暁子
2014-11-04 00:59:30
5568文字
Public その他
 

翅亡


 春の温かな小雨が降る中、儀式は執り行われた。
 濃灰の空には無数の魔法陣がひしめき、それぞれが七色に輝いている。細かな文字と様々な文様が所々で繋がり、あるいは別れて、魔力が作り出した花弁を降らせる。
 光が流動する上空を仰ぎ、ユハナは彼自身が描き上げた術式をいくつも見つけた。
 花風(フルーモ)、光(リュシーン)、雨(レーネ)、火花(イスクラ)……弾け合う小さな魔法。式典を彩るために組み合わされた術は、見る目にも美しい。
 しかし気分はいいばかりでもない。三つ編みにしてある長い後ろ髪が雨に濡れて重たいのだ。どうせなら雨を防ぐ陣も加えておけば良かったのにと思いながら、彼ははらはら舞い落ちる花弁と雨滴の中を進む。
 ユハナが向かう先には玉座があり、そこに腰掛けていた壮年の男が待ちきれないと言わんばかりに立ち上がった。彼もまた小雨に濡れているが、隣に座る皇后と違ってえらく上機嫌だ。
 ユハナが玉座の前に跪くと、男はひとつ頷いて壇上から降りてくる。侍従職が差し出した白銀のローブを大仰な動作で広げ、うつむくユハナの肩にかけた。
「新しき鍵守(ガイ=ル)よ」
 面を上げよ、と命じられる。
「『鍵』の継承、ご苦労であった。これは実に五十年ぶりのことぞ。我が治世の間に見られたことを光栄に思う! 『鍵』の叡知を以て新たな魔法を創造し、我が国の繁栄に尽くすが良い、鍵守(ガイ=ル)・ユハナ」
――御意」
 ユハナの応えを聞くや否や、さぁっと雨脚が強さを増す。儀式の場に居合わせた元・同輩たちは憂鬱な面持ちで空を見上げ、玉座の隣に座っていた皇后が悲鳴を上げた。
「騒ぐでない、見苦しい」
 皇帝に叱責され、皇后は不満げに黙った。しかし彼女の気持ちももっともである。雨に濡れて楽しい変わり者は、ひとまずこの場にはいないようだ。衣装が重たくなるばかりでいいことなど一つも無い。
 ユハナはおもむろに立ち上がった。驚く皇帝に頭を垂れ、一歩下がって胸の前に左手を差し出す。
「傘(ヴィリ)」
 短い言葉とともに、彼の手の甲には紋様が浮かび上がった。くるくると回りながら円形に落ち着いた魔法陣は、明滅しながら何度か色を変え、突然ユハナの肌から剥がれて舞い上がる。空に向かってそっと押し上げれば、それは上昇しながら急速に面積を広げていった。
 やがて、花弁を降らす魔法陣よりも更に高いところに新たな魔法陣が落ち着くと、彼らの頭上に降っていた雨はぴたりと止んだ。

*****

 気の利かない連中だ、と罵る声が思い出された。
 本降りになった雨で庭は白く霞んでいる。重い空の上で響く雷鳴。季節が夏に向かっている証だ。
 皇后の憤懣は当然のことだと思った。突然天候が崩れることなど、毎年の空模様を観察していれば分かることである。初めから傘(ヴィリ)の魔法を使っておけ、という彼女の主張にはユハナも同意できる。魔道師たちの小さなミスだと思う。
 しかしよかれと思って使った魔法が、却って彼女の神経を逆撫ですることになろうとは考えなかった。あのまま放っておいてもいけなかっただろうが。
 内側からこめかみを刺すような痛みを感じて、ユハナはむっと顔を顰めた。彼の目尻から頬にかけて、淡い紫色の模様が浮かび上がって光る。薄暗い回廊にいてさえあたりを照らすこともない微弱な光は、すぐに彼の肌へ吸い込まれるように消えていった。
 わずかな不快感を残すこめかみをぐりぐりと指先で揉みながら、ユハナは大理石の柱に寄りかかって溜息を吐いた。
 『鍵』の継承を完了してはや三月。存在自体が奇跡に等しい魔法は未だ身体に馴染まない。余計なものを手に持っているような違和感は、数年かけねば消えないそうだ。
 そう言っていた先の『鍵守(ガイ=ル)』でありユハナたちの師は、『鍵』の継承を終えるとひと月と経たない内にこの世を去った。次に『鍵』を受け継ぐ者が長らく定まらず、老いた身体で強大な魔法を背負っていたのだから無理もない。
 『鍵』――二百年の昔、帝国の草創期に、ある魔道師が作り上げた一つの魔法をそう呼ぶ。情報量の莫大さと、それに比例して扱える術の多さゆえに万能とも謡われる反面、身に宿し、制御出来る人間を選んできた。この魔法に対する完璧な理解と、術を維持する膨大な魔力を持つ魔道師だけに『鍵』を操ることが出来る。それはとりもなおさず、魔道師の長たる資質を持つことも示した。
