ふるさと さくら
2024-05-27 00:29:20
16541文字
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④初期悪オル テーマ『発狂、暴走』

性癖パネルトラップ④
初期悪オル
いわゆるループもの的なやつ 何となく雰囲気で読める人向け(重要)
プレイアブルキャラクター死亡、殺害描写あり

 

 夢を見ている時、人は目の前の光景が幻だと自覚することが稀にあるという。
 だとしたら彼は、一体『どちら』なのだろうか。
 自覚なき夢の囚人か、それとも……




 いつも通りの朝、いつも通りのルーティン。
 顔を洗ってから格好を整え、歯を磨き、もう真新しいとは言えなくなったスーツに袖を通す。タイを静かに締めて、身体の一部となったモノクルを嵌めて鏡に向かう。
 窓の外でコマドリがさえずる声を聞きながら鏡像と向き合えば、そこには老いることのない若々しさを保った自分が佇んでいた。
「おはようございます。そして、はじめまして」
 予行演習の台詞を吐く。このセンテンスを練習するのも、もう何回目のことか分からない。それほどまでに、この荘園の時の流れは遅い。否、とっくに時間の進みが遅いなどというレベルの話ではないことだけは分かっている。
……今日こそは、抜け出せるだろうか)
 ぐっと胸に手を当て、オルフェウスは息を吐いた。今日こそは。今日こそは上手くいく。昨晩、今までの経験を全て踏まえて計画を立てたのだから。きっと今日こそは、この荘園から出ていくことができるはずだ。
 そう。オルフェウスという人間は────エウリュディケ荘園で過ごした数日の出来事を、幾千回も繰り返しているのだった。



