オデットには、ノエと出会うまでの記憶がない。近頃は、夢という形で断片的に思い出しかけている部分もあるが、それはあくまで客観的なもので、あたかも記憶という本を読んでいるような形であり、実感を伴ったものではなかった。
それゆえに、時折ではあるがm彼女の中の常識と周りの者の常識がズレるときがある。その最たるものが、宗教的存在への考え方だ。
エオルゼアで信奉されている十二の神。ならびに、グリダニアでは生活にも関わっていた精霊への信仰。それすらも、オデットは『何やら遠い存在』としか捉えられていなかった。まして、イシュガルドの国教であるイシュガルド聖教のことなど、当然ながら彼女は知る由もない。
そんな彼女であっても、さすがに皇都が誇るイシュガルド聖教の教会を目にしたときは、目を丸くしていた。まさに『おのぼりさん』の表情で、その場に立ち尽くし、口をぽかんと開けていたほどだ。
「すごい……。こんな建物が、イシュガルドにはあるんですね」
「遠くから見ても荘厳だったけれど、近くに見ると尚のこと素晴らしいね。僕もここまで大きな教会を見たのは初めてだよ」
たとえ文字が読めないものであっても、ステンドグラスに描かれた戦神ハルオーネの勇猛な姿は誰であろうと畏敬の念を抱かせるだろう。同様に、ノエの知る教会には、ドラゴンに立ち向かう騎士を描くステンドグラスが嵌められていた。
荘厳な様式の建物と、そこに描かれた壮麗な図は、万の言葉で綴られた聖典よりも一層雄弁に人の心に働きかけるのだろう。
「中にも入れるようだし、行ってみようか」
「はい。きっと、中も綺麗なのでしょうね」
オデットの記憶の手がかりを探すためという名目こそあるものの、二人とも気分はすっかり観光客の一人だ
もっとも、建物の中にはノエたちのように皇都の外から礼拝に赴いている者もいるようで、キョロキョロとしているオデットもそこまで悪目立ちはしていなかった。
「何だか、お話するのも遠慮したくなるような空気ですね……」
「ここは教会の中だからね。静かに見て回ろうか」
ノエは口元に人差し指を立てて、しーっと静寂を促す。オデットも口元をミトンで覆われた手で隠し、神妙な面持ちでこくこくと首を縦に振った。
ノエたちが足を踏み入れた教会は、礼拝堂とその他の施設を併設した建物だったらしい。よくよく周りの話を聞いてみると、入り口から続く通路より、併設している神学院の中に入れるようだ。
(さっきの学生は、この神学院の生徒だったのかな)
神学院に通うともなれば、卒業後、司祭になる場合が多いのだろう。彼が聖典の記述にこだわりを見せていたのも、そのような理由があったからかもしれない。
足を一つ踏み出すだけでも、磨かれた石造りの床は靴音を高く響かせる。静謐な空間の只中では、自分の足音すらも妙に気になってしまい、ノエはいつもよりも慎重な足運びで奥へと踏み入っていった。
オデットはというと、自分の記憶探しのこともすっかり忘れて、飾られているステンドグラスに釘付けになっている。色とりどりの硝子を使って作られた絵画のような一枚もあれば、一転して抽象画のような一枚も飾られている。イシュガルドは常にドラゴン族の脅威に晒されている国ではあるが、文化面の発達が疎かになっているわけではないようだ。
(僕は、いまだにここを故郷だと思えないけれど……でも、イシュガルドがドラゴン族との戦いだけに沈んでいる国じゃなくてよかった)
自分を異端者だと糾弾したイシュガルド聖教ではあるが、ノエは聖教の教えや、聖教が育んだ文化を疎む気持ちはなかった。
綺麗なステンドグラスは素直に美しいと感じるし、勇壮な騎士の像を見れば心が奮い立つ。その自然な情動を、ノエは自分のものとしてありのままに受け止めていた。父への反発は依然としてあるものの、国そのものを嫌ったり疎んだりする必要はない。今は、そう感じる自分の心を素直に受け入れていたかった。
「兄さん。あちらの扉の向こうには、何があるのでしょう」
「あっちは礼拝堂があるみたいだね。一般の方々も入れるみたいだ」
