
「異端審問官は、疑わしいものを罰する立場の者です。その位置にいては、私は自分が聞きたいと思う声を聞くことができないと思ったのです」
だから、アランは同じ教会に属する仕事の中でも、より民衆の声に身近に触れる司祭の道を選んだ。そして、今、こうして一司祭としてノエたちの前にいる。
「この地を選んだのは、私の先輩にあたる人物が、この地の出身だったからです。彼は、領主の嫡男という立場でありながら、異端者を罰するという責任ある職務に就くことを選んだ方でした」
アランの言葉を聞き、ノエはかすかに目を見開く。その変化に気づかず、アランは自分の淹れた紅茶を口に運ぶ。
「それは……フィリベールさんという方ですか」
すでにこの街に来てから何度か領民の口にものぼっていた名を、オデットが代わりに問いかける。果たして、アランは静かに頷いてみせた。
「ええ。フィリベール殿は、非常に聡明な方でした。神学院でも成績は上位のうえに、騎士の方とも渡り合うほどの武芸の腕。領民が、彼が領主にならなかったことを惜しんだという話も、仕方ないと思うほどです」
……たしかに、そのような話を何度か耳にしていました。今も、そのように言われるほどに、優秀な方だったのですね」
どうにか平静を取り戻し、ノエは相槌を打つ。実際、ノエの記憶の中にいるフィリベールも、騎士としても一個人としても尊敬できる人物ではあった。
(だからこそ、どうして僕やお母様を一貴族のように遇することを許したのか……という疑問は残るけれど。いや、だからこそ、なのかもしれないな)
以前は、善人らしい振る舞いをする自分に酔っていたのではないかと、はすに構えた見方をしたこともあった。だが、流石に今はそこまで歪んだ見方はしていない。
とはいえ、それはそれで疑問も残ってしまっているがーーそればかりは、本人に訊かなければ分からないことだ。
「フィリベール殿は、年こそ離れていましたが、私にとっては憧れの先輩の一人でした。異端者であろうと、その嫌疑が疑いようもないほど確かでない限りは、なるべく裏を取って処罰を下すようにしていたと……嘗ての同僚からは、そう伺っています」
…………
もし、フィリベールが生きていたなら。自分と父の間にあった確執をどのように扱っただろうか。一瞬、そんなありもしない未来を想像しかけてしまう。
「とはいえ、そんな彼も感情に走る時もあったようです。自身の婚約者を異端者の襲撃で失ったときは、関係者全てに対して苛烈な尋問を強いた……という話もあります。実際、彼が検挙した者たちは、等しく襲撃に関わっていた異端者であったそうなので、その尋問は正当なものと判じられたようですが、フィリベール殿は感情に任せた尋問をした己を恥じておられたようでした」
その話は初めて聞いたと、ノエはカップを傾ける手を止める。
伯父との記憶は朧げで、彼が異端審問官であったという事実が先走って、疑念を持った日もあった。けれども、この街にきて、やはりフィリベールは優秀な人物だったのだと再確認できたーーと思った矢先に、またノエは知らなかった側面が突きつけられる。
父のことも、伯父のことも、母や父の正妻のことも、何もかも知っているつもりでいた。知っている上で、自分は父を拒んでいると思い込んでいた。
だが、蓋を開ければ、ノエの知らない局面が次から次へと出てくる。新たに知った『事実』から、全て距離を置くことは容易だ。しかし、ノエはそのような選択をしたくないと、自分自身でそう思っていた。
「あの……そのフィリベールさんという方も、竜に襲われて亡くなったのですよね?」
ここに来てから、常にドラゴン族との戦いに胸を痛めているからだろう。オデットは、眉を下げ、物憂げな声音で問いかける。
「ええ、残念ながら。騎士と共に任務で遠征をしていた際に、ドラゴン族の襲撃を受けて、そのまま行方知れずに。捜索を担当していたニヴェール家の若君も、さぞ無念だったことでしょう」
「えっ。ニヴェール家の……と、いいますと?」
先だって聞いたことばかりがある家の名が出てきて、思わずノエは驚きを顔に出してしまう。
ディアヌやエメーヌら母子を放逐し、家名の恥として処分しようとした家の名が、まさかここにまで登場するとは思わなかったからだ。
「現在は当主であられるベリトア様は、若き頃は騎士としての任に就いていたのです。フィリベール卿とは親しくされていたようで、遠征の際も同行していたと」
……そのようなことがあったのですね」
思いがけなく、自分の生家と現在の己が携わった任務との間に生じた繋がりを知ってしまい、ノエの胸中は複雑に揺れた。全く無関係のように思っていても、やはり縁というものはどこかで結びついてしまうものらしい。
「私が、異端審問官を辞めると決めたとき、司祭として誰かを助ける仕事ができるのなら、せめて先輩のように高潔な存在でありたいとーーその気持ちを常に抱けるようにと、こちらの街の教会を赴任先として選んだのです」
グレンがここにいたのは偶然でしたが、とアランは呟く。
これもまた、ハルオーネが遣わした試練である。アランは呟くように、自身がここに来た理由を語り終えた。
「実際、この街は他の街に比べると、生活する分には恵まれている方です。五年前の寒冷化を受けてもなお、農作物の生産量を寒冷化前に極力近い数値まで戻していますし、領主自ら各地を赴いて、不足がないかの確認も行なっています」
「ええ。街の人からもそのように聞きました。僕は他の街を見たことはないのですが……きっと、住みづらい街も多いのでしょうね」
貴族の本来の役割を忘れ、保身に走った者が領主であったならば、領民の暮らしはもっと悲惨になっていただろう。それを思えば、行き交う人々が笑顔を絶やさずにいられるこの街は、アランの言うように『恵まれている』方だ。
ちょうど、話の区切りに合わせたように、オデットが最後に食べていた焼き菓子が口に消える。折よく、こんこんと扉を叩く音が響いた。
アランは目線でノエから許可をもらい、「どうぞ」と声をかける。
「すみません、アラン司祭。宿泊所の件について、相談したいという方が訪問されているのですが」
頭巾状のヴェールに髪の毛を押し込んだ、無地のローブを纏った女性が顔を見せる。先ほど、グレンたちの仲裁に入っていた女性だ。
「そういうことでしたら、僕らはそろそろお暇させていただきます。色々とお話ししていただきありがとうございました。食事も、とてもおいしかったです」
「いえ、当然のことをしたまでです。ノエさん、オデットさん。お二人の旅路にハルオーネの導きがあらんことを」
ノエとオデットは席を立ち、アランへと一礼をする。足を痛めたオデットを支えるようにして、ノエはゆっくりと部屋を出る。
そんな彼の背中を、じっと目で追う者の視線には気づかずに。