 今思えば、最初の自分は実験者としての悦に浸り過ぎていた。ゆえにもうひとりの自分の思惑に気が付けなかったのだ。大切な人、そして自分自身さえも実験道具にしようとする狂った陰謀。そのシナリオを忠実に再現した結果が、あの大火災。あれを期に、オルフェウスの類まれなる才能や記憶は一度全て、灰燼に帰した。
 しかし幸いなことに、オルフェウスには奇妙な力が備わっていた。すなわちそれは時間を繰り替えす能力、タイムリープと言ってもいいだろう。そんな超常的なことが起こるわけがないと以前のオルフェウスなら笑い飛ばしただろうが、何せ病院で呆然と眠った後目覚めたのはあの日と変わらぬ荘園の一室だったのだ。
 何も失っていない、全盛期の自分に逆戻りしている。荘園で目覚めた時、オルフェウスは歓喜した。あぁ、これであのことをなかったことにできる。とうに止まれなくなっていた自分を、ひょっとしたら止められるかもしれない。何より、既に失った最愛の彼女を生きて荘園から出してやれるかも。そう思って喜んだのもつかの間、オルフェウスはあることに気がついた。
(待て、それはつまり────実験者として幅を利かせていた自分を徹底的に封じなければならないのでは?)
 数々の無礼な振舞い、陰謀と打算のみを追究した言動。あれらをどうにかしないことには、何も始まらない。そうでなければアリスを救うことなんてできない。事あるごとに行動を修正し、脱出の方向へ舵を切らねばならないことに気づいたオルフェウスは、その晩に思考を丸ごと入れ替えることに決めた。
 悪役の転生物で新作を出すわけではないが、やることはまさにそれだ。いわば『死に戻りオルフェウスは招待客全員と親愛フラグを立てて無事荘園から脱出する』といったタイトルが相応しいだろう。
 そうと決まればやることはひとつだ。何度も繰り返す中でアリスだけを大切にしていてはいけないということに気づいたオルフェウスは、同じゲームのメンバー全てを尊重することに決めた。これがなかなか難しく、ゆえに千単位のやり直しをしてしまっていることについては不甲斐ない点ではあるのだが……
「オルフェウスと申します。実名は出版社との契約で明かせませんが、なにぶん若輩者ですので。失礼がありましたらどうぞ仰ってください。よろしくお願いします」
 きらきらとした窓辺の日差しを浴びながら、恭しく挨拶を述べる。そうすれば、隣の席に座る記者はどことなく安心したような顔を見せた。向かいの席に座る作曲家は未だ警戒を解いていないようだが、それでも殊勝な態度を取ったことで彼の貴族らしい尊厳は満たされたらしい。離れた席に座る夫人はというと、やはりオルフェウスの人が変わったような態度に疑念を抱いているらしかった。この塩梅がなかなか難しいのが、繰り返しに不慣れな頃からの悩みでもある。ただしプリニウス夫人に関しては、後ほど好感度を稼げる場面が存在する。だから今は不審者を見るような目で見られてもちっとも心は痛まない。本当に、本当だ。
……あの自信家のオルフェウスさんが、そんなに卑屈な態度を取るとは思いませんでした」
 予想通り、夫人はオルフェウスの思惑を探るような質問を投げてきた。確かに思惑はあるが、それは決してやましいものでもない。むしろ彼ら彼女らのためを思っての行動だ。我ながら信用がなさすぎると思いつつも、オルフェウスはホワイトコーヒーを口にしてから否と首を振った。
「何を仰るのです、プリニウス夫人。私は皆さんが暗い顔で食卓に座っていらしたので、空気を明るくしようかと」
「しかしオルフェウスさん。私たちは、少なくとも記者である私は社交のためにここに来たわけではなく……
「いえ、社交のためです!」
 記者、もとい今ではアリスという名をオルフェウスに密かに暴かれた彼女の言葉は遮られた。ガタン! と乱暴に立ち上がったせいで、背後の椅子は無様にひっくり返る。オルフェウスの突拍子もない大声に、アリスとプリニウス夫人は一瞬肩をびくりと跳ねさせてしまう。こうした大きな音には慣れているのか、作曲家は眉を潜めるだけでこちらを見ようともしなかったが。
「お、オルフェウスさん。どうし……
「いいですか記者さん。私は少なくとも、あなた方と仲良くしたい! できればとお友達になってほしい! 親交を深めたいと思うのはそんなにいけないことですか」
「いけないことではありませんがオルフェウスさん、その、コーヒーがスーツに……
「これもジョークです! 見てくださいこのどうしようもない撥ね汚れ! お茶目でしょう!」
……オルフェウスさんがここまで愉快な方だとは思いませんでした」
 夫人の呆れた声に、オルフェウスは敢えて楽しげに笑ってみせた。道化を演じるのは得意だ。どれだけ笑われようとも構わない。尊厳をいくら失っても構わない。こちらは、ループからの脱出がかかっているのだ。今更何を恥じる必要があるというのだろう。
 それにオルフェウス渾身のゴリ押し話術は功を奏したようで、存外毒気のないものに対しての耐性がないらしいアリスは、くすくすと笑い出してくれた。想定外だったのは、最初はあれだけこちらを警戒していたプリニウス夫人でさえも、アリスにつられて静かに口元の微笑みを見せたことである。彼女にとっての自分が、ミステリアスな小説家から珍しい生態を持つ面白昆虫に格下げされた気配は否めないが、それもまた一興。だからどうしたと言わんばかりにへらへらと笑いながら、アリスからもらったナプキンで汚れを拭いていると、不意に他の椅子が動く気配がした。
……騒々しい方と朝食を共にすることはできません。私を友人ごっこに巻き込むのはくれぐれもやめていただきたい」
 極寒のような空気を纏い、卑しい者を見るような目でこちらを見つめるのは作曲家、フレデリック・クレイバーグだ。彼は携えていたステッキを手にして、背後に黙する扉へと向かおうとしている。それはいけない、本当にいけない。まだ執事が本日の予定を伝えていないのに、ここでクレイバーグが退場してしまっては彼との仲良しフラグが立たないではないか。どうすればいい、どうすれば……
「ま、待ってください。クレイバーグさん!」
 情けない声で呼びかければ、コツ、という音がして彼が立ち止まった。相変わらず視線は冷たいこと極まりないが、怖気づいている場合ではない。彼に撃たれるのはもう慣れた。3回目のループでは初めて意図的に、9回目のループではその仕込み銃が暴発して以降20回に1回の確率で、オルフェウスはクレイバーグに射殺されているが……もう怖くない。ほ、本当に、怖くなんかないんですから。
「せめて、騒がしくしたことを謝罪させてください。それにまだ、今日の予定を荘園から聞かされていません」
「確かに……クレイバーグさん、あなたもこの荘園には目的があって訪れたのでしょう。ならば癇癪を起こさず、静かにここで座っていた方が得策では?」
(まずい、そのフォローは彼を怒らせるぞプリニウス夫人! 頼むから黙っていてくれ!)
 人知れず冷や汗をかいたオルフェウスの予想通り、クレイバーグはプリニウス夫人の言葉に難色を示し、余計に気分を悪くしたようだった。あぁ、これでは駄目だ。ならば助っ人を呼ぶしかない。この地獄の朝食会を救ってくれる私のジョーカー、すなわち雇われの作業員を……
