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千代里
2024-05-23 13:03:06
9256文字
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リーブラ13話
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リーブラの針は問う・13話・その9
「ええっ。空いてる部屋がない?」
「ああ。うちは満杯なんで、悪いが他の宿を当たってくれるかい」
宿の主人に期待外れの言葉を投げかけられ、ヤルマルは大きな耳をぺたっと下げた。
その素振りから、残念がっていることが如実に伝わったのだろう。店主は気の毒そうな顔になり、
「そりゃあ、わざわざこの街に来てくれたんだ。俺だっていい部屋を紹介してやりたいが、無いものは無いからなあ」
「そっかあ。それは困ったな。仲間に、宿を探すのは任せてって言ってしまったんだけど」
感情が露わになっている長耳は、人の同情を誘うのに向いている。ヤルマルのような陽気そうな性格の人物が、ここぞとばかりに耳を下げていると、どうしても手を差し伸べたくなるというのが人情だ。
(それを予測して、わざと下げて見せてるんだけどね。この程度は、処世術として見逃してもらいたいものだ)
自分の感情を意識的に見せている時ならいざ知らず、己の気持ちを全て自分の耳で表してしまうほど、ヤルマルは青くない。それを知っているからか、ヤルマルから少し離れて様子を見守っているオランローが、大きなため息を漏らしていた。
「他の宿はどうかな? おじさんの口利きで案内してもらえるだけでも、土地勘のないボクは大助かりなんだけどな」
「ううん
……
そりゃ、案内する分は構わないが、どこの宿もいっぱいだと思うぞ」
「おや、そうなのかい。この街では、お祭りでも開く予定があるのかい」
宿がいっぱいになる理由の一つが、その地で開かれる催し物に参加しようと客人が集まるからだ。皇都も、星芒祭の時は地方からやってきた人で賑わう。
それと同じようなものかと尋ねるヤルマルに、宿屋の男は首を横に振る。
「祭りだったなら、まだ良かったんだけどな。二週間ほど前だったか。ランドンの野郎が大暴れしたせいで、住む家を無くした連中がこっちに流れ込んできてるんだよ」
男は、渋い顔をしてため息をつき、わざとらしいまでに肩を竦めてみせる。
「領主様は、なるべく難民を受け入れてやるようにって、空いた建物を仮の住まいとして提供している。そんでもって、俺たちにも金を払って、流れてきた連中に部屋を貸すようにって仰ったってわけさ」
代金は支払われているので、家を失った難民たちを追い出すわけにもいかない。とはいえ、そうなると今度は旅人や商人を泊めてやることができなくなる。だから、受付の彼も困り果てているのだろう。
「奴がいつ何時くるか分からないから、家を建て直してこいって難民を送り出すわけにもいかない。まったく、困ったものだ」
「ランドンっていう御仁は、盗賊か何かかい? 人の家を壊すとは、また随分と乱暴な奴みたいだね」
「いやはや、そんな奴なら良かったんだがな。まったく、あいつの名前は、ガキへの脅し文句だけで十分なんだけどよ」
話が込み入ってきたのを察したのか、ヤルマルの後ろに気配が立つ。わざわざ振り向くまでもない、オランローが様子を見に来たのだ。
「だけど、今この名前を聞いたら、ガキの寝物語に出てくる悪役なんて可愛らしいものじゃないのさ」
「と、いうと?」
「近辺の農村やら牧場やらを襲って、人の家を壊すわ、家畜を殺すわ、挙句人を攫っていたぶり殺すわの悪行ざんまい。童話の悪役よりも、なお始末が悪い。ドラゴンってやつはそういうものだろ?」
はあ、と何度めになるかわからないため息をつく男。半ば予想通りの回答を得て、ヤルマルは眉間に力を込めた。
