メヴィア公爵グラシアノにとって、この世で最も馬が合わない人間はエルツェ公爵テオバルトだった。
二つ年下の彼とは、少年時代、ともに当時の王太子
――現在の国王陛下のおそばに仕えた仲だ。また、認めたくはないが血も繋がっていた。グラシアノの父がテオバルトの母の兄。つまり、テオバルトはグラシアノの従弟にあたる。
しとやかで優しかった叔母の腹から生まれながら、やつは非常に不遜で狡猾でわがままだった。おまけに口が上手いので、中身が〝あれ〟でも人の心を掴むことに長けている。しかし、掴まれたら最後、その者はやつの手下にならざるを得なくなる。
幼い女のように気ままで強欲なあの男にどれほど振り回されたか。グラシアノが人生から消し去りたい記憶の数々は、だいたいがテオバルトと過ごした少年時代に詰まっていた。
しかし、あれくらい不遜で他者を恐れない性格は為政者にとって必要な資質であろう。
現に、弟分として二人をそばに置いた王は、グラシアノよりテオバルトを愛した。もちろんグラシアノにも十分な友情を示してくれたが、口下手な主君は自分の代わりに口を回してくれるテオバルトのことを、より気に入ったようだった。
王の個人的な好みに嫉妬しても仕方がない。グラシアノは家督を継ぐと、早々に王との間に君臣の線を引いて程よい距離を保ち、自分に与えられた地位の中で働いてきた。
グラシアノは幼い頃から動植物に興味を持っていたので、今はそれらの研究を支援する学術機関を取り仕切る一方、それらの研究における他国との交流を担っていた。
泰然として勤めを果たせたのは、娘がいたからだ。
グラシアノには四人の子供ができた。後継となる息子が一人と、他家に嫁がせられる娘が三人。対して、テオバルトの子供は息子が二人。
勝った、と思った。
貴族の家には男児が二人いても仕方がない。次男は長男の予備にしかならず、娘がいなければ他の家と結べる縁もない。
テオバルトはプラネルト女伯爵の婿探しに躍起になっていたようだが、自分が自由に婚姻を進められる娘が彼女くらいしかいなかったせいだろう。
グラシアノは密かに嘲笑しながら(テオバルトとは違うので顔に出して他人を嘲笑ったりはしない)、手元に残っている三女を未婚の王太子に勧めていた。
事情が変わったのは、『天槍の娘』の存在が公になり、あろうことか王家の養子に、そしてエルツェ家の養女になってからだった。
「話があるから顔を出せ」
という、何様のつもりだと思うような招待状がブリュック侯爵の名前で届いたのは春先のこと。
先ごろ、母であった先代侯爵が失脚し、ようやく家督を継いだ新当主もグラシアノにとっては幼馴染みの一人である。しかし、かの当主はテオバルトの手下でもあった。この招待状はブリュック侯爵が用意したようだが、内容はテオバルトからの用件を伝えるものだった。
公爵同士が二人きりで、さらには私的な場所で会うのはあまりよろしくない。それぞれが王家の血を継いだ強者であるから、直接的な接触はそれだけで他者に火種の幻覚を見せたりする。
ブリュック侯爵はそれを防ぐための緩衝材として二人の間に挟まった(挟まれた)のだ。いささか薄くて頼りない気はするが、仕方ない。
グラシアノはブリュック侯爵の新しい絵画コレクションを見に行くという体で、テオバルトが待ち受けていると分かっている侯爵邸へ向かった。
「実はそろそろ未来のエルツェ公爵夫人を誰にするか考えているんだ。それで思いついた。ジゼラがいいなと」
絵の観賞もそこそこに、〝偶然〟同じ日にブリュック侯爵を訪問していたテオバルトはそう言った。
窓辺の椅子に座り、初めから絵など見ていなかったグラシアノは鼻で笑った。
「冗談ではない」
「まだ王太子妃の座を諦めていないのかい? 無理だと思うけどね。当の殿下がジゼラにご興味をお持ちでないんだから」
「興味の有無などで王族の結婚は決まらない。我々もそうだっただろう。お前などは、結婚してからしばらくも奥方に興味を示さなかったようだが」
現在のエルツェ公爵夫妻の仲に大きな問題はないのだが、新婚早々、テオバルトが冷たい態度をとって新妻を病臥させたのは知る人ぞ知る醜聞だった。古い話に対してテオバルトは舌打ちしたが、すぐに気を取り直してグラシアノの向かいへ座った。
ブリュック侯爵は追い払われており、うらうらと陽射しが差し込む応接間は完全に二人の密談の場となっている。とうに冷めたお茶と、そこに垂らされた蒸留酒(ブランデー)の残り香は優雅だが、公爵二人が互いに投げつける視線は針のごときだった。
「殿下にはすでに想いを寄せる人がおありだよ。それにジゼラとは歳も離れている。同世代のうちの子の妻になった方がいい」
殿下の想い人とは、お前のところの〝姫〟のことか?