 パーテーションの影から心配そうにこちらを見つめる執事に目配せし、オルフェウスは密かにハンドサインを送る。昨晩買収した執事はやはり翌朝になっても主人の変わりようについていけてはいないようで、しきりに『え? 正体バラしちゃうんですか?』と目で訴えてきたがそんなことはもはや関係ない。何としても、この朝食会の空気が凍りついたまま終わることは避けたいのだ。少なくとも、客人たち全ての親愛フラグをここで立てておかなければ後々好感度が足りなくなって選べる選択肢も選べなくなってしまう。そう考えるオルフェウスは、自分の思考回路がガチガチのシミュレーションゲームを遊ぶ時と同じ状況になっていることに、まだ気づいていない。
 何とか執事を後ろに下がらせ、再び黙々とした食事を始める一同に対しオルフェウスも再び離席を選ぶ。そして窓際に立ち、どうしたのかとこちらを見つめる面々を一瞥してから……重大発表をすることに決めたのだ。
「皆さん。実は私から、お話しておきたいことがありまして」
「何でしょう」
 プリニウス夫人の言葉に頷き、オルフェウスは自らの胸に手のひらを当てた。自信ありげに姿勢を正す姿は、まさに情報開示をするに相応しい佇まい。これが本当の好きな幼馴染発表ドラゴンだ、などという訳の分からないことを考えながら、オルフェウスは威風堂々と告知をするに至った。
「私のもうひとつの顔を皆さんに暴露します。実は私は、デロス男爵なんです!」
「ッッ、ゲホ、ゲホッ!!」
 激しい咳込みと同時に、白ワインが爆発した。見ればドヤ顔を決めたオルフェウスの真ん前で、クレイバーグが誤飲をしたのか涙目で噎せている。これにはさすがに顔面非公開のプリニウス夫人も驚いたのか、思わず立ち上がってこちらに歩いてくるではないか。フィールドワークで培った長身と身体つきを備える女性に凄まれるのは心底怖かったが、これを超えれば夫人は脅威になり得ない。最後の頑張りだと心中半泣きになりながらも、オルフェウスは詰め寄って来たプリニウス夫人に相対した。
「オルフェウスさん、あなたが本当にデロス男爵だと? ならば私の求めた夫の死因に関する書類はどちらに? 嘘であれば承知しません、ですが信用もなりません。そもそも爵位はどう取得したのです」
……私が世間を賑わせている小説家であることを思い出していただきたい。爵位など、正式な手続きを前男爵が済ませていればいくらでも財力で取り返せる。私には、養子と言えども前デロス男爵に認めていただいた、子息としての身分があります」
「ま、待って。待ってください、オルフェウスさん! それじゃあ、あなたは……
 ものすごい剣幕で詰め寄って来た夫人と、それを受け流すオルフェウスとの間に割って入る淑女の声。不安そうに拳を握りしめて、今にも泣きそうな顔でこちらを見つめる瞳は何度見ても懐かしい。それでもなお泣き出さない鎧を得たのが今の彼女なのだとすれば────再会の時は、きっと今日だ。
……アリス。久しぶりだね」
「あ……あぁ……!」
 どれだけ、つらい日々を送って来たのだろう。周囲の誰も信用ならず、自ら真実を追究する職に就いて、自分だけは暴かれぬように取り繕わないといけなかった彼女の孤独は、果たしてどれだけの……
「オルフィー、私、わたし……!」
 胸の中に飛び込んできた彼女がようやくすすり泣くのを受け止めながら、オルフェウスは静かに震える頭に手を置いた。涙は流れないが、アリスがこうして何度も感情のままに縋ってくるのはいつまでも慣れない。繰り返したとて、拭えない痛みや苦しみは存在する。しかしどれだけ見慣れた光景であろうとも、オルフェウスは彼女のことを軽視したくなかったし、雑に扱いたいとは思わなかった。今はただ、愛する旧友であり家族であったアリスだけを慰めていたかった。
 さて、誰にも入り込む余地のない幼馴染の再会を前に、プリニウス夫人は珍しく呆然とするばかりだった。以前から親交のあったオルフェウスと、先程顔を合わせたばかりの記者の女性(聞く限り本名はアリス・デロスというらしい)がこの荘園で育った生き別れの兄妹であることは分かった。再会の瞬間は、思わずこちらまで感情移入してしまいそうになるほどの温かき光景だった。
 しかし────私への書類は?
「置いてけぼりにされてるところ悪いけど、ご希望のお土産ならここにあるぞ」
 背後から聞こえたぶっきらぼうな声に、彼女は思わず振り向いた。それはずっと気管支に苦しめられていたクレイバーグも同じだったようで、呆気にとられた美しい顔がパーテーションの方を見ているのが分かってしまう。つられて視線を移せば、そこには薄汚れた炭鉱夫の作業服に身を包んだ男がじっとりと佇んでいた。
「あなたは?」
 夫人が問えば、男はうんざりしたように彼女を一瞥する。そして手にした二つの紙袋を無遠慮に突き出し、忌々しそうにしながら夫人の問いかけを無視してみせた。
「これ、渡せってそこの荘園主から。はっ、いいねぇ上流階級の皆さんは。家に帰るだけで土産まで持たせてもらえるんだからさ」
「キャンベルさん、あなたにもお土産はありますよ」
……はは、あんた本当に気前がいいな。さすがは善良な男爵様だ」
 オルフェウスからキャンベルと呼ばれた男は、乱雑にテーブルに紙袋を置いてみせた。彼は本当に使い勝手がいい、金さえ積めばなんでも言うことを聞いてくれる。それが長所でもあり短所でもあることは、肝に銘じておかなければならないが。アリスを抱きしめながら、プリニウス夫人とクレイバーグがそれぞれの報酬に手を伸ばすのを、オルフェウスはじっと見守っていた。
 夫人が手にしていたのは、丁寧にファイリングされたレポート用紙だ。彼女がその情報をどう扱うのかまでは分からなかったが、少なくともお目当てのものであったことは確からしい。夫人の口元に浮かんだ笑みこそが、その最もたる証左だ。
 対してクレイバーグは、安い紙袋の中を覗き込むなり、はっとした顔で硬直した。そしてみだりに取り出したりはせず、そっと手を差し入れて『それ』が本物なのかを確実に確かめているようだった。彼の求めた宝石とやらは、今ここで確かに譲り渡した。信じられない、という目で見つめてくるクレイバーグに対し、オルフェウスはそっと近づいて耳打ちを残す。
「あなたの欲しいものが、その宝石そのものではないことは分かっています。ですがあなたが『手段』としてブルーホープを求めるのであれば、私は喜んで彼女の嫁入り道具を返しましょう」
 その言葉が、クレイバーグの警戒心を解く決め手となった。
 作曲家は、静かに包みを元に戻しながらゆっくりと息を吐いた。そうしてオルフェウスを見つめた灰色の瞳には、もう先程までの拒絶は見受けられない。
「本当に善意で?」
 プリニウス夫人も聞きたかったであろうことを、彼が問いかけてくる。四人の視線が集まる中、オルフェウスは胸に手を当てて確かに頷いた。
「えぇ、本心からです。皆さん、今日は我が荘園でごゆっくりおくつろぎください。皆さんが喜んでくださることが、荘園主たる私の唯一の誇りなのですから」
 あぁ────長い繰り返しの末、ようやくここまでやって来た。
 アリスと和解し、プリニウス夫人とクレイバーグさんに望むものを渡し、キャンベルに虐げのない環境を贈る。もう何も恐れるものはない。やっと、死で終わる繰り返しの連鎖から解放されるのだ。
 無意識に笑みが溢れる。傍で笑うアリスの笑顔が輝かしくて、それがとても綺麗だと思うのに。
 ────なぜか、窓の外から聞こえた羽音を不気味に思ってしまった。




