暁子
2014-12-12 00:22:45
2340文字
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つきかりが完結した二十数年後こういう話があるかもしれない②


 砂をまぶしたようにざらついた日差しが、長い回廊の床を照らしている。淡々と響く沓音が二つ。淡い陽光の中に漂う銀粉のような塵を切り裂きながら、彼らは真っ直ぐにたどり着いた。
 無人の朝堂へと。
 本来、跪拝して斎英を迎えるはずの重臣たちはいない。空気の揺らぎひとつない。ひんやりとした静寂が漂うばかりで、まるで何十年と閉ざされていたような気さえする。
 斎英をここまで案内した近侍は恭しく頭を垂れ、すぐにその場を立ち去った。彼の姿を見送ることもせず、斎英はひとり無音の中へ踏み出した。
 肘置きの感触を確かめながら大王の玉座に座り、百とも二百とも数えられる臣下が目の前にいるかのように悠然と構える。
 手駒をすべて詰み盗られた後だというのに、不思議と心は静かである。この椅子に座ってからの十数年を思い起こすことさえない。
 ただ、随分前に、先に逝った妃から言われた言葉だけを思い出した。
『その業はいつか貴方や宗国に返る、絶対に』
 業は返る。これが? この静寂がそうか?
 だとしたら、なんと穏やかなことだ。もっと血にまみれ、炎に取り巻かれる光景を想像した。もっともそれを恐れたことはない。いつもそんな道を歩いていたのだから。
 ふ、と、斎英の口許に数年ぶりの笑みが滲む。
 打てる手は、すべて打ってある。
 彼がほくそ笑んだのと、朝堂の扉が開かれたのは同時だった。
 古い扉が開ききると、朝日を背にした漆黒の人影がひとつ、斎英の真正面に現れた。衣装の豊かな襞を揺らしながら、人影はゆっくりと朝堂の中を歩む。布沓の柔らかな足音、衣装や髪につけられた様々な宝玉の飾りが揺れる音は優雅で、がらんと広い朝堂に、色を添えるように響きわたった。
 やがて玉座の許まで歩いてきた人影――乙羽は、孔雀の羽の扇の縁から、黄金に燃える瞳で斎英を見上げた。
「お寂しいことじゃ、父上様」
……
「ここは寒い。日の当たるところでお話ししませぬか」
 乙羽は父王の了解を得るまでもなく、ひらりと踵を返した。




 一人として兵のいない宮殿を出て、彼らは朝堂からほど近い場所にある庭園へやって来た。風はなく、こしらえられた池は鏡のように滑らかだ。
そのほとりに佇む娘の後ろ姿は、陽光を映し込んだ鏡に暗み、やはり黒い陰にしか見えなかった。
 振り返った彼女は、父の向こうに現れた女の存在に気づき、燃え続ける金の瞳を細めた。
「おお、さすがは鴫乃の母上じゃ。もうお気づきになられたのかや」
 連れていた侍女を離れたところに留め置き、彼女は振り向きもしない斎英の傍へやってきて、隣に寄り添った。乙羽は羽扇をひらりと揺すり、その様を楽しげに眺める。
 乙羽の母・珠妃が死に、正妃に返り咲く機会がありながらもそうしなかった鴫乃が、自ら父の“隣”に。
 身の回りのすべてに整理を着けてきたと見える彼らを前にすると、乙羽にもなんら遠慮することはなくなった。
「最早、父上様に従う兵はひとりとしておりませぬ。宰相も同じく。ついては大王の椅子を妾にゆずり、父上様には花影宮へお移りいただきたい。そのお顔なら、ご了承下さいますでしょうな」
 返答は無いが否とも言われなかった。やはりこうなることを予測もしていれば、あらがうつもりも無かったのだろう。
 兵をすべて遠ざけてある今、父王にその気があれば、この池のほとりで乙羽を斬り捨てることも可能だった。しかし彼は刀の一振りも持っていない。
 その顔は諦めたと言うより、冷静に象戯の勝敗を見分けたときのそれだ。
 乙羽はそういう父の顔がすきだった。感情をしまっておくことが不得手だった母と並べばちょうど良い。ちぐはぐな二人が、それでもともに巨大な国を治めている様は、乙羽にとって大変面白い見せ物だった。
 母が欠けたこの世は、実につまらない。母を欠いた父王も、未来の話をささやき続ける神の声も、その果ても。
「乙羽さま」
 黙る当人たちの間に割り込んだ声は、突如池に降り立った水鳥の羽音にかき消されそうなほど心細げなものだった。水鳥のたてた波紋が広い庭池のほとりにたどり着くほどたっぷりと待ってから、乙羽は煌めく瞳を育ての母に向ける。
 声はか細いが、鴫乃の眼差しは強い決意に満ちていた。
「大王さまは、お目がひどく弱っておいでです。慣れぬ宮での暮らしには何かと不自由な思いをなさることでしょう。わたくしもともに参り、お世話をして差し上げとうございます」
 遠い昔に、父王の目の病を見知っていた乙羽は驚かなかった。驚くとするならば、近侍にも、宰相たちにも、鴫乃以外の妃にも、それを気取らせなかった父王の振る舞いにこそ。
「鴫乃の母上には幼き頃より世話になった。良いでしょう、その願い、叶えて差し上げる。ただし、女の妾に後宮はいらぬ。出て行かれる前に、余計な女官と妃どもはすべて放り出していただこうか」
 それを聞いた鴫乃の表情は、安堵にゆるみ、そしてすぐさま驚きと苦悩にひきつった。しかしそれもほんの一瞬のことで、彼女はすぐさま瞼を伏せて肯いた。
「よろしい。ならば、一両日中に花影宮へ移っていただく。即位の礼には列席下さらずともよい」
 手短に決別の儀式を済ませ、乙羽は池のほとりを離れる。
 彼女が、父王や育ての母の顔を見たのはこれが最後だった。

 乙羽の目には、遠い空と、遠い東国の景色が映る。
 先の世を映す黄金の鑑。神の力を滲ませたその瞳には、流れる鶸色の水面が。


 ――斎祥(さいしょう)。お前が鶸の川を見せてくれると言ったなら。

 血刀を振りかざして西へ向かう彼が、その川を渡る未来ではなく、
 本物の、柔らかな水の流れを見ることが出来たなら。