夜半。外から見た時にエイルリヒの書斎に明かりが灯っていたので、ランプを消し忘れたのだと思った。
マティアスは帰宅してまずはその部屋へ向かう。ところが、エイルリヒや召し使いの消し忘れではなかった。真夜中であるにも関わらず、部屋の主人がすこぶる不機嫌な顔でマティアスを迎えたのだ。
「近頃、非番の日は夜の外出が多いですね、マティアス。どこへ行っていたんですか」
「そんなことを聞くために起きていたのか。早く寝ろ。何時だと思ってる」
「別に君の行き先なんてどうでもいいですよ。目を通したい資料が読み終わらなかっただけ」
ならば訊かなければいいだろうに。マティアスがそう思ったことを察したのか、寝巻き姿のエイルリヒは乱暴に本を閉じると椅子を立ち、マティアスの横を素通りして書斎を出ていった。
飲みかけのお茶のカップも明かりもそのままだ。暗に片付けを命じられたマティアスは机に歩み寄り、無造作に置かれた本を重ね、インクがついたままのペン先をさっと拭う。
そして、今度こそランプの火を落とした。
月明かりが絹のようにはためき、窓から射しこんでくる。その満月の光の下、滑るように遠ざかっていく馬車が一台あった。離れていく車輪の音は、エイルリヒには聞こえなかったようだ。
それでいい。
月光と馬車の陰を見捨てるように、マティアスはさっとカーテンを引いた。
「近頃は夜の外出が多いわね。どこへ行っていたの?」
翌朝、案の定寝坊したエイルリヒが朝食の席には来ないことを、館の主人
――大公の愛妾ヴィルマに告げにいくと、退出しようとしたところでそう言われた。昨夜、エイルリヒに言われたのと同じ台詞だ。
「いい人ができたのかしら」
ヴィルマは食後の果物を自ら剥きながらにやにやしていた。
「あの子もそう思っているのよ。だからお前が非番の日は機嫌が悪いらしいわ。昨日も一日やたらとむくれていてね」
「
……」
「答えないということは、あたり?」
「想像はお好きなように」
ヴィルマは幼い娘のようにころころと笑った。マティアスはこの女
――姉には口で勝てない。もっとも口で勝負しようと思ったこともないわけだが。
そして今回も余計なことを聞き出される前に退散することにした。
それから、むにゃむにゃしながら起きてきた不機嫌なエイルリヒに食事をさせ、大公が暮らし政を行っている宮殿へ向かう。
〝兄〟であるディルクがいなくなった今、エイルリヒは大公の後継者の席に収まっている。正式に継嗣であると認められるのはこの秋だが、成人したエイルリヒは公国で本格的に政治家として動き始めていた。
にも関わらず、彼は大公の住まいへ移ろうとはせず、妃でないがために宮殿の外に屋敷を与えられている母ヴィルマと暮らしていた。
母に甘えているという面もなくはないだろうが、自分が大公の住まいへ移れば母の屋敷の警備が多少なりと薄くなる。
ぼんやりと馬車の窓へ寄りかかっているエイルリヒはそれを心配しているのだろう。確かに、マティアスにとってもエイルリヒと姉がひと所にいてくれるのは、護衛のためには都合がよかった。この頃は二人が直接襲撃を受けることはめっきり減っていたが、それでも年に一度はマティアス以下十名の侍官に扮したエスピオナが刺客を始末していた。
戦力を分ける余裕はない。もしかすると、それは〝向こう〟もかも知れないけれど。
短い馬車での移動の中、エイルリヒはいかにも怠そうな溜め息をついて項垂れた。
「めんどくさいなあー、この時期の夜会。座っているだけでおのぼりの貴族たちから声をかけられて、どうせ食事もろくに楽しめないし」
「先に食べておけ。足りなければ夜会の間に取ってきてやる」
「君ってもしかして僕の親鳥か何かのつもりですか?」
「世話をすれば不機嫌になる、しなくても不機嫌になるのはやめてくれ」
