7flowerS
2024-05-25 08:42:07
3651文字
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【昔話】姉が弟に嫌われているという噂

生前の尾張の話。死んだ父に織田の後継に指名された信長は信勝に憎まれているという噂を聞く。しかし姉は織田を継ぐ気はなく、そんなことで弟に嫌われるはずがないと意に介さない。しかし。

 弟に嫌われているという噂を聞いた。というか、家督を奪われて恨んでいるらしい。信勝が元服して成人になったことでもはや姉のことを憎むようになったとか。

「そんなことありえん」
「ええ!? でも、信長様、みんなそう言って」
「ないない」
「いくら信勝様でも男なんですから」

 信長は横に手を振って手下の言葉を一蹴した。信勝から嫌われるなんて絶対にあり得ない。それはなんの物的証拠もなく信長が信じていることの一つだった。

……「そんなの、姉上が大好きだからに決まっています」……

 そう言って春の花のように笑った幼い日の弟の姿を今でもはっきり思い出せる。もうヒトの声が聞こえず、顔も朧げにしか見えない信長でもあの言葉が心からのものだったとは分かる。

(信勝がわしを嫌いとかあり得ん、多少背は伸びたが今でも何かとわしの後をついてくるではないか)

 くだらない噂だと手下たちについてくるなと背を向けて帰途につく。藤色の雲がたなびく夕焼けを見上げながら、雲の形と空の色は分かるのになと連想する。

 あり得ない。信勝は信長が好きに決まっている。それはあまりに当たり前で意識したこともなかった。当たり前すぎて好意に好意で返した記憶もない。

 それくらい信勝はいつも信長の前で笑っていて、言葉は常に好意を伝えていた。

(だって信勝だし、あの信勝じゃぞ)

 だが五十歩ほど歩くと不安がチクリと胸を刺した。先日、父が死んだ。女の信長を織田の後継者にしろと遺言を残して……それでちょっとだけ嫌いになったのか?

(あれがまずかったのか? 織田の家が欲しかったのか?)

 信長は首を横に振る。信勝が家督に執着するとは思えない。ここ数年は慣れたようだが戦にでると影で泣くか吐くかしていた。能力は問題ないが性格的に大名はもちろん武士にも向いてない。どちらかというと機会があれば弟は武士など投げ出したいほうだ。

 ついこの間まで姉上、姉上と袖を握って離さなかった信勝がそんなもののために信長を嫌うとは考えられない。

 ただ信長はヒトの気持ちを理解することには自信がなかった。なにしろ「聞こえない」のだ。

 立ち止まる。少しは腹が立つのだろうか。父に期待されていないと悲しくなったのだろうか。母になにか言われたのだろうか。ここ数年、必死に勉学と剣術を学んでいたが実はあれは家督を継ぐ身なのだと努力をしていたのか……姉は珍しく弟のことを長く考えていた。

 姉にとって弟は空気と一緒で自分にとってどういう存在か深く考えたことがなかった。

「ああもう、父上が余計なことを言うから……

 そもそも信長は織田家を継ぐ気などなく、信勝に家督を渡すつもりなのだ。父の戯言など知らない。信勝の方が織田家の後継に適性がある、それが信長の判断だった。

 気の弱い弟を見ていると「自分がやった方がいいか」と家督を考えない姉ではなかったが、年齢とともにどんどんヒトの声が聞こえなくなった。音声としては聞こえているが心がさっぱり分からないのだ。これでは多くのヒトを従え、多くのヒトと戦う戦国大名など無理だ。

 自分に戦の才能があることは分かっているがなにより信長自身が聞こえなくなっていくヒトの世を新しくすることに興味が持てなくなった。はっきり言ってやる気がなくなった。

 信長と違って信勝はしっかり「ヒト」だ。ちゃんと自分の心でヒトの声が聞こえるのだから補助されれば上に立つことはできる。戦自体は苦手なままだろうが大名なのだから後方で指示だけしていればいい。信長は信勝が当主ならいくらでも戦で力を貸すつもりだ。

(聞こえんわしより聞こえるお前の方がいい、それは言わなくても分かっているはず。だってわし一度も家督が欲しいなんて信勝に言ってないし、父上のあれは死に際の譫言で誰も間に受けてない)

 家督なんて弟が「欲しいです」といえば即座に「やる」と返答する程度のものだ。信勝に与えられた好意に比べればどうでもいいものだ。そんなもので嫌われるはずがない。

 視線の先で陽が山の影に隠れ始める。夕焼けの中でまた弟のことを考える。ずっと弟の向けてくれた感情、それは書物で読んだ愛情というものではないか。家族の愛、姉弟の愛、ずっとそばにいた愛……色々あるらしいがこの世界に本当に「愛」というものがあるならそれは信勝が自分に向けてくれた感情だと信長は確信していた。