***
「兄さん、見てください。あちらのお店では、店先で何か売っているようですよ」
オデットが指さした先にあったのは、道の途中にある素朴な見た目の喫茶店だ。
入り口から少し離れた窓の前には、窓縁のごとくカウンターが据えられている。そこには、「ご用の方はベルを鳴らしてください」という立板が置かれていた。さらに、床置きの看板には、メニューと思しき文字が殴り書きされている。
外が冷えているから窓を開けっぱなしというわけにはいかないが、店に入らずとも暖かな飲み物や食べ物を注文することはできる、という仕組みらしい。席がいっぱいの時間帯でも、客を逃すまいと考えたのだろうか。
時刻は、検問を経てお昼どきを少し過ぎた頃といったところか。程よい空腹感が、ノエのお腹を刺激していた。
「少しお腹に入れておこうか。到着してから、何も食べてないものね」
「はい。どんな味のご飯を出してくれるのでしょうねね」
置かれていたベルを鳴らすと、すぐに窓が開いた。厨房と近いからか、窓の奥からむわっとした暖気と共に香ばしい匂いが流れ込んでくる。
顔を出したのは、恰幅のいいヒューランの女性だった。彼女はノエとオデットを見て、すぐに気の良い笑顔を見せる。
「いらっしゃい。その身なりは、旅人さんかね。今なら、ラム肉の串焼きがもうすぐ出来上がる頃あいさ。熱々の串焼きはほっぺが落ちるほどに美味しいよ」
彼女の言葉通り、肉が焼ける匂いがノエの鼻先を掠めていく。ノエの胃袋は、空腹を訴えて大暴れしていた。
「ホットワインもちょうどいい熱さだね。ああ、でも、そちらのお嬢ちゃんなら、温めた紅茶の方がいいかもね。紅茶なら砂糖をたっぷり入れたやつを用意してあるよ。ちょっと淹れたてで熱いかもしれんかねえ。さあさあ、どれにしていくんだい?」
立て板に水の如く説明をされて、ノエは一瞬目を白黒とさせる。一度咳払いを挟んで、自分のペースを取り戻すと、
「それなら、僕は串焼きと紅茶を。砂糖は
……
入れてないものってありますか?」
「おや、お兄さんは砂糖なしがいいんだね。珍しいねえ、もしかしてイシュガルドの外から来たのかい?」
「えっと
……
そんな感じです」
元々はイシュガルドにいた自分が、イシュガルドに暮らす人に『外から来た』と言うとは、なんとも運命の皮肉を感じる。そんな気持ちがつい滲んでしまい、ノエの言葉は少し端切れの悪いものとなってしまった。
もっとも、女性はノエの態度など気にせずに、今度はオデットへと身を乗り出す。
「じゃあ、お嬢ちゃんはどうする? 串焼きが重いなら、野菜を焼いた串も用意できるよ。最近はポポトの実やパンにバターをたっぷり落としたやつも人気だね。食べ歩きには持ってこいだよ」
「あ、じゃあ、パンにバターを落としたものをお願いしていいでしょうか。それと、わたしも紅茶をお願いします。砂糖の量は兄さんと同じもので」
「はいよ! あんたたち、聞こえたかい!」
厨房に注文を繰り返す大きな声と、返事をする料理人たちの声。
活力に満ちた彼のやり取りを聞くだけでも、この街の人々が生き生きと暮らしているのが分かる。
注文の品が届くまでの間、ふと周りを見渡し、ノエは高台にある一際大きな建物に視線を止めた。
城壁の中でも、やや北寄りに位置するその小高い丘の上には、明らかに周囲の建物と一線を画する屋敷があった。それが、誰が住まう屋敷かをわざわざ問う必要はないだろう。
「ああ。あの建物が気になるかい? あれが、我らがラペイレット領を治めてくださっている、領主のベルナール様とそのご家族が住まわれている屋敷だよ」
ノエの視線に気がついたのだろう。女性は、ノエの予想していた通りの説明をしてくれた。
「昔はあれこれと問題を起こしてた人だから、一時期はどうなるかと思ったけど
……
まあ、歳をとってあの人も落ち着いたんだろうねえ」
明け透けな物言いは、それだけ領主を身近に感じている証拠だろう。少なくとも、領主のことを多少悪く言っても罰されることはないぐらいに、この街の言論の自由は守られているようだ。