 そのためこの帝国の魔道師の長は、代々『鍵』を継承する事でその座を繋ぎ、『鍵守(ガイ=ル)』と呼ばれるのだ。
 二年かけて先代から『鍵』を受け継いだユハナは、今日、正式にその座に着いた。帝国全土に散る数千の魔道師の、その頂点に据えられた座に。
 なんて実感が薄いのだろう。
 ユハナは幼い頃に魔道師の素質ありと認められ、皇居に召し上げられ、今日まで帝都はおろか皇居の外へ出たことも数えるほどしかない。それが皇帝に仕えるすべての魔道師の長になるとは。
 彼の境遇が特別なわけではなかった。魔道師になる可能性があると認められた多くの子供が、同じようにして育ち、才能が開花すれば皇帝に仕える魔道師となる。帝都にあって皇帝を守り、あるいは新しい術式を研究する魔道師、地方へ派遣され、軍とともに国境を守る魔道師。役目は様々あるが、ユハナは前者だった。
 ゆえに彼が物理的に知っている世界というのは、果てしなく狭い。今、目の前にしている庭園をこの国だとすると、たぶん、ユハナが見知っている世界は水を吐き出す獅子像の鼻の先くらいの狭さだ。
 しかし本や地図から得た知識を含めれば、噴水を受け止める泉くらいまでは知っていることにしてもいいかも。うーん、例えとしてはいまいちだ。
 つまり何が言いたいのかというと、『鍵守(ガイ=ル)』として魔道師たちの頂きに立ち、皇帝から命を受けて彼らを統率してゆかねばならない自分が、魔法以外のことを知らなさすぎるということだった。
 例えば、皇后の機嫌を損ねずにあの場を収める方法だとか、そもそも彼女が魔道師たちに冷たい視線を送るのは何故かとか。
 これから、いや明日からは、そういうことにも気を配って過ごさねばならないようだ。細密な術式を表す魔法陣を、如何に美しく描くかだけを考えることが第一の仕事だった平の魔道師時代が、もう恋しい。
 けれど〝奇跡〟はユハナに宿ってしまった。数十年かけて、この〝奇跡〟を継ぐことの出来る才能を探し出し、育て上げ、『鍵』を引き渡すまで、彼は『鍵守(ガイ=ル)』として魔道師の頂点たらんと努力せねばならない。
 ユハナは雨の空に向けて片手を翳した。左耳に着けたピアスが、彼が上向くのと同時に揺れる。
「雨花(ニグゼ)」
 五指の先から手首にかけて浮かび上がった紋様は、淡い菫色に輝いて彼の肌から抜け出した。雨粒を集めるように庭園の上を駆け回り、やがて水を吐く獅子像の上にまとまると、紫の光を振り落とすように震えて弾け散る。あとには五枚の花弁の透明な花が、ゆっくりと回りながら浮かんでいる。
 よしよし。もっと作ろう。
 些細な遊びを思いついたユハナが、緩く口の端を吊り上げたときだ。庭園を挟んだ向こうの回廊に、きょろきょろと辺りを見回しながら歩く魔道師が現れた。
 ユハナが次の魔法陣を空中に放つのと、彼の視線がユハナの姿を捉えたのはほぼ同時。
「ユハナ!!」
 怒号が響きわたったのもほぼ同時だ。
 描き出されたばかりの不安定な魔法は、ユハナの集中が切れた瞬間に霧散する。
「あ、サウ、ル」
 降りしきる雨の幕の向こう、栗色の髪の魔道師が肩を怒らせてこちらを見ている。何故彼が怒っているのか心当たりがない。よくあることだ。よくあることだが、分かっていないのはいつもユハナの方だけなので、このあと存分に説明を受けることになるだろう。
「動くなよ、絶対に、そこを動くんじゃない」
 ざあざあと烈しさを増す雨音にもかき消されない声で、魔道師――サウルは言う。「はい……」と、相手に聞こえるはずもないか細い返事をしながら、ユハナは列柱の並ぶ回廊を走ってくる彼を待つしかない。
「一人でふらふらいなくなっちゃダメだろう!」
 サウルは回廊の角を曲がるなり、再びそう怒鳴った。
「でも、もう部屋に戻ってもいって言われたし……
 ユハナが返事を終える前に、彼はユハナの許にたどり着き、少し低いところからきっと睨みつけてくる。そして庭園と回廊をぐるりと見渡して、さらに眉間のしわを深くした。
「部屋? ここがユハナの部屋?」
……違います」
「部屋に戻るなら寄り道しない! 君がいなくなると護衛の者が叱られるんだから! って、護衛、もう置き去りにされてたんだった……
 本人に自覚はないらしいが、ユハナは風に漂う花びらのように、ゆらゆらふらふらと気の向くままにどこへでも行ってしまう。『鍵守(ガイ=ル)』就任の儀式の後、いつものごとく彼の姿が見えなくなったのでちょっとした騒ぎになりかけていた。だからサウルもこうしてユハナの姿を探していたのだ。風から外れた彼が落ち着く場所を探すのは、サウルならお手の物である。