 自室の扉を開くと、内包されていた暗闇に光が差し込んだ。
 オルフェウスは窮屈な首元のタイを解きながら、部屋の照明に手をかける。時刻は既に二十二時を過ぎる頃、身支度を整えたらあとは眠るだけの時間だ。
(本当に楽しい宴会だった。時を忘れるほどに……
 ジャケットをハンガーにかけながら、ついさっきまで身を委ねていたディナーの光景を思い出す。打ち解けた彼らとの夕食は、朝食の一触即発の空気がまるで嘘のように賑やかな雰囲気に包まれていた。執事たちに用意させた食事を囲み、貴族や労働者という階級の差も関係なく共に美食を分け合うひと時。あれこそが、オルフェウスが何千回も思い描いていたハッピーエンドの集大成の実現だった。
 相性こそ良くはないが、遠慮のない物言いで打ち解けるには至ったらしいメリーとノートン。
 誰にも後ろ指を指されるでもなく、ただ音楽を受け入れてくれる環境のためとホールにピアノの音を提供してくれたフレデリック。
 そして昔のように隣り合い、かつてのように自分を呼んでくれたアリス。
 料理を食べ尽くし、酒も尽きてお開きとなるのが惜しいほどの宴会だった。まさに夢心地、ずっと続いて欲しいと願ってしまうほどの名残惜しさが今も胸の内に残り続けている。
(夢……
 開けっ放しになっていたカーテンに手をかけようとした時、オルフェウスの指先はぴたりと止まる。自分の胸中に、未だにしこりが残っていることに、違和感を感じたのだ。
(私は何を不安に思っているのだろう。彼らは望むものを得た、私とアリスも再会した。それで間違っていないはずなのに)
 この、背中に張り付いた恐ろしさは一体何だ。
……ッ」
 勢い任せにカーテンを閉じる。は、と息を吐いたオルフェウスは、さっさと就寝の支度を整えて眠りについてしまおうと思った。だが、モノクルを外そうと思う手に力が入らない。正確に言えば、指先が震えるあまりに外すことが難しいのだ。自分でも理解のし難い身体の変化に、部屋の中をぐるぐると歩き回るものの、症状は一向に収まらなかった。
(ダメだ。こんな状態ではおちおち眠れもしない。まるであの時と同じじゃないか、そうだ、この荘園の森で倒れて病院に送られた後の、落ちぶれた私と同じように……!)
 またあの時のように全てを失うのは嫌だ。曖昧な不安に駆られ、オルフェウスは数刻前まで笑い転げていたことすら忘れて床に膝をついてしまう。もはや自らの足で立っていることすら不安だった。
(どうしてしまったんだろう、私は。私は今、どんな顔をしている? 他人に見せられる顔をしているだろうか。ちゃんと、紳士らしく、きちんと、人間らしく)
 這いつくばりながら、なぜそう思うのかさえ分からないまま、壁際に置かれた全身鏡の方へと向かう。視界が歪むのは注ぎ足されすぎた赤ワインのせいだと信じたかった。この吐き気を催す不快感は悪酔いをしてしまったせいなのだと思い込みたかった。しかし胃がせり上がる感覚もなければ、顔が熱くなるような感じもしない。むしろ顔色は徐々に蒼白に近づいているような気さえした。おかしな薬でも飲んだのだろうか? そんなことを考えながら、やっとの思いで辿り着いた鏡の前で────
…………?」
 オルフェウスは、鏡像の自分の姿に目を疑った。