「あれこれと問題、ですか」
「ああ、そうさ。お貴族様には良くあることかもしれないけれど、妾を囲っていたって話もあったからねえ」
ノエの表情に、ぴしりと強張りが走る。それでも、彼は頬の筋肉を緊張させただけで、女性の話を遮ろうとはしなかった。
「噂じゃ、妾の女性は異端者で、ドラゴンになって奥様を喰っちまったって話さ。まったく、ぞっとする話じゃないか。でも、結局、二人の女に手を出す方が悪いって、うちの母さんは言っていたけれどねえ」
「わたしも、そう思います。そういうことが許される立場であっても、やっぱり気持ちが納得できないこともあると思うんです」
表情を凍り付かせたノエの代わりに、オデットが女性の雑談に応じる。オデットの手袋に包まれた手は、しっかりとノエの手を握りしめていた。
母が異端者のレッテルを押し付けられているのを聞いても、かつてのように声を荒らげるような真似はしない。それでも、ノエの腹の奥は嫌な冷たさを覚えてしまう。
「お嬢ちゃんはしっかりしてるねえ。お兄ちゃんがそういうことをしないように、ちゃんと見張ってるんだよ」
「大丈夫です。兄さんは、わたしが一番大好きなんですから」
オデットが勢いに任せて言った言葉に、ノエは思わずふっと口元を緩める。
自分の気を緩めるために敢えてそのようなことを言ったのだと分かっていても、胸の奥に灯った灯りの温かさは本物だ。
「ま、そんな跳ねっ返りのご当主様も、お兄さんが亡くなって、おまけに奥様も亡くなったとなれば、腰を落ち着けなきゃいけないと思ったのかね。昔に比べたら、スキャンダルはぐんと減ったものさ」
「先ほど、他の方にも話を伺いましたが
……
良い統治をしていらっしゃるそうですね。ここに来る前に皇都にも立ち寄りましたが、この街は皇都と同じくらい治安が良いように思います」
「あっはっは、お兄さんは褒めるのが上手だねえ! 流石に教皇様のお膝元ほど、立派なものじゃないけれどね。それでも、ベルナール様はベルナール様なりに頑張ってらっしゃるよ」
注文の品として、まず先に陶製のカップに注がれた紅茶が差し出される。
砂糖は抜いてくれたはずだが、器そのものに砂糖が溶け込んでいるかのように、少し甘さを感じる紅茶だった。
「こんな風に年中寒くなっちまっても、寒さに強い作物を調べて飢えないように気をつけてくれたり、ドラゴンどもに襲われないように、できる限り広い範囲に騎士を配備したりね」
領主がするべきことは、一番偉い椅子にふんぞりかえっていることではない。人々が飢えないように収穫物の管理や調整を行い、農民を土地に住まわせる代わりに回収した租税で、ドラゴン族や魔物からの脅威に対抗するための防備を固める。加えて、皇都や他の領地に派兵し、恩を売るのも忘れてはいけない。
実際に統治に携わったことのないノエですら、この程度の公務は容易に想像がつく。実際の公務は、これどころの量ではないだろう。
「ただ
……
最近は、頑張りすぎちまったのかねえ。少し前に一度、公務中に倒れられたそうなんだよ」
「えっ」
思いがけなく告げられた不穏な内容に、ノエは驚きの声を漏らして固まる。
「結局、ただ風邪をこじらせただけだったみたいだけどねえ。でも、昔のように若くはないんだからね。まだ後継ぎを決めるには早いかもしれないけれど、お嬢様たちの縁談ぐらいは進めた方がいいんじゃないかと、あたしは思ってるんだよ」
話好きの女性は、ノエが驚きの表情のまま固まってしまったことには、気づかなかったらしい。すでに、彼女のお喋りは当主の元にいる二人の娘の話題へと移っていた。
だが、ノエは「父が倒れた」という言葉から意識を剥がせずにいた。
(
……
あいつが、倒れた? それは、僕が生きていると分かったことと、関係があるのか。それとも、倒れるようなことがあったから、僕に接触しようとした
……
?)