立ち入りが制限されている神学院とは異なり、礼拝堂は祈りを捧げにきた多くの人々のために解放されていた。入り口の周りには司祭の姿は見られなかったので、オデットの記憶の手がかりに問うことはできなかったが、さすがに礼拝堂にはいるだろう。
一縷の期待を超えて、ノエはオデットと共にそちらに足を向ける。
両開きの大きな木戸を開き、中に足を踏み入れた瞬間。
「……すごい」
思わず、ノエの唇から感嘆が漏れた。
木戸の向こうにあったのは、整然と並ぶ横長の椅子の数々。木製のそれらが少しの乱れもなく並んでいる姿は、整列した騎士のそれに似ていて、圧巻の一言に尽きる。
圧倒されたのはそれだけではない。
灰色の石壁を照らし上げている、優美な装飾が施された燭台の数々。自然と居住いを正したくなるような、香炉から漂う香り。そして、何よりもーー奥に屹立する戦女神の像。
(ハルオーネ様……)
高い天井にまで届きそうなほどの巨大な槍を携え、盾に手を添えた勇壮な女騎士の銅像。それこそが、ノエの心に長らく眠っていた戦神への畏敬の念を励起させていた。幼い頃は、母や使用人と共に騎士の無事を祈り、戦女神へ祈りを捧げたものだ。
オデットはこの像を見て、どんな感想を持つのだろう。そう思って、ノエが彼女に視線をやったときだった。
「ーーハルオーネ、さま」
少女の唇は、誰に言われずとも目の前の女神の名を口にしていた。
しかも、それはただ名を呼んでいるのではない。そこに込められた畏敬の念は、長く祈りを捧げた者だけが得られる習慣的に染みついたものだった。
「……オデット?」
「ハルオーネ様。どうか、わたしたちをお守りください。悪しき竜に負けない勇気をお授けください。そして、どうかーー」
うわごとのような祈りの言葉に、ノエが目を見開く。ノエの驚きをよそに、オデットは結びの言葉を口にした。
「どうか、お兄ちゃんを……氷天の座にお招きください」
今まで何度も繰り返してきたのが分かるほどに、つっかえもなければ、言い淀む部分もない。それは、彼女が日常的に繰り返してきた言葉だと分かるほどに流暢な祈りだった。
けれども、ノエは彼女が戦神に向けてそのような祈りを捧げた場面を見たことがない。
食卓で祈りを捧げるときですら、オデットはノエの後を追うような簡素な祈りしか捧げていない。
「オデット、今のは……?」
ノエの問いに、ようやくオデットは我に返る。自分で自分の言葉に驚いたかのように、彼女は息を呑んで自らの口を手で覆い、
「わたし、今、何を……。兄さん、わたし、今何を言っていたんですか。わたし、どうしてあのような祈りを……」
オデットは頭に手をやり、体を小刻みに震わせていた。まるで、自分の知らない何かが勝手に自分の口を使って話しているかのような違和感が、彼女の体をじわじわと侵食し始めていた。
「オデット。空いている席があるから、一度座ろうか」
自分の口から勝手に飛び出してきた祈りの言葉に、オデット自身がひどく動揺していると察して、ノエは彼女を礼拝堂の端にある椅子へと座らせる。
先ほどまでステンドグラスを見て喜んでいた様子から一転、オデットの顔は外の曇天よりも尚暗く沈んでいた。
「兄さん。わたし、知らないはずなんです……。でも、分かるんです。知っているんです。こんな風に、祈りを捧げたことがあるって……。だけど、わたし」
「うん。とりあえず、一度落ち着こうか。オデット、深呼吸はできるかい」
いつもよりも声のスピードを落として、ノエはオデットに深く呼吸するように促す。
彼女の息のお手本であるかのように、自分も意識して息を吸い、吐き出す。何度かそれを繰り返しているうちに、オデットの口から溢れていたとめどない言葉の羅列はゆっくりと収まり始めた。
「……わたし、あんな祈りの言葉を口にしたこと、今まで一度もありませんでした。でも、あの石像を見た時に、すぐにハルオーネ様だってわかったんです」
ノエは相槌を打ち、静かに言葉の続きを待つ。