この頃のエイルリヒは、公子として表舞台に出始めて何か思うところがあるのか、マティアスがこれまで通りに世話をすればイラつき、放っておけば不貞腐れるということの繰り返しだった。身体が大人になり始める年齢特有の不安定さか、意外にも政治家としての自分をどう見せるかに迷っているのか、飼い猫を一匹手放して寂しいからか、その猫を託した婚約者に会いたくてたまらないからかは、分からない。あるいはすべてかもしれない。
ともかく最近のエイルリヒは面倒くさい。もともとわがままで面倒くさかったが、めんどさ三割増し。
そういう子どもに構うのは、親ではないマティアスの責任ではないだろう。なので、エイルリヒが面倒くさい時、マティアスは基本的に放っておくことにしていた。今日も夜会の間は部下の侍女に任せることにする。
マティアスにも、子守と両立できないものを抱えることがあるわけだし。
宮廷において、恋はおしゃれな遊びだ。
貴族にとって酒と同じほどの大人の嗜みといってもいい。
その女は、煌々ときらめく大広間の窓を遠くに眺めながら四阿の柱に寄りかかっていた。
歳は二十八。〝伯爵夫人〟と呼ばれるからには、夫のある身である。
ただ、そうとは思えぬほど可憐な空気を、彼女はいつもまとっている。花を差し出せば無邪気に笑って喜んでくれそうな、口づけを迫れば恥じらいうつむいてしまいそうな。
夫を差し置いて恋人をつくるような女性には見えない、と周囲は思っていることだろう。
だが、見えないだけだ。
そして、それは何もこの女に限ったことではない。
男も女も、こうした夜会の陰で密やかな遊びを楽しむ。昼間の紳士や淑女の顔を捨てて。そういう趣向が認められているから、夜会が披かれる大広間だけが煌々と明るく、その光に追われたように翳る薄闇の小部屋がそこここにできるのだ。
初夏の庭には濃密な薔薇の香りが満ちていた。月は雲に隠れていた。女が持ってきた小さなランプが照らすわずかな空間の外は闇。
薔薇の香りは、まるで閨に満ちる媚薬の香りだ。
「こんばんは、黒猫さん。坊やはおそばを離れるのを許してくれて?」
「大公殿下に呼ばれた隙に離れてきた」
「あらまぁ、いけない子。またご主人様から逃げてわたくしのところへ来たのね」
彼女はそう囁きながら、しなやかな腕を首に巻き付けてきた。挨拶の言葉もそれを紡ぐ声も少女のよう、しかし、マティアスに柔らかな身体を押しつけながらくるりと立ち位置を入れ替え、四阿の中に押し込む身のこなしは手慣れていた。
大理石のベンチに押し倒され、口づけられる。
非力なようで強引さを知っている女の手は、いつものようにするするとマティアスの襟を寛げていく。きっちりと締めた襟の下に口づけの痕を残すのが彼女の趣味なのだ。
――猫に首輪をつけるようなものらしい。見えなければ構わないので、マティアスも好きにさせていた。
伯爵夫人と、下級貴族の侍官と。遊びでなければこんなひとときを過ごすことはない。
何度目かにして、最後の逢瀬。
相手もそう思ったのだろう。
マティアスを組み敷く女が袖口からごく細いナイフを引き出した時、マティアスは彼女の首を抱き寄せてうなじに毒針を突き立てていた。
「あっ
……がっ、ぐぅっ」
もがく女を片腕で抱いたまま、さらにもう一本の針をうなじへ押し込む。数分で人を死に追いやることができる猛毒が彼女の心臓を停止させるまで、マティアスは女を胸に抱いたまま、薔薇の香りの中で薄闇の虚空を眺めていた。
公妃の手勢もずいぶん質が落ちてきたと思う。火遊びを口実に使うのは常套手段だが、それゆえに怪しすぎる。この女は本気でマティアスを落とせたと思っていた。
だが、エイルリヒやヴィルマを狙う前にマティアスを潰そうと考えたのは正しい。自分が死ねば、公子と姉を守るエスピオナの統率は緩んでしまうだろう。
マティアスは一時の恋人の枕元に灯っていたランプの灯を消した。
