中也は帰宅して私を見るなり、鍵を差し出した。受け取った小さな金属の塊は、見覚えのある形をしている。おそらくこの家の鍵だ。左手には先程この家の鍵を開けるために使ったであろうそれが握られたままだ。つまりこれは、この家のもう1つの鍵――合鍵だということになる。
「なにこれ?」
「見りゃわかんだろ、ここの鍵」
「そういう意味じゃないことぐらいわかるよね?」
中也との間には、元相棒以上のはっきりとした関係は存在しない。とはいえキスもセックスもするし、こうやって合鍵を渡されるぐらいには中也の家に入り浸っている。どちらもはっきりとした言葉を口にしたことがないだけで、事実上は恋人みたいなものだった。
そんな相手からの合鍵だ。勝手に入って寛ぐのは最早日常茶飯事ではあるけれど、やっぱり当人から合鍵を渡されるのとは少し違う。当然私の気分は鰻登り。上機嫌でそれを受け取った。
ただ、こんな中也を揶揄う口実のような物を渡されて、私がただ黙って受け取るだけで終わらせるはずはなかった。
「なあに? もしかしてプロポーズのつもり?」
「んなわけねぇだろ。恋人でもねぇのに」
衝撃だった。じゃあこの関係は恋人ではなくてなんなのだ。恋人ではなかったとしても、ならこれをきっかけに恋人になろうとか、そういう話ではないのか。
「じゃあ私と君の関係はなんなの」
カチンときた所為で、自分でも思った以上に低い声が出た。
「何って、元相棒だろ」
「君はただの元相棒とセックスして、プライベートの大半の時間を一緒に過ごすんだ?」
「なんだよ。友達にでもなりてぇの? 無理だろ」
「絶対わかってて言ってるでしょ。私がなりたいのは友達じゃなくて君の恋人だよ」
「はっそれこそ御免だな。俺はぜってぇ手前の恋人にだけはならねぇよ」
売り言葉に買い言葉。むしゃくしゃした。中也は毛ほども気にしていなさそうで、それが余計に腹が立った。私が中也に向けるのと同じかそれ以上の執着を返されていると思っていたのに、それは私の勘違いだったとでもいうのか。まさか自分が、よりによって中也の感情を読み間違えたと?
プライドが傷つけられた。それから振られたショックと混乱と、自分でも理解したくないその他様々な感情とが、腹の内でぐるぐると渦巻いた。気分が悪かった。中也の顔も見たくなくて、玄関へと足を向けた。受け取った合鍵は近くのローテーブルに置いてきた。
「帰んの?」
返事はせずにずかずかと廊下を歩いていると、「なら持ってけよ」と後ろから鍵を投げられた。当たり前に無視をした。キーホルダーも何も付けられていない小さな金属の塊は、綺麗な放物線を描いて背中に当たった後、ぽとりと床に落ちた。
◇ ◇ ◇
私は苛立ちを紛らわせようと、その足で懇意にしている女性の1人に会いに行った。碌に会話もせずにホテルに雪崩れ込んで、身体を重ねる。セックスが好きだ。セックスしている間だけは、余計なことを考えなくていい。女性も好きだ。滑らかな肌と柔らかい肉の感触は、女性の特権だ。中也とのセックスは気持ちがいいけれど、女性とのセックスはそれとは違う満足感がある。
行為を終えてようやく少しだけ気分が落ち着いたところで「今日は何か嫌なことでもあったの?」と優しく尋ねられた。一瞬迷ったが、彼女なら大丈夫だろうと判断して事情を掻い摘んで説明すると、彼女はみるみる顔色を曇らせていった。またもや何か見誤ったのかと思えば、大きくため息を吐かれた。
「本命がいるなら、こんなことやめなさいよ。どうせ私だけじゃないんでしょ? 付き合いたいならそれ相応の誠意を見せなきゃ」
「別に浮気を咎めるような相手ではないよ」
「だとしてもよ。文句を言わないからといって不満がないとは限らないわ」
しばらく懇々と説教され、それから目の前で彼女の連絡先を消去させられた。
「もう会うことはないだろうけど、元気でね。上手くいくといいわね」
後腐れなく颯爽と去っていった彼女の背中は潔くて格好が良かった。それを名残惜しく感じている自分が、なんだか格好悪く思えるぐらいに。
確かに、彼女の言い分は最もに思えた。別に中也がどこの誰と寝ていようが口を出す気はないが、中也が自分以外と寝ていないという事実は少なからず私の気分を向上させていた。「女遊びは大概にしろ」と苦言を呈されたこともあったし、一般的に嫌がる人が多い事実も理解している。
中也がそんなことを気にするようにはやっぱり思えなかったけれど、少なくとも私が本気であることは伝わるだろう。中也相手にそこまでするのは本当に心の底から腹が立つしできることならやりたくないけれど、それ以上に中也に「恋人にはならない」と言われたのが嫌だった。他に理由の心当たりもない。やるしかないと思った。