「そしたら、自然に言葉が溢れ出ていて……まるで、兄さんと食事の前にお祈りするときみたいに、こうするのが当たり前だって思って、気がついたらあんな風に祈っていたんです。わたし、あのような形でハルオーネ様に祈ったことはなかったはずなのに」
「きっと、それは……記憶を失う前は習慣だったことなんじゃないか」
ノエの推測を、オデットは否定できなかった。なぜなら、自然に言葉が溢れ出てくると同時に、その祈りを捧げている自分の心に偽りがないと己自身で分かっていたからだ。
今まで、記憶を思い出してもオデットはあくまで客観的にそれを観察している自分を自覚していた。だから、過去の記憶と今の自分の記憶を切り分けられた。今の自分に軸を置くことで、彼女は自身の安寧を保っていた。
自分の中には、確かにハルオーネ様に祈りを捧げたいと願う気持ちがある。ただ、あまりにしかし、先ほどの祈りは違う。オデットは、心の底から湧き上がるハルオーネへの畏敬の念と、何者かの無事を祈る気持ちを抱いた上で祈りを捧げていた。
心も体も先走りすぎていて、自覚の方が追いついてくれない。どうしてこんな気持ちが湧き上がるのかという理屈が、いまだにぼやけている。しかし、祈りをした場面の記憶が何もかもが失われているというわけでもなかった。
「何か、祈りがきっかけで思い出せたことはあるだろうか」
「すごく……曖昧なことですけれど。わたし、こういう場所でよく祈っていたような気がするんです。祈る時はいつも誰かがそばにいてくれて……それも一人じゃなくて、違う人がそばにいたような気もするんです」
それはまるで、一度見た覚えのある本の中身をふと思い出したときのような感覚に近かった。あるいは、どこに置いたか覚えがないものが、何気なく開いた引出しの中から出てきて、ああそういえばここに仕舞ったんだと記憶が蘇ってくるような感覚とも似ている。
だが、それは決して自然に受け入れられる『思い出し』ではなかった。
「……兄さん」
思わず、オデットは傍らにいたノエの手を握る。
オデットにとって思い出した内容は、単なる忘れ物とは段違いの重さがある。ほんの数分前まで自分の中に眠っていることすら知らなかった記憶が、今はごく当たり前の『過去にあったこと』として根付いている。
それが『思い出す』ということであるのは分かっているのに、この不可逆の変化はオデットにとっては不安の種としかならなかった。
「わたし、少し……昔のことを思い出せたのかもしれません。夢の中で見てるのと違って、この言葉は……この気持ちは、自分のものだって分かるんです。でも」
ノエの手を掴む指に力が籠る。そんなに力を入れてはノエが痛いかもしれない、などと考える余裕は、今の彼女にはない。
「でも、わたし、もう思い出す前のわたしじゃ……なくなってしまっている」
思い出したくなかったと思ったところで、記憶を衣服のように取り外すことはできない。思い出すことは、今のオデットにとっては自分を内側からどんどん勝手に作り変えられてしまうようなものだ。
「……オデット」
「わたし、どうなってしまうんでしょう。全部思い出せたとして、わたしはちゃんとわたしのままでいられるんですか」
以前、母のことを自分のこととして受け入れられなかったときや、記憶を取り戻すことでノエの態度が変わったときには、ここまでの不安は覚えなかった。
記憶を取り戻したくないという気持ちこそあれど、それはノエとの関係性が変わってしまうと思ったからこそだ。
だが、今回は違う。ノエは変わらずにいてくれたとしても、勝手に変わっていくのは自分のほうだ。
「たとえ、オデットが昔のことを思い出して僕のことが嫌いになってしまったとしても、僕が君を大事に思う気持ちは変わらない。それだけは絶対に揺るがない」
礼拝をしている人の邪魔にならないように、極力声を潜めながらも、ノエは言う。
震えたままのオデットの頭に手をやり、俯いている彼女を自分の胸へと抱き寄せながら、