『随分と、浮かれているじゃないか』

 身の毛のよだつペストマスク。ぎょろりとした鴉の両目。恐ろしい爪を鏡の向こう側から突き立ててくる怪物が、鏡の向こうには佇んでいた。
『長いこと足掻く貴様の姿は大層愉快だった。驕るばかりだった貴様がようやく見つけた解決の糸口、なかなかに悪くはなかったぞ。私も良い実験結果を得られたからな、そろそろ貴様にも休息を与えてやろうかと思ったのだが』
 怪物は、恐怖で身の竦んだオルフェウスを嘲笑いながら、含み笑いに羽音を混じらせる。あれは何だ? 幻覚か? それとも正真正銘ここに、目の前の化け物が存在しているとでもいうのか?
『フン、私を疑っているのか? 馬鹿な物書きめ、自分で創造したものの始末くらいは自分でつけろ。だから私に主導権を取られるのだよ、愚かなオルフェウス……
 ずるり、と怪物が鏡の境界に手を伸ばす。すると鏡面はまるで水のように揺らぎ、鴉の化け物の指先がこちら側へと突き抜けてきた。有り得ない。こんなの幻覚だ。目を閉じて、もう一度開けたらいなくなるに決まっている。そう思っているのに、オルフェウスのまぶたはぴくりとも動かない。
『まったく、つまらない傀儡に成り下がったものだな。私のことを忘れ、あの縁もゆかりもない者どもと打ち解けるなどとは。あの安っぽいハッピーエンド、本当に反吐が出そうだ。あまつさえ貴様は、口にしてはならない願望を発したな。それが私という、もうひとりの貴様を消し去ることになるというのに────この荘園から出たいなどと願うとは!』
 ず、と黒い空気がオルフェウスの前に差し迫る。もう、オルフェウスには怪物に対して何を講じればいいのかという思考さえ残ってはいなかった。ただ純然たる恐怖が、今の彼を支配している。俯き動けなくなった小説家を鼻で笑いながら、怪物はじっくりと彼の身を覆い隠そうとし始めた。
『これは貴様が始めたことだ。今更何もかもをなかったことにして、のうのうと荘園から出られると思うなよ。たとえ自ら全てを忘れたとしても、私がその所業を覚えている。いいか、貴様に願う資格はない。あの四人と共にここから出る資格など、貴様にはないのだ────何より願いは、荘園から脱出することではないだろう?』
 違う。
 違う、違う。
 私はこの荘園から出るために、あの繰り返しを行ってきたのだ。否定なんてさせない、それだけは確かなことだ。微かな声で「違う」と発したオルフェウスだったが、怪物はやはり彼をせせら笑うだけだった。
『何も違わないさ、オルフェウス。確かに悪夢を繰り返すよう仕向けたのは私だが……それは貴様が、彼らと一緒にいたいと願ったからだ。私はただ手を貸しただけ、何千という時間を繰り返しその場に嵌り続けることこそが、貴様の本望だっただろう』
「そんなことはない、そんなことは……!」
『では問うが、貴様はこの夜が明けたなら、笑って彼らを荘園から送り出せるのか?』
「そんなの、できるに決まって……
 咄嗟に返事をしたつもりが、言葉が続かない。なぜだ? 彼らのこれからを願うのならば見送るのは当然のことじゃないか。ほら、さっきの宴会でだって彼らは楽しそうに……

『あんたにもらった資金があれば、僕もまともな暮らしが送れるかもね』
『これで夫に関する心配事もなくなりました。よければぜひ、またこの荘園のガーデンを見せてください。いずれまた、伺いますので』
『オーストリアの地を踏み、その後は……分かりません。ですが私は父に認めてもらえずとも、この荘園のこと思い出せば、きっとやっていけるような気がするのです』
『オルフィー、今回は短い滞在だったけれど……そのうち顔を見に来るわ。また会う日まで、ね』

 ────そんな、口約束を。
『誰が信じられる? そう思うだろう、オルフェウス』
 はっ、と顔を上げる。今、自分は何を考えていた? あの時感じていたのは控えめに別れを飲み込む感情ではなく……離れたくないという、別離への拒絶だったのではないか?
 その気づきがトリガーになったかように、オルフェウスの心臓は怪物の甘い誘惑を瞬く間に受け入れていく。
『お前が選ぶべきは送別ではない。永遠の時間だ。少なくともあの夕食が毎日続けばいいと願ったのだろう? ならば、それでいいじゃないか。オルフェウス、貴様にはそれを願う権利だけはある。貴様には……彼らをここに引き留める資格も、力も存在するのだから』
 そうだろうか。
 本当に、そうなのだろうか。
『そうだとも』
 鴉は、笑った。
『オルフェウス。そんなに寂しいのならば、彼らをここに閉じ込めてしまえばいい。そうして二度と開かない鍵をかけて、お前だけの箱庭を作るのだ。何も心配はいらない、私が全ての真実を隠す。あぁ……それだけでは物足りないというならば、この荘園で実験の犠牲となった全ての者を、再現して人形劇でも始めればいい。どうせなら、お前も全てを忘れてパペットになってしまえばいいのだ』
 それが善い提案なのか、悪魔の囁きなのか。もう、オルフェウスには判別がつかない。
 ただ、ぼんやりと────そうしたいと思った。
……そうか。ならば、これを手にやり直せ。彼らが離れていく世界など、もはや必要はないだろう?』
 ごとり、と何かが床に落ちる。ゆるゆると首を動かし、音のした方を見たオルフェウスは……驚愕のあまり、僅かな理性を取り戻した。
「な、に」
 目の前に投げ寄越されたのは、フレデリックに手に幾度も握られていた仕込み銃の銃身だった。どこで、これを。否、これで終わらせろと? この手で彼らを殺せだと? 
……冗談、だろう」
『冗談なものか。それは私に対する誠意だ、お前が本当に永遠を望むのならば、ここで現実と別れを告げろ。彼らを死者にして初めて、箱庭は完成する。死者でなければお前の箱庭に引き込むことはできない』
………
 そこまでして、望む願いでは。オルフェウスは息を呑み、首を振ろうとした。こんなことをしてまで、自分の願いを優先したいわけではない。断ろう、断らなければ。この怪物の言うことを聞いてはならない。そう思って、すっと息を吸い込んだ時だった。
『言い方を変えようか?』
 黒い霧が視界を覆い隠していく。目の前に迫る悪夢の化身が、オルフェウスの全身を包み隠して押さえつけようとしている。これに飲まれたら終わりだ、そんな悠長な考えが脳裏によぎるのをどこか他人事のように感じながら、オルフェウスは呆然と鴉の怪人を見上げることしかできなかった。
『彼らを殺せ、オルフェウス。お前が、ここで幸福になるために』
 その命令を最後に、男の意識はぷつりと切れてしまった。