そうとは訊かずに、グラシアノはことさらゆったりと足を組んで見せた。
「カイは父親に似ず聡明で責任感のある優秀な子だ。未来のエルツェ公爵の義父になれるというのも悪くはない。しかし一つだけ、重大な問題がある」
「それは?」
「お前が娘の舅になることだ。この世の最大の不幸だ。娘をそんな目に遭わせるわけにはいかない」
「その言葉はそっくりお前に返してやる。ジゼラは賢くて気立てもいい、見た目も可愛らしい素晴らしい姫だ。だが欠点がある。お前が父親だということだ」
三十年前ならここで取っ組み合いが始まっていただろうが、互いに大人になった二人は鼻を鳴らして顔を背け合うだけに留めた。そうして改めてお互いに馬が合わないことを確認する。
そういう相手とは無理に付き合わないのがグラシアノの信条だった。というか、そんな相手にいらいらしている暇はない。彼は王立大学院の理事の一人として国の学問を司る身であると同時に、家督を継ぐ前から行っていた花の新品種開発も趣味で続けていて、時間はいくらあっても足りないのだ。
グラシアノは、不機嫌になりながらも怒って席を立たないテオバルトをチラリと窺った。テオバルトが話を打ち切るようならこちらも帰ってやろうと思ったのに、相手は席を動かない。グラシアノはそれを見て自分が優位であることを感じた。
テオバルトはこのふざけた縁談を実らせたいのだ。
なぜか。
もしや、王太子との間に、くだんの〝姫〟についてすでに何らかの約束が?
推測だけならいくらでもできるが、それでは意味がない。直接聞いたところでテオバルトは答えるはずもないので、グラシアノは先に手を出してみることにした。テオバルトが乗ってくればよし。こなければ、話はおしまいにするまでだ、と思いながら。
「カイには悪いが、私の娘は王太子妃として正式に推挙するつもりだ。陛下は慌てておられないようだが、のんびりしている必要もない。妃がいなければ王太子殿下とて十分な後ろ盾を得られないままだからな。放置しておいてよいことではない。それに、うかうかしていると殿下ご自身が何の役にも立たない娘に心を奪われて、お世継ぎとしてのお役目に障りが出るかも知れない」
公国から迎えられた猶子であるために、王太子はいくつかの問題を抱えている。グラシアノが娘を差し出すことで、そのいずれの問題も解決できるのは確かだった。
自分にあるのは王家を支える公爵家の役割をまっとうしたいという思い。野心なく王太子を助けるつもりだ。ジゼラは確かに幼いが、姉たちを見て育ってきたので、女として自分がどういう役を果たせばよいか分かっている。多少歳が離れていても王太子に気に入られる妃になるだろうし、世継ぎを産み、国母となり、等しく臣民を愛することができる娘のはずだ。
その静かな自信は声を落ち着かせてくれる。テオバルトはグラシアノの落ち着き払った話し方が「年上ぶっていてムカつく」らしい。実際年上だということはさておき、余裕をにじませたことで感情的にテオバルトを揺することができたかと思ったが。
「推挙したところで無駄さ。殿下はお受けにならない。殿下はユニカをご所望だ。そのうち陛下にも申し上げるだろう」
肘掛けに頬杖をついて言うテオバルトは、逆ににたりと笑った。初めから〝それ〟を打ち明けるつもりであったのだ。そうして逆にグラシアノの目論見を聞き出した。
「ばかな。『天槍の娘』を?』
テオバルトのしてやったりな顔も不愉快だったが、まさか本当に、王太子が『天槍の娘』に魅入られていると知ってさらに不愉快だった。
いるだけならまだしも、あの異能の娘が世継ぎの妃になるなど考えられない。
「ばかな話だと私も思うよ。しかし殿下は、ユニカを妃にするために協力してほしいと私におっしゃったんだ。だから公爵家の姫としてユニカを引き取って欲しいと」
