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西尾六朗
2024-05-18 22:17:55
4123文字
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ぐだ♂マシュのぐだとエドぐだ♀のダンテス
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Killing Time Three Hours①
お互い彼女がだいしゅきなぐだ♂マシュのぐだおくんとエドぐだ♀のダンテスが、男同士で隙間時間にお喋りするシリーズ。
場所はカフェ。
カフェの名称が描かれた硝子越しに、人の波が流れてゆく。
足早に或いは緩慢に、二人で、一人で、それ以上で。それぞれの目的でもって縦横無尽に行く人の群れを、店内のカウンター席に腰掛けた灰の髪の男が眺めている。テーブルの上には中身が半分まで減ったコーヒーカップ、その傍らにはクラフトの紙袋があった。男の視線はすぐに逸れ、硝子の向こうではなく、手元の文庫本へと向けられた。ぱらり。めくる間に一度、下がった丸眼鏡を持ち上げて元の位置に戻す。周囲の喧噪など全く意に介さない、まるで男の周りだけが一枚の布を巡らせ、遮音しているようだった。
その無音のカーテンを揺らす人物がいた。背後から近寄り、カウンターに飲み物を置く。
「目立つなあ、すぐ分かった」
明るい青年の声に、男は紙面から視線を持ち上げた。
短い黒髪に、少し日に焼けた肌。快活な笑顔を浮かべた青年は、気さくな仕草で男に向けて片手を上げる。
「待った?」
「元よりおまえを待っている訳ではない」
「ああ、彼女」
おじゃまします、と隣の席に腰掛けた青年は、ごりごりと音を立てて椅子を寄せると、男の手元を覗き込んだ。
「お、英語?」
「アルファベットの見分けもつかぬのか」
「aの上にチョンがついてるからフランス語だろ。それ?マシュが読みたがってた奴って」
「否、おまえの愛しい後輩の分はそちらだ」
話しかけられることと読書は同時に成立しない。男は息を短く吐くと、橙のブックマーカーを挟み込み本を閉じた。そしてその手
――
黒い手袋に覆われた指先を傍らのクラフトに向ける。青年が中を窺うと、分厚いハードカバーの本が二冊、丁寧に整えて並べてあった。
「希望通り、原版だが」
「サンキュー! マシュは翻訳前のがいいんだってさ。訳者の意図を介さず、まず自分で理解したいって」
「殊勝な心掛けだ。おまえも爪の垢を煎じて飲むがいい」
「難しい日本語知ってんなあ」
「あれに教わった」
男があれ、と口にした時、ふとその唇の端が緩んだことを、青年は見逃さなかった。青い瞳を一つ瞬かせて、自然と頬が緩む。その子どもっぽい笑みのまま、なあんだよ、と、口に出す声は多分なからかいを含んでいた。
「俺、来て早々のろけられた? 嬉しそうな顔してさあ! なになに、他にどんなこと教わった?」
「多弁な男のあしらい方なら心得がある。あれとの関係を揶揄する事が目的であれば、貸本は無しだ。後輩にはおまえが口を滑らせ、希望の物品を得る事が叶わなかったと頭を擦り付けるが良い。床にな」
「ごめんなさい、すいません」
返事の代わりに、男はカップの中身を口に含んだ。
一つ一つの所作が軽やかで、それが故に日本では妙に目立つこの男を、青年はじっと見た。相変わらずのすんとした表情だと感じる。この男が溺愛してやまない彼女というのがどういった人物なのか、未だに青年は把握しかねていた。せいぜいが赤毛らしい、ということくらいだ。それ以上のことを問うとするりと逃げ、偶にこうして会話の端に乗せてくる。
逆に、多弁さ故に青年の事情
――
彼の蔵書を貸してほしいと望んだ後輩、その娘に対して自分が恋心を抱いていること、そして恐らく、うぬぼれではなくお互いに憎からず想っていること、しかしながら最後の一歩が踏み出せないまま、曖昧な先輩と後輩の関係を続け、心地よさと同時に停滞の苦しみに悩んでいる、という全てを男は知っている。何かと知識が豊富な彼に相談することもしばしばだった。
今日とて、本を受け取るついでにその話をしようと青年はもくろんでいる。
尤も、男は青年の恋愛相談の為にわざわざ、駅ビルのただ中にある人の多いカフェに足を運んだりはしない。たまたまここで時間を潰す用事があるというので、その隙間時間に滑り込んだといういきさつだった。
「俺、もうちょっとしたらこの本マシュに届けにいくけど、そっちはどれくらい時間あるんだ?」
青年の問いに、男はちら、と、右腕の銀時計を見やり、
「二時間半程、此処に居る」
「にじかんはん!?」
思わず大声を出した青年を、男と、店員が同時に見た。
青年はあっすいません、スミマセン、と、左右に軽く頭を下げる。それからもう一つ椅子を男に寄せ、訝しいという単語そのものの表情でもって男に問うた。
「え、なんで? 彼女待ってるんじゃないの?」
「そうだ。あれは今、美容院で髪を整えている。三時間ほど必要らしい。女の支度は時間がかかるものだ」
故に此処で待っている、と、男はこともなげに言った。
その表情は珈琲を一口飲み下した時と全く変わらず、青年がぽかんと口をあけている間に、もう一口が追加された。中身は半分以下にまで減っている。その残量であと二時間半、どうやってもたせるというのか。そう青年が呆然と問うと、追加の注文くらいする、と男はむっとした顔で言った。当然だった。
