海が近くて、のんびりしていて。少し鄙びて、人も野良猫さえもどこか呑気で。背の低い山は海に迫っているが、陽光は極めて明るい。波は少し荒いように感じるが、長谷津の海が穏やかなのだと言った方が良いのだろう。
さすがに日本でも都会だったらヴィクトルを見咎める人もいたとだろう。だが、観光客の風情を感じる通行人でもヴィクトルを気にも留めていないようだった。
夫婦連れ、ツーリングらしき出で立ちの男性一人客、ハイキングのような服装のハイマダム2人連れ…。
ここかな、とスマートフォンをのぞきながら入っていく人、まだアップルパイ残ってるかなと話しながら入っていく人、寡黙ながら後から入る誰かのためにドアを開けて待つ人──…少しだけ新緑より濃くなった緑とありふれた民家の中、唐突に少しおとぎ話めいた古民家然とした建物が現れる。
ここ?
とヴィクトルは自分の少し前を歩く勇利をのぞきこむ。勇利は眼鏡の奥で瞬きして、たぶん、のかわりに頷く。彼もまたスマートフォンの画面を開いていて、そこに映る写真と目の前の建物を2回ほど見比べる。
「入ろ」
にこりと笑って言われ、ヴィクトルもつられたように笑った。
ミナコの交友関係は広いが、それにしても彼女の本業のどれともそこまで近しくない業態を最初不思議に思いもした。しかし、カウンターの向こう、にこにこと豆の話をする男はかつて食品の輸入に関する仕事をしていたとかで、その中でミナコとの共通の知人を介して知り合ったとのことだった。
「…東京だと彼はとても目立ってしまうんですけど」
勇利の隣で今は大人しくコーヒーを楽しんでいるヴィクトルを示し、勇利は肩をすくめた。涼しく爽やかな風を運んでくる窓の向こう、緑をちぎって揺らす光の粒子へやっていた視線をヴィクトルは隣へ戻す。日本語だったし名前を呼ばれたわけでもないが、自分のことを話していると察したらしい。
「そうですねぇ、とてもきれいな方ですもんね」
五十代くらいだろうか? 鷹揚に笑うマスターは実にほのぼのとした顔をしており、店内に流れるやわらかな雰囲気が彼の気質に依るものなのだろうとすぐにわかる。
「この辺の人も驚きはするでしょうけど…、騒ぎはしないかもしれないですね」
あっけらかんとしてますからね、とマスターが笑う。
ミナコから、東京行くならちょっと足伸ばして見てきてくれない? と言われた海から近い自家焙煎のカフェ。ミナコがなぜそんなことを言ったのか謎だったが、勇利とヴィクトルのためになると彼女は思ったのだろう。
──聞いたところで素直に教えてくれるとも思えないが。
「Coffee、オイシ、デス」
にこ、とヴィクトルは笑う。マスターは目を丸くした後、照れたようにはにかんで頬をかいた。人のよさがにじみ出ている。
「レモンケーキはいかがですか」
「フク……、オイシデス」
マスターは瞬きした後、ありがとうございます、と丁寧に礼を述べた。
そうして、ヴィクトルと勇利のふたりはゆっくりコーヒーと甘味を味わう。葉擦れの音、鳥の声、時々通る車の音…。あまりにも時がゆっくりと流れる。ひとつの窓辺では、女性客が時々コーヒーを飲みながら刺繍をしていた。
ヴィクトルは目を細めるようにしてその光景を瞼に焼き付ける。勇利は古い大きな梁や、壁に飾られた絵、古い照明を順に見る。
「勇利」
「ん?」
お互い心地の良い沈黙に包まれる中、ヴィクトルがひそめた声で呼びかける。ぱち、とまつげをふるわせ勇利は隣を見る。ヴィクトルは真面目な顔で、コーヒーおかわりしてもいいかな? と聞いてきた。
「は……、」
予想外のことに勇利は瞬きし、それから笑いをこらえるように肩を震わせた。
「…もちろん、いいよ」
勇利の返答に、ヴィクトルはパッと顔をほころばせた。素朴な笑みだった。
思いの外のんびりしてしまった、と思ってもまだ日は高く、休日は続く。会計を終え外に出る時、マスターはしっかりとヴィクトルを見つめ、スパシーバ、確かにそう言った。ヴィクトルもその時ばかりは驚いて目を見開いたが、マスターは相変わらず優しいまなざしでニコニコ笑っているだけだった。
高く旋回するトンビを見上げながらヴィクトルはぽつんと言った。
「俺達も、あんな風に人を迎えたり、送り出したり…そういうこと、したいな」
勇利はすぐには答えず、あそこ鳥柱立ってる、と海を見つめながら言った。
ヴィクトルは勇利の言葉を待つ。波の音がリズミカルに繰り返されている…。
「──喫茶アマナツ」
「え?」
いたずらっぽく笑って振り返ると、勇利はこう続けたものだ。
「メニュー考えなくっちゃね」
「…………、うん」
勇利がごく自然に答えてくれたことが嬉しくて、幸せで…、大きく頷いたヴィクトルの目尻には少しだけ光るものがあった。
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