「それは、王妃様とのご縁を鑑みての処置だったのではないのか」
「もちろんそれもある。我が妹が娘にしていた子だ。私が引き取るのが筋だ。だからこそ、殿下は私との握手を求めてこられた。私としても悪い気はしない。血の繋がりはなくても、私は殿下の義父になれるわけだしね」
それこそ、グラシアノにとっても悲願だった。
グラシアノの伯母は、王の最初の妃だった。子を産むことなく若くして亡くなったために、メヴィア家と王家の最も濃い繋がりは消え去ってしまった。
そして次はテオバルトの妹が王妃となった。彼女は子を残したが、彼女自身も、王子もすでにこの世にいない。
再び巡ってきた王家と縁を結ぶ好機は、娘がいたグラシアノだけのものだったはずだ。それが、たった一人の異能の娘と、王太子の浅はかな色恋のために崩れるとは。
思わず拳を握りしめ、湧き上がってくる悔しさを抑える。
「だが、いくら殿下のご希望とあっても、資質のない者を将来の王妃にはできまい。あの娘は誰かの妻として家を支えることを学んでもいない。それどころか人にあらざる異能まで持っているというではないか。異能の宿る身体で、いずれ王となる子を産めるのか? 異能を持った王子などが生まれてはたまらん」
「勉強など今からいくらでもできる。ヘルミーネはユニカの教育に燃えているしね。まだ生まれてもいない子供のことは心配したって仕方ない。我々男にはできもしないことだからとやかく言えないし、そもそも、ジゼラが五体満足な子を産めるかどうかだって分からないんだから」
テオバルトの不吉な言葉に、グラシアノはカッとなって思わず腰を浮かした。彼が握っていた拳を見つけると、もう一人の公爵は悠然と笑い、しかし直後には冷ややかにこちらを睨め付けてきた。
「腹が立ったかい、グラシアノ。私も娘を侮辱されて腹が立ったよ」
そう言われてはっとなる。先に自分が言った言葉には過ぎたる部分があったと気づいたのだ。
グラシアノは大きく息を吐き出しながら椅子に戻り、再び足を組んだ。
「お前のところの〝姫〟には詫びよう。確かにそうだ。種になるだけの男がとやかく言うことではない。それに、子どもは授かりもの。どんな子が生まれるかは天の主神のご意志による」
「ほぅ、普段はおしべやめしべのことばかり考えているのに、〝授かりもの〟なんていう考え方をお前がするのだね」
「当然だ。天の采配があったからこそ、お前より人として遙かにまっとうな道を歩んできた私が娘達に恵まれたのだ」
テオバルトが不快そうに顔を歪めたのを横目に、グラシアノは椅子にもたれて目を閉じた。
彼が研究を支援し、自身も趣味で研究を続けている草花や生きものは、その多くが雌雄一対で子孫をつくる。それを知っているという点では、人間の男女をおしべやめしべのように思っているわけではないが、子をなしてくれた妻や嫁いだ娘たちの仕事の大きさを世間一般の男たちよりは分かっているかも知れない。
そして、どんな子孫が生まれるかわからない
――このことは、生きとし生けるものにとって最も大切なことなのだ。グラシアノは自然の学問に触れてそう学んだ。
強いとか弱いとか、得手、不得手があるとか、そういう基準は、グラシアノが立っている場所からみた場合にしか通用しない。ある性質は、違う方角から見れば弱点でも何でもなかったり、逆に長所であることも、動植物の中には往々にしてある。
恐らく人も例外ではない。グラシアノ個人はそう考えていたが、宮廷は偏った基準に満ち満ちている。
しかし、民や臣下が求めるすべての基準を満たした王が現れたことも、グラシアノが知る限り、一度もないのだ。その不完全な王を支えるために自分たちのような臣下がいる。