「二時間半、って
……
長くない?」
「一般的には長かろうな」
「あ、じゃあさ、俺と時間つぶす? その辺ぶらつくとか」
「結構だ」
「飯食うってのもいいし」
「済ませた」
すげなく返す男はここで、理解できないという表情を浮かべている青年に向かって、にや、と、口の端を持ち上げる笑みを見せた。
「des minutes de coiffeurという奴だ。俺は此処で待つとも。半ばそれが目的だ」
「意味が分かんない
……
」
青年からすれば、こんな椅子の硬い、人の目の多い場所で二時間以上、目立ちながらじっとしているなどと、まさに狂気の沙汰だった。国内にも外国人が増えて来たとはいえ、いわゆる美丈夫である男は大抵の道行く人間が目を向ける。その上ここは出来たばかりの新しい駅ビルの一階で、正面が大通りになっているので人が集中するのだ。この通りを抜けないと駅にも、繁華街にも、パーキングにも出られない。硝子の向こうにちらと目を向ければ、明らかに人が増えている。昼過ぎでいよいよ混みあう人間の渦、まるで世界は極彩だ。
というようなことを青年が口に出すと、男は癖のある笑い方をひとつ漏らし、やっと首を曲げて青年に向き直った。
「だから良いのだろう。分からんか」
つい、と、黒い指先が窓硝子を指す。煽る形になる顔の角度で、金色の瞳を覆う灰の巻き髪が揺れた。
「通路が正面の一本のみだと、そんな事は見て分かる。その正面に俺は、態々陣を取って待っている」
「そ、そうですね?」
「想像してみるがいい。三時間の経過の末、愛しい女がこの道を通り、此処へ戻ってくる。正面の席だ、直ぐに気が付くだろうさ。瞳は俺を探し、見つけ、笑み、歩む足は駆け足となる。大きく手を振り、時間をかけ整えた髪を揺らし、その愛らしさを一秒でも早く見せんと懸命に駆けて来る。
――
おまえの可愛い後輩がそうするのだと、思い描いた気分はどうだ?」
「めっちゃかわいい」
「分かれば良い」
とん、と、男はさしていた指をカウンターに戻した。
青年はというと、その豊かな説明でもってすっかり、脳内に妄想が出来上がっている。実際に髪を切っているのは男の恋人だ。だが青年の頭ではすっかり、意中の後輩に姿を変えている。
服装は先日着ていたチェックのスカートで、三つ折りのソックスが清楚で似合っていた。眼鏡の向こうの瞳がきらきら輝いて、整えてさらさらになった髪が風に揺れ、もうどこもかしこも眩いばかりの愛らしさ。そんなかわいいの塊が、手を振ってこちらに駆けてくる。せんぱい、と、あの声で呼び、青年だけを見て、人混みの中をまっすぐに
――
「うれしい、かわいい、だいすき
……
」
「歌謡曲だな」
男の冷静な相槌も、感嘆の余り両手で顔を覆った青年には届かなかった。
「え、そんな高度な楽しみ方してる? 普段から? これが恋愛のエキスパート?」
「別段俺は玄人ではない。おまえは素人なのだろうが」
「今までめんつゆでしか食べたことなかった天ぷらを抹茶塩で食べたみたいな衝撃だよ
……
えっそんな食べ方? 俺しらないよ? そんな工夫が?」
「仏人に理解出来る例えをしろ」
「ボンジュール
……
」
「もう良い」
軽く手を振り、男は瞑目した。
「そういった理由で、俺に離席する理由はない。おまえが居座るというのならば自由だが、堂々巡りの相談事をするのであれば日を改めるが良い。いつあれが戻るとも限らん」
「や、や、そーゆーことならお暇します。邪魔しちゃ悪いや」
まだろくに口をつけていないアイスカフェラテのテイクアウトを手に、青年はそそくさと椅子から立った。正直、時間がそこまであるのだったら相談に乗って欲しかったが、今男が類を見ない楽しみ方で時間を潰していることくらいは理解できる。文庫本片手にちびちびと珈琲を舐めながら、今かと恋人の帰還を待っているのだ。居座るだなんて、それこそ邪魔者以外の何物でもない。
テーブルの紙袋をしっかと受け取ると、思いがけない重さだった。勉強家の後輩はこれを、一文字も流し読みせずに読破するのだろう。えらいと思う。彼女に恥じない男になりたいとも、強く思う。
だけれど今は、勉強に対する姿勢を改めるよりも、確認したいことがあった。
それは、椅子から立ち上がった青年にちらとも視線を向けず、片手を上げて別れの挨拶をする男に向けて
――
「
……
今度俺も、おんなじことしてみても良い?」
後輩との待ち合わせに早く来て、待つことと、再会の瞬間を味わうその高度な大人の楽しみ方を。
我ながら照れ臭いという感情で、ばつが悪く頬を掻く青年に、男はまた、癖のある笑いを一つ向けた。それから唇の両端を持ち上げ目を細める、あまりお目にかかれない痛快そうな表情でもって、
「好きにするが良い」
そう、肯定を寄越した。
照れ笑いを返した青年がじゃあまた、と手を振った時には、既に男の視線は文庫本の紙面に戻っている。
五分に一度、上目に硝子を窺う金色が蜂蜜色と出会うのは二時間半後。目論見どおりの愛らしい姿をしっかと両目で捕らえるのは、正確には、二時間と四十五分後のことだった。
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