トトト、と包丁をリズミカルに鳴らしながら、獅子神はにんじんを千切りにしている。余りそうな野菜を使ってきんぴらを作り、村雨の弁当に入れるためであった。
「……っと」
買っておいた透明醤油を出し忘れていた、と気づいて手を止める。
獅子神は家庭の味に縁が薄く、少年時代を振り返っても、親に弁当を作ってもらった記憶がない。ただ、「茶色い弁当」というものが揶揄される、と聞いたことはあったので、村雨に持たせる弁当も、できるだけ華やかな仕上がりになるよう気を使っていた。
社会人になってまで弁当の茶色さを笑われるはずもあるまいが、悲しいかな獅子神はその辺りの機微を知らない。また村雨が「色が綺麗だと皆が褒めていた」などと、律儀に報告してくれるのだ。だから獅子神の作る「謎の愛妻弁当」――と職場では呼ばれているらしい――からはくすんだ色彩がどんどん駆逐されていき、果ては醤油まで透明にするという徹底ぶりなのであった。
「ジュースが飲みたい」
いつのまにかキッチンに立ち寄っていた村雨が、子どものようなことを言い出す。はいはいジュースね、と獅子神は動きかけて、いや待て甘やかすな、と思い直した。
「そのぐらい自分で取れ。冷蔵庫にアップルジュースが入ってる」
村雨は口を尖らせるも、獅子神とすれ違ってキッチンに入ってくる。確かこの棚に……と獅子神がごそごそしている間に、トクトクと液体の動く音がして、そして、村雨はキッチンを出ていった。
「あった、あった……って待て!」
醤油に気を取られて、冷蔵庫の中身について失念していた、と気づく。慌てて声をかけたものの、振り返った村雨は既に口をもぐもぐさせていた。
「えっと、……イチゴか! 冷蔵庫のイチゴ食ったなてめー!」
「悪くない。ンむ」
「何ヌケヌケともう一個食ってんだよおい! いくつ手に持って……ってなんだその持ち方手品か! あー!」
洗って山盛り積み上げていたはずのイチゴは、大半が村雨の手に――バーゲンのつかみ取りかとでもいうほどに――おさまっている。そして村雨はまっすぐ獅子神を見やったまま、何一つ悪びれぬ顔でまた一つ口に入れた。
「そ、れ、は! お前が食いてえっつーからタルトにしてやるためにわざわざ買ったんだよ! オレが一緒に作ろうなっつったらてめー可愛い顔して「んっ♡」って頷いたじゃねーか!」
「また買ってこい」
「はぁああああっ?」
調理台の上に醤油瓶をドンと置き、小さなガラスボウルを片手に肩をいからせてリビングダイニングへとやって来る。村雨は行儀良く着席し、広げた手のひらの上で几帳面にイチゴをピラミッドよろしく積み上げており――獅子神がそれをひったくる前に、また一つぽいと口に放り込んだ。
「てんめえええ……よっぽどまたお仕置きされてえみてーだなぁ……」
「するのか」
未練げに己の手のひらを一瞥してから、村雨は実に澄んだ眼差しで――それはもう上質のガーネットの如く澄んだ眼差しで、獅子神を見上げた。
「なに?」
「お仕置きだ。するのか」
「……」
イチゴをおさめたボウルをテーブルに――村雨の手の届かぬ位置に――置き、獅子神は両腕を組んでみせる。
そうして村雨の顔をとっくと眺めやってから尋ねた。
「お前、まさかとは思うがお仕置きされたくてわざわざ盗み食いしてんのか」
「そんなイチゴに失礼なマネはしない。主目的はイチゴ、お仕置きはオマケだ」
「より悪ィわ! えっなに、お前アレ、……アレ好きなの」
反射的に怒鳴ってから、獅子神の声はふにゃふにゃと不明瞭なものになる。獅子神を凝視したまま、村雨はニィ、と唇の両端を吊り上げてみせた。嘘だろ、と獅子神は頭を抱える。
「チンコビンタまでしたのにオレ……」
「ビンタというほど叩かれた覚えはない。強いて言うなら『チンコねだり強制』ではないのか」
「やめろ! 思い出すからやめろ!」
