「押しかけ神様っ! 〜過去と未来と〜」



 ふと、見慣れぬ人の子がいた。最近祝言を挙げたばかりの若い夫婦の、妻の腕に抱かれた小さな命。
 神として永らく、数多の命を見届けながら、神の姿を自然に視える者が少なくなった昨今。けれどこの社に祀られたタケルは人が参れば必ずその者の前に降り立った。
 夫婦の目には、賽銭の奥にある御神体の刀しか見えていない。しかし子供にその刀を見せるように指を指し、告げる。
「ほら伊織、あそこに神様がいるのよ。ご挨拶しましょうねえ」
「タケル様に、健やかに成長できますよう、お願いしなきゃなあ」
 優しげに紡がれる音に、僅かな痛みと、それ以上に温かいものが溢れ出る。
 この子供は、両親に溢れんばかりの愛を注がれているらしい。なんとも喜ばしいことだ。
 赤子が、気まぐれか、はたまた己の気配を感じ取ったのか、深い夜のような眼でタケルを見た。驚いたように目を丸くした後、泣き出すかと思い身構えたタケルをよそに、きゃっきゃとご機嫌に手足をばたつかせた。
「あらあら、嬉しいことでもあったの?」
「タケル様がいらっしゃったのかな?」
 夫婦はそれなら嬉しいわねえ、とのんびり云ったあと、子供の視線の先を見た。変わらず、刀が置かれたのみの空間に、律儀に一つ、姿勢を正して深く礼をする。
「どうかこの子を、末永く見守りください」
 純粋な、子を想う父と母の心に、タケルは頷いた。


「そこ、危ないし、かみさまの木だから登ったらだめだ」
 足元から聞こえる焦りと咎を含んだ声音に、タケルは視線を下にやる。己を見上げる、夜空のような眼が憂色に染まっていた。毎年、父に、母に、あるいはどちらにも連れられて参拝しにくる、己を見ては嬉しそうに頬を緩めた子供だった。昨今には珍しい、人ならざる存在が視える子。己の加護を受ける、人の子。
「聞こえているか? それとも、降りれないか?」
 再度、子供がタケルへ呼びかける。尚も紡がれる言の葉は己を案じるもので、優しく育ったのだなと、人様の子でありながらなんとも誇らしい気持ちであった。
「相わかった、今から降りる」
 木の幹をそっと蹴り、その身を宙に躍らせたタケルに、伊織が焦り顔で叫ぶ。
「危ない‼」
 山にある社の桜は麓からでも見えるほど大きい。そんな木から飛び降りるなど、命を断つ行為と取られても仕方のないこと。
 伊織の叫びは山に木霊しなかった。そしていつの間にか眼前に、なんともなしに立つしろいうつくしいひとが微笑む。
……はっ! け、けがは⁉」
 呆然と立ち尽くしていた伊織はタケルを右へ向かせ左へ向かせと身体の具合を確かめ、なにもないと悟ると「よかった……」と気が抜けたようにへたり込んでしまった。
「この程度の高さならば、私にはどうとでもできるぞ?」
……そ、そういうことも、あるんだな」
 子供がどう受け止めたか定かではないが納得はしたらしい。はぁ、と深い溜め息を吐き出して、伊織よりもうんと背の高いタケルに、幼い子を叱るように言いつける。
「危ないことはだめだ。何かあったらおやごさんが悲しむ」
……そうだな。相すまぬ。あまりにも美しい景色故に、な」
「そうか。でも、あの木はかみさまの木だから、余計にだめだぞ」
 その神は私なのだが、などと水を差す真似はしなかった。素直に頷いて聞き分けの良い子を演じれば、子供は嬉しそうに笑った。
「名前なんて言うんだ? 湊の子じゃないよな? あ、えっとおれは伊織!」
……タケル」
 多くを語らず名だけを告げたうつくしいひとに、なにか訳ありなのかと悟った伊織。それ以上何も聞かなかった。
 変わったことといえば、ほぼ毎日のように子供が社まで一人でやってきてはタケルを探し、色んな所へ連れて行ったことだ。
 社から少し離れた川での水遊び。山の果実を齧って甘味を堪能したり、伊織が弁当だと米だのを持っては、外で食べたり。
 赤子ではない女子を連れて妹だと、兄の顔で紹介されたり。
 そんな日々が続いたある時、タケルがぼそりと、告げた。
「イオリは、これからも私とともに過ごしてくれるか?」
 云った後に、しまったと、随分慌てたような表情でタケルが、
「忘れてくれ」
 と首を振った。何故と、今よりも幼い伊織は疑問に思いつつ、寂しそうなタケルの表情をなんとかしたいと、意図せず口に出していた。
「忘れない。タケルとずっといる、約束だ」
 息を呑んだタケルが、泣きそうに、悲しげに、それでも抑えきれない喜びの表情で、笑った。
「ああ……ありがとう」


 後に、父が亡くなり、母も病に伏せ、まだ幼い伊織と妹が養父となる師に引き取られる頃。片隅にあれど社からは足が遠ざかり、大人になる頃には、約束のことなどすっかり忘れてしまっていた。
 それは知らず神と契を交わしてしまった哀れな子供に、神がかけた情だと知るのは、その魂が神の御許に招かれてからであった。