「押しかけ神様っ! 〜五月の節句編〜」



「イオリ、あれは……なんだ? 空に、鯉か? 泳いでいるようだ!」
 タケルは屋根に括りつけられた黒い鯉を見てはしゃいだ。
 足元に縮こまる大の男達は先程までの剣呑な眼差しから、たったの瞬間に無邪気な声音を発した子供の形をした彼に、恐怖から身体を震わせた。ガチガチと歯を鳴らし、涙を目に溜めながら土下座のような体制で「申し訳ありません」と繰り返す。
「鯉のぼりか。隣家の主人が明朝から支度していたな」
 男達の戦意喪失に二振りを納刀しながら、しかし欠片はそちらに気をやり、伊織はタケルの指先を見て云った。
「きみ、よく見ているなあ」
 桜が散り、もうすっかり若葉色が目立った山々に夏の気配が漂う皐月。五日の今日は端午の節句である。伝来した当初、季節の変わり目の邪気払いだったそれは時代が下るに連れて、昨今には男の児の成長や出世を願う祝い事となった。外に飾る幟に描かれた鯉を吹き流しにしようと考えた誰かがいるだとか噂を聞いたが、定かではない。
 隣家の男の児は確かもう三つとなったのだったか。呉服屋の主人だから、それはもうたいそう張り切っていたと記憶している。
 そんなめでたい日の前夜、町長から、最近積み荷が襲われているのだと、相談があった。山賊の仕業か、あるいは行き場を無くした浪人の仕業か。どちらにせよ、伊織の力を借り受けたいと。
 二つ返事で了承した伊織がタケルを連れて往来に張ること数刻。夜半も過ぎ朝日が登って少しした頃に、ようやく複数人の男たちが現れたのだった。
「男の児の成長を、か。人とは脆い……。神に願うのも、また道理よな」
 蛇行剣を振るうように横に流せば、手にあったそれは飛沫とともに見えなくなった。人外の如き強さと、奇術のような男達の知らぬ魔術という力を目の当たりし、未だ怯え蹲る男の眼前に歩みを進めたタケル。男を見下ろす朝焼けの眼は、ぎらりと輝いた。
「此度は許す。だが、次に我が守護するこの湊町に悪行を働くならば……
 声音は冷たく、抑揚がない。威厳に満ちたその言動は為政者故か、神故か。
「その生命、母たる伊弉冉の元へと下るだろう。地獄など可愛いものだと、その魂に刻まれる場所だ。良いな?」
「ひっ……ひぃぃッ‼」
 悲鳴を上げて男が一人もつれながら町を離れる。その一味も、男の逃走に我に返り、後を追った。これだけ脅しておけば、当分の間は平和な日々も過ごせるか。
「黄泉は、天国も地獄も無く、等しい死の国ではないのか?」
「知らぬ。私は死した後、黄泉に行った記憶も無いのでな。だが、人の心で神仏の在り方が変わるのなら、混ざりあった現在ならばそれらしい場所になっているのではないか」
「一理あるな。……タケル、報告しに行こう」
「流石に一晩中は疲れた……報告したら……
「直ぐに朝餉だな」
「うむ!」
 米に、御御御付、今日は魚が食べたいと、道すがらにこやかに献立を想像するタケル。今にも駆け出しそうな彼を窘めつつ、見えてきた故郷にふ、と伊織も笑みを零した。