 父は重く歪んだ期待を向け、母は顔を合わせれば罵るが内心娘の正体を見抜いて恐れている。そんな歪な家族関係の中、信勝だけ見返りのない好意を信長に注いだ。あまりにも見返りを求めないので逆に信長の方が信勝を心配したほどだ。

……「僕、こうして姉上のお傍にいられれば他には何も要りません」……

 そう言って笑った日はいつだったろうか。その笑顔を向けられるほど例え理解はできなくてもヒトはきっと悪いものではないのだ、いいところがたくさんあるのだと思った。

「信勝」
……あ、姉上」

 気がつくと夕焼けの向こうから信勝が歩いてきた。他人のことは言えないが一応大名の後取り候補なのに供もつけず一人で歩いている。何かを風呂敷に入れて大事そうに抱えている。

……

 そのまま信長が進むと信勝も一度止めた足をおずおずと進めた。二人とも無言のまますれ違う。弟に声をかけられないことに姉は愕然とした。

(え、本当に信勝に嫌われた?)

 ヒトの心の分からない信長といえども。
 それは嫌だった。否定したかった。いつものように姉上と呼ばれたかった。

「のぶか……!」
「姉上!」

 咄嗟に信長が振り返ると信勝は思い切り距離を詰めた。目を丸くしていると信勝は抱えていた風呂敷からなにか取り出した。

「こ、これ、明帝国の新しい本だって商人が売っていて……前に姉上が読みたいと仰ってませんでしたか?」
……言ったけど」

 信勝が差し出したのは三冊の冊子だった。題名は三冊とも読んでみたいと言った記憶がある。

(なーんだ、やっぱり嫌われてないじゃん)

 安堵して思わず受け取った本を落としかける。贈り物をした信勝はなぜか申し訳なさそうにしている。

「すみません、本当は姉上が一番興味がある南蛮の本なら良かったのですが」
「いや、これも読みたかったし、わざわざ悪いな」

 しょぼんとした顔に姉はムッとする。泣き虫の弟だが信長は笑顔の方が好きだ。しかも今は落ち込む理由などないのに。

 ありがとうというべきか迷う。しかしその前にさっきまでの疑念が口に出た。

「信勝、お前、織田の家督とか欲しいのか?」
「え!? いえいえ! だって父上が遺言で……
「あんなもん誰も真に受けてない。死に際のうわ言じゃからな。だがお前が気にしているとみな噂しておる。そうなのか?」
……違います。僕は臆病で、姉上はずっと勇敢じゃないですか。その本だって僕は少し読んだけどちっとも分からなかった」
「戦が得意なだけさ。それにわしは女じゃ、男が女に負けたとか、お前がそういことを気にするなら……
「なんてこというんですか!!」

 初めて弟に本気で怒鳴られた。

「男とか女とか関係ない! 姉上は誰より優れた方で、いつかきっと新しい世を……それに、ち、父上が織田の家をここまで大きくしたのです。父上の遺言に従うのは当然です」
「えー、でもな、わしは……

 いつまでもヒトの声が聞こえない。むしろどんどん遠ざかっていく。だから幼い頃に語った夢はもう諦めたと言いかけて引っ込める。

「男だとか女だとかどうでもいいことです! 姉上は、姉上はずっと僕より強いし賢いじゃないですか……それなのに姉上がそんなこと言わないでください!」

 一方的に言って、涙目で走り去っていく。唖然として追うことも忘れて、信長は夕日が落ちる中、冊子を手にしたままその背中を見送った。

(別にわしは……お前の元でなら戦くらいしてもいいのに)

 戦が苦手なら戦う代わりに総大将にしてくれればいい。自分なら大抵は勝てる。姉弟で苦手なことを分け合えばいい。

 そうすればこのまま姉弟でそばにいて力をあわせてやっていけるのだと信長はどこか無邪気に未来を信じていた。
 弟は姉が好きなようだし、姉だって弟は大切だ。例えもう顔も声も認識できなくても子供の頃の思い出がある。今はもう意味がわからなくても弟が楽しい話をしようとしてくれることはいやではない。
 姉弟仲良くて、お互いが必要なのだ。どうしてこれからやっていけないはずがあろう。

 ヒトの心の分からない信長は、女である自分が後継者に指名されたことでどれほど家中が割れ、また弟がどう思っていたのか本当には理解していなかった。




あとがき

ノッブ公記の「だから跡はお前が継げ、聞こえんわしよりマシじゃろ」のろくろをずっと回しています