そうして1週間ほどかけて、なるべく穏便に全ての女性との関係を終わらせた。
◇ ◇ ◇
中也がいるだろう時間帯を予測して自宅を訪れると、当人はソファで寛いでいた。私を認識すると、「おう」と挨拶ともいえない声を掛けてくる。近づくと、当たり前のように私の座るスペースを空けてくれた。予想はしていたが、中也はあの時喧嘩したことなんてもうすっかり忘れてしまっているようだった。このまま私が何も言わなければ、あの時のやり取りなんて全部なかったことにして、今まで通りの日常が戻ってくるのだろう。
「女の子、全部切ってきた」
「……なんで?」
話を切り出すと、流石の中也でも驚いたようだった。私に構う様子もなく眺めていた雑誌から顔を上げる。
「君と付き合いたくて」
「そりゃ残念だったな。悪いが手前と付き合うつもりはない」
「なんで?」
「なんでも」
中也には変化球よりも絶対ストレートど真ん中が効く。過去の経験から恥をかなぐり捨てて挑んだのに、勝負は惨敗だった。けれど中也は私の渾身の告白を断ったくせに、くつくつと機嫌良さそうに笑いながら髪を撫でてくる。わけがわからなかった。
隙あらば私に触れてくるところとか、指先の優しさとか、その楽しそうな表情とか。これはどう見たって私のことが好きだろう。それ以外の理由なんてあるのだろうか。
恋愛感情ではないと言われればそうかもしれない。でもそれは私だって同じだ。中也相手に恋だなんて莫迦莫迦しくて堪らない。でも少なからず愛はあった。綺麗でキラキラしたものではない。本人に伝える気もない。それでも、最近はその存在を認める気になっていた。そして中也からも、似たような感情を向けられている。
セックスはする。他に付き合うような相手もいない。恋人になるのをわざわざ拒否する理由なんてないはずだ。なんなら世の中の大半の恋人同士なんて、深く考えずに適当に付き合っては別れているというのに。
「私の何が不満なの」
「不満?」
「付き合いたくないならせめて理由ぐらい教えなよ」
「えー、どうしよっかなぁ〜」
くるくると私の髪の毛を弄ぶ中也は、今にも鼻歌でも歌い出しそうだった。
「っていうかなんでそんな機嫌いいわけ」
「あの太宰治が俺のために女全部切ってきたとか、嬉しくないわけないだろ」
「もしかして莫迦にしてる? だったら付き合おうよ」
「やだ。正直ちょっとぐらっと来たけど」
「なに。まさか好きとか言ってほしいわけ」
「それはちょっと遠慮するわ」
中也は苦笑いを浮かべた。私の髪から手を離して、ソファから立ち上がる。
「珈琲淹れるけど、手前も飲むだろ?」
「……飲むけど」
逃げたな、と思ったけれど、それ以上どうすることもできなかった。中也が珈琲を淹れるのを黙って観察するが、何を考えているのかはわからなかった。そもそもこの件に関しては全てがわからないのだ。
機嫌はいいと思う。そのうち本当に鼻歌を歌い始めたし、雰囲気も柔らかい。浮気を咎められたことはなかったけれど、女性との関係を切ったのは無意味ではなかったらしい。決め手にはならなかったみたいだけれど。
珈琲を両手に戻ってくるまで目一杯考えたけれど、結局答えはわからなかった。
「君は私が愛想尽かして他に恋人作っても構わないわけ?」
「おう、いいぜ。どうせすぐ別れて俺んとこ戻ってくんだろ」
半目で睨みつけると、当たり前のように返された。さっきはあんなにも回りくどく焦らしていたが、たぶんこれが答えだ。
「そんな理由?」
「少なくとも俺は手前が恋人と半年以上続いてんの見たことねぇもん」
「……君とはもう1年は続いてるけど」
「そうだな。手前と恋人になった覚えはねぇけど」
「そんなのただの屁理屈じゃん」
「好きに言ってろよ」
中也はくすくすと笑いながら、手に持っていたマグカップの片方を差し出した。大人しく受け取って、苦々しい気持ちで中身を啜る。ちゃんと私好みに砂糖と牛乳で整えられた珈琲は気持ちとは裏腹に甘くて優しい。
「元恋人では手前が何やってても口出しさえできねぇからな。その点元相棒はいいな。これ以上失うものは何もねぇ」
「元相棒だって普通は口出しする権利なくない?」
「今あんだから今後もあんだろうが」
そうして左手に小さくて硬い物を握らされた。
「だからこれは大人しく持っとけよ」
渡されたのは、前回受け取らなかったこの家の合鍵だ。まさか私が来ることを予測してはいなかっただろうから、これを取りに行くためにわざわざここを離れたのだろう。
中也に一本取られたみたいで、どうにも納得がいかない。むぅと睨みつけると、宥めるように額にキスをされた。不満の言葉は飲みこまざるを得なくなった。
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