「何にせよ、されている最中は恐ろしかったが、終わってみると『たまになら悪くない』と思えた。今日もあれをするのか、私が尻を振りながら――」
「やめろー!」
獅子神は顔を覆い、走ってキッチンに戻る。はっはっは、とわざとらしく声をあげて笑ってから、村雨は言った。
「あなたに分はないぞ。何せ私は、あなたの怒った顔も大好きだからな」
「なっ――」
耳まで真っ赤になった獅子神が、覆った指の狭間から村雨を覗き見る。しかしその顔はすぐに――村雨の大好きな――怒りの形相になり、彼はまたダイニングリビングへと飛び出してきた。
「だから食うなっつんだよてめぇええーーー!」
「また買ってこい」
+ + + + +
廊下には、スマートフォンから漏れる音声が、頼りなくこぼれつづけていた。
「んなこたどうでもいいんだよ」
獅子神の冷たい声が、相手の声を叩き切るように投げつけられる。
スピーカーにしていないのは、相手の言葉を聞かれたくなかったからだろう。閉まったままの寝室のドア、そこにもたれて座り込み――ずっと立っているのは少しつらかったので――、村雨はじっと、外の様子をうかがっていた。
「金が欲しいんだろ、言い訳してねえでそう言えよ。いくらだ」
しばらくの沈黙ののち、嘲るように獅子神は笑った。
「へえ、ぬけぬけと言ったもんだな」
抉るようないくつかの言葉ののち、二度と掛けてくるなよ、と言って、それから沈黙が訪れた。村雨は操作していたスマートフォンを握ったまま、這うようにして、ドアの横へと身体をずらす。やがてドアが静かに開き――「なんだよ」と獅子神の苦笑が降ってきた。
身体が抱き上げられて、小さく揺れながら運搬される。
ベッドに下ろされて村雨は、羽織っていたガウンを脱いで手渡した。
傍らに、下着だけの大きな身体がすべり込んでくる。
「うれしいだろ、お前の好きな怒った顔だぜ」
小さなルームライトの光の中、片頬を引きつらせるようにして獅子神は笑う。その顔をチラリと見てから、村雨は視線をそらした。
「私が好きなのは、あなたの怒った顔だ」
珍しく、わずかにためらったのちに村雨は言葉を継いだ。
「……傷ついた顔じゃない」
「ほんのいっとき、一緒に暮らしてたってだけの男だよ」
そう言ってから獅子神は、寝ちゃいねえぞ、と冗談めかして言った。
「そんだけの話だってのに、オレが借りでもあると思ってんのか……」
「金をせびられたのか」
「まあな」
「くれてやるのか」
「あのころの部屋代さ。ちょうど相手もカラス銀行だ。賭博口座の残高を減らすにも、ちょうどいい」
「そうか」
村雨は少し、己の両足を擦り合わせるようにしてから言った。
「私にチンコビンタをしてもいいぞ」
「しねえよお前、なに言ってんのしねえよマジで」
「チンコビンタが好きなのかと思った」
「すっ、好きか嫌いかって言ったら、……え、ええと、たまにするぐらいが好きなんであって、オレはそんな」
「……」
「今日はさ、今日は普通に甘やかしてくれよ、な」
「ん……」
身体をすり寄せて、鼻の頭にキスをしてやる。くすぐったそうに笑って獅子神は、腕の中に村雨を閉じ込めるようにした。
「今のオレは世界一恵まれた男だからな。金のいくらかぐらい、恵んでやったっていい」
「いつでもチンコビンタできるしな」
「いいって! それはもう! でもたまにはな!」
次の日の朝、ベッドの中からスマートフォンで金を振り込もうとした獅子神敬一は、「該当の振込口座が存在しません」という表示に舌打ちをした。
ややあってふと眉を寄せ、傍らで眠る村雨を見下ろす。
その手に握られたままのスマートフォンには、カラス銀行のマークをした通知が一件、垣間見えていた。
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