そして、闇の中、できるだけ女の身なりを整えてやる。彼女が見つかるのは明朝だろうから、せめて朝日の下でも見苦しく見えないようにしてやらねば。
刺客の亡骸に敬意を払っても仕方がない気がしないでもないが、淡々と女の髪を撫でつけ、大理石の上に行儀よく横たえてから、マティアスは宴の会場へ戻った。
「どこに行ってたんですか」
そして、戻るなりへそを曲げたエイルリヒに迎えられた。世話と護衛を任せていた部下の姿が見当たらない。これだけ人が入り乱れる場所では一人になるなとエイルリヒには言い聞かせてあったはずだが、何かと理由を付けて侍女を遠ざけてしまったらしい。
「ゲルテはどこだ」
「食事を取りにいって貰いました。取ってきてやると言ってた君がいないから」
だが、そう言うエイルリヒのそばのテーブルには、明らかに彼が食べさしたと思しき料理の皿がのっていた。好きではないものが混じっていたとか気分じゃなくなったとか言って食べるのをやめてしまったのだろう。立食式の宴席で、エイルリヒの機嫌が悪いときにはままあることだ。そして今日はいつにも増して不機嫌だったので、誰が何を取ってきてもエイルリヒは納得しないだろう。
そんなことで護衛を振り回せば自分が危険な目に遭う恐れがあると、エイルリヒは分かっているはずだ。それでも言うことを聞かなくなることがある。
なんだこのガキ、破滅願望でもあるのか。甥でなければ面倒くさくてとっくに見捨てている。
これは早くティアナに嫁に来てもらわないと、エイルリヒの偏屈さはねじれにねじれて螺旋構造になり、もとに戻らなくなるかも知れない。
いや、今のようにエイルリヒの警護が空白になった隙に首を取られて本当に終わりかも知れない。
とはいえ、今日はもう〝用事〟は済んだ。エイルリヒを見張る
……もとい守ることに集中できる。
やれやれと息をつきながらむくれているエイルリヒの背後に控えると、席で頬杖をつき、広間の貴族達を眺めていた彼が唐突に振り返った。そしてじろじろとマティアスを見上げ、やがて眉間にしわを寄せる。
「ふーん、僕のことを放っておいて、庭で逢い引きしてきたってところですか」
おおよそ真実をついた指摘に、マティアスは内心ぎくりとしながらもエイルリヒに問い返した。
「なぜそう思う?」
「君、薔薇の匂いがすごいですよ。あとここ、口紅がついてる」
エイルリヒが自分のクラヴァットをついと指さす。自分の襟元の同じ場所に触れ、指先にほんのわずかな違和感を感じた。
口紅ではない。血だろう。
出血の少ない場所を突いたが、それでも針を回収する際に血が出ないわけではない。
しかし、薔薇の香りで自分についた血のにおいに気づかなかったとは。
マティアスはスッとクラヴァットを解いて懐に入れた。
「ゲルテが戻ったら替えに行ってくる」
「あーそう、この頃の夜の外出はやっぱりそういうことですか。それは忙しいですよね、僕に構っている暇なんてないですよね」
「
……もう済んだから、しばらくは好きなように振り回されてやる」
「なんですかそれ、それじゃあまるで僕がいつも君のこと振り回してるみたいですよね」
「実際、そうだと思うが」
エイルリヒはふんと鼻を鳴らし、椅子に座り直した。やがて戻った侍女が持ってきた食事も、礼を言って食べ始める。見るからに機嫌が直ったのを侍女は不思議がったが、マティアスにはなんとなく理由が分かった。
マティアスが言った「済んだ」という言葉を、女との関係が終わった、別れたというふうに受け取ったのだろう。
間違ってはいないので、マティアスもはっきりとは確かめなかった。
明日になれば、エイルリヒはすべて理解するだろうから。
読んだよ👏
絵文字感想を送る💖
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.