この大嫌いなテオバルトが、口下手な王を助けているように。テオバルトほど口がうまくはなかったグラシアノが、学術の守護者たるを王から任されたように。
もし『天槍の娘』が本当に王太子妃になったら、彼女はどのように王家を支えるのだろうか。
そして、その異能が王家に宿ることはあるのだろうか? もし仮に異能が受け継がれたとしたら、それはそれで面白いかも知れない
――などと、学者としてのグラシアノは考えてしまう。
いやしかし、〝面白い〟だけで片付けられない問題も、王族に求められる資質があるのも紛れもない事実だった。それを思えば、皆が常識として受け入れられるジゼラの方が王族の妃としてふさわしいに決まっている。
「まあ、アナが心配するのは分かる。二代続けて直系の王族がいないという事態は避けねばならないからな。しかしヘルミーネによると、ユニカにはちゃんと月のものがあるらしい。そこだけ一緒で子供が生まれないなんてこともないだろう。仮に御子へあの異能が継承されたとしても、私はいいと思うけどね。丈夫な子になるということだから」
たった今自分が考えていたことを最も気が合わないはずの男が口にしたので、グラシアノは返す言葉に詰まった。しかも、結構余計な情報もついていた。
「お前は
……あけすけにものを言い過ぎだ。それから〝アナ〟はやめろ」
お前んとこの娘の月のものの事情なんか聞きたくもなかったわ。そして懐かしくも苦々しい思い出で色がつけられた幼い頃の愛称を耳にしたグラシアノは、額を手で覆った。久しぶりにテオバルトと会話らしい会話をしているので、なんだか気分も悪くなってきた。
これはどうやら、先に撤退すべきは自分の方かも知れない。
「『天槍の娘』が普通の女と変わらない身だとしても、だ。ジゼラを推すことと話は別だ。殿下には政事と臣下の心情を慮った選択をしていただかねばならない。陛下にも、私からはそのように申し上げる」
「物分かりがよろしくないな。殿下のご要望を叶え、私と殿下が仲良くする。そして私とお前が仲良くすると、お前は殿下と仲良くもできる。友達の友達は友達。私はこういう提案をしているんだよ」
「
……吐き気がしてきた」
「ん? 大丈夫? 二日酔いかな」
テオバルトが本気か嘘かわからない顔で不思議そうにぱちくりと瞬くので、グラシアノはついに席を立った。
ジゼラを次期当主の妻とすることで、エルツェ家だけでなく、メヴィア家もが王太子の後ろ盾同然の地位になる。テオバルトが言わんとしていることは分かったが、「友達」という響きが最悪だった。
こいつと、私とが。
無理だ。
「待て、アナ。親愛なる従兄殿。殿下はヂーゼル公爵を潰した。ほかの公爵家が鼻白んでいる今がチャンスだと分かるだろう。私は独り占めはよくないと思ってお前に声をかけたんだ。ジゼラをくれたら、仲間に入れてあげるよ」
腕を掴んできた従弟を振り返り、グラシアノは言い捨てた。
「カイにはやってもいいが、お前にはやらん」
「じゃあ、一度二人を会わせてみようか」
「話を受けるとは言っていない」
「今、カイにはやってもいいと言ったじゃないか」
「やってもいい、というのと、やるというのは違う」
「めんどくさいなぁ、お前は。言葉尻ばっかり気にして、だから学者は嫌いなんだ」
「人の話を真摯に聴く姿勢がそもそもない人間が、私は嫌いだ!」
「聴く姿勢がないのはどっちだ! だいたいお前は昔から
――」
立ち上がったテオバルトとの口論はしばらく続き、結局この時どのような返事をしたのかグラシアノの記憶も曖昧になった。
ただ、手元に残った最後の娘の嫁ぎ先として、選択肢が一つ増えたことは確かだった。
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