「オデットが昔のことを思い出しても、君の中のこれまでが全部消えるわけじゃない。君は僕に出会ったときから心優しい人だった。そのオデットが、いなくなるわけじゃない」
少女がいまだに震えたままであるのを感じながら、ノエは静かに続ける。
「何かが変わってしまうとしても、全てが消えるわけじゃない。僕は、そう信じてるよ」
「……わたしは、兄さんが一番のわたしのままでいたいんです」
「僕は二番でも三番でも構わない……と言いたいんだけど、やっぱり君にとってかけがえのない人ではありたい。そして、オデットが昔のことを思い出したぐらいで、僕のことを急に嫌いになったりはしないと信じている。未来の君は、今の君が嫌がることはしないはずだって、前にも話しただろう?」
ノエがそう言っている間に、彼女の中から少しずつ震えが消えていく。
代わりに、春の吐息のような小さな笑い声が彼の腕の中から響いた。
「オデット……?」
ゆっくりとノエの体から自分を引き剥がし、オデットは彼へと笑いかけてみせる。まだまだぎこちなさは残るものの、自分の中にある温かい願いに従って。
「わたしのことなのに、わたしよりも兄さんの方が確信を持っているみたいで……なんだか、おかしくなっちゃったんです」
本心から笑える気分ではなかった。それでも、ノエがオデットという少女を愛しんでくれる今が、オデットには嬉しかった。
「兄さんの中のわたしは、そんなにも兄さんのことが大好きな子なんですね」
「あ……ええっと、オデットが僕のことばかり考えているって思っているわけじゃない……つもりなんだけど」
「いいんです。ほとんど正解だと思いますから」
ノエの言うように、思い出した記憶と同じくらい、ノエを愛おしいと思う感情は強くて大きい。オデットにとって大事なのは、自分の気持ちだ。そして、その気持ちさえあれば、何を思い出しても乗り越えられるように思えた。少なくとも、今は。
「全部思い出せて、嫌なことがあったり、兄さんのことがちょっと嫌いになるようなことがあっても、やっぱりわたしの中にある兄さんへの『大好き』の方が強いんです。……今のそういう自分を、わたしは信じていたいんです」
今度は縋りつくのではなく、決意を示すためにノエの手を握る。ノエも、彼女の決意に応えるために、自分の指で少女の指を覆ってやる。
微かに聞こえる祈りを捧げる声と、彼らを包む礼拝堂の香の薫り。それらに包まれて、オデットがようやく心に落ち着きを取り戻した時だった。
「失礼します。先ほど、そちらのお嬢さんが酷く取り乱されていたようでしたが、大丈夫ですか」
ノエたちの座っていた椅子を通りがかった老齢の司祭が、ノエへと話しかける。礼拝堂に入った直後のオデットの様子を目にして、様子が気になってやって来たのだろう。
「ご心配おかけしました。少し、事情がありまして……でも、今は平気です」
「……そうでしょうか。何やら、そちらのお嬢さんの顔色がひどく悪くなっているようですが」
「え?」
数秒前のやり取りから、オデットはもう大丈夫だと確信した矢先であったというのに、司祭は眉を寄せて気遣わしげにこちらを見ている。一体、オデットのどこを見てそんなことを言っているのかと、ノエはオデットの方に向き直り、
「オデット……?」
彼もまた気がつく。つい先程まで、花が綻ぶような微笑を浮かべていた少女が、凍りついたように目を見開き、何かを食い入るように見つめていることに。
そこに浮かんでいる感情の意味を、ノエはすぐに察した。なぜなら、この表情をノエは向けられたことがあったからだ。
「オデット、大丈夫か」
オデットに初めて出会ったとき、彼女はノエが近づくだけで恐怖に体を固め、逃げ出そうとした。それからも、彼女は自分より大柄な男性が近づくと、体をこわばらせる素振りを見せていた。
だが、それも時を経ていくにつれて、次第に落ち着きを見せるようになっていた。先だっての騒動で出会ったティエリーという青年と話すときも、彼女は特段の怯えも見せずに応対していた。
だから、彼女の男性に対する無意識の恐怖は落ち着きを見せていたと思っていたのだが。