病や怪我で己の死を身近に感じたものが、家族に一目会っておきたいと願うのは自然な流れだ。しかし、ノエの中で病人が弱々しく家族を求める姿と、自分が幼い頃に見てきた父親の背中が結び付かなかった。
そもそも、ノエの中では、父親はいまだに最後に見たときの姿と変わっていない。歳のころは、三十後半ぐらいの精悍な男性。それが、ノエの中にいるベルナールという男だ。
しかし、ノエがこうして育ったのなら、父親として相応に年もとる。年をとりーー老いを積み重ねていく。
人は老いれば、体に変調をきたしやすくなる。若い頃はどうということもなかった無茶が、年を経て病や怪我の元になることもある。
ノエが急に黙りこくって、険しい顔をしていたからだろう。女性はひらひらと手を振って、
「ああ、そんなに心配そうな顔をしなくても大丈夫さ。倒れられたっていっても、一日二日でどうにかなっちまうってことじゃなさそうだからね」
「
……
心配そうな顔、していましたか」
「ああ。まるで、自分の親が倒れたみたいな顔してるじゃないか! 見ず知らずの人の話でそんな顔をするなんて、あんた、いい人だねえ」
「ーーーー」
あれほど嫌っていた相手なのに、自分はどうしてそんな顔をしてしまっていたのだろう。
その理由すらわからずに、ノエは機械的に紅茶を口の中へと注ぎ込む。
一方、女性はうむうむと頷くと、準備ができた串焼きをノエへと差し出した。それを受け取ろうと手を伸ばしたとき、
「ああ。あんたを見たときから、誰かに似てると思ってたんだけど
……
あんた、フィリベール様に似てるんだねえ」
女性にとっては何気なく口にしただろう言葉に、ノエはこの街に来て何度目になるか分からない驚嘆に、小さく息を呑む。
この街がノエの父が育ち、今も暮らす街であるのだから、自分に連なる者に纏わる多くの情報に触れるのは当然だ。それが分かっていても、行く先々で向けられる言葉に心が適応してくれない。
「フィリベール様っていうのは、さっき話してた領主様のお兄さんでねえ。若い頃は、時々うちの店に来て、一人で難しそうな分厚い本を読んでたんだよ」
「そう
……
なんですか」
自分の知らない師匠の話を教えてもらい、ノエは先ほどとは異なる理由で言葉に詰まる。
「自分は領主にならずに、聖職者になるって言って教会に入っちまった変わり者ではあったけどね。優しくて真面目な方だったよ。ほら、あたしはあの方とは年が近かったからね。ベルナール様を連れて街に遊びにきてた時は、一緒に遊びたいって母親に駄々をこねたもんさ」
一瞬、ノエは幻視する。
まだ雪が降り積もっていない街の道を、くすんだ栗毛の髪の兄弟が歩いていく。前を行く少年は、ノエに少し似た顔立ちをしている。利発そうな瞳を持った少年は、本を片手に弟の手を引いて歩いていく。
街の人は、領主の息子たちに温かな笑みを送り、時に気安く声をかける。同年代の庶民の子供たちが手を振っているのを見て、兄は弟を促し、二人で手を振りかえす。
そんな、あったかどうかも分からない、ありし日の幻がノエの前に現れーー消えていった。
「本人は、自分は領主になる器じゃないからって、言っていたらしいけれどね。領主にはならなくとも、弟のベルナール様を支えてやることもできたんじゃないかって思うんだけど
……
どちらにしろ、ドラゴン族の連中のせいで、フィリベール様は帰らぬ人になっちまったのさ」
そこで話を区切り、女性は大きな布にくるまれたパンをオデットへと手渡した。
温かなマフのような包みに、オデットはふわりと口元を綻ばせる。続けて、布包みを開き、彼女は目を丸くした。
「あの。これ、二つ入っていませんか」