 爽やかな空気に包まれていたはずの朝は、一瞬で地獄に様変わりした。朝食会場に現れたオルフェウスが、近くに座っていたフレデリックに向けて突然発砲したのを皮切りに、穏やかな荘園は狩人の徘徊する危険地帯と化したのだ。
「なぜです、オルフェウスさん。あなたは私を認めてくれたのだと、信じていたのに……
 三人分の足音が遠ざかっていく気配をひとまず見送りながら、足元に倒れ伏した作曲家を冷ややかに見下ろす小説家の青年は薄ら笑いを浮かべてみせる。
『大丈夫ですよ、クレイバーグさん』
 銃声による耳鳴りが鳴り止まない中、彼は顔面蒼白となった男の髪を掬い取り、呟いた。
『私 ー彼ー の言うことを信じていれば、何も心配は要りません。今は苦しくても、共に永遠の楽園に往けるのですから』
「彼、とは誰ですか。あなたを唆したのは、一体…………
『あぁ、喋ると身に障ります。どうか安静にして、逝ってください。あなただけを殺すなんて真似はしませんから、彼らも絶対に逃がしません』
 それだけ言い残して、オルフェウスを名乗る殺人鬼は立ち上がった。フレデリックの方を見向きもせず、ただ悪夢に囚われたような目つきで足早に去っていく。フレデリックのものだったはずの銃を手にして、颯爽と。
「待、って。オルフェウス、さん……ぐ、ッ……
 伸ばした手は地面に落ち、フレデリックの視界はぼやけて暗くなっていく。腹部の傷は内臓を破壊し、だくだくとした生き血を垂れ流すばかり。もはや助からないという心境のまま、フレデリックは薄らとしたまぶたを閉じることしかできなくなっていく。
(キャンベルさんは、女性たちを守ってくれるだろうか。せめて、彼女は……記者の彼女だけは、オルフェウスさんに殺させてはならない。それだけは、彼に消えない悔恨を残してしまう……
 しかしその思いはオルフェウスの背中には届かない。いよいよ力尽きたフレデリックの最期を看取る者は、ついに窓辺でさえずる小鳥の一羽以外には誰も存在しなかった。


 鬼ごっこにもいずれ終わりがやって来る。
 廊下を逃げるまでに足を撃たれ、その後追いついた彼にとどめを刺されたのであろうノートンも、背後に迫ったあの人を押さえつけて、逃げ道を作ってくれたメリーも────その後の消息は分からない。きっと、助からなかったのだろう。
 罪の森の空気は静かだ。もう日が昇っているはずなのに、深い靄で辺りがよく見えない。幼少の頃の森林とはかけ離れた不気味さに、アリスは息を潜めて彼が通り過ぎるのを待つことしかできない。
……アリス。どこにいるんだ、アリス……
……っ!)
 彼だ。彼が近くにいる。咄嗟に口元を押さえて、荒くなり始めた呼吸を懸命に押さえつけようとした。だが、身体の震えは治まらない。
(お願い、早く遠くに行って。お願い……!)
 たったひとつ、持ち出すことのできた人形を握りしめてアリスは祈った。こんなものを持ってくるくらいなら、車のキーを持ち出せばよかったのだろうか。いや、この思い出の品を置いて逃げるなんでできるわけがなかった。今こうして自らを危機的状況に追い詰めているのが、まさにこの人形のモデルとなった幼馴染だということは、未だに信じたくはなかったが。
 息を殺して、脅威が過ぎ去るまで耐える。彼が通り過ぎたら、北に向かって走ろう。幸いなことに森の様相は変わっているものの、大まかな地形は幼い頃の記憶と同じだ。ならばあちらに向かって走れば、きっと町に出て助けを求められる。
「アリス……
 靴音が遠ざかっていく。それでも押さえ込んだ息をまともに吐き出すのは苦しかった。彼の気配がしなくなり、完全に足音が聞こえなくなるまで、アリスはそこから動かない方がいいと思った。
 だからこそ、気づけなかった。足音が聞こえなくなったのは、彼が遠方を巡回しに行ったからではなく……単に立ち止まっていたからだということに。
「────あ、」
 目の前に、影が重なる。薄ぼんやりとこちらを見つめる太陽を背にして、見上げた先で笑う幼馴染の姿が。
『見つけた、アリス。かくれんぼは終わりだよ』
 少年のようにも、青年のようにも。怪物のようにも見えただなんて────アリスには、それを彼に伝えるだけの時間すらなかった。