「やはり具合が悪いのではありませんか。もしよければーー」
「……い、いや。やめて……来ないで!!」
「オデット!?」
ノエの驚きの声など、オデットの耳には入っていないようだった。
司祭が一歩二人に近づいた瞬間、彼女は椅子から立ち上がり、司祭からできる限り離れようと身を引いた。立ち上がってもその場を去らなかったのは、彼女の足が震えてしまっているからだ。
「オデット、落ち着くんだ。この人は、オデットのことを心配してーー」
「や、やめて! 近づかないで! わたしに、触らないで……!!」
ノエの声など耳を貸さずに、オデットは更に数歩後ろへと後ずさろうとした。だが、震えもおさまらないうちに後退したのが良くなかった。
「オデット!!」
少女の体は、バランスを崩して後ろに倒れこむ。ガタン、と椅子に激しく体をぶつけた音が響き、物音を聞いて何事かと様子を見守っていた人々から小さな悲鳴が上がる。
だが、彼らの視線などノエの目には入っていない。椅子に体をぶつけ、そのまま床に倒れてしまった少女を抱え上げ、その顔の青さにゾッとした。
「オデット。僕の声が聞こえるか、オデット!」
「若者よ。事情はわかりませんが、今はまず、あなたが落ち着きなさい」
動揺で頭が染まっていたノエは、司祭のしわがれた年を重ねた声を聞いて、ようやく我にかえる。一度自身の呼吸に意識を集中させ、焦りに埋まりかけていた思考を冷静になるまで引き戻す。
「……オデット、意識はあるか? オデット」
先ほどよりも彼女の声に聞き取りやすいように、ゆっくりと深く響く声で問いかけてみる。だが、ノエの腕の中の彼女は目を瞑ったまま、ぴくりともしてくれない。
「まさか、さっき転んだ時に頭を打ったんじゃ……」
「見たところ、出血はないようです。ただ、万一のこともあります。念のため、救護室で休めるように手配させましょう」
オデットとノエの様子を見守っていた司祭は、すぐに近くにいた若い司祭に声をかけてくれた。オデットが休めるように、部屋を用意させてくれたようだ。
「オデット。一体どうして急に……」
彼女の体に温もりはある。より強く抱き寄せれば、彼女の吐息や鼓動がノエの体にも響いてくる。厚手の防寒具越しではあるが、彼女の命にまで及ぶ何かがあったわけではなさそうだ。
「救護室の準備ができたようだ。まずは、その子を休ませよう。いいですね」
司祭に呼びかけられ、ノエは一度頷き、オデットを横抱きにして立ち上がった。
***
「……そうですか。イシュガルドには、ご家族を探しに」
「はい。ただ、本人が詳しいことは覚えてないというので……」
赤々と燃え上がる暖炉の炎に照らされた部屋に、ノエと老司祭の声が響く。
救護室は病人向けに整えられただけあって、室温も高く、防寒着の必要は全く無かった。
いくつか置かれたベッドの一つには、オデットが横たわっている。先だっての狂乱の後、彼女は意識を失い、そのまま眠り続けていた。
ノエは司祭に案内されるままに、彼女を休ませると、オデットの事情をかいつまんで説明していた。どちらにせよ、オデットの過去を知る司祭がいないか尋ねようと思っていたので、こちらの事情を打ち明けたほうが話が早く進むと判断したのだ。
幼い頃に別れ別れになった家族を探しているが、あまりに小さい頃に別れたためにイシュガルドで過ごした時の記憶すら曖昧になっている。しかも、どうやらただの忘却とも事情が異なるらしい。ノエは、司祭にそのように話していた。
全てを説明することは、オデットの身の安全のために避けたが、掻い摘んだ話だけでも司祭は興味を持ってくれたようだった。
「彼女が思い出した記憶を聞く限り、どうやら彼女は教会が主導していた復興事業に従事していたようなのです。その当時のことを知っている司祭様は、こちらにいないでしょうか」
ノエがそう尋ねた瞬間、明らかに老司祭の顔が曇った。触れられたくない部分に踏み込まれたと感じているのは、その苦々しい顔を見れば明らかだ。