「サービスさ。あたしのお喋りに付き合ってくれたお二人にね。暖かいうちに食べるんだよ。冷めちまうと、どれだけ美味しい料理でも味気ないものさ」
「ありがとうございます
……
! 兄さん、一つどうぞ。これ、とても暖かいです」
「串焼きを食べ終えた後にいただくよ。すみません、少し店先を借りてもいいですか」
「構わないよ。今は忙しい時間帯でもないからね」
女性に頭をさげ、ノエはカウンターに紅茶の入ったカップを置き、オデットから渡されたパンを受け取る。
串焼きはタレが漬け込まれた肉がじっくりと焼かれていて、おまけに下ごしらえもしっかりしているのか、筋張ったところもない。口に含めば、肉の旨みがぶわっと広がり、それを味わいきる頃には肉そのものがほろほろとほどけていく。
口の中で肉の味でいっぱいになったなら、紅茶を挟んで仕切り直しだ。オデットが渡してくれたパンも、表面の切れ目に仕込まれたバターがじゅわりと溶け出していて、バターの濃厚な味とパンの柔らかな甘さを同時に味わえる。肉の甘辛いタレとは異なるうまみは、ノエを魅了してやまない。
「こちらのパン、とてもおいしいです! ふわふわで甘くて、バターの味がしっかりしていて
……
!」
「ああ、そうだね。オデットは一つで足りるかい?」
「だ、大丈夫です。食べすぎると太ってしまいますから」
「もう一つか二つ、食べ歩き用に作ってもいいよ。どうせなら、野菜を挟んでサンドイッチみたいにしたものを用意してあげようか?」
そうは言いつつも、オデットの紫紺の瞳には未練がしっかりと残っている。もし教会に行って、戻ってきた暁には、もう一度頼んでもいいかもしれないとノエは思う。
女性まで乗り気になって、オデットに新たなメニューを提案する始末だ。
オデットがぶんぶんと首を横に振っているので、彼女を揶揄うのはこの辺りにして、ノエは当座の目標に決めていたことについて問う。
「そういえば、僕たちは教会を探しているんですが、ここから教会にはどう行けばいいでしょうか。この子が、礼拝堂を見てみたいと言っているんです」
「それなら、ここを真っ直ぐ行って、二本目の通りを右に曲がった突き当たりにあるよ。ただ、今は孤児院の子供が増えて、司祭様も忙しくしているみたいだからね。お祈りはさせてもらっても、説法は難しいだろうね」
「司祭様
……
」
その言葉を聞いた瞬間、オデットの顔に強張りが訪れる。
オデットは、皇都で見た礼拝堂の空気やステンドグラスの美しさに惹かれて、教会に行きたいと言ったのだろう。
だが、教会に行けばまず間違いなく司祭がいる。司祭の装束を来た者に近づかれただけで倒れたオデットにとって、決して手放しで喜んで行ける場所ではない。
「ごめん、僕も失念していた。君にとって負担になるなら、遠くから見るだけにとどめておいた方が
……
」
ノエが出した無難な提案を、オデットは首を横に振って拒絶する。
「ごめんなさい、兄さん。兄さんが心配してくれているのは分かっています。でも、わたしは
……
逃げたままでは嫌なんです。司祭様のことが怖いって気持ちが、わたしの昔のことと関係があるのなら、尚更逃げ続けていたら何の解決にもなりません」
強がりだとは、オデットも自覚している。本当は、正体不明の恐怖に自ら飛び込むような真似などしたくない。
けれども、今言ったように、いつまでも目を逸らしてもいられない。教会の者が自分の過去に結びついているのなら、司祭と関わらずに調査を進めるのは不可能だ。
「分かった。でも、無理はしないように。気分が悪くなったら、すぐに離れるからね」
「
……
はい。でも、少しは頑張らせてください」
表情に力を込め、オデットは言う。
