意識のないジルの身体を、ぎゅうと抱きしめる。復讐のためにここで死ねないと頭の片隅で誰かが囁くが、かといってここでジルを失うのも同じくらいに耐えられなかった。
背後から、鉄王国の兵士たちが近付いてくる。俺はどうなってもいい。せめて、せめてジルだけは助けられないか。けれどこの大軍を相手に一人でどうにかなるはずがない。どうして俺はこんなに無力なのか。力があればジョシュアを守れたかもしれない。今だってジルを逃がせたかもしれないのに、俺のせいで、俺が、どうして。どうして……!
思考につられて世界が回る。自分が粉々に砕かれて撹拌されるような感覚。彼我の境界すら曖昧になろうとした刹那、確かに聞いた。ミュトス、と呼ぶ声を。
背後からぐあ、とかぎゃあ、とか悲鳴が聞こえてきて一瞬で現実に引き戻される。振り下ろされるはずの凶器も一向に身体に突き立てられる気配がないので恐る恐る振り向いて様子を伺う。
「っ、な、」
死体があった。どれもこれも、全身に白と黒の羽が無数に突き刺さっている。それと同じ白と黒の羽が一対ずつ己の背中に浮かんでいて、この惨状は己が作り出したのだと否が応でも理解する。何だこれは。何だこの羽は。こんな恐ろしい力、フェニックスの……祝福のものではない。
己の中に得体の知れない力があると分かった途端、腕の中にジルがいるのが恐ろしくなった。彼女を、彼女まで傷付けてしまったら、俺は。
ジルをそっと地面に横たえ、決して背を向けないように後ずさる。彼女の姿が見えなくなってからは無我夢中で走った。行く宛は無い。目的も。強いて言うなら死にたかった。けれど体に剣を突き立てようにも羽が剣のほうを砕くし、崖から落ちようにも羽の力で浮く始末。己の身体が己の意のままにならないことに混乱してめちゃくちゃに駆ける。途中そこかしこで出会った残党を、勝手に羽が殺しながら。
*****
「なんとも無様なことだ」
どのぐらいそうしていたのだろう。不意に降ってきた声に思わず足を止める。止めざるを得ないような威圧感のある声だった。黒髪に髭を貯えた男は、つい先刻までここは戦場だったにも関わらず軽装だ。剣すら佩いていない。
男が無言で宙に手を翳す。掌に昏い闇の力が集まり何かしらの形を成していき、それが歪な形をした一振りの剣であると気付いた時にはもう全身が切り裂かれていた。痛みすら追い付かず、地に倒れ伏してからようやっと喉が悲鳴を絞り出す。
ベアラーの力ではない。ではドミナント?闇の力を扱うドミナント、そこまで考えてこの男が己の目の前にいることの異常さに気付く。
(ウォールードの国王が、何故こんなところに)
オーディンのドミナント、建国の英雄、不老の騎士王───バルナバス・ザルム。一国の国王が、戦の終わった戦場に何の用があるというのか。
バルナバスの黒い靴が喉元を踏み躙る。本気で潰す気では無いようだが呼吸が絞られて苦しい。思い通りにならない腕を必死で動かして男の足首を掴み退けようとするがびくともしない。息が出来ず意識が飛びかける段になってようやっと足がどかされた。
「御方から力を賜りながら錯乱するなどと」
散った白い羽を拾い上げ、そっと口付ける。足の甲にでもするような恭しさで。
「ああ我が尊き神よ、感謝いたします。御身の器を磨く大役をお任せ頂いたことを」
先程の暴力的な振る舞いからは打って変わって唄うように、朗々と。その落差に狂気を感じずにはいられない。無意識に身体が逃げを打つが、それよりも早く男の足が胸を踏み付けた。標本の蝶を縫い留めるような容赦のなさで。
「う、ぐっ」
呻く間にまた蹴られてうつ伏せに転がされる。
「スレイプニル」
「承知いたしました」
配下と思しき白い神の男は名を呼ばれただけで主の意図を十全に理解したらしく枷を手に近付いてくる。しかもただの枷ではない、懲罰で何度か見たことがある……クリスタルの枷だ。
「っ、やめ」
「はいはい、無駄ですよ」
這って逃げようとする手を掬われるようにして後ろ手に枷を嵌められる。頭の天辺から足の先まで痛みと脱力感が駆け抜けて最早顔も上げていられない。
「なに、を……するつもりだ……」
切り裂かれた身体は酷く痛むが致命傷ではない。殺すつもりならあの一撃で仕留めていたはずだ。
「我が神の望みはお前の自我を削ぎ、クライヴ・ロズフィールドという個を殺すこと」
言っていることはよく分からないが、その死が俺の望むものではないだろうことは確かだった。いやだ、と呟くとバルナバスは笑った。駄々をこねる子供を宥めるように。
「己が役目に従順であればお前にも救いが齎されよう」
「救いなんていらない、早く、はやくころしてくれ……」
ジョシュアを守れなかった俺に救いなどあっていいはずがない。ましてやつい先刻ジルのことも殺しかけたばかりなのに。
「これは手が掛かりそうだ」
溜息とともにバルナバスが俺の髪を掴む。無理な体勢で頭が持ち上げられて体が軋むがそんなことは露ほども気にしていないようだった。温度のない低く軋んだ声が耳に流し込まれる。
「よくよく躾けてくれよう。お前が自身の役目を理解するまでな」
バルナバスが一瞥するだけで線が細い印象を受けるのに白い髪の男は軽々と自分を担ぎ上げた。行く先が処刑台ならいいのにと背に揺られながら叶わない夢を見る。霞む視界の中で、もう二度と目覚めないことを願った。
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