「……残念ですが、当時の事を知るものは少なくなっています。皇都に在籍している者の中には居なかったように思います」
「そう……ですか」
「それに、その顔を見る限りすでにご存知かと思いますが、あの計画は到底褒められた内容のものではありませんでした。お題目こそ立派でしたが、実情は教会の腐敗した一部の層が、己の欲のために利益を求めて行なったこと。教皇様も、あの件に関しては厳しい処分を下しておられました」
教会の最高権力者の膝下で、教会の権威を貶めるようなことをしていたのだ。
聖教会の教皇は、着任してから何十年も過ぎているというわけではない。自身を侮ってそのような真似をしたと、そう感じたのかもしれないと老司祭は語った。
「では、その処分によって関係者は……処断を受けたのですか」
言葉こそぼかしたものの、ノエは彼らが処刑されて、すでにこの世にいないのかと尋ねた。だが、老司祭はゆっくりと首を横に振る。
「証拠が不十分だったものや、後ろ盾のあったものは横領した金を返却し、賠償金として袖の下を加えることで難を逃れたとも聞いています。犠牲になった方々のことを思えば、到底許せることではないのですが……」
老司祭は痛ましいものを見るかのように、眠り続けているオデットへと視線をやり、
「当時、事業のために集められた人々の生活はそれは酷いものだったそうです。住環境はもちろんのこと、管理していた司祭の中には、行き場のない彼らを己の欲望の捌け口にしていた者もいたと聞いています。報告を聞いて、教皇様は大変お怒りでした。調査をしていた者も、声を失っていたそうです」
慈悲深く禁欲な生活を送っていると思われる司祭ではあるが、彼らとて人間だ。暴力的な衝動に駆られることもあれば、私利私欲に走ることもある。そして、それらの衝動をぶつける相手に弱者を選ぶのは、彼らにとって容易い選択だったことだろう。
「……っ、オデットが司祭様を怖がっていたのはもしかして」
「恐らくは、私が司祭の装いをしていたからではないでしょうか。小さい頃の話であることを踏まえても、あやふやな記憶の部分が多いというお話でしたが、無意識に忘れようとしている部分があるからこそ、記憶が欠落しているのかもしれません」
司祭には、オデットの記憶はあくまで断片的に損なわれていると説明している。
だが、そうであったとしても空白ができてもおかしくないと司祭が判断するほどに、当時の状況は劣悪なものだったようだ。
眠り続けるオデットのそばに腰掛けていたノエは、彼女の手に自分の手を重ね、小さく力を込める。過去の彼女を救うことはできないとわかっていても、せめて失われた記憶の中にいる彼女に届いたらと願って。
「……では、たとえ当時の関係者を知ったとしても、彼女を会わせないほうが良さそうですね」
「ええ、そうですね。それに、もし望んでいたとしても、関係者に会うのは難しいでしょう」
「そうなのですか? 先ほど処分を免れた者がいると話していましたが」
すると、老司祭は周りに人がいないのを確かめてから、声を潜め、
「……実は、どうやらその処分を免れた者たちが相次いで不審な死を遂げているのです」
「それは……偶然というわけではなく?」
「恐らくは。もちろん、お年を召された方も多いので、病気や老いにより亡くなられた方もいます。中には、ドラゴン族の襲撃を受けて亡くなられた方も。ですが……死亡理由が不自然な方もいるのです」
当時の関係者の多くは、命こそ奪われずに済んだものの、さすがに教会の表舞台に再度立つことは許されなかった。その者の多くは、皇都から離れた領地の教会に派遣されていた。表向きは配属の変更となっているが、事実上の左遷だ。
そうして辺境で細々と暮らしていたはずの司祭たちの中の何人かが、賊に襲われたり、教会内での事故という形で死亡しているーーそのように、老司祭はノエへと説明した。
「一人や二人なら、そのような不幸な事故もあると思います。で私は個人的に彼らの動向が気になって、左遷後の様子も定期的に調べているのですが……あまりにその数が多いように思うのです」