このような強情なところは一体誰に似たのやら、などと思いかけ、ノエは苦笑する。どこからどう見てもノエに似たのだろうと、仲間全員から言われる姿を思い描いてしまったからだ。
「美味しいご飯とお話、ありがとうございました。え、と代金は
……
」
店員の女性から、食べ物の代金を聞いていると、オデットが自分の懐から財布を取り出した。
ノエはオデットの分も払うつもりだったが、オデットは自分の食事代は自分で支払う気構えのようだ。
冒険者ギルドに所属するようになってから、財布はある程度共通のものとしているものの、それぞれが手持ちで蓄えている分も随分と増えた。ノエが全て支払っていた時期が、今思えば懐かしくもあるーーそう思った時だった。
「きゃっ」
オデットの小さな悲鳴が響き、彼女の体が傾ぐ。
どうしたのかと振り返ったノエは、オデットの体が何かに突き飛ばされるようにして尻餅を打つ姿を見た。同時に、彼女のそばを駆けていく小柄な影が一つ。
誰かが走ってきて、オデットにぶつかったせいで転んでしまったのだろうと、ノエが彼女に手を差し出した時だった。
「兄さん、わたしの財布が
……
っ!」
オデットが、空っぽになった手を見せる。
彼女の一言と、その様子を見ただけで、何が起きたか一目瞭然だ。オデットの財布を、先ほど駆け抜けていった人物が盗んだのだ。
「僕が追いかける。オデットはここで待っていてくれ! すみません、すぐに戻りますから!」
オデットと女性店員にそれぞれ一言言いのこすと、ノエはすぐに駆け出した。
まだ溶けきっていない雪道を駆け出し、人混みに隠れようと猛スピードで走っていく影を追いかける。
体躯はオデットよりも小柄なので、恐らくは子供だろう。しかし、その足は大人顔負けの速さだ。
ノエ自身の走る速さも冒険者として鍛えてきた分、決して遅くはない。それでも、今この場においては、地の利がものを言った。
「待て! それは、オデットの財布だ! 君が持っていていいものじゃない
……
っ!」
声を張り上げたのは、周りに自分たちの状況を伝えるためだ。予想通り、通りがかった人々は、ノエが追いかけている子供に対して怪訝そうな目を向け始めた。
だが、子供もさることながら。周りが敵になる可能性が見えた瞬間、すぐさま裏路地へと進路を切り替えた。
(あまり入り組んだところに入られてしまったら、見失ってしまう
……
!)
苦々しい気持ちと共に、ノエは裏路地に飛び込む。
右に左にと折れ曲がる通路は複雑で、予想通りすぐに子供の影すら見えなくなってしまう。それでも、足音とわずかな気配を追いかけて走り抜けた先、
「そこか
……
!」
一本道の細い道の向こう、その出口に向かって走っていく子供の背中が見えた。
しかし、ノエと子供の間には、すでにそう簡単には埋められない距離ができている。
このまま逃げ切られてしまうーーそう思った矢先に、子供の目の前に影が立ちはだかる。
「止まりなさい、グレン! 一体、あなたは何をーー」
長身の誰かに一喝され、子供はすぐさまその場で向きを変える。だが、通せんぼした相手に背を向けるのは、すなわちノエと対面することにもなってしまう。
「
……
!」
ノエの脇を擦り抜けようと、子供は決死の覚悟で突っ込んでくる。だが、それを見逃してやるほど、ノエは優しくない。
自分の横を走ろうとした子供の腕をつかみ、彼の疾走を引き止めた。
「乱暴な真似はしないと約束する。でも、君が盗んだものは返してもらう」
ノエが掴んだ腕の向こうーーそこにいた少年は、自分が捕まった側であったにも拘らず、悪びれる様子もなくノエを声もなく睨みつけていた。
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