 激しい破裂音に、森のカラスたちが慌ただしく飛び去っていく。
……フン』
 思いがけない銃声に、悪夢は咄嗟に実体を得た。そして森に落ちた惨状を目の当たりにして、忌々しそうにため息をつく。
『良心に耐え切れなくなったか、とことん幼馴染に甘いヤツめ』
 足元に転がるのは、人形を抱きしめたまま眠るように目を閉じた女。そしてこめかみに刻まれた深い穴を地面に擦りつけて、銃を片手にしたまま絶命した小説家の姿だ。二人とも、もうぴくりとも動かない。完全に息絶えているのだ。
『まぁいい。結局のところ、お前も死なねば夢は見れん。わざわざ私が殺す手段が省けたのならそれでいい』
 悪夢は独り言を呟きながら、まず初めに固く目を閉じたアリスの身を抱き起こした。木の幹に寄りかからせることで、せめて綺麗な姿で座らせてやろうと思った結果だった。
 そして次に、自殺を図ったオルフェウスをゆっくりと抱き上げる。アリスの死に顔が綺麗だったのは、きっと正気に戻ったオルフェウスが施した結果だったのだろう。実際、オルフェウスの表情は虚ろなままでとても綺麗とは言えなかった。ゆえに悪夢はその半端に開いたまぶたをゆっくりと閉じて、血まみれになるのも厭わずに空っぽの身体をしっかりと掻き抱いた。
……オルフェウス』
 返事はない、二度と返ることもない。すでに乾き始めたオルフェウスの唇に触れながら、悪夢はひとりきりで誰にも聞かれぬ言の葉を吐いた。
『お前のための楽園を、創ってやろう。それがもうひとりの私にできる、最大の────』




「オルフェウスさん」
 自らを呼ぶ声に、オルフェウスははっと顔を上げた。咄嗟に立ち上がり、辺りを見渡すが……そこはいつも通り、何の変哲もない荘園ゲームの待機室だった。
「大丈夫ですか? 休憩されると言ってから、随分うなされていたようですが」
「あのさぁ、そいつのいびきがヤバいのって今に始まったことじゃないでしょ。別に気にすることなくない?」
「そんなことありません、キャンベルさん! きっとお疲れなんです、そうですよね」
 記者と探鉱者が言い合いをしているのも、何だか他人事のようだ。今は……何を待っているのだったか。
「これから協力狩りですよ。この試合が終われば夕食です」
「それにしても今日は負け続きですね。まぁ……勝っても負けても、チェイスを引き受けても引き受けなくても、この荘園からは出られないのですが」
「そういえば本日のクレイバーグさんは、妙にハンターに遭遇していますね」
「事実になるので口に出すのはやめていただけませんか、プリニウス夫人……
 もう片方の隣に座るのは、やや疲弊した顔つきの作曲家と平然とした様子の昆虫学者だ。あぁそうだ、思い出した。私はこのエウリュディケ荘園に囚われたサバイバーで、ずっとこの同じゲームに参加してきて。この協力狩りに参加することになるのも、もう何回目のことか分からない。それほどまでに、この荘園の時の流れは遅い。否、とっくに時間の進みが遅いなどというレベルの話ではないことだけは分かっている。
 永遠に終わらないゲーム、永久に出ることの叶わない荘園。そうした謎めいた箱庭に、私たちは閉じ込められているのだ。
 でも、ここに来る前は。もっと、何か別のことのために生きていたような……
「オルフェウスさん?」
 記者が心配そうに問いかけてくる。オルフェウスは、額を押さえて虚空を見つめ始めた。私は今、何かとても大切なことを忘れているのではないか。先程まで見ていた夢は、何か私に関する、重要な出来事だったような……そんな気がするのに。
「記者さん……
「はい?」
「私たちは、以前。どこかで────」
 オルフェウスがそう言いかけた瞬間、黒い風がサバイバーたちの待機席に吹き荒れた。
「うわっ……
「ちょっと、何!?」
 遠い席に座っていた墓守と調香師が、思わず腕で顔を覆い隠すほどの強風だ。オルフェウスもたまらず目を閉じ、突然の嵐に耐えようとした。しかし不思議なことに彼の周囲に取り巻く空気だけは凪いでおり、呼吸も容易い。呆然と顔を上げると、そこにはよく見知った鴉のハンターが佇んでいた。
……悪夢?」
 悪夢、と呼ばれたハンターはいわゆるオルフェウスの別側面とも呼べる存在だ。他にもそうしたIDENTITYシステムを持つ者はいる、たとえば隣で咳込んでいる探鉱者なんかがいい例だ。ただし、彼らは別側面であってもほとんど同じ自我を持っているのに対して、オルフェウスは悪夢のことを全く違う別人のように認識していた。
 悪夢は、オルフェウスをじっと見つめているばかりだ。何を伝えたいのだろう……そう思っていると、おもむろにハンターはテーブルの向こう側から手を伸ばしてきた。そして常日頃はサバイバーを傷つける鋭い爪を隠して、そっとオルフェウスの顎を持ち上げる。は、と喉が苦しくなるのを自覚した瞬間だった。
……ッ!?」
 口の中に突然ねじ込まれる、ペストマスクの先端。キスとも呼べない突然の侵入に、オルフェウスは思わず目を白黒させてしまった。
……! ~~、~~ッ!!」
 そもそも息ができない。何のつもりだと、ばしばしと固いマスクを叩くものの、悪夢は何を考えているのかしばらくオルフェウスを解放しなかった。そうしている間にも、隣の探鉱者が引き攣った顔でこちらを見ている気配がしているし、他の面々もぎょっとしているような気がした。
 頼む、いいから離してくれ────とそれでも訴え続けると、悪夢はようやくオルフェウスを解放した。とんでもない接吻紛いの窒息を強いたくせに、表情ひとつ変えない態度が憎らしい。オルフェウスは思わず椅子から立ち上がって、真っ赤になりながら悪夢を指さした。
「な、な、何をしてるんだ、お前は! 人前でっ、こんな、こんな」
……貴様の集中力が散漫になっていたから、注意しに来ただけのこと。もうゲームが始まる、さっさと準備しろ』
「い、言われなくても。ふん……!」
 ハンター席に鴉を飛ばし、さっさといなくなってしまった悪夢の背中に悪態を吐きながら、オルフェウスは着席した。あぁ、周囲の視線が痛い。頼むから何も言わないで欲しい、さっさとゲームを始めて欲しい気持ちでいっぱいだった。
……あんたのところのハンター、ホント好きだよね。あんたのこと」
「やめていただけますか、キャンベルさん……
「ファーストチェイスはお任せします。どうぞごゆっくり」
「冗談きついですって、クレイバーグさん……
 そうして軽口を叩き合うオルフェウスの表情には、もう先程の焦燥は残ってはいなかった。