「意図的に、彼らを狙っている者がいる。そういうことですか」
「はい。無論、これも推測に過ぎませんが。中には、それらの因果関係を知り、当時の犠牲者の呪いだという噂も流れているほどです。真偽のほどはさておき、当時を知る者が関係者を手にかけている可能性は視野に入れておくべきでしょう」
老司祭は、眠り続けているオデットを見やる。もし、襲撃者が当時の計画に関わっていた者を全て葬るつもりなら、その対象にオデットも含まれる可能性がある。老司祭はそのことを示唆しているのだとは、ノエにも十分に伝わっていた。
「ご助言ありがとうございます。イシュガルド内で行動するときは、彼女の安全に気をつけるようにします」
一礼をしてから、ノエは気にかかっていたもう一つの事柄について尋ねる。
「あの、その事業に携わっていたという、ミラベルという司祭をご存知ありませんか。もし知っているのなら、彼女がどのような立ち位置にいたのか教えてもらいたいのです」
ノエが知っている情報では、ミラベルはあくまで事業の関係者であるという点に過ぎない。もし、彼女がオデットたちのような事業の従事者を利用していた側の人間なら、迂闊に今のオデットに会わせるわけにはいかない。
ノエがミラベル司祭の名を出すと、老司祭は「ああ」と何か思い当たるような声を発した。
「ミラベル司祭については存じておりますが、その名をどこで聞いたのでしょう。あの方は、今は教会直々の命令で、とある家に派遣されている身だと伺っておりますが」
「その家の方から聞いたのです。彼女がとある家の遺産の調査に協力していることは、僕も聞いています」
ティエリーやディアヌの話を総合すると、ミラベル司祭は現在ニヴェールという家にて、かの家が他の家から譲り受けた遺産の調査を進めているとのことだった。老司祭の反応を見るに、その調査はまだ終わっていないらしい。
「ミラベル司祭は、あの事業の実態を調査して報告する立場におられました。当初の役割は、事業の進捗を確認する監査の一人だったようです。ですが、監査を続けていくにつれて、実情を知ることとなり、他の司祭と共に事業の全容を暴くのを手伝っていたようです」
「そうだったのですね。では、彼女はオデットたちのような被害者の方を助けるのに尽力してくださったのですね」
「はい。今は、ドラゴン族によって住む家や家族を失った子どもたちの世話をしているそうです。あの事業の実態を見て、少しでも温かな家で過ごせる子どもが増やしたいと思ったーーそう、以前仰っていたのを覚えています」
碌な防寒具も与えられず、隙間風だらけの家屋で、復興事業という名の事実上の口減らしが行われていた。そんな状況を目の当たりにした司祭は、少しでも自分ができることをせねばと思ったようだ。そのような人物なら、オデットを会わせても問題ないだろう。
「その方は、己の正しさに従って行動されているのですね。女性司祭なら、きっとオデットも出会っても怖がるようなことはないのではと思います」
オデットが怯えを強く見せるのは、自分より大柄な男性を目にしたときだ。女性の司祭なら、恐れることもないはずだ。ノエが、そう思ったときだった。
「ああ、そうでした。一つ訂正をしておきましょう」
老司祭は、こほんと咳払いをして、事もなげに付け足す。
「ミラベル司祭は、名前こそ女性のようですがーー男性の方ですよ。何やら、家の事情があってそのような名を授かったようです」
ノエは、ぱちぱちと瞬きを繰り返したあと、一転して混乱の坩堝に落ちた頭に手をやる。
その脳裏には、以前ヤルマルの性別を取り違えたときのオランローとのやり取りが蘇っていた。
(……ご本人に出会う前に、教えてもらっておいてよかった)
また性別に関する取り違えをして醜態を晒すところだったと、ノエは心の中で小さく安堵の息を吐いたのだった。
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