「護衛の人、いたかな……
「いないはずがないだろ! というか今朝から一緒にいたよね!? 顔を覚えてないの?」
「あー、うん」
 ほんのわずかな迷いを見せつつも、ユハナは素直に肯いた。
 きっと昨日の内に挨拶もしていただろうに。ユハナに忠誠を誓ったりもしていただろうに。可哀想だ。サウルはユハナの親衛隊に選ばれた面々に同情するとともに、一抹どころではない不安と大いな呆れもない交ぜになって、さらに苛立ちを募らせる。
 幼なじみの魔道師は大変複雑な心境を抱えていると見える。ユハナはサウルを見下ろしながら苦笑した。
 が。なんと返答すれば彼を怒らせずにすむのか、やはり分からなかった。覚えていないものを覚えているとは言えない。嘘はダメだ、嘘は。すぐばれるもの。
 とにかくこの気まずい空気を取り繕う一言を何か――と思った矢先、サウルの眦が更に吊り上がる。
 えっ、と思った途端、脇に抱えていたものをひったくられた。
「な、ん、で、正装のローブを、丸めて、持ってる、かな」
「脱いでもいいって言われ――
「侍従に渡しなよっ!! 皇帝陛下の前に出るときに着るローブだよ!? 信じられない、仮眠用の毛布と同じ扱いだなんて……!」
 そう言いながら、サウルは奪い取ったローブを広げ、裾をユハナに持たせててきぱきと畳む。その表情を見るに、「侍従の人、いたかな」などとは口が裂けても言わない方が良さそうである。本当に「いたかな」なのだけど。
「ああもう、しっかりしてよ! 今日からは僕が君のお守りをするわけにはいかないんだから……
 裾も袖もばさばさと鬱陶しく広がるローブを綺麗に畳み終えると、サウルは感心して目を輝かせているユハナの胸にそれを押しつけた。ユハナは器用な幼馴染みにお礼を言おうとしたが、その声が尻すぼみになって消えていくので、ただ苦笑する。
……部屋の掃除をしてくれるひとはいるみたいだし、スケジュール管理をしてくれるひともいるし、だからご飯を忘れるってこともないと思うし、大丈夫だよ」
「『鍵守(ガイ=ル)』専用の書庫には司書がいるから、崩れた本の山に埋まることもないだろうしね」
 サウルを宥めようと思って言った言葉には痛烈な皮肉が返ってくる。確かに、適当に本を詰め込んだ書棚の棚板が外れ、雪崩れてきた本に埋まって、あまつさえ大図鑑の角に頭をぶつけて気絶し、総重量はいかほどあるのか想像するだけでも恐ろしい書籍の山に埋もれて行方不明になることは、もうなさそうだ。(あのときは重さよりも古い本の黴臭さで死ぬかと思った)
 そのときユハナを救出してくれた一人がこのサウルで、魔法の研究以外、自分の生活にさえまるで興味が無いユハナの面倒をいつも見てきてくれた。今生きているのは彼のおかげだなぁと思うことが、あれこれと脳裏に浮かぶ。それだけサウルとは同じ時を過ごしてきたということだった。
 けれど今日で道は分かれた。ユハナは『鍵守』、この国の魔道師の頂点。サウルはまだいち魔道師に過ぎず、皇帝と、その命を受けて魔道師を統率する『鍵守』に仕える者だ。もう、サウルが食事をとれ早く寝ろ部屋を片付けろと、ユハナをせっついてくれることはない。
 寂しいなとは、思った。『鍵守』になったという実感は薄いのに、近くにいる幼馴染みとは、少しばかり離れてしまうのだなという実感はある。この先の心配よりも。
 ユハナは思わず、むっと表情を強ばらせたままうつむいているサウルの髪を撫でた。しかし、驚きまるく見開かれる灰青色の目を見てしまったと思った。なかなかユハナの身長に追いつかないことを気にしていたサウルにこの扱いはまずかっただろうか。自分が年上だと意識したことはなかったが、しょんぼりされると慰めたくなってつい手が伸びたのだが。
「あ、ご、ごめ……
 ぎりっと眉間に皺を寄せたサウルが、上目遣いで思いっきり睨んでくる。ユハナは慌てて手を引っ込めた。その瞬間、
 とん……と、肩に軽い衝撃がぶつかってきた。視界の端に柔らかな栗色の髪が見える。
「ひとが、心配してるのに、ほんとにユハナは暢気なんだから……
 肩に額を押しつけたまま、サウルが唸るように言った。どんな顔をしているのかは分からないけれど、その声にはユハナと同じ寂しさが滲んでいる、と思う。
 返す言葉が見つからず、ユハナは力の抜けた笑みを零して、幼馴染みの頭をもう一度撫でた。