「まぁ、協力狩りでは訪問行為は禁じられていますのよ。また『ズル』をしたのね、鴉男爵」
……あまり私に深入りするなと忠告したはずだ、血の女王』
 暗く、湿度に溢れたハンター席で、悪夢は忌々しそうに同盟相手を睨みつけた。しかし相手も生粋のハンター、それも身分が下の相手には動じることはない。本当に扱いのしづらい女だと、悪夢はマリーに隠しもしないため息をつく。
「あら、別にいいじゃない。わたくしは愛に生きる民が好きよ。ましてやたったひとりのために、仮初の楽園を作り上げてみせるその胆力……普通の愛では叶えられないことだわ」
『フン、それは私に利用されていると知っての発言か? ただの駒にされている自覚がありながら、女王陛下はみすみす鴉に飼い慣らされると?』
 挑発は『オルフェウス』の最も得意とする手段だ。向こう側に座っている空っぽのオルフェウスから剥ぎ取った、悪辣の部分。影の部分を一心に引き受けた悪夢は、そうやってマリーの心境を害そうと試みたものの……彼女の表情を見て、それが徒労であることを自覚させられた。
「あら。わたくしは、余興に参加しているだけよ。かつて死したわたくしに、人形劇という愉しみが与えられるのであれば、謳歌するのが上に立つ者の務め」
 足を組んで悪夢を品定めするように見つめる女王は、死人であっても気品に溢れている。その目にボタンの縫い付けられていない彼女は、望んでこの荘園で踊り続けることを選んだ共犯者、すなわちハンターなのだ。
「ねぇ、鴉男爵。サバイバーが真実を知ってどう思うかは知らないけれど、少なくともわたくしたちハンターは、この荘園に望んで籍を置いているということ。くれぐれも忘れないでちょうだいな」
………
「あら? 聞こえなかったのかしら。あなた、もう少しわたくしたちを頼りなさいなと言っているの。始まりや動機はどうあれ、わたくしたちは居場所をくれたあなたを好いているのだから」
 悪夢は答えなかった。ただ少しだけ顔を背けて、マリーと顔を合わせないように尽力している。それが女王の遊び心に火をつけてしまうことにも気づけずに。
「案外可愛いじゃない。ねぇ、この試合が終わったらあの小説家の好きなところを語り聞かせてくれる? そうだ、美智子も呼びましょう。恋のお話を久々に聞きたくなってきたわ!」
『勘弁してくれ』
 まったく、だからこの女王は苦手なんだ。悪夢は逃げるように準備完了の合図を送る。まぁ、逃げるのね! という声が聞こえた気がしたが、ゲーム会場に送り出される音でかき消されたふりをして、悪夢は静かに目を閉じた。


 この荘園がいつまで続くのかは分からない。いずれは、小説家であり探偵でもある彼に暴かれる日が来るかもしれない。
 しかし、どうか今だけは。糾弾されるその日までの、長く短い永遠の時を。