「こんな朝までご苦労さん、伊織くん。金子はいつもより多めに包んだからね。嫁さんと良いものでも食べな」
……忝い」
 子供の頃より町長を務める老爺に、伊織は訂正しようとした言の葉を変えた。タケルという男名を呼んでも町の人々は何故か女人と思い込む。浮ついた話の一つも無かった伊織が前触れもなく連れてきたものだから、見目麗しいタケルが伊織の嫁と勘違いされるのは必然だった。田舎気質で、小さい湊町の噂回りは早く、家から家へと伝わり、今では子どもたちすらタケルの認識は「伊織兄ちゃんのお嫁さん」である。何度訂正しようと隠さなくても良いと聞く耳持たないものだから、伊織は最近は諦め気味だ。
「イオリー? 話は終わったか?」
「ああ、直ぐに朝餉の用意をしよう」
「ン? そうかそうか! そりゃあ、朝まで頑張ってくれたんだから腹も減るよなあ。うちで食っていきな、直ぐに支度させるから」
 目の皺を濃くして町長は二人を見る。町の子は皆孫のように可愛がる穏和なお人で、伊織も例に漏れず、そう接せられた。顔も声も知らぬ祖父の存在を教えてくれた町長の言の葉に、伊織はいっとう弱かった。
「有難く頂戴します」
 早くに大人になってしまった伊織の、精一杯の甘えに老爺はにこりと頷いた。
 しばらくして出てきた料理の品々にタケルが一つ一つを眺めては喜悦の色を浮かべる。小さくとも町の長を務めている家の食事は沢山のおかずが並べられた膳はまるで、様々な花が散らしてあるようだった。
 町長と伊織は箸を進めながら昔話に花を咲かせた。
 曰く、伊織はしょっちゅう社に行くものだから亡き母は神様に魅入られたのかしらと、悪戯に微笑んだとか。
 曰く、町長も小さい頃に、水のような鳥を見たんだよ、だとか。
 今日は節句だ、やれ祝だと近況の話にもなった。
 タケルはそんな中、一心に出された朝餉を、伊織曰く随分と良い顔で食しながら、ぼんやりと過去を想う。
 ――神に魅入られたら、どうなっちゃうのと怯えていたこどもが、そんなふうに云えるとは。
 ――ああ、あんなに小さく、長など嫌だと泣いていたこどもが、こんなにも大きく、立派になって。
 ――先月酒をくれた女店主も、その夫も、幼い頃は随分と喧嘩していた。それが今や町一番のおしどり夫婦らしい。
 ――朝、子のために鯉のぼりの準備をしていた呉服屋の店主は、子供なんて嫌いだと若い頃は何度もぼやいていたというのに。
 人の移り変わりは早く、つい昨日のことのように思い出せるそれらは何年、何十年も前の事。すっかり忘れさられた社の神だけれど、人は、好きなのだ。
「タケル、どうした?」
……幸せを、噛み締めていた」
……そうか」
「ははは、まだまだ二人は若いんだ。幸せなんて、沢山経験するさ」
「うむ……。永く、見ていたいものだな」
 すれ違う意味合いに、しかしこれはこれで良いと、伊織はずず、と御御御付を啜った。


 道を歩く二人の足音は、脇を通り過ぎる子どもたちの笑い声と、走る音でかき消された。元気なのは良いことだと、はしゃぐ子供たちの背を見ては、両者の頬が自然と上がる。
 すっかり日が登り煌々と日差しに照らされながら、伊織が差し出した柏餅をぱくりと口に含んだ。
 町長が手土産にとくれた菓子だった。小さいとは云え湊町の、それを納める長であるから、こういった季節の催しには、奮発して砂糖も使っているらしく、甘い餡が口に広がっていく。
「タケルは、社でこういった物を供えられていたな。やはり懐かしいか?」
「形だけならば、確かに懐かしさはあるが、食べたことは無かったからな。何もかもが新鮮だ!」
 ぱくりと大口で柏餅を食み、一口噛みしめる事に、タケルの頬は幸せそうに緩んだ。それに習い伊織も齧り付く。甘い菓子は美味しいけれど、やはりどこか物足りなさを感じた。
「帰ったら、柏餅でも作ろうか」
「む? 私は嬉しいが、そんなに好きなのか」
 不思議そうに小首を傾げたタケルを横目に、伊織は幼い頃に食べた塩気の強い柏餅を思い描き眼を細めた。
漁師の父と、母の三人で暮らしていた幼い頃、五月の祝にと、やはり柏餅が出てくる。平人は砂糖などの高級品を使う機会は滅多に無く、例に漏れず、伊織が食したそれも塩気の餅だった。
 けれど母も父も己の成長を喜んで、二人の笑顔に伊織もまた嬉しくなって、食べ過ぎだと笑われるほどに餅を食べたものだ。それが無性に、食べたくなった。
「俺の家では塩っぱい柏餅が出ていてな。懐かしくて、無性に食べたくなった」
「そうか。きみの家の味は……私も食べたいな」
 夕日の金の眼がきらりと瞬いた。イオリに向けるタケルの眼差しはいつも柔らかいものであるけれど、たまにこうして慈しむものをい向けられると、神なのだなと、再認識させられる。
「タケルにも気に入って貰えれば良いな」
 買うものは、と、食べながらも思案を止めない伊織の後ろで、タケルはその背を見つめる。
 ――きみが感じたものを、好きにならぬ道理は無い。
 執着にも等しい愛情を悟られぬよう、タケルは駆け出し、伊織の横に並ぶ。
「うむ! 楽しみだ!」
 嘘偽りのない笑